放課後に、僕らは   作:やまざる

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一学期
プロローグ①


プロローグ

───【風の窓辺〕───

 春の風が、窓をノックしていた。

 

 高鳴るチャイムも始業式の喧騒も、まだ少し先の時間。教室は、朝の光をため込んだ静けさに包まれていた。

 

 文蔵想汰は最後列の席に座り、窓の外をぼんやりと見つめていた。

 

 膝の上には開かれたままのノート。けれどページにペン先を走らせることはなく、指先はただ、黒インクのシミを広げるようにある単語をなぞっていた。

 

《オムニバス》

 

 自分の“異能”に与えられた名。

 

 意味を理解していないわけではない。けれど何度書いても、それが自分に属するものだという実感は湧かなかった。

 

 校舎の外では、風にあおられた桜がわずかに舞い上がり、春の匂いを運んでくる。けれど想汰の胸の中には、いまだ冬の名残のような冷たさが居座っていた。

 

(また、始まる)

 

 ノートを閉じ、うっすらと息を吐く。

 

 高校2年。新しいクラス、新しい教室、新しい人間関係。だが、期待よりも疲労感の方が先に来ていた。どこにいても、どんな肩書きを背負っても、変わらないものがあると知っていた。

 

 足音が、廊下から微かに響いてくる。

 

 扉が開き、生徒たちがぽつぽつと入ってくる。

 

 ざわめきが教室に広がり、椅子を引く音、教科書の束が机に置かれる音が重なっていく。

 

 想汰は何も言わず、その流れのなかにただ身を置いた。

 

 誰も彼に話しかけることはなかったし、彼もまた誰とも目を合わせようとしなかった。

 

 そのとき、教室の前の席に、一人の男子が座る。

 

 乱れ気味の黒髪に、無造作にかけられたヘッドホン。彼は想汰を一瞥するでもなく、椅子に沈み込むように座ると、目を閉じた。まるでこの喧騒のなかにあっても、自分だけが別の“音”を聴いているような顔だった。

 

(……変なやつ)

 

 ほんの一瞬だけ視線を向け、すぐに逸らす。

 

 そのとき教室のドアがもう一度開き、今度はもう少し背の高い男子生徒が入ってくる。きちんとした制服姿、歩幅の整った足取り。けれど目だけがどこか虚ろで、教室全体をさっと見回したその目に、まるで“選択肢”を並べているような印象を受けた。

 

 彼の視線は想汰のほうまで一瞬流れたが、やはり言葉は交わされない。

 

 続いて、眼鏡をかけた生徒が静かに現れる。

 

 背筋を正し、空いている席を探すように辺りを見回していた。少し迷ったような表情ののち、教室の中央やや端の方へ向かって歩いていく。

 

 静かで、礼儀正しそうな立ち居振る舞い。けれど、その目にはどこか観察者のような冷静さがあった。

 

 (……この中の誰かと、友達になれるんだろうか)

 

 そんなことを思う前に、彼はその問いを胸の奥へ沈めた。

 

 どうせ、深く関わることはない。

 

 関わったところで、自分のことを理解する人間なんて、どこにもいない。

 

 それが、想汰のこの春の“前提”だった。

 

 でも——。

 

 風がまた窓を叩く。

 

 どこかで、ふと目が合った気がした。

 

 気のせいかもしれない。けれどその瞬間だけ、教室の空気がすこし、変わったように感じた。

 

 まるで、新しい物語が、静かに始まる合図のように。

 

────【選択肢のない廊下で】────

 

 新学期が始まって二日目。

 

 朝の廊下は、乾いた音がよく響く。教室に入りかけた足を止めて、朝倉彰良は少しだけ顔を背けた。昇降口で交わされた数秒のやりとりが、まだ耳の奥に残っている。

「あ、朝倉くんって、今……目の上、光ってなかった?」

 些細な言葉だった。ただ、思ったよりも図星で、それが妙に堪えた。

 

 彼の視界には、ずっと前から選択肢が見えていた。赤、青、黄色。時に線で、時に文字で、人生の分岐点が現れては消える。

 《オプションズ》──未来の一手を視る力。誰にも言わず、ただ黙って、折り重なる選択肢の中を歩いてきた。けれど、高校に入ってからというもの、周囲の反応はほんの少し違った。

 

 能力者の割合が他校より高いこの学校では、異能の存在が「特別視」よりも「好奇の対象」になりがちで、それが苦手だった。必要以上に喋らず、目立たず、廊下の端を歩くようにしていた。

 今日は、教室に入らずに済む選択肢もあったはずだ。

 自嘲気味に、そう思う。だが、無数に現れる選択肢の中で、なぜか彼の足は一つの未来を選んでいた。今日、この日にあの男と出会う未来を。

 廊下の先、教室の入り口で背を向けている男子がいた。

 乱れた髪に、手に提げた文庫本。どこか所在なげに視線を泳がせている。

 文蔵想汰。初対面で名前を知っているのは、《オプションズ》のせいだ。

(今、声をかければ、話す未来が三つ。無視すれば、黙ったまま二週間……)

 選択肢は浮かんでは消えた。その全てに、少しずつ違う彼自身がいた。

 そして、朝倉はふと気づいた。文蔵の肩の上に──何の選択肢も浮かんでいない。彼の周りだけが、白紙のように静まり返っている。

(見えない? この人の未来が?)

 一瞬、ざわりと背筋に冷たいものが走った。否応なしに目が合った。

「……あー、君も、教室入りづらいタイプ?」

 文蔵が自然に話しかけてきた。あまりにも、選択肢の“外側”からの声だった。だからこそ、選択肢にない言葉を朝倉は口から紡ぎだしていた。

「……たまに。眩しすぎる日があるから」

 その言葉が、何かを引き寄せたようだった。文蔵が小さく笑い、手にしていた本を見せてくる。

「じゃあ、今日は日陰で本でも読むか。廊下の端の、窓辺で」

(選択肢じゃない。これは)

 ただ一つの言葉に、未来の枝分かれはなかった。にもかかわらず、朝倉はそれを選んでいた。

 小さく息を吐いて、彼は文蔵の隣に並んだ。教室の光から外れた廊下の窓際、春風が淡く頬を撫でていた。

 今日だけは、選ばれた未来ではなく、自分の足で選んだ現在を生きてもいい──そんな予感が、胸の奥に静かに灯った。

 

───【この音は、まだ知らないやつだな】───

 廊下の突き当たりにある旧校舎の一室。もう使われていない音楽室のドアが軋む音が、誰もいない放課後の校舎に小さく響いた。

 日暮夏彦はそっと足を踏み入れる。窓の向こうに傾いた陽光が射し込んで、教室の床にオレンジ色の光の帯ができていた。

埃の舞う空気のなかに、わずかに残るピアノの香りと、遠くから聞こえる誰かの笑い声が混じる。

 彼はゆっくりとピアノの前に歩み寄り、椅子に腰を下ろした。その手が鍵盤に触れる。けれど音を出すことはない。ただ指先を軽く滑らせるようにして、ある記憶を辿っている。

「……この音は、まだ知らないやつだな」

 ぽつりと呟く。彼の能力《リプレイ》は、記憶の音を“再生”することができる。けれどそれは、自分自身の記憶だけに限らない。そこに残された“音の痕跡”さえあれば、他者の感情や出来事の断片すらも、耳に届くことがある。

 ふと、背後で扉が軋んだ。

「おーい、こんなとこで何してんだ?」

 声の主は朝倉彰良だった。彼の後ろから、ちらりと顔を覗かせたのは文蔵想汰。2人とも教室で見た顔だ。夏彦は驚くでもなく、ただ軽く顔を上げて応える。

「いや、音探し。ここ、いい音が残ってたからさ」

「音……って?」

 想汰が眉をひそめる。その横で、彰良は興味深げにピアノを見つめていた。

 

 夏彦は立ち上がり、教室の一角に歩いていく。そこには古びた譜面台と、折れたバイオリンの弓。指でそっと弦を弾くと、微かに鳴る音があった。澄んでいるようで、どこか濁ったような音。それはたしかに、かつてここで誰かが過ごした痕跡だった。

「ここで、このピアノの前で、泣いてたやつがいたんだよ。昔。音が残ってる」

「……それって、お前の能力か?」

 彰良が訊くと、夏彦は目を細めて頷いた。

「ま、そんなとこ。誰かの記憶の欠片を、音で拾える。そういうの、好きなんだ」

「不思議な能力だな」

 想汰がぽつりと漏らした。けれどその声はどこか優しかった。興味や警戒ではない。ただ、彼なりに“それ”を受け止めようとしている声音だった。

 その空気に、夏彦はふっと笑う。

「君たち、文蔵と朝倉、だったっけ?」

「ああ。お前は?」

「俺は日暮夏彦。二年になってから転校してきたんだ。教室、まだ馴染めなくてさ……まあ、こういう場所の方が落ち着く。逆によ、お前らはこんなとこで何してんだ?」

「俺たちはまあ…散歩だな。こいつがいいことがありそうだとか言って、こっちまで来たんだ」

想汰が彰良を親指で指さして答えた。

 静かな空気。夕暮れの光が、三人の影を床に長く引き伸ばしていた。

 誰かが名乗り、誰かが応じ、誰かがそこにいてもいいと思える。それは夏彦にとって、しばらく感じていなかった“音”だった。

「じゃ、またな。いい音、見つけたら教えてくれ」

 彰良がそう言って手を振る。夏彦は頷いて、その背を見送った、想汰は最後に振り返って、何かを言いかけたようだったが、言葉にせずにドアを閉めた。

 静寂。風が、薄く開いた窓から入り込み、楽譜をめくった。

 その音に、夏彦は笑った。

「この音は……お前らのやつだな」

 

───【静けさの中に】───

 

 窓の外では、春の風が葉を揺らしていた。かすかに囁くような音が、放課後の教室に入り込んでは、机の脚をすり抜けていく。

 

 新学期が始まって一週間程度。

 

 誰もいない教室。いや、正確には、誰もいなくなった教室。放課後の教室は、放たれた鳥籠のようだった。生徒たちはすでに下校し、まだ日差しの残る廊下にも足音一つ響かない。静けさだけが、椿原澪の周囲を包んでいた。

 

 椿原澪は窓際の席に腰を下ろし、黙々とノートを広げていた。

ノートのページをめくる音が、やけに大きく感じられた。

 その静寂を乱すのが、ほんの少しだけ怖くもあり、心地よくもあった。

まだ四月、風は柔らかく頬をなでる程度だったが、開け放たれた窓からは春の光と、かすかな新芽の匂いが入り込んでいた。

 椿原は机に向かい、数学のの問題集を淡々と解いていた。今日の授業で出された課題だからだ。

終業のチャイムからもう二時間ほどが経っている。

 帰る理由もなかった。家にいても、特別やることはない。学校に残っていれば、時間は少しだけ速く過ぎてくれる。

 

 けれど、この教室に長く留まるのには、もうひとつ理由があった。

 あるいは、言い訳のようなものかもしれない。

 彼の目は時折、前の席──今は誰も座っていないはずのその場所に、自然と向いてしまっていた。

 文蔵想汰。

 

 名前を覚えているのは、始業式が始まる前の自己紹介があったからだ。

 印象は、率直に言って“変わっている”だった。教師の問いかけに答えるときも、なぜか一瞬の間を挟んでから話し出す。休み時間に誰かと騒ぐこともなく、かといって孤立している様子でもない。不思議な距離感のまま、教室の空気に溶け込んでいる。

 

 それでいて、澪は彼の名前をよく覚えていた。

 きっと、少し羨ましかったのかもしれない。周囲から奇異の目を向けられても、彼はどこか堂々としていた。

 

 “異能力者”──そういう噂を、廊下ですれ違った生徒たちがひそひそと話していたのを聞いたことがある。

 能力者。

 特別な力を持った、ごく一部の人間。

 

 けれど、その“特別”が、何を意味するのかは、澪には分からなかった。

 ただ、そういう存在は“遠い”と感じていた。自分とは違う世界にいるような──理解の外にあるもの。

 だからこそ、こうして机に残る彼のノートの筆跡や、消しゴムのかすを見つめてしまうのは、まるで禁じられたものに触れているような感覚だった。

 

 そのとき、扉が開いた。

 

 「……あれ、椿原?」

 

 聞き覚えのある声だった。思わず背筋が伸びる。振り返ると、やはりそこには、文蔵想汰がいた。

 

 乱れた黒髪に制服のネクタイを少し緩めたまま、片手に文庫本。どこか疲れたような、眠たげな瞳。けれど柔らかい目で澪を見ていた。

 

 「まだいたんだな。珍しい」

 

 そう言って、彼は教卓から近くにある席──澪の前の席に、当たり前のように座った。

 

 「……勉強してるんだろ。邪魔しないから、ちょっとだけ」

 

 断る理由が見つからなかった。

 

 いや、本当は断るほどの勇気がなかったのかもしれない。

 

 再びペンを走らせる。けれど気配が気になって、集中できない。

 

 彼がページをめくるたび、こちらの鼓動が一つ跳ねる気がする。

 

 「……椿原って、理数系強いよな」

 

 ふいに声をかけられ、澪は手元のペンを止めた。

 

 「この前の数学、教科書の問題、解けた?」

 

 「……一応」

 

 「やっぱな。俺はあの辺で詰まっててさ。今度、教えてくれよ。俺、数学苦手なんだ。」

 

 それ以上、特別な会話があったわけではない。

 

 何気ない会話。でも、それが何より不思議だった。

 

 能力の話も、他愛ない噂話も、ここにはなかった。ただの“授業”と“問題”の話。

 

 ただ、二人はしばらくの間、並んで机に向かっていた。春の風がカーテンを揺らし、ノートの端をめくっていく。教室はしんと静かで、けれど心地よい沈黙がそこにはあった。

 

そうしてふと、澪の胸の中で何かが緩んだ気がした。

 彼は異能力者かもしれない。でも、それがなんだというのだろう。

 

 今、彼は同じ教室で、同じ時間を過ごしている。ただそれだけのことが、どうしてこんなに安心するのだろう。

 

 この沈黙は確かに心をほぐしていた。想汰の存在は、他者のようで、どこか他人ではない。踏み込みすぎず、離れすぎない。風のように、そっと寄り添う距離だった。

 

 風が吹き込む。カーテンがふわりと揺れ、白い布の端が文蔵の頬に触れる。淡い春の香りの中に、微かに紙の匂いが混ざっていた。

 

 彼は微笑んだ。まるで何もかもを知っているような目で。

 

 「じゃ、また明日な」

 

 そう言って、立ち上がった彼の背中を見送る間、澪はずっとペンを握ったままだった。

 

 心臓の鼓動が、なかなか静まらない。

 

───【ページの隙間に】───

 

 気づけば、教室に戻るのが習慣になっていた。

 放課後の図書室で読書を終えた後、誰もいない自分の席に立ち寄る。理由は自分でもよくわからなかった。ただ、その場所にはまだ“余白”がある気がして、足が向いてしまうのだ。

 いつもなら静まり返った教室の扉を開けると、机と椅子だけが出迎えてくれる。だが今日だけは違っていた。

 

 椿原澪が残っていた。

 

 几帳面なノート、整った姿勢。春の風に揺れるカーテン越しに見える、その姿は、どこか教室という場所に馴染みすぎているようだった。

 

 彼はぼんやりと考える。この空間は、まるで物語のなかの一節みたいだと。

 

 想汰の異能力《オムニバス》は、すべてを“物語”として読み取るものだ。人の声、仕草、佇まい。それらを断片的に拾い上げ、誰かの“物語”として編み上げる、記録の力だ。

 

 けれど今、椿原澪の姿を見たとき、彼の中で生まれたのは“物語”ではなく、ただの“風景”だった。

 

 それが、少し珍しくて。少し、嬉しかった。

 

 椿原澪。彼が残る理由は、なんとなく分かった気がする。彼は勉強家だし、真面目で、クラスの中心から少し距離を置いている。そんな彼が教室に残るのは、きっと“居場所”としての静けさを求めているからだろう。

 

 けれど、文蔵想汰はその静けさを破ってしまったのだと、自覚がある。

 「……あれ、椿原?」と声をかけたときの彼の一瞬の緊張。あれは、決して喜んで迎え入れられた反応ではなかった。

 

 それでも、彼は黙ってペンを動かし続けた。無言の許容。

 それがどこか、ありがたかった。

 

 だから、想汰はためらいなく、前の席に腰を下ろす。

 文蔵はそっと席につき、持っていた文庫本を開いた。

 

 ページをめくる手がいつもより慎重になる。音を立てるのが怖いわけではない。ただ、隣の空気に波紋を立てたくなかった。

 

 椿原澪という人間には、なぜか“音”のような存在感がある。

 静かに座っているだけで、空間の温度が少し変わる。

 近づきすぎれば壊れてしまいそうで、遠すぎると見失いそうで、彼は不思議な距離感の上に立っている。

 

 ページの隙間から、椿原がノートに書き込む音が微かに聞こえた。シャッ、シャッ……と、規則的な音。文字を綴るだけの単純な行為なのに、それが妙に心を落ち着かせる。

 気づけば、目の前の活字はもう追っていなかった。

 文蔵は静かに本を伏せた。そして、ふと訊ねてみた。

 

 「椿原って、理数系強いよな。この前の数学、教科書の問題、解けた?」

 彼は一瞬、こちらを見た。けれどすぐに目を伏せ、小さく「……一応」とだけ返す。

 

 文蔵は笑った。

「やっぱな。俺はあの辺で詰まっててさ。今度、教えてくれよ。俺数学苦手なんだ。」

 ただの会話。それだけのこと。

 だが、文蔵にはそれが必要だった。

 彼は、能力を持つことにずっと戸惑っていた。

 

 《オムニバス》──断片のような記憶を“書き写す”力。人の経験、場所の記憶、時には自分の知らない自分の一部までも。

 便利にもなり得るが、代わりに“自分”という枠が曖昧になっていく。

 

 だからこそ、他者との輪郭を確かめたかった。

 “文蔵想汰”として、誰かと向き合っていたいと思った。

 異能力者としてではなく、ただの一生徒として。

 

 そんなときに浮かんできたのが、椿原澪の姿だった。

 彼は特別な力を持っていない。けれど、他者をよく見ている。静かな分、その視線には揺るぎがなくて、信頼できると感じた。打算ではない。もっと単純で、純粋な期待。

 たぶん、彼となら、普通のやりとりができる。そんな予感があった。

 

 風がまた吹き込んできて、カーテンが揺れた。

 澪の横顔に光が差し、まるでひとつの場面が切り取られたように思えた。

 その時の感情を、文蔵は無意識に記憶した。《オムニバス》のノートではなく、自分の中に。

 

 「じゃ、また明日な」

 言葉にするのは、少しだけ勇気がいった。

 けれど、澪は顔を上げ、確かにこちらを見た。

 返事はなかった。

 

 でもそれは、否定ではなかった。

 文蔵は静かに扉を開けて、廊下へと出た。

背中越しに、またページをめくる音が聞こえる。

 

 それが、なぜか少し嬉しかった。

 

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