放課後に、僕らは   作:やまざる

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夏休み
計画という名の未定表


 

 夏休み初日。まだ蝉の声もまばらな午前八時、文蔵想汰は、いつも通りの無音の朝を迎えていた。

 

 学校のある日は、時間に追われるように制服に袖を通し、食パン一枚と牛乳で朝食を済ませる。だが今日は違う。カーテン越しに差し込む陽光が少し眩しく、時計を見てもなお、部屋の空気が静かだ。

 

 ゆっくりと布団を出て、洗面台に立つ。鏡に映った寝癖のついた髪を見ても、とくに驚きもしない。気だるい腕を伸ばして水を流し、顔を洗う。いつもと同じ動作、けれど、今日はどこか空白のようなものがそこにあった。

 

 手帳のスケジュール欄は真っ白。こんなに何も書かれていないページは久しぶりだ。

 

 ——予定のない朝は、なにをしていいか分からなくなる。

 

 文蔵は、そう思いながらも特に表情を変えず、制服ではなく淡いグレーのTシャツに着替えた。外に出るつもりはある。誘いがあったのだ、椿原の家に、みんなで集まろうと。

 小さく伸びをしてから、玄関に置いていたショルダーバッグに筆記用具とノートを滑り込ませる。何をするか分からないから、とりあえず持っていく。いつもの習慣の延長だった。

 

「まあ、動かねば」

 

 ぽつりと呟いて、玄関の扉を静かに閉じた。

 

 一方その頃、朝倉彰良はというと、完全に寝坊していた。

 

 昨夜は深夜のバラエティ特番を観ながら、スナック菓子を片手に「夏休みだあ!」と一人でテンションを爆発させ、気づけば二時を回っていた。

 案の定、今朝は母親の声にも反応せず、ベッドの中で夢と現実をさまよっていた。

 

「……やば、集合って何時だっけ」

 

 ぐしゃぐしゃの髪をかき上げながらスマホを見ると、時刻は九時を過ぎている。集合は十時。あと四十五分。

 

「うおぉ、行けるっしょ! やればできる子、朝倉彰良!」

 

 そう叫びながら、適当にTシャツとハーフパンツを引っ張り出し、髪を水で濡らして整える。最低限の身だしなみを整えてから、鏡の前でニッと笑ってウインクし、家を飛び出した。

 背中のリュックには、何が入っているかはあまり把握していない。だが、スピーカーとカードゲームと、何かの小道具っぽいものが詰まっているらしい。完全に“遊びに行く人間”の荷物だった。

 

 同じ頃、日暮夏彦はすでに家の前の路地を歩いていた。

 

 右手には小さなトートバッグ。中には手帳、イヤホン、飲み物、日焼け止め、そして昨夜作った「夏休み計画表」が数枚折りたたんで入っている。A4用紙には、日付がきっちり書き込まれ、休日・イベント・勉強日など、色分けされた予定が並んでいた。

 

「今日の目的は“第一回夏季計画ミーティング”……よし、記録開始」

 

 スマホのボイスメモを立ち上げて、軽く空を仰ぐ。晴れ。湿度はやや高め。気温はすでに三十度近くあるだろう。

 歩きながら、ふと手帳をめくって次の予定を確認する。集合場所は公園。そこから椿原の家へ行く予定だ。正直、みんながどこまで真面目にやるかは読めないが、それでも自分は抜かりなく準備してきた。遊びも計画も、バランスが大事だ。

 

 そして、集合場所のベンチに一番乗りで座っていたのが椿原澪だった。

 

 麦わら帽子を手に、白いシャツに淡いブルーのカーディガン。リュックの中には、冷たい麦茶の入ったボトルと、手作りの小さなクッキーの包み。差し入れに、と昨夜から少しずつ準備していたのだ。

 

 今日は、誰かを迎える日。だからこそ、少しでも自分なりの“おもてなし”をしたかった。

 

 時間通りに来れるか少し心配だったが、公園の噴水の音が心を落ち着けてくれる。手元の文庫本を開き、ページをめくる。風がさらりと吹いて、紙がふわりと揺れた。

「……始まるんだな。夏休み」

 澪は小さく息を吸い、ゆっくりと空を見上げた。

 

 やがて、文蔵、夏彦、そして爆走してきた彰良が順に公園へと姿を見せる。

 

 四人が揃ったとき、まだ夏は始まったばかりだった。にもかかわらず、澪のリュックから漂う甘い香りと、夏彦の手帳にびっしり書かれた予定、文蔵の無言の頷き、彰良の意味不明なテンションが、なんとなく“この夏がどうなるか”を示しているようだった。

 

「よし、行くか。椿原んち」

 

 彰良の号令に、三人がそれぞれの歩幅で頷いた。

 

 夏休み。長いようで、きっと短い三十数日。

 

 その一日目が、ゆるやかに動き出した。

 

───

 

 椿原家のリビングには、うっすら冷房の風が流れていた。

 低めのテーブルを囲むように、四人がそれぞれ好きな位置に座っている。文蔵は胡座をかいて壁にもたれ、夏彦は正座に近い姿勢でノートを広げ、彰良は足を投げ出してクッションに寄りかかり、澪は台所から冷たい麦茶を配っていた。

 

「はい、これ。あと、これもどうぞ」

 

 差し出されたのは、澪お手製の一口クッキー。サクッとした食感にほんのりバターの香りが広がる。

 

「……やっば。うまっ。澪、これ毎週作って?」

 

 クッキーを口に入れた彰良が、目を丸くして親指を立てる。

 

「そんな毎週は無理だよ……」

 

 そう言いながらも、澪はほんの少し嬉しそうだった。

 

「さて、と」

 

 静かに文蔵が、白紙のA4用紙とボールペンを取り出す。その動作に、自然と空気が切り替わった。

 

「それじゃあ、夏の予定……立ててみますか」

 

 澪のその一言で、室内に広がっていたざっくりとした空気が、ほんの少しだけ“議題”の輪郭を帯び始めた。

 夏彦がおもむろに手元のスケジュール帳を開き、すでにいくつかの空欄に目印をつけている。

 

「夏祭りって、今年はいつだ?」

 

「えーと……」

 

 文蔵想のがスマホで調べながら答える。

 

「八月の第四土曜だな。夜店と花火、両方あるらしい」

 

「それ絶対行こ! 浴衣着て!」

 

 彰良が声を弾ませると、文蔵が小さく眉を動かした。

 

 

「朝倉が浴衣……?」

 

「俺、似合うぞ? アッシュブラウンの髪色に黒の金魚柄とか最高じゃね?なんなら夏休みの間だけ銀髪にしてもいいな」

 

「似合うかどうかじゃなくて、派手すぎて通報されないか心配なんだけど……」

 

 澪のつぶやきに、笑いが漏れる。

 

「で、他には? せっかくだし、勉強以外にもいろいろやろうぜ」

 

「いやいや、“勉強以外”って前提やめて」

 

 澪が苦笑しつつもノートを開くと、夏彦が頷く。

 

「一応、週に一回は“自習会”って入れておいた。日曜の午後とか、空いてるだろうし」

 

「うお、ガチか……ま、まあ、それなら俺も……たぶん……行ける」

 

 彰良の口から言葉が濁るたびに、夏彦の手帳にはひとつずつ“?”マークが増えていく。

 

 一方、文蔵は何も言わずに、机の上の紙に何かを書き込んでいた。誰に指示されたわけでもなく、自然に。

 

「……“夏祭り(8/〇)・夕方集合、浴衣検討”。“自習会(週1?)・候補日:日曜午後”。“予備日:自由”。……今のところ、こんな感じか」

 

 

「文蔵、地味にまとめ能力高くね?」

 

「授業のノートも無駄にキレイだしな」

 

「……普通に書いてるだけだ」

 

 少しだけ視線をそらして答えた文蔵に、三人がまた笑う。

 

 その後も、話題はどんどん広がった。

 

「肝試しやろうぜ、夜の学校とか!」

 

「ダメだって、そもそも鍵閉まってるし、怖いの嫌いだし」

 

「花火やりたい。線香花火とか、しっとりしたやつ」

 

「海は? 誰か泳げるの?」

 

「海よりプールがよくない?」

 

「BBQ! でも誰が火起こすの?」

 

「……俺は煙が苦手だ」

 

 話せば話すほど、話題は散らかり、机の上の紙もどんどん書き込みで埋まっていく。

 予定表、と呼ぶにはまだ程遠い。ただ、言葉のキャッチボールが絶えることはなかった。まるで、計画というより「話しながら夏を感じる」その行為自体が、今日の目的のようでもあった。

 

「……もう、あんまりまとまってなくない?」

 

 澪が笑いながら言うと、彰良が両手を広げた。

 

「それが夏休みってもんよ! 未定最高!」

 

「いや、“未定”って書かれた予定表ほど無意味なもんないから」

 

「でもさ」

 

 ふと夏彦が言った。

 

「こうしてるだけで、なんか楽しいよな」

 

 その言葉に、誰もが静かに頷いた。

 

 計画は、未定。けれど、今この瞬間が少しだけ夏らしくて、嬉しくなる。

 窓の外には強い陽射しと蝉の声。テーブルの上には麦茶のグラスと、お菓子の包み紙と、書き込みだらけの紙。

 

 それは、予定というより、“この夏を一緒に過ごすための約束”のようだった。

 

───

 

 陽が傾き始めた頃、椿原家のリビングには、緩やかな沈黙が漂っていた。

 テーブルの上には、書き込みだらけの計画用紙と、飲み干されたグラス。お菓子の包み紙はくるりと丸まって、まるで「おつかれさま」と言っているかのようだった。

 

「……なあ、結局、“未定”と“保留”が一番多くね?」

 

 そう言ったのは、クッションに寝転がりながら天井を見上げている彰良だった。

 

「予定というより、妄想会だったな」

 

 文蔵が淡々とまとめ用の紙をたたむ。字はきっちり揃っているのに、内容の大半は“△”と“?”で埋め尽くされていた。

 

「……でも、案外、悪くなかった」

 

 夏彦がノートを閉じながら言った。その声に、リビングの空気がふわりとほどける。

 

「うん。なんか、これから楽しみになった、っていうか」

 

 澪もそっと頷いた。

 

「たぶんね。きっちり決めることより、こうして話せたことの方が、大事なんだと思う」

 

 その言葉に、誰かが頷き、誰かが照れくさそうに笑った。

 

 時計の針は、午後五時を回っていた。

 空はまだ明るいが、風は少しだけ冷たくなり始めている。夏の一日は、いつも思ったより短い。

 

「そろそろ、帰るか」

 

 そう言ったのは文蔵だった。すっと立ち上がり、椅子を静かに戻す。

 

「あー、もうそんな時間? 早すぎね?」

 

「時間が早いんじゃなくて、お前が騒いでただけだろ」

 

「俺が騒いだおかげで場が盛り上がった、って言って!」

 

 彰良のいつもの調子に、澪が小さく吹き出す。

 

「ふふ……それは、あるかも」

 

「おっしゃあ!」

 

 片付けは自然に分担された。

 

 グラスを下げる人、クッキーのかけらを拾う人、机の下に落ちたキャップを見つけて手渡す人。誰かが指示するでもなく、自然に動いて、自然に整っていく。

 

「来週の日曜、最初の“自習会”ってことで、うちでもいいよ」

 

 澪がふいに口にすると、みんなが振り返った。

 

「順番に、ってのもいいかもな」

 

 文蔵が言うと、夏彦がすぐに反応した。

 

「それ、いい。毎週誰かの家、交代で回って、予定立てながら進捗管理もして……」

 

「それ勉強の話になってるよな?」

 

「“勉強”と“夏休み”は両立するものです」

 

「マジかよ、人生って厳しい……」

 

 彰良が肩を落とす。だが、その顔に深刻さはなかった。

 

 玄関先まで見送りに出た澪が、ふと立ち止まった。

 夕焼けの空が、街の輪郭を淡く染めている。まだ暑さは残っているけれど、今日という一日が確かに形になって過ぎていったことを感じさせる。

 

 その背中越しに、誰かが言った。

 

「――きっと、いい夏になるな」

 

 それが誰の声だったのか、はっきりとは思い出せなかった。文蔵のようにも、彰良のようにも、夏彦のようにも聞こえた。もしかしたら、自分の心の中の声だったのかもしれない。

 

 でも確かに、それはあたたかくて、まっすぐで、信じたくなるような声だった。

 

 ゆっくりと扉が閉じられ、四人はそれぞれの帰り道へと歩き出す。

 夕焼けの空の下、少しだけ増えた荷物と、ほんの少し先の予定と、ふわりとした期待を胸に抱えて。

 

 夏休み――計画という名の未定表は、今日、たしかに一歩、進んだのだった。

 

 

 

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