女義賊が、婚約者争いをぶっちぎる話   作:埃っぽい心

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 遅くなってすみません。

 また大変申し訳ないのですが忙しくなってきたので今より更新頻度落ちます。すみません。

 3日か4日に一度更新を目標に頑張ります。


第三章 絶体絶命の窮地に陥る女義賊
13話 未熟者


 クロが『スカーレットムーン』ことルージュを呼び出したのは、貧民街から少し離れた森の中だった。

 

「師匠、お待たせしたのですわ」

 

「ルージュか。こんなところに、呼び出して悪いね」

 

 ルージュの言葉に、待っていたクロが口を開く。

 

 ここはクロの行きつけの場所である。森の一部が剥げており、訓練や狩りの拠点にはちょうどよい。

 

 今回来た目的は、弟子を鍛えることである。

 

 弟子となったルージュへの指導は、まず心構えから始まった。

 

「正面から戦うのは、必要最低限に。基本的には、隠れることと逃げることが大事」

 

 義賊は、あくまでも盗みによって義を貫く。

 

 無理に相手を倒す必要はない。

 

「私の武器があれば、正面突破も可能ですわ」

 

 そういってルージュが差し出したのは、少し重い球体だった。

 

 自分の煙玉と少し似ている気がするが、どう使うんだろうか。

 

 早速実践してくれるようで、ルージュが球を放り投げる。

 

「『点火(イグニッション)』」

 

 その言葉と同時に、目の前で炎と衝撃が小さく炸裂した。

 

 なんでも爆弾というらしく、ヴァレッド家の倉庫にある火薬とやらで自作したのだとか。

 

「勝手に倉庫を漁っていいの?」

 

「問題ありませんわ。正義の前には、些細なことですの」

 

 この手癖の悪さと思い切りの良さは、盗みに向いているかもしれない。

 

 それにしても、火薬というのは凄まじいものだ。

 

 炎属性魔法によって、好きな時に爆発させられるのだという。

 

 確かにこれがあれば、正面から戦いたくなるのもうなづける。

 

「でも、やっぱり避けるべきかな。基本的には、忍び込んだ相手の住処で戦うことになる。前にルージュが追い詰められた毒ガスみたいに、敵の罠を警戒しないと」

 

「逃げるだけだと、爆弾しか持たない私の強みが無くなってしまいますわ」

 

 ルージュは、しゅんとした表情を浮かべる。威勢の良さは、良くも悪くも爆弾に依存しているようだ。

 

(爆破以外にも、なにか強みがあればいいんだけど)

 

 逃げ足の早さや気配察知は鍛えるとしても、クロでいう影の魔法のような何かがほしい。

 

「そうだね。投げる力を鍛えようか」

 

 投げる力は、爆弾を使うルージュにぴったりだ。

 

 小石みたいなのを正確に投げれるようになれば、できることの幅も広がる。

 

 クロも、煙玉や小石をよく投げているのだ。

 

 義賊の必須技能といってもいいだろう。

 

 方針が決まって、数時間。

 

 訓練が一区切りし、森の中にルージュが倒れこむ。

 

「──はぁ、はぁ」

 

「お疲れ。体力はこれからだけど、気配察知は見込みありだね。肩をほぐすのを忘れないでね」

 

 今しがた行っていたのは、クロが投げた泥を避けながらルージュがクロに泥を投げて当てるという訓練だ。

 

 雪合戦ならぬ、泥合戦といったところである。

 

「治療用の魔法薬ね。疲労に効くらしいよ」

 

 ルージュは渡された魔法薬を飲むと、プハッと息を吐き出した。

 

「苦いですわ……」

 

 舌を出して、ルージュは魔法薬の瓶をクロに返す。

 

 小動物のような可愛さがあり、微笑ましい。

 

「じゃあ、今日はここら辺でお開きにしようか」

 

「もう終わりですの? 全然続けても構わないのですが」

 

「休憩も訓練のうちだよ」

 

 そう言ってクロは、木の上で横になる。

 

 この場所は日が差し込んでいるので、温かくて気持ちいい。

 

 ルージュは、休憩と言われても落ち着かないようで、素早く木の枝から枝に飛び移る練習をしている。

 

「勤勉だね。バーン王子の婚約者ってのは、そんなに魅力的なものなの?」

 

「それは、そうですわ。王族に取り入ることができれば、貴族の頂点に立ちますの。……私の家には、それが必要なのですわ」

 

 切羽詰まった表情で、口を閉じてしまうルージュ。

 

 あまり愉快ではない話題を、口にしてしまったようだ。

 

「今度から、もう少し難易度の高い訓練をしようか。私のいない時の宿題も出しておこう」

 

 クロのその言葉に、ルージュは顔を明るくした。

 

「ありがたいのですわ! 師匠がいない時は、何をすればいいんですの?」

 

「貧民街のならず者を、懲らしめてもらおうかな。貴族の根城に侵入するのはまだ早いけど、それぐらいなら今のルージュでも問題ない」

 

 元々『スカーレットムーン』として行動していただけあって、ルージュの体の動かし方はかなり良い。

 

 魔法に頼りがちな貴族の大半は体力がないのだが、ルージュは違うらしい。

 

「ならず者ですか」

 

「あそこの治安は、まだまだ悪い。私の偽物が出るぐらいだからね。訓練相手には困らないだろう」

 

 貧民街であれば、何かあったときにすぐ駆け付けることができる。

 

 ルージュは、クロの提案を了承したのだった。

 

 この日以降、貧民街に時折赤い影がちらつくようになる。

 

 宿題のおかげもあり、偽物の勢いが落ちるのに比例してルージュは強くなっていった。

 

(『ブラックムーン』に並ばれる日も、そう遠くないかもしれない)

 

 貧民街のどこかから聞こえてくるようになった爆発音を聞きながら、クロはしみじみと弟子の成長に感動するのだった。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 偽物騒動の噂は、貴族間でも広がり始めていた。

 

 貧民街の情報が、貴族に届くことはほとんどない。

 

 今回の件は『ブラックムーン』が絡んでいるというのも、話題を呼んだ一因だろう。

 

 噂はフローレス家にも届いていた。もちろん、そこに住むようになったウィンの元にも。

 

 『偽ブラックムーン』が出没していると知ったウィンは、すぐさま貧民街へと向かおうとする。

 

 そこに待ったをかけたのがレインであった。

 

「ウィンは行ってはダメよ」

 

 納得のいかないウィンは、声を荒げるのを抑えながら抗議する。

 

「こればかりは、止めないでください」

 

 ウィンにとって、『ブラックムーン』の偽物など絶対に許せないものである。

 

 今すぐにでも偽物たちを一掃しにいきたいと、ウィンが思うのは当然であった。

 

 また、偽物退治だけでなく『ブラックムーン』本人とも、会って話したいというのもある。

 

 決闘以降、『ブラックムーン』とは会えていない。

 

 あの決闘において、ウィンは蚊帳の外であった。

 

 薬で眠らせたというのもあり、『ブラックムーン』がウィンを遠ざけようとしているのは明白である。

 

 ──私はいつまでも守られる子どもじゃない。あなたの助けになりたい。

 

 ウィンの叫びが、胸の内で何度も木霊する。

 

 『ブラックムーン』と会える可能性があるなら、行かないという選択肢はない。

 

 だが、レインはその意見を全く取り合わない。

 

「今貧民街に行けば、偽物の調査に加えて、『ブラックムーン』はあなたの身を案じなければならなくなる。彼女の負担が増えるだけ」

 

 レインも、『ブラックムーン』がウィンを遠ざけていることを把握しているのだろう。

 

「もう昔の弱いままの私じゃないんです。私の風属性魔法を見れば、『ブラックムーン』も背中を預けてくれる可能性だって……!」

 

 実力からいえば、ウィンは既にフローレス家の誰よりも強いだろう。

 

 絡め手や集団戦などを除けば、大抵のことは1人で対処できるのである。

 

「あなたの実力が問題ではないの。『ブラックムーン』の甘さが問題だと言っているのよ」

 

 『ブラックムーン』は、ウィンに情を持っている。

 

 オルターと『ブラックムーン』の決闘が、あの義賊の甘さをよく表している。

 

 あの決闘は完全な私情によるものであり、負う必要のないリスクだった。

 

 大切な人間のために隙を晒してしまうのは、お尋ね者としては致命的な性格といってもいい。

 

 そのため、ウィンの安全をフローレス家で確保することが、今の『ブラックムーン』にとって有益である。

 

 レインは、そうウィンに言い聞かせた。

 

「『ブラックムーン』は、独りの方が本領を発揮できるはず。あなたに勝手に動かれると困るのよ。お願いだから、大人しくしていてちょうだい」

 

 ウィンは、フローレス家に嫁ぐ身である。

 

 フローレス家の方針に、表立って逆らうことはできない。

 

 この場は、とりあえず引き下がるしかない。

 

 それでも、内心は諦めていない。

 

 ある晩、ウィンはこっそりとフローレス家の屋敷を抜け出した。

 

(慣れたものですね)

 

 ウィンは、『ブラックムーン』との思い出に胸を馳せる。

 

 昔、ワーグおじ様の所からも『ブラックムーン』と一緒に抜け出していたものだ。

 

 夜中の貧民街をこっそりと見回り、朝までに帰ってくればフローレス家にバレることはない。

 

 ウィンの風属性魔法なら、貧民街まで風に乗ればすぐである。

 

 深夜の貧民街はひんやりとしており、少し肌寒かった。

 

 ウィンは貧民街で目立たないようにするための外套を羽織り、フードを深く被る。

 

(来てみたはいいものの、どうしましょう。)

 

 見回るぐらいしかやることがなかったウィンは、なんとなく歩き回ることにした。

 

 労働から帰ってきた人も寝付いているため、表にはほとんど人を見かけない。

 

「ちょっと、そこのあんた」

 

 行く当てもなくうろうろしていたウィンは、後ろから声をかけられる。

 

 振り返るとそこにいたのは、いつか見たクロという少女だった。

 

「こんな夜中にうろつくんじゃない。最近の貧民街は治安が悪い」

 

 唐突な再会で呆気に取られていると、クロは訝し気な表情でこちらを見つめる。

 

「まさか『偽ブラックムーン』じゃないだろうな?」

 

 思わぬ疑いをかけるクロに、慌ててウィンはフードを脱いだ。

 

「違います! 以前教会で会ったウィンです。覚えているでしょうか」

 

 今度は、クロの方が呆気に取られる番だった。

 

「……なんで夜の貧民街なんかにいるんだ! 危ないじゃないか」

 

 そう咎めるクロの口調は、かなり強かった。

 

 心配してくれているのだろう。

 

「ごめんなさい、でも、どうしても『偽ブラックムーン』を捕まえたくて。それに私結構強いから大丈夫です。ほら『風乗り(エア・ライド)』」

 

 クロの不安を払拭するために、ウィンは魔法で浮いてみせる。

 

 それを見た目の前の少女は、何とも言えない顔をしてため息をついた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 弟子のルージュも、義賊として形になってきた頃。

 

 クロは、夜の貧民街を巡回していた。

 

 昼は、森での弟子の訓練やその準備で忙しい。

 

 以前の習慣では立ち行かなくなり、もっぱら夜を巡回するようになっていた。

 

 そんなクロの前に現れたのが、ウィンである。

 

 ウィンの行動力を甘く見ていた。

 

 昔に比べたら元気になったことが喜ばしくもあるが、これは元気になりすぎである。

 

 偽物を捕まえたいからと、まさか自分からこんな夜中に貧民街に出向くとは。

 

 とりあえず、ウィンを教会に連れ込む。

 

 ろうそくを灯した薄暗い教会で、クロはウィンに語り掛ける。

 

「……というわけで、偽物は『ブラックムーン』本人や私みたいな腕利きの協力者が捕まえてる。ウィンが来ても過剰戦力だよ」

 

 今の貧民街の状況を伝えるが、ウィンはあまり納得していないようだった。

 

「私は、偽物をどうしても許せないんです。何か助けになれることはないですか?」

 

 諦めの悪いウィンに、クロは以前のウィンが絡まれていた時のことを思い出す。

 

 そういえば、『ブラックムーン』の名前をチンピラが出したことにウィンは激怒していた。

 

 『ブラックムーン』に対して、好感を持ってくれているのだろう。だからこそ、今回の件に黙っていられないのだ。

 

 ……いや、自身に薬を盛った『ブラックムーン』に対して、ウィンが良い印象を持っているとは考えにくい。

 

 もしかしたら、ワーグのところで原作の『ブラックムーン』を読んだのかもしれない。

 

 ウィンが原作『ブラックムーン』のファンなら、偽物への執着も仕方がない。

 

 クロもファンとして偽物への怒りは痛いほどに分かるが、ここはなんとしても止めなければ。

 

「でも、貧民街に貴族が来るのはよくない。家の人にも止められてるんじゃないの?」

 

「それはそうなのですが。……実はそれだけじゃなくて。会いたい人がいるんです」

 

 少し迷いながらも口を開くウィンに、クロは首を傾げた。

 

 貧民街にウィンの知り合いなんていたっけ? 

 

「以前からの友達なんですが、最近会ってくださらなくて。言いたいことがたくさんあるんです」

 

「……っ! へー、薄情な友達もいたもんだ」

 

 心当たりのあるクロは、心拍を跳ね上げる。

 

 ウィンは関係を隠すためか明言を避けているが、明らかに『ブラックムーン』ことクロの話である。

 

「その友達に対して、怒ってたりする?」

 

「ええ、とっても。私の魔法を披露することになるかも。……冗談ですよ?」

 

 そういうウィンの目は、笑っていなかった。

 

 教会の外を強風が吹き、建付けの悪い窓がガタガタと揺れる。

 

 クロは恐怖が顔に出ないように、必死にこらえる。

 

 ウィンのことだから、どんなに怒っても乱暴なことはしないだろう。

 

 だが、頭によぎるのは、以前チンピラに凄んでいたときの絶対零度の声音。

 

 あのウィンの怒り様を正面から受けられる自信など、クロにはなかった。

 

 嫌われる覚悟はしていても、真っ向からあの感情をぶつけられるのは怖くて想像もできない。

 

(やっぱ、睡眠薬はまずかった。……ほとぼりが冷めるまで、もうしばらく距離を取った方が良さそう)

 

 クロは後悔しながらも、とりあえずウィンを説得することに専念する。

 

「ウィンが貧民街に来たい理由は、よく分かった。でも、会いに来ないってことは会いたくない理由があるんじゃない? 一度、その人と距離を置くというのも──」

 

「なら、直接会った時に理由を聞きます」

 

 諦めさせようとするが、ウィンの表情は口元に笑みを浮かべたまま変わることはない。

 

 こうなったウィンが頑固なのは、よく知っている。

 

 外は、もはや嵐のようである。

 

(どう説得したものか……ん?)

 

 窓に目を向けたクロは、外が少し明るいことに気が付いた。

 

 真夜中にしては不自然な明るさであり、何やら音も聞こえてくる。 

 

 遅れて気づいたウィンが窓に近づこうとした瞬間、窓が割れて何者かが入ってきた。

 

 咄嗟にクロは、ウィンに覆いかぶさる。

 

 背中にガラスの破片が降りかかり、クロの背中を切り裂いた。

 

 服の中の影で衝撃を殺せても、服が破れれば防ぐことはできない。

 

 クロは痛みに顔をしかめながらも、周囲の状況を確認する。

 

 入ってきたのは、黒い布切れを纏った男性だった。

 

 無理に入ってきたためか少しの間うずくまっていた侵入者は、我に返ると何かに怯えたようにクロに突進してきた。

 

 ウィンの前で魔法を使えず、ガラスで負傷したクロは対応が遅れる。

 

 男性はクロにガラスを突き付けると、窓の外に叫んだ。

 

「来るな! こっちには人質がいるんだ!」

 

 何者かから逃げてきたらしい。

 

 途中で逃げきれないと判断し、人質を探していたようだ。

 

 深夜の貧民街で人質を探すのは、明かりを見つけるのが手っ取り早い。

 

 ガラス越しのろうそくの光を頼りに、教会に来たのだろう。

 

 ──でも、一体誰から逃げてきたのだろうか。

 

 すると、見覚えのある赤い装束の少女が窓から入ってくる。

 

「大人しく投降なさい、『偽ブラックムーン』!」

 

 こちらを睨みつけるのは、先日弟子入りしたルージュであった。

 

 なんとも間の悪い鉢合わせだ。

 

 どうやら、ルージュが後ろにいる偽物を追いかけて、ここまでやってきたらしい。

 

「くっ……!」

 

 ルージュは、人質の扱いに困っているようである。

 

 だが、これくらいなら、人質のクロで対処が可能だ。

 

 突き付けられたガラスを手でつかみ、足払いで一気に制圧する。

 

 相手がこちらを警戒していなかったのもあり、あっさりと抜け出せた。

 

 ふうと一息をついてウィンを見ると、こちらを凝視している。

 

「クロ、その手──」

 

 見下ろすと、クロの手に刻まれた『紋章』の光が布の中から漏れ出ていた。

 

 先ほどウィンを庇った時に、腕に巻いていた布が破れていたらしい。

 

 咄嗟に手を庇うが、すでに手遅れであることを悟る。

 

「もしかして師匠ですか?」

 

 ルージュの言葉に、ウィンが反応した。

 

「……弟子がいるのですか? 師匠なんて呼ばせて」

 

 修羅場と化したこの場で、どう答えればいいか分からなかった。ウィンと目を合わせられない。

 

 だんまりを決め込むクロを、ウィンが問い詰める。

 

「クロが『ブラックムーン』だったのですか? 私のことを遠ざけておいて、弟子を取って……。私のことは認めてないのに、その人は認めるんですか?」

 

 クロは返事をしようとするが、言葉が浮かばない。

 

「黙ってないで、何か言ってください!」

 

 違うと否定したかった。

 

 ウィンは大事な友達だから、幸せなところにいてほしい。

 

 ルージュを弟子を取ったのは、放っておいたほうが危険そうだったから。

 

 そう言いたいのに、肝心の言葉が喉まで出てきては霧散してしまう。

 

 『ブラックムーン』というフィルターを通していないクロは、ウィンに対しての言葉を持ち合わせていなかった。

 

 今のクロは、キラキラしたカッコいい姿の義賊(ブラックムーン)ではない。

 

 矮小で性根の腐った盗人(クロ)では、何を語っても空虚で軽い言葉を吐いてしまうだけだ。

 

 飾った言葉しか思いつかない。思い浮かんだ言葉全てが、嘘のようにしか感じられない。

 

 神父に初めて嘘をついた幼き日から、ありのままの自分として真剣に物事と向き合ってこなかった。

 

 そのことに対して、クロは後悔で胸がいっぱいになる。

 

 こちらを見るウィンの顔は、明らかに怒っていた。

 

 何かを言わないと、何かを言えないと、きっと大事なものを失ってしまう。

 

 ルージュは黙って成り行きを見守っており、辺りに鉛よりも重苦しい沈黙がのしかかる。

 

 ──無理だ。

 

 最終的にクロは逃げ出した。

 

 逃げ続けてきたクロには、逃げること以外の選択肢を選べなかった。

 

 ウィンの制止する声を振り切って、今までで一番の逃げ足で教会を飛び出す。

 

 いつも逃げるときは心が浮立つ感覚を感じるが、今はそれも感じない。

 

 あるのは、何かを間違えたという後味の悪さだけである。

 

 ウィンは空を飛んで追ってきたが、追いついてくることはなかった。

 

 貧民街を誰よりも知っているクロは、余裕のない心とは裏腹に冴えた頭ですんなりと逃げ切る。

 

 ガラスで切った傷の痛みが、今頃になって疼いてくる。

 

「そういえば、レインとワーグからもらった治療用の魔法薬は教会に置いていたっけ」

 

 思い出しても、クロには取りに戻る気もおきない。

 

 見つかりたくないというのもあるが、今は傷の痛みをそのままにしておきたかった。

 

 ガラスで切った手や背中にじくじくと痛みが広がるのが、ただ心地よく感じる。

 

 まるで嘘に塗り固められたクロの罪を、痛みが軽くしてくれているかのようだ。

 

 それでも、友達を失って心にぽっかりと穴が開いた感覚は、いつまでも消えることは無かった。




 盗んだあのとき誰かに「ごめんなさい」が言えたなら、きっと友達にも謝れたのかもしれない。
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