アヒンサー・スレイヤー|絶対に人を屠る魔剣が、虫をも殺さぬ思想 作:寳田 タラバ
「起きろおおおおおおお!!!」
耳元で世界が破裂したかと思った。
頭蓋の中を鋭利な何かで一突きされたような痛みに、アレンの意識は夢の世界から物理的に引き戻された。──というか、戻されたというより、撃ち抜かれた。
「──っは!」
ぴちゃっ。
反射的に顔を上げた瞬間、口元から何かが落ちた。透明で粘度の高いやつ。……涎だ。やっちまった。
それは教室の空気より濃密で、眠気より気まずい液体だった。
瞼の奥がまだ重い。世界はぼやけていて、視界の端がにじんでいる。
でも目の前の先生の顔だけは、はっきり見えた。見たくなかったけど、しっかり映っていた。
──鬼。
それが寝起き一発目の印象だった。
「うわ……またかよ」
「寝すぎて背が伸びてんのか?」
「ユイ先生で寝るとか、それもう人間じゃないって……」
「育ちすぎ王子」
ぞろぞろと、教室中の声が耳に入る。いや、耳からじゃない。毛穴から染み込んでくる感じだった。
あちこちから飛んでくる視線は、侮蔑と好奇心が半々。──つまり、最悪。
先生が近づいてきた。腰を折り曲げて、アレンの顔のすぐ前に顔を持ってくる。
香水でも柔軟剤でもない、怒りの燃えた匂いがした。形容しがたいが……なんか、熱かった。
「うなされてたわねぇ? アレンくん。夢の中で誰と戦ってたの?」
にこりともせずに言うその声が、やたらと甘やかだった。
「文化祭の準備でお疲れかしら。午後のラスト一コマ。西陽に包まれ、窓際の風が髪を撫でる。
そんな状況で……校内一位の美少年が、気持ちよく机に突っ伏してる……ふふ。舞台が整いすぎじゃない? 主人公さん」
先生が手を広げて、小芝居を始めた。
何の劇? 誰が観客? そして僕はいつ主役になったんだ。
そんな疑問は、先生の顔が耳元まで迫った時点で吹き飛んだ。
その声が低くなり、湿度を帯びて、真綿みたいに包み込んでくる。
「王太子殿下。授業中に寝るとは、大物だこと……」
ああ、そうだった。僕は王になる予定の人間だったんだ。
でも今は、机に涎を垂らしたアホ面の高等生だ。
「私の授業は退屈ですか、アレン!」
バンッ! 愛杖が床を叩き、音が響く。床も震えたが、それ以上に心が揺れた。
怒ってるはずなのに、先生の所作が無駄に優雅なのが憎い。
怒られてるのに、なぜか見惚れてしまう。これはもう、罠だ。
目線を逸らすと、髪の毛が揺れていた。ブロンドのハーフアップ。ふわりと乱れて、色っぽい。
──違う違う。今そういうの見る場面じゃない。
「授業の準備がどれだけ大変か、分かってるのか? お前だけの学校じゃないんだぞ?
この教壇の下に、私の徹夜の努力が眠ってるんだからな!」
なんだその比喩は。
「ましてや、お前は王になる男だろ。……寝てる場合じゃないだろうが!」
怒鳴っているはずなのに、美しいのが理不尽だった。
そのときだった。窓から、熱風。ついでに砂。
「──ごっ……ふ!」
乾いた砂が口に入り、粘ついた舌に貼りついた。
砂糖じゃなくて、リアルな砂。ほのかに土の味。
アレンは慌ててティッシュを探し、顎についた涎もろとも拭き取る。
最前列でこれ。死んだほうがマシなのでは?
クラス中の視線が痛い。今この瞬間、世界で一番滑稽なのは僕だった。
いっそ笑ってくれた方がマシだった。……いいや、笑うなよ。
「ズッ……エッバせ……エンッ! ダァッくっカッ……ッピイイイ」
──死にてぇ。
見事にどもった。砂が喉に絡まって、咳まで出た。
頭では何を言いたかったか覚えている。でも口は、見事に裏切ってくれた。
そして案の定──
「ぷっ……」
「はは……っ」
「wwwwwwwwww」
笑うなっつったのに!!!
全身が熱くなる。拳を握って、歯を食いしばって、顔だけでも平静を装おうとする。
だけど無理だった。
だって、これは夢じゃない。現実だ。
涎のぬめりも、砂のざらつきも、教室の笑いも。
──全部、本物だった。
アレンは拳をぎゅっと握りしめて、顔の熱をやり過ごそうとした。が、それは失敗に終わった。
笑い声が教室に渦巻いていて、その中に明らかな嘲笑が含まれている気がした。いや、あった。五割──いや、気持ち的には八割くらいは。
王宮育ちだとか、そんな肩書きがどうしたって話で、今の自分はただの「授業中にやらかした生徒A」でしかなかった。
すごい、今なら石ころより自信がない。
胸の中のぐるぐるした感情をなんとか流そうとしていた、その時だった。
「ユイせんせ。俺ら、王立学院の選ばれし秀才っすよ。高等部三年にもなって、歯の授業とか正直、退屈でしゃあないっすわ。もっと派手なの、やりましょうよ」
言ったのはラッツ。いわゆる陽キャの化身みたいなハーフエルフで、クラスのリーダー格だ。銀髪をかき上げて、翡翠色の目を細めながら、なぜかこっちに目配せしてくる。
やめてほしい。こっちは王族ってだけで目立つ人生を歩んでるのに、これ以上注目されたら爆発する。
「ほう。ラッツ君は、歯学が地味だと言うのかね」
ユイ先生が杖を軽く突く。コツン、という小さな音が教室を支配した。
あの音、個人的には「これから誰かが痛い目を見ますよ」の合図にしか聞こえない。
まさに狩人が獲物を見つけた時の動きで、今、ラッツに標的マーカーがついた。先生の目がそう言ってた。
おかげで、僕は助かった。命拾い。
全身から汗が出ている気がしたけど、これもきっと気のせい。ということにしたい。
隣の女子と目が合って、思わずへにゃっと笑ってしまったのも失敗だったらしい。目をそらされて白けた空気が流れた。まるで「これだから庶民の気持ちを知らない王族は」って心の声が聞こえた気がする。
気まずさで椅子にしがみついているうちに、ユイ先生がラッツの机の前に到着していた。
「だって、ちまちましてるやないですか」
ラッツは頭の後ろで手を組んで、椅子にもたれた。くつろぎモード。戦う気ゼロ。
次の瞬間、先生の杖から右腕がすっと動いた。冗談みたいな動きで飛んできたそれを、ラッツはヒラリとかわしてみせる。
──おお。やるじゃん。
思わず机の下でガッツポーズを取りそうになった。ラッツは我がパーティの「タンク」だ。前衛職。物理を受け持つ盾役。だけど最近は、なぜか避ける方向に進化している。新しいタンク像を切り拓こうとしているのかもしれない。やめてほしい。
机の下で足を組み、椅子の後ろ脚だけでバランスを取るラッツ。彼の顔には余裕の笑みが浮かんでいる。
そして、ユイ先生はその様子を見て、にこりと笑った。
いやな笑みだった。雷雲の下で笑ってる人みたいな、これから何か落ちてくるぞ、って種類の笑い方だった。
その通りだった。
杖の反対側、つまり左手がしなるように動き、ラッツの顔面に向かって直撃コースで飛んでいった。
「解剖を学び、記憶すること──それは、治癒術師としての極みに至るための第一歩だ」
先生は悠然とそう言いながら、ラッツの顔面に物理で説得を試みた。
「……なんすか、それ?」
完全に虚を突かれたラッツの声が、教室にぽつんと落ちた。
そのすぐあと、彼の顔がびよんと横に揺れて、椅子ごと後ろに倒れかける。
見事なまでの「アヘ顔」を後ろの女子に披露して、ラッツはピタリと止まった。支えていた女子の冷静な対応に、心の中で拍手を送る。あの対応力、たぶん一番前で見ていた俺より余裕ある。
もしラッツが床に沈んでいたら、たぶん俺にも火の粉が飛んできただろう。そういう意味でも、ありがとう。
「今、思いついた言葉だがな」
ユイ先生は棒読みで言った。なんとなく、いつもそう言ってる気がするけど、今回は本当に思いつきらしい。
「解剖学を覚えなければ、いくら術式で身体を再構築したところで、出来損ないが生まれる可能性がある。それこそ、前歯の代わりに奥歯が並ぶような事態がな」
想像してみたけど、まあまあ怖かった。
ラッツは頬をさすりながら、それでも平然と座り直した。さすがタンク。顔は痛そうだけど、心は折れてない。
僕だったら泣いてる。というか、少なくともトイレに逃げてる。
「先生、歯が……なんか、何本か旅立ってった気がするんですけど」
ラッツは小動物みたいに口をぱくぱくさせながら、情けない声で訴える。痛みと屈辱と、あとちょっとだけプライドがごちゃ混ぜになって、結果として出てきたのがその台詞だった。
その言葉に、教室中の目がいっせいにラッツの口元に集まった。しかも、誰一人として笑っていない。全員が医者かってくらい真剣な目だ。ラッツはちょっと泣きそうだ。
「気のせいだ。それより、ラッツ君。ひとつ、いいか?」
ユイ先生がぐり、と杖を構え直す。見た目は優雅だけど、なんかこう、構えるたびに世界の空気がちょっとだけ刺々しくなる。
先生はラッツの顔をぐいと覗き込むようにして、わざとらしくゆっくり言った。
「顔面を魔族に吹き飛ばされたあと、前歯の代わりに奥歯が生えてたら──どう思う?」
「……いやもう、吹き飛ばされた気分なんすけど、今まさに……」
「ん?」
音もなく、杖がもう一度持ち上がる。その動きだけで、ラッツの背筋がきれいに垂直になった。これがプロ意識ってやつかもしれない。違うかもしれない。
「いや、その、嫌っすよ。なんかもう、想像しただけで気持ち悪いっすわ……てか、先生って、一応ヒーラーなんすよね?」
疑問と恐怖がないまぜになった問いかけに、ユイ先生は返事をしなかった。杖を優しく抱きかかえるように持ち直すと、そのまま教壇に向かってくるりと体を反転させる。
でも、ラッツのことはちゃんと見ている。横目で。こわ。
しばらくすると、ラッツの頬──さっき杖にぶっ飛ばされたそこが、ぽわんと緑色に光り出した。仄かに、けれど確かに。まるで、「セーフ」の合図。歯がニョキニョキと生えてラッツは元の男前に戻った。
「見たまえ、ラッツ君。緑に光ったな。もし失敗していたら、あれは赤く光るはずだ。たとえば──前歯に、奥歯が生えてしまっていたらな」
ユイ先生は、さも当たり前のように言う。
ラッツはもう何も言わなかった。何も言えなかった。たぶん、脳が状況の把握をやめてしまったのだろう。
「というわけで。ラッツ君の歯並びは、正常です。おめでとう」
淡々とした祝福と共に、先生は教室を見渡し、最後にまっすぐ前を向いて、よく通る声で言い放った。
「では授業を再開しよう。──アレン、後で職員室な」
授業という名の戦場に、再び静かな殺意が満ちた。