椿原澪の部屋には、静かな音が流れていた。カーテン越しの風がレースを揺らし、机の上で整列した文具が、わずかに光を反射する。扇風機の首振り音が一定のリズムで空間を巡り、それに混じって、どこか遠くから蝉の声が届いていた。
「……よし」
そう小さく呟いて、澪は手元のティッシュで机の端をもう一度拭いた。すでに三回は拭いている。視界にホコリはない。けれど、気になる。
部屋の床には、座布団が四枚。机の真ん中には冷たい麦茶の入ったピッチャーと、手作りのクッキーの缶。菓子類は母が出かける前に「気張りすぎないでね」と笑って渡してくれたものだ。
気張ってない。……つもりだった。
(勉強会、って言ったのは、夏彦……だったか)
あの日、澪の部屋で「夏休みのどこかで集まって、ちょっとは復習とかやろうよ」なんて軽く言い出したのは夏彦だった。正直、そのときは冗談だと思っていた。
気づけば、第一回の会場は自分の部屋。しかも昼食後に集合とのことで、正午過ぎには来ると言っていた。
ちら、と時計を見ると、十二時十三分。
(……そろそろ来る)
姿勢を正して深呼吸をする。べつに“客を迎える”ようなことじゃない。友達だ。みんな、ただの同級生。……仲良くなったのも、まだここ数ヶ月の話。だけど、そのわりに――いや、だからこそ、気が抜けない。
玄関のインターホンが鳴った。
ぴく、と肩が揺れる。あわてて立ち上がり、廊下を抜けて玄関へと向かう。インターホン越しの声は軽い。
「やっほー、椿原ー。お邪魔しまーす」
案の定、彰良だった。ドアを開けると、そこにはTシャツに七分丈パンツ、リュックを背負ってキャップを被った彰良が、スイカバーをくわえながら立っていた。
「……アイス持って来た。てか、暑くね?」
「外に比べたらマシだろ」
「確かに。さすが室内派の椿原クオリティ〜。……って、お前んち、なんか……キレイすぎん?」
「普通だ」
「いや、絶対気合い入ってるでしょこれ。ねぇ? 今日、なんかある?」
「あるから呼んだんだろ……勉強会」
「あっ、そっか」
全然覚えていないような顔で笑う彰良に、ため息をつくより先に、またインターホンが鳴った。
次に来たのは、夏彦だった。首からタオルを下げ、ハーフパンツにサンダル姿。腕にはファイルと、書き込みの多い勉強用のノートが抱えられている。
「こんにちは、澪。お邪魔します」
「ああ、どうぞ」
彰良が横から「おっ、来た来た〜」と手を振ると、夏彦は「アイスはここで食べないほうがいいと思うよ」とすかさず指摘した。
「……ちぇー。クソ真面目マンめ」
「俺はそーゆーの気にするタイプなの。てか、それ、褒めてる?」
なんて言い合いながら、二人はリビングを抜けて、澪の部屋へと入っていく。
部屋に足を踏み入れた夏彦が「……うわ、なんか、すごい整ってる」と感嘆の声をもらす。澪はちょっとだけ口元を引き結んだ。
「普通だって」
「いやいや、俺の部屋より断然清潔感あるよ。てか、扇風機が首振ってる音だけって……合宿感あるなぁ」
「むしろ合宿にしては静かすぎね? なあ、スピーカー出していい?」
「やめてくれ」
雑音が増える前に、澪が即座に却下する。彰良は肩をすくめながらリュックを床に落とし、座布団の上にあぐらをかいた。夏彦は机の端にノートを並べて準備を始めている。
そして、最後に到着したのは文蔵だった。
ノックの音に廊下へ出てみると、ドアの前に立っていたのは、相変わらず無駄のない動作でリュックを背負い、黒いシャツにジーンズ姿の文蔵。扇風機の風よりも静かな声で、短く挨拶する。
「……お邪魔する」
「うん、どうぞ」
小さくうなずいて入ってきた文蔵は、挨拶もほどほどに部屋の隅の座布団へと腰を下ろした。手には無地のノートと、シャーペン一本。それだけで、彼の“やる気”が伝わってくる。
「全員揃ったな!」
彰良が両手を叩くと、三人がそれぞれに視線を向けた。
「じゃあ、いっちょ……勉強とやらを、始めますかね〜!」
「“とやら”ってつけるな」
「やる気あんの?」「あってほしいな……」
なんとなく始まる、夏の午後。
ぎこちなくも心地よい空気が、部屋の中に流れていた。
───
「……で、まずはどこからやんの?」
彰良がストレッチでも始めるように両腕を回しながら尋ねると、夏彦が早速手帳を取り出して机に広げた。
「今日は、数学・英語・現代文。この三つをざっくりやれたらいいと思う。時間を一時間ごとに区切って、途中で休憩を挟んで……って感じかな」
「うわ、ほんとにガチのやつ……」
心底嫌そうな顔をした彰良の横で、澪が「別に、がっちりやらなくてもいいだろ」とぼそりと助け舟を出す。
「だな。問題集とか、各自でやる感じか?」
文蔵が確認するように尋ねると、夏彦がうなずいた。
「そうそう。黙々とやってもいいし、分からないとこ聞くのもアリ。効率より、まずは“集まってやる”ことが大事だから」
「まじめくんが言うと重みあるな〜」
彰良はそう言いながら、ようやくリュックからプリントと問題集を取り出した。だがその手元はふわふわと定まらず、すぐに鉛筆をくるくる回し始める。
一方、澪はすでに数学のノートを開いていた。解いていたのは、2次関数の応用問題。途中で何度か消しゴムを使いながら、落ち着いたペースで進めていく。
(勉強会って言っても……)
内心、ここまで真面目にやる空気になるとは思っていなかった。もっとこう、ダラダラと雑談が混じりながら、テレビをつけたままみたいな雰囲気になるかと。
けれど、今のところ思ったより集中できている。文蔵は黙々と英語の長文問題に取り組んでいて、鉛筆の音が、部屋の空気のなかに律動のように響いている。夏彦はタブレットと紙のノートを交互に見ながら、調べごとをしつつ単語帳を更新していた。
そして、彰良は……
「……おい、朝倉。英語のプリント、最初の三問で止まってるぞ」
「えっ、あれ? もうそんなに経った?」
文蔵に指摘され、キョトンとする彰良。見ると、彼のプリントには小さな落書きがいくつも描かれていた。ネコ、スイカ、たぶん本人のつもりらしいデフォルメ顔。
「これ、三問目じゃなくて三“枚目”行けてたらすごかったのに」
夏彦が呆れ半分、感心半分の声を上げる。
「だってさ〜、単語がさ、見たことあるけど意味わからんやつばっかなんだもん。likeとかさ」
「それは意味わかっててくれ……」
想汰が思わず口を押さえるようにして笑った。その声に気づいたのか、彰良が振り向く。
「お、珍しく笑った? 想汰〜?」
「……笑ってない」
「笑ってた! ちょっと今、ふっと緩んだもん!」
「気のせいだ」
しかし表情は、確かに少しだけ和らいでいた。笑ったというより、緊張の糸がほぐれたような、そんな柔らかさ。
その様子を見て、夏彦は手元のノートに何かメモをしながら、そっとつぶやいた。
「……こういうの、意外と悪くないかもね」
「なにが?」
「誰かと、こうやって一緒に机囲んで、同じ時間に別々のことをしてるの。静かすぎず、うるさすぎず」
「それ俺のことじゃん」
「正解。君の存在が“ノイズ”としていい具合に機能してる」
「褒めてないよねそれ!? 褒めてる!? どうなの!?」
「どっちとも言ってないよ」
そんなやりとりが背景で続いているにもかかわらず、気を取り直した文蔵の鉛筆は一度も止まらなかった。ノートに描かれた単語の隣には、矢印と小さなイラスト。語感のイメージや関連語を、自分なりに結びつけて覚えるスタイルのようだった。
澪はふと、それを盗み見るようにちらと目をやって、小さく呟く。
「……絵、上手いな。文蔵くん」
「そうか?」
「うん。分かりやすい」
「お前も、ノートきれいだな。字、整ってる」
「え、そっちは照れるからやめろ」
澪がペンでノートを隠すようにしながらぼそりと言うと、彰良が「なになに〜? 何話してんの〜?」と割り込んできた。
「今、“照れる”って言った!? 椿原が!? 人前で!?」
「お前にだけは言われたくない」
「うわ〜〜! なんかもう今日、勝った気がする!」
謎の勝利宣言をする彰良と、それに無反応を貫く文蔵。そして静かに笑う夏彦、眉をひそめつつもほんの少し顔が赤い澪。
勉強会らしきものは、それなりに順調に――少なくとも、“四人らしく”進んでいた。
(なんか、……うるさいな。でも)
澪は机の端に置いたピッチャーの麦茶を一口飲む。
(悪くない、かもしれない)
───
「……そろそろ休憩にしよっか」
夏彦のその一言で、張りつめていたような空気がふわっと緩む。時計の針は、ちょうど午後二時を指していた。
「イエーイ! 待ってましたティータイム!!」
誰よりも早く反応したのは彰良だった。ペンを放り出すようにして伸びをし、ソファに背中から倒れ込む。
「いや、ティータイムって……お前、紅茶とか飲まんだろ」
文蔵が呆れたように返すと、彰良は「語感だよ語感! 響きが良ければなんでもアリ!」と手をひらひらさせた。
一方、澪はすでに立ち上がって、部屋の隅に置かれていた小さなトレイを手にしていた。
載っていたのは、麦茶の入ったガラスのピッチャーと、グラスが四つ。そして、小さなタッパーに詰められた数種類のクッキー。丸いのや四角いの、チョコがかかったものもあって、手作りらしい素朴な焼き色がついている。
「……よければ、食べて。余ったやつ、だけど」
照れたようにぽつりと呟いて差し出すと、夏彦が真っ先に手を伸ばした。
「ありがとう、椿原。こういうの、めちゃくちゃ嬉しい」
「うん。うまっ……これ、自分で作ったの?」
「……まあ。家で余ってた材料、消費したくて」
「めっちゃ助かる〜! おれ、今日お菓子持ってくるの忘れてさ〜」
彰良はグラスを片手に、クッキーをぱくりとひとくち。目をまん丸にして、口元をほころばせた。
「うまっ! てかこれ、店で売れるレベルじゃん! このチョコのやつ、なんか中にアーモンド入ってる? 食感最高!」
「……うるさい」
「でも、ほんと美味いわ。ありがとう」
文蔵が一言だけそう告げて、グラスを口に運ぶ。淡々とした言い方だったが、ちゃんと伝わるものがあったのか、澪の耳が少し赤くなった。
「ねえ、ちょっと待って。どれがいちばん美味しいか、決めようぜ」
と、突然夏彦がクッキーのラインナップをじっと見つめて言い出した。
「えっ、食レポ対決!?」
「ちがう。公平な“評価”だよ。勉強と一緒で、分析的にいこう」
「なんでおやつ食べるのに分析せにゃならんのだ……」
文蔵が苦笑交じりにそう言いながらも、いつの間にか手元にはメモ帳とペン。
そして、始まった。「クッキー選手権」。
プレーン、チョコチップ、アーモンド入り、紅茶風味……それぞれに「甘さ」「食感」「後味」などの項目が勝手に設定され、夏彦と文蔵が5点満点で黙々と採点していく。
「チョコチップ、後味いいな。2.8点」
「アーモンドの香ばしさ、4.1だな……」
「小数点使うな、混乱する」
「整数では表現しきれないから仕方ない」
「……文蔵くん、これ勝負じゃないって言ってたのに、めっちゃ真剣じゃん」
澪が呆れ気味に指摘すると、文蔵はそっけなく「データは正確に取る」と返した。
その横で、彰良がくたっとソファに沈みながらひとりぽつり。
「……おれ、普通に全部うまいって思っちゃうタイプなんだよなぁ」
なんとも言えない声でそう呟き、クッキーをもうひとつ頬張る。
そして数秒後、はたと顔を上げる。
「そうだ! 次はおれも作ってくるわ、お菓子!」
「え?」
みんなの手が止まる。
「ほら、せっかくの夏休みだしさ〜。次の勉強会、場所変えてもいいけど、おれんちでもいいし! いやむしろ、おれがホストやるか? テーマは“爆誕! 朝倉スイーツ研究所!”ってことで!」
「彰良が作るの……?」
澪が訝しげに眉を寄せる。
「うん。超甘いゼリーとか、カラフルなラムネとか! インスタ映えってやつ!」
「それ、勉強会だよな……?」
「ちょっとした文化祭っぽくなってきたな」
夏彦が笑う。その笑い声に誘われるように、文蔵もわずかに唇の端を持ち上げた。
グラスの麦茶が少し揺れて、窓の外からは風鈴の音が微かに届く。
勉強の合間の、つかの間の休憩。けれどそこには、きちんとした夏のかたちがあった。
「……椿原」
ふと、文蔵が顔を上げて言う。
「次も、このメンツでやるか」
「……ん」
短い返事。でも、その声はどこかほんの少しだけ、うれしそうだった。
───
午後四時を少し過ぎた頃、再び部屋には静かな空気が戻っていた。
扇風機の風が、ふわりとノートの端を揺らす。外では蝉が鳴きはじめていたが、それすらもどこか遠くに感じるほど、部屋の中には集中の気配があった。
各々がそれぞれの課題に向かっていた。
文蔵は英語長文、夏彦は理科のノートまとめ、彰良は……眠気と格闘しながら数学の教科書をにらんでいる。
そして椿原澪は、プリントを綴じるファイルを丁寧に整理していた。
「……やるね、意外と」
そう呟いたのは文蔵だった。何に対しての言葉だったかは明言されなかったが、澪にはなんとなく分かった。
「ありがとう」
ぽつりと返した声は、自分でも少し驚くくらい自然だった。
自分の部屋に誰かを招くなんて、そう何度もあることではない。しかも、それがまだ知り合って数ヶ月のクラスメイトなら、なおさらだ。
でも——
(……悪くなかった、かも)
気づけば、部屋の中はほどよい“生活音”で満たされていた。筆記具の音、ページをめくる音、時折誰かが呟く小さな独り言。そんな断片が重なって、居心地のいい“勉強会”のリズムをつくっていた。
「おれさ、なんか今日めっちゃ集中できたわ」
彰良が唐突に言い出した。
「……嘘くさい」
「いやいや、ほんとほんと! 人がいると、ちょっとはちゃんとやろうってなるじゃん? しかも、澪が静かに見てると、怒られそうでサボれないし」
「……見張ってたつもりはないけど」
「だからこそ怖いんだよなあ、それが!」
彰良のどうでもいいようなテンションに、夏彦が苦笑する。
「でも実際、最初の一時間で理科一周できたし、収穫はあったな。次の試験範囲、もう分かったし」
「またやる? 次も、こうやって集まって」
その言葉に、誰よりも先に返事をしたのは文蔵だった。
「やる」
短くて、はっきりした声だった。全員の手が止まる。
「お、乗り気じゃん文蔵。やっぱ澪んちのクッキーが決め手?」
「うるさい」
それでも、ほんの少しだけ笑っていたのを澪は見逃さなかった。
「じゃあ、次回のホストは……彰良?」
「おうよ! “朝倉スイーツ研究所”、開幕すっから!」
「うわ、本気で言う気か」
澪は呆れ混じりに溜息をついたが、さっきよりもずっと柔らかい気持ちでそうしていた。
こうして、勉強会という名の集まりは、いつの間にか“続いていくもの”になっていた。
椿原澪の部屋には、誰も急いで帰ろうとする気配はない。
カバンの中身も、学習計画も、クッキーの残りさえ、まだ片付けられていなかった。
けれど——
(次も、来てもらっていいかもしれない)
澪はそう思う。心の中でそっと、誰にも聞こえないように。
「……じゃあ、五時くらいになったら切り上げる?」
「了解〜」
「次までに英語、もうちょい進めとくわ」
「おれは料理の練習しなきゃ!」
「……それは勉強じゃない」
今日も、また夏の一日が終わっていく。
けれど、次の約束があるだけで、それは少し特別なものになる。
こうして、“第一回・勉強会という名の居座り”は、静かに幕を閉じた。