夕方五時前の教室には、曇りガラス越しの淡い陽が射していた。蝉の声が窓の向こうでけたたましく響いている。一方で教室の空気 は夏の終わりを思わせる程の重さが漂っていた。
いつもなら賑やかな四限組の席も、今日ばかりは静まり返っている。筆記用具の音、紙をめくる音、そして──誰かの深いため息。
そう、明日から定期テスト。勉強モード突入である。
四限組の面々も、それぞれのスタイルで“戦”に備えていた。
「……あー、ダメだ。なんでここマイナスになるんだっけ」
教室の一角。数学のプリントと格闘していた朝倉彰良が、椅子の背にもたれながらぼやいた。
机の上には、書いては消した跡が何度も重なったノートと、シャーペンの芯が何本も転がっている。
「知らん。けど、お前そこの符号、前のページで同じミスしてたぞ」
斜め前から日暮夏彦が肩肘をついて指摘する。彼の机にはイヤホンと音声教材のタブレット、英単語カード。順調そうに見えるが、隣には国語の教科書がまるで“処刑台”のように置かれていた。
「やっぱ“未来視”とかでチートできないの?答案写すくらい朝飯前でしょ?」
「できるけど、俺は“あえてやらない男”なんで」
「かっこつけてる場合かよ」
言い合いながらも、どちらも本気で怒る風ではない。試験前日という緊張を、ほんの少し和らげるためのジャブの応酬。
だが、そんな空気に混ざらず黙々とノートにペンを走らせている生徒が一人。
文蔵想汰は、教室の一番後ろの席で静かに問題集を開いていた。
彼の隣に積まれたノートは、丁寧に日付が書かれ、要点にマーカーが引かれたまさに“模範的勉強ノート”だ。
だが、一つだけ違っていたのは――その手に握られた“黒革の手帳”だった。
(出題傾向:昨年は関ヶ原、今年は江戸初期の政治制度……。傾向としては、徳川家の継承に絡めた出題が――)
《オムニバス》
過去の生徒たちの記録から知識の断片を引き出し、解答の糸口を探る彼の異能。
ただし――
「それ、ズルいからね」
どこからか声がして、文蔵が顔を上げると、同じ机にいつの間にか椿原澪が座っていた。
文蔵が手帳を閉じ、問題集に手を移すと、澪は小さく微笑んだ。
「先生が言ったでしょ。“学ぶ”って、自分の頭で考えることだって」
「……記録は、考えることじゃないと?」
「いいや。だけど、“今の自分”が考えてないと、きっと意味がないんだと思う」
澪は静かに語り、手に持っていたノートをめくる。そこには付箋が何十枚も貼られていて、まるでカラフルな森のようだった。
おそらく、誰よりも準備はしている。けれど、不安そうに目を細めるその顔は、どこか“戦々恐々”としていた。
「……椿原、落ち着いてるように見えて、実はけっこう焦ってるだろ」
「…否定はしないよ」
「俺、国語捨てたかも。”抜き出しなさい”の問題がもはや“俺の作文”になってた」
「それはもう感性が国語に拒絶されてるね」
夏彦の愚痴に、澪がすかさず返す。その横で、文蔵はまた静かにノートへと視線を戻した。
彼にとって、“記録”とは無数の過去であり、道しるべだった。
だが今、彼は“問題集”を選んでいる。誰かと同じ方法で、同じ課題に挑む時間を、選んでいた。
「……想汰、案外真面目じゃん」
「俺はずっと真面目だか?」
「うわ、乗ってきた。テスト前のハイテンション怖い」
「てか想汰、顔が死んでる」と、夏彦のぼやきが聞こえた。
「……顔より、答案の中身が死んでないか心配したほうがいいと思うけど」と、澪が返す。
「うっ……ごもっとも……」
笑い声と疲労の混じる空気の中で、教室の時間は少しずつ夕暮れへと溶けていった。
誰かがぼやくたびに、誰かが突っ込んで、誰かが笑って、また静けさが戻る。
だがその静けさも、どこか心地いい。
「……あと少しだね、一学期も」
澪がぽつりとつぶやいた。
その言葉に、全員が一瞬だけ顔を上げる。
明日から始まる試験。
そして、その先に待つ“夏休み”。
「――とりあえず、生きて帰ろうな」
誰の声ともなく、全員が無言でうなずいた。
───
静寂。
教室の空気が、まるで凍ったように張り詰めている。
鉛筆が紙を滑る音、ページをめくる微かな気配、誰かの小さな咳払い。
それだけが流れていく中、時計の針は無情に進んでいった。
テスト前の予鈴が鳴る。
「はい。ペンと消しゴム以外は全てしまって、カバンはロッカーの上か椅子の下においてください」
皆が一斉に動き出し、集中力を高めていく
ついに、本鈴が鳴り響き──────
「開始してください」
教師の一言で、テストが始まった。
☆☆☆
《1限目:国語》
文蔵想汰は淡々と問題を読み解いていた。
漢字、語句、文法、設問、そのすべてに目を走らせつつも、彼の脳裏には、ほんの一瞬だけ《オムニバス》がざわつく。
数年前の生徒の答案。設問の意図。誤答と正答の傾向。
(……使えば楽なのに、って思うんだろうな)
しかし今、文蔵は使わないと決めていた。
「問題を解く」という行為そのものに、初めて“面白さ”を感じていたからだ。
そこには、自分と問題との真剣勝負があった。
(……作者の気持ち? 知るかよ。って答えたいところだけど)
隣の席。
日暮夏彦は、試験開始からすでに5分ほどが経過してもなお、問題文の3行目でフリーズしていた。
(なにが“作者の心情を選びなさい”だよ……“やっと帰れてほっとした”と“寂しさが募った”って両方ありじゃん!どっちだよ!)
頭を抱えながら、彼はちらりと斜め前の澪に視線を送る。
が、当然ながら、澪はまっすぐに前を向いて集中しており、助けを求める隙など皆無だった。
(あれ?これってカンニング未遂じゃん?俺が普段バカにしてるやつじゃん?)
内心で自嘲しながら、夏彦はとりあえず選択肢Bにマークをした。
(もういい、国語は記号運ゲーって決めた)
☆☆☆
《2限目:数学》
今度は朝倉彰良が苦戦していた。
(よし、解けた……あ、符号間違えた)
最初の計算問題でつまづいたミスが、連鎖してどんどん広がる。
ページをめくるたび、別のミスに気づいて修正、また気づいて修正。
シャーペンの芯を折る音が、3回目になった頃には、彼の表情も限界を迎えていた。
(このスパイラル、早く抜け出したい……!)
横から聞こえてくる静かな筆音。
その主は文蔵。
緻密で整った数字が、ほぼノーミスで並んでいく。
(こいつほんと機械か……)
そんな視線に気づいたのか、文蔵がふと顔を上げて、彰良に目線だけで問いかける。
「大丈夫か?」
それに対して、彰良は口を動かさず、わずかに親指を立てて返した。
(大丈夫じゃないけど、見栄張っとくか)
そしてまた、彼はシャーペンを握り直す。
☆☆☆
《3限目:英語》
“音で覚える派”の夏彦にとっては、お待ちかねの得意科目。
設問を読み、英作文もスラスラ書ける。リスニングも完璧。
(よっしゃ、勝ったな)
そう心でガッツポーズをしたとき、ふと斜め後ろから聞こえてきた小さなため息に気づいた。
澪だ。
彼は英語が苦手というわけではない。
だが、この日は明らかに様子がおかしかった。
筆が進んでおらず、眉間にしわを寄せ、焦燥感が伝わってくる。
(まさか、数学の出来引きずってる?)
夏彦は、咄嗟に自分の解答用紙を彼に“見せる”ことすら一瞬よぎった。
だが、そのとき――
澪が自分で顔を上げ、深呼吸して、問題に向き直った。
(……やるじゃん)
何も言わず、ただ“勝手に心の中で応援する”。
それが、今できる精一杯だった。
☆☆☆
《最終限:日本史》
平安初期の問題が山場になるかと思いきや、出題は“江戸初期の統治体制”。
文蔵は、ほぼ予想通りの問題に内心で小さくガッツポーズを決めていた。
(……来た。これは予想通り)
彼の解答欄には、歴代将軍の政策、年号、出来事の因果が迷いなく並んでいく。
《オムニバス》なしで、今の自分の力だけで書き切る感触。
初めて味わうその高揚に、文蔵は気づかないうちに微笑んでいた。
(――”楽しい”って、こういうことか)
一方その頃、彰良は
(江戸?なんか侍いた時代でしょ?)
という雑な理解から適当に埋め始めていた。
だが、《オプションズ》を使わずとも、なぜか正答率が高いのが彼の怖いところである。
☆☆☆
最後のチャイムが鳴る。
「はい、そこまで!」
答案が回収され、試験終了を告げる声が響く。
重い空気が、静かにほどけていった。
誰もが口を開かず、ただ、席に伏せたり、天井を仰いだり。
その中で、夏彦がぽつりとつぶやいた。
「……まだ、死んでない。多分」
四人のうち、誰かがうなずいた。
終わったような、終わってないような、不思議な解放感と疲労。
それは、彼らにとって“一学期の最終試練”の、静かな終焉だった。
───
テスト終了のチャイムから、およそ二十分後。
灰色だった教室は少しずつ色を取り戻し、廊下には「やばかった」「終わった」「寝たい」の三語がこだまする。
期末試験――その長い戦いが、ようやく終わった。
「あーあ、俺の語彙力じゃ今の気持ち、語れねぇ……」
背伸びしながら、夏彦がぐったりと教室の扉にもたれかかる。
「語る以前に、お前、答案で暴れてたぞ。設問と無関係の例文、二問くらいにぶっ込んでた」
「ははっ、それでも点になれば儲けもんだろ。英語は……勝ったからヨシ!」
「勝ち負けじゃないし、そもそも国語は何だったのあれ。作文?」
澪が冷静に指摘するも、夏彦は頭をかくばかり。
文蔵はというと、自席の荷物を整えながら、ちらりと皆に視線を向けた。
筆箱のファスナーを閉じる音が、やけに静かに響く。
「で、お前はどうだったの? 何か拾って使ってた?」
彰良が、わざとらしく目を細めて尋ねた。
「《オムニバス》か? 使ってないよ。……ちょっとは考えたけど、今回はやめといた」
「へぇ。えらいねー、普通にカンニングしようとするやつよりずっとマシだわ」
そう言いながら、彰良は自分のノートを手で隠すジェスチャーをして、
夏彦に向かってウインクを投げる。
「俺じゃん!!いや、違うからね!?」と夏彦が叫ぶと、澪が呆れ混じりに笑った。
「でも……わかるよ。プレッシャーで頭真っ白になる瞬間って、あるもん」
「英語の時、だったろ?」
「えっ」
「いや、なんか様子変だったし。途中から吹っ切れてたけど」
「見てたんだ……」
「あんまジロジロ見るのも悪いけど、なんか、応援したくなるっていうか……」
照れくさそうに夏彦が視線をそらすと、澪はわずかに肩をすくめて、
「ありがと」と短く返した。
二人のやり取りを横目で見ていた文蔵と朝倉は思った。
(いい話っぽく言ってるけど、カンニングだよな…)
と。
夕方の帰り道。校門をくぐった四人は、緩やかに下り坂を歩く。
普段なら元気に喋る夏彦も、さすがに体力ゲージが底をつきかけていた。
「ところでさ、次ってなんだっけ。地獄のあとは……何地獄?」
「……個人面談、来週の水曜からだって」
文蔵の言葉に、全員が一斉に顔をしかめた。
「……あー、まじかー。先生に全部バレるやつじゃん」
「勉強態度と提出物で怒られるやつだ」
「でも逆に、褒められる人って誰?」
三人の視線が、自然と澪に集まる。
当の本人は、「僕は真面目にやってたからね!」と胸を張っているが、その頬はうっすら赤かった。
「いや、でも想汰も褒められるんじゃね? 最近ちゃんと勉強してたし」
「んー、どうだろ。評価されるためっていうより、自分が知りたいからやってたし……でも、まあ」
文蔵は言いかけて、少しだけ笑う。
「……ちょっとは、期待してもいいのかも」
ふと、雲間から陽が差す。
道端の草が金色に縁取られ、空気はほのかに夏の匂いをまといはじめていた。
「――夏休み、近いな」
誰ともなく漏れた言葉に、全員が足を止めた。
しばし無言のまま、その先を思い描くように空を仰ぐ。
「今年はさ、どっか行く?」
夏彦が尋ねると、彰良が肩越しに振り返ってにやっと笑った。
「まずは面談で怒られない計画を立ててからな」
「現実……!」
笑い声が風に溶けて、坂の向こうに消えていった。
そうして、四人の夏が、ゆっくりと始まりを告げたのだった。