グレンの言う『ブラックムーン』は偽物だった。本物がここにいるのだから当然ではあるが。
偽物をすぐさま制圧したクロだったが、それだけで事態は解決しなかった。
なんと『偽ブラックムーン』が、何人も現れ続けたのである。
一人捕まえても、また一人と偽物が出没しては悪事を働いていく。
貧民街ではすでに噂になっているが、だいたいクロが捕まえるので弱い偽物という認識にとどまっているのが不幸中の幸いである。
今日捕まえたのでもう6人目であり、いい加減うんざりだ。
何か抜本的な方法で事態を収拾しなければ、イタチごっこもいいところである。
そこでクロは盟友関係となったレインを頼ることにした、ところまでは良かったのだが……。
「それで、なんで私たちは、一緒にお茶を飲んでいるの?」
訝し気にクロが視線を投げかけたのは、お菓子の並んだテーブルの向こうにいるレイン・フローレスであった。
「商談にしろ貴族の交流にしろ、相応に場を整えるものですよ。お茶会というやつです。」
「私は商談相手でも、貴族でも無いんだけど……」
「盟友関係ではありませんか。そうかしこまらずに」
上機嫌そうに、レインは口元のティーカップを傾ける。
慣れない場での緊張を誤魔化すように、用意されたお菓子を口に運び続けるクロ。
黒いフードとマフラーの隙間の影に次々と消えていくお菓子は、貴族御用達なだけあって、クロが今まで食べた物の中で一番である。
(しかし、甘いと美味しいという感想を交互に繰り返すばかりなのに、なぜこうもレインはニコニコしてるんだろう)
不思議に思いながらお菓子を口に運んで緊張がほぐれた頃、レインはようやく本題を口にした。
「捕まえた何人かを尋問したところ、どうやらお金を握らされた貧民街のチンピラによる犯行のようです。貴族が裏で糸を引いている可能性は高いでしょう」
「貴族ね……。それなりに私怨は買っているし、当然は当然か」
「私怨だけなら、ある程度で満足するでしょう。ただし、今のあなたは『紋章』を宿す候補の一人。悪評を立てようとするのは、妨害工作として見るのが妥当でしょう。」
偽物で悪評を立てて『紋章』の輝きを削ごうとしている。それがレインの考えのようだ。
先日『ブラックムーン』とフローレス家が接触したという情報によって、義賊が婚約者の座を狙っていると噂されている。
どこから漏れたのかは、不明だという。
敷地外にいた密偵に探られていたか、雇われの使用人が口を漏らしたのか。
どう漏れたにせよ、問題なのは今起こっていることである。
『ブラックムーン』は他の候補と違い、身元は不明だ。
候補から蹴落とすなら、偽物による今回の手は最適解と言っていい。
弱者から多くの支持を得ているのだから、それが揺らげば『ブラックムーン』の価値はなくなる。そう考えるのは自然なことだった。
今のところクロの『紋章』に変化はないが、民衆からの不信感が募ればいずれ輝きが霞む可能性もあるだろう。
「『紋章』のほうは別にいいけど、『ブラックムーン』を貶められるのは嫌かな」
クロには『紋章』についてそこまで気にする理由が無い。むしろ輝きが薄れたほうが好都合なまである。
問題視しているのは、自分の憧れの存在である『ブラックムーン』の名前を使って悪事を働くことであった。
「盟友関係によって、私の『紋章』もかなり力をつけています。『ブラックムーン』の評判が落ちることは、私も看過できない。」
そう告げたレインの表情は、憂鬱さを帯びていた。
『ブラックムーン』の盟友となったフローレス家にとって、その影響力が弱くなるのはいただけないのだろう。
「どのみち悪評については放っておけない。協力してくれるなら、レインは貴族に探りを入れてほしい。私は引き続き貧民街で調査を続ける」
その言葉にレインが頷くのを確認したクロは、その場を立とうとする。
だが、すかさずレインは、魔法によって空になったクロのティーカップに紅茶を注いだ。
「そんなに急がくてもいいでは? もう少し、ゆっくりしていって構いませんよ」
レインの顔に浮かぶ悲し気な表情に、クロは再び席につかざるを得なかった。
「作法というのは──」
「お兄様の最近の様子が──」
他愛の無い話が続き、クロのお腹はどんどん膨れていく。
といっても、ほとんどレインから話を振られるのだが、それでもクロにとっては新鮮なやり取りであった。
思えばクロにとって、対等な関係というのは初めてである。
ウィンに対してのクロは、どうしても守ってあげたいという気持ちが強くなってしまう。
話を聞いていると、どうやらレインは対等な友人というものに憧れがあったらしい。
貴族社会において、気の許せる相手というのは限られているのだとか。
いつの間にか話も弾み、空も薄っすら闇を帯び始めた頃。
「こんな時間まで話してしまって、ごめんなさい。迷惑でしたか?」
レインは、少し落ち込んだ様子で口を開く。
「こちらこそ、興味深い話をたくさん聞けて楽しかった。お菓子やお茶もおいしかったし」
クロの返事に、レインはぱぁっと顔を明るくした。
「良かった。また、お茶会にお招きさせてもらいますね。」
その言葉にクロは頷く。
以降、レインは定期的にクロをお茶会に招いては、お菓子を振舞うようになるのは別の話である。
フローレス家でもてなされた日から数日後。
クロは偽物の元凶を調査していた。
フローレス家は貴族の方の伝手から情報を探し、クロは偽物を捕縛しつつ貧民街に怪しい人物がいないかを探る。
今回はクロの協力者であるワーグも、いつにもまして協力を惜しまない姿勢であった。
「なんとしても協力させてほしい。『ブラックムーン』の名前で誰かが傷つくなど、冗談ではない」
そう懇願するワーグの目は、強迫観念に突き動かされたような鬼気迫るものであった。
きっと、クロと同じ思いを抱いていたに違いない。
原作『ブラックムーン』を読んだもの同士、今回の事態を看過できない気持ちも同様なのだろう。
おかげで、今回は縄や睡眠薬などの物資も潤沢だ。だが、相手が弱いとはいえどうにも数が多い。
さらには、昼間に良く出没するので、クロとして魔法を制限された状態での応戦もあった。
元凶について分かっていることは、姿と指示のしかた。
ローブを被っていて、顔は見えないそうだ。
『ブラックムーン』の名前を使って騒ぎを起こせば報酬を支払う旨が記された紙を、無言で渡してくるという。前金も貰えるらしい。
そんなこんなで今日も偽物を追い回していたクロは、逃げる偽物の背中に思いっきり拳ほどの大きさの石を投げつける。
「これでも食らえ!」
普段から投げ物を扱うクロの投げた石は、偽物の背中に見事に命中した。
つんのめりながら角を曲がる偽物を追いかけていく。
角の先で目にしたのは、通行人に拳を振り上げながら突進する偽物の姿だった。
(まずい! 魔法が使えない衆目の中で人質を取られたら、面倒なことになる)
しかし、クロの予想が当たることはなかった。
なんとその通行人が偽物の胸倉をつかんで、建物に投げ飛ばしたのだ。
木材でできた壁を突き破り、派手な音とともに土煙が舞う。
すっかり伸びてしまった偽物を見下ろす、怪力の通行人。
通行人のフードの下からのぞかせる赤い髪と見覚えのある顔に、クロは驚愕する。
なんとそこにいたのは、かつて宮中でクロの前に立ちはだかったバーン王子であった。
◇ ◆ ◇
バーン王子は、自分に突っかかてきた不届き者を持ち上げながら言い放つ。
「ちょうどいい。貴様に聞きたいことがある。最近『偽ブラックムーン』が出没すると噂で聞いてな。貴様は何か知っているか」
息苦しそうにするその狼藉者は、威圧感からか浅い息と命乞いを繰り返すばかりで真っ当な返事を期待できそうにない。
尋問というのは手加減が難しいものだと、バーン王子は心の中で毒づいた。
『偽ブラックムーン』の噂を聞きつけたバーン王子は、すぐさま貧民街へと繰り出した。
城の者で口を出してくる者はいないため、外出を咎められることもない。
他国に対しての抑止力そのものであるバーン王子には、護衛もついていなかった。
王族の体はその目すら刃を通さず、毒にも様々な耐性がある。
バーン王子が危険にさらされるような事態は、基本的に起こらない。もし起こった場合は、護衛程度での対処は不可能である。
そのため、王族であっても自由が認められているが、かつてその自由を行使した王族は皆無である。
城の外に興味を持つ王族がいなかったのだ。だが、バーン王子は違った。
バーン王子にとって、『ブラックムーン』の偽物の存在は非常に不愉快だった。
それに、偽物を追っていれば、本物にも会えるかもしれない。そんな期待もある。
動く理由は、それだけで十分だった。
不届き者が口を開きそうにないことを悟ったバーン王子は、こっそりこの場を離れようとしている少女に視線を移す。
「そこの娘よ。こいつを追っていたのは、見れば分かる。巷で『偽ブラックムーン』の噂が蔓延しているが、何か知っていることはないか」
少女はこちらに振り返ると、ぎこちない笑顔で答える。
「……そいつが偽物の一人だ。たまたま見かけて追いかけたんだけど、捕まえてくれて助かったよ。あとは任せた」
そう告げて、この場を後にしようとする少女。
どう見ても、この前に王宮で会ったクロにしか見えない。
(いや、クロではないのだろうか。俺はまだ人間を知らない。人違いということもある……のか?)
バーンが他人に興味を持ち始めたのは、ついこの間のことである。
王宮の人間の名前と顔すら全員は覚えていないのだ。いったいどうして1人の人間を見分けられるというのか。
向こうから声をかけてこないなら、きっと違うのだろう。
改めて、バーン王子は目の前の少女を観察する。
悪い人間には見えないが、どこか歯切れが悪い。
まるで何かを誤魔化しているような印象だ。
「なぜ後ずさりをする。別に取って食いはしない。ただ情報が欲しいだけだ」
そう言って近寄るが、少女は一定の距離を保って離れていく。
これでは、まるで猛獣を前に刺激しないように立ち去る人間である。
怖がられているのだろうか。
二人の間に妙な緊張感が漂っていた。
すると曲がり角から息を切らせながら少年が走ってくる。
「姐さん! 偽物は捕まった?」
走ってきた少年は、二人を見て状況をなんとなく理解した。
「お兄さんが捕まえてくれたんすね。ありがとうございます! オレの名前は、グレンっていいます」
バーンはこちらも名乗ろうかと思ったが、思いとどまる。
自分は王子だなどと言ったら、いまだに目の前で緊張している少女がさらに萎縮してしまうかもしれない。
「ああ。なんてことない。俺の名前はバロン。とある貴族の元で仕えている従者だ。『偽ブラックムーン』についての調査をしている。そちらで何か情報を持っていないだろうか」
「バロンさんっすね。オレと姐さんも、その偽物を追ってるんすよ。よかったらしばらくの間、協力しませんか」
いい感じに身分を偽れたようだ。
バーンは今までもたまに城を抜け出していたが、貧民街に足を踏み入れるのは今回が初めてだった。
現地の協力者がいた方が、捜索においても有用だろう。
そう結論づけたバーン王子は、グレンの提案にこくりと頷く。
「そうと決まれば、早速今まで捕縛した奴らの所に案内するっす。全部姐さんが捕まえたんすよ。あ、姐さんっていうのはこちらにいるク──」
慌てて少女が、グレンの口を塞ぐ。
「自己紹介ぐらいできる。私の名前はクレア。街の皆からはクレア姐さんって頼られてる」
緊張の抜けきらない顔で、愛想笑いを浮かべるクレア。
彼らの案内に従って、寂れた貧民街の中を歩く。
昼間だというのに、そこまで活気がない。
グレンによると、昼間は働きに出てるか自堕落に裏路地かどこかで飲んだくれている人が多いらしい。
以前は表でも酔っ払いやチンピラを見かけたらしいが、クレアのパトロールによって今は見かけないという。
グレンが色々と教えてくれる一方で、クレアはさっき捕まえた偽物を引きずりながら黙々と先を歩いている。
賞賛されるのが、照れくさいのだろうか。
「ク……クレア姐さんのことは、気を悪くしないでほしいっす。普段からああいうかんじで、他人とあんまり近づこうとしないんで」
グレンが少し申し訳なさそうに謝る。
「その割には、グレンには気を許しているのだな」
バーンの言葉に、グレンは苦笑いした。
「最初は結構突き放されたんすけどね。しつこく付きまとったら諦めたようで、今は子分みたいなかんじで側に置いてくれてるんすよ」
懐かし気に語るグレンは、どこか嬉しそうである。
誰かを大切に思うその感情は、バーン王子にはあまり馴染みがない。
「ずいぶんと慕っているのだな」
生まれつき王族として育ったからか、特定の誰かを大切に思う感情は希薄だ。
万人にとっての絶対的権威である王としてのみ、己の存在は求められる。
そこに個への関心はほとんどない。
故に個としてではなく王としての振舞が必要とされた。
しかし、個としてのやり取りを一度だけ経験してしまった。王としての自分が如何に退屈であるかを一層自覚してしまったのだ。
バーン王子という個人を信頼して『杖』を返した、『ブラックムーン』として世を騒がせるクロ。
クロに対する感情に迷っているバーン王子にとって、クレアに対するグレンの真っ直ぐな思いはとても眩しいものだった。
「慕ってる、っすか。まあそれもありますけど、放っておけないんすよね。なんか姐さんって自分に関心がないっていうか。謙遜しすぎて心配になるというか。……っともうそろそろっすね」
話を切り上げたグレンの進行方向に見えたのは、古びた教会だった。
◇ ◆ ◇
クロの頬を、汗がつたり落ちる。
バーン王子が貧民街にいることなど、全くの予想外である。
なんとかやり過ごそうとしたところを、グレンによって同行することになってしまった。
幸いこちらには気づいていないようで、バロンという偽名を使いグレンと会話している。
グレンも、クレアという偽名の意図を汲んでくれているようだ。
教会へ先に戻ったクロは、ブラウン神父がいるかどうかを確認した。
だが、教会には誰も帰ってきてはいなかった。口裏を合わせる必要は無さそうだ。
ブラウン神父は、以前ウィンが訪ねてきてからしばらく留守にしている。
他国に出かけているらしく、そこにある大きな教会に用事ができたらしい。
留守の間の教会を任されているが、そこに捕縛した『偽ブラックムーン』も置いている。
貧民街には、犯罪者を収容する施設や組織は存在しない。
昼間にただのクロとして捕縛した偽物たちは、教会の地下に置いていた。
クロの状態でフローレス家と接触するのは、危険と判断してのことだ。
教会は懺悔する場所だとブラウン神父は言っていたので、悪人を収容していても問題ないだろう。
捕まえた『偽ブラックムーン』を連れて、教会地下にある墓所に縛って放置したもう一人の『偽ブラックムーン』の所に向かう。
奥にいたのは、少しやつれた大人の男性であった。
食事や飲み物はちゃんと運んでいるので、やつれているのはおそらく精神的なものだろう。
遅れてバーン王子とグレンも到着したようだ。
「こいつが、偽物の1人か」
縛られた男性は、ただ怯えるばかりである。
今連れてきた方の偽物を見て、ついには泣き出してしまった。
「安心しな。何か吐くまではちゃんと世話してやる。ただし、墓所でだがな。何か思い出したなら今のうちにきいてやる」
そう伝えると、先に縛られていた偽物の男性が、うろ覚えながらも話し出した。
墓所に独りで放置されたのが、よほど応えたらしい。
かわいそうだが、偽物として恐喝を行っていたので自業自得である。
「あいつは、顔が無かった」
「顔がない? 夜だから見間違えたんじゃないか?」
「嘘じゃない。本当に無かったんだ。」
その男が手がかりとして挙げたのは、自分にお金を渡した人間の顔についてであった。
たまたま深くかぶったフードの中が見えてしまい、あるはずの目や鼻、口が無いことに恐怖で声も出なかったそうだ。
それ以来、夜出歩くのが怖いらしく、黙秘していたのも化けて出るのが怖かったのだとか。
道理で、真昼間の明るいうちから恐喝なんかしていたわけだ。
少しぞっとしたのか、グレンが腕をさすりながら口を開いた。
「顔の無い人間っすか。そんなのが、ありうるんすかね?」
「事実なら、魔法によって生み出された人形かもな。指示も全て筆談であったことを考えると辻褄もあう。ローブで偽装できていたのを見るに、地属性魔法の『
でまかせの可能性も否定できないがと、断りを入れるバーン王子。
クロは、ウィンを助け出すときに見た『
あれを小さくしてローブを被せたら、確かに人間に見えるかもしれない。
「仮にその『
魔法の教科書には、『
熟練者なら、貧民街の外からでも操作できるだろう。
バーン王子は意外な目でクロを見つめる。
「魔法に詳しいんだな」
まずい、口を滑らした。
「ここの神父から色々教わってるんだ」
そう説明すると、バーン王子は納得したようである。
危うく怪しまれるところだった。
結局二人の偽物は、バーン王子に引き取ってもらうことになった。
いつまでも教会に置いとく訳にもいかないの。どこかで貧民街の外にあるしかるべき場所に渡すつもりだったので、渡りに船である。
「二人も連れていくの大変じゃないすか?」
「平気だ」
グレンが気遣うが、バーン王子が軽々二人を担ぎながら地下墓所からの階段を上るのを見て口を閉じた。
軽い別れの挨拶をして、教会を去るバーン王子を見送る。
バーン王子の背中が見えなくなったところで、ようやく肩の力を抜いた。
「なんか、不思議な人だったな。……で、結局なんで名前隠してたんだ?」
そう尋ねるグレンに、クロは笑って誤魔化した。
なんとなく正体を悟られたくないので隠していたが、実際バーン王子のことは信頼している。
仮にバレても、あの場でグレンに黙ってくれるということもあっただろう。
それでも隠したのは、失望されたくなかったのかもしれない。
かつて
もし幼いころ『ブラックムーン』に憧れていなかったら、きっと
驕ってはいけない。
逃げてはいけない。
努々忘れるな。
『ブラックムーン』でなければ、