放課後に、僕らは   作:やまざる

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波音と、花火と、風が吹く

 

 蝉が鳴くにはまだ少し早い朝だった。

 空は澄んで、どこまでも青く、湿った風が街路樹の葉をかすかに揺らしていた。

 改札を抜けてすぐのベンチに、文蔵想汰は座っていた。

 

 制服ではなく、淡いグレーのシャツに黒の綿パン。バッグは今日に限って、ノートも手帳も入れてこなかった。入っているのは水筒と、ハンドタオルと、念のための小さな救急セットだけ。

 

 駅のホームへと続く階段の上から、誰かの足音が聞こえてくる。

 

 振り返らなくても、誰かはわかる。声のトーンも、歩き方も、目を閉じていても聞き分けられるくらいに。

 

「おーい、想汰〜〜、おっまたせ〜〜!」

 

 やはり、朝倉彰良だった。

 

 Tシャツに薄手のチェックシャツを羽織り、ショートパンツとサンダル、肩から下げたトートバッグの中には、どう考えても“遊びに行く人間”の荷物だけが詰まっている。

 

「……おはよう」

 

「へい、グッドモーニン。うわ、想汰のその服、海っぽくね? 意識してきたでしょ」

 

「たまたま」

 

「うそだー。俺も一応、柄シャツにしてきたけど。これ、魚、見える? サバだよサバ。魚柄ってのも夏っぽいっしょ」

 

 べらべらと喋り続ける彰良の隣で、想汰は少しだけまぶしそうに目を細めた。

 

 改札の向こう、陽が差し込むガラス張りの通路に、次の二人の姿が見えた。

 

「……来たな」

 

「やあ、二人とも。早かったね」

 

 穏やかな声とともにやって来たのは、日暮夏彦。白いポロシャツに黒のハーフパンツ、サンダルの代わりにスニーカーを履いているあたり、いかにも“移動と安全重視”の性格が滲んでいた。首にはタオルがかかり、リュックからは小型スピーカーらしきものが覗いている。

 

「おはよう、想汰、彰良。……えっと、そのシャツ、魚?」

 

「サバ。夏の味方!」

 

「それ、海に落ちたら本物と間違われるやつだよ」

 

 低い声で呟いたのは、最後に姿を現した椿原澪だった。

 

 麦わら帽子を片手に、薄手の長袖シャツと涼しげなズボン。少し照れたように下を向きながらも、他の三人にちゃんと歩幅を合わせてくる。

 

「ご、ごめん、待たせた?」

 

「ぜーんぜん。むしろ夏彦がいちばん遅いと思ってた」

 

「そんなことないと思ってた」

 

 そんなやり取りを交わしながら、四人はホームへと向かっていく。

 小さな階段を下りると、すでに数人の家族連れや大学生らしきグループが列をなしていて、誰もが浮き足立ったような雰囲気を纏っていた。

 

 電車のドアが開くまでのあいだ、澪は黙って手元のスマホを眺めていた。

 

 想汰はそんな彼の横顔をちらっと見て、何も言わずにそっと一歩、距離を縮めた。

 

(─夏、か)

 

 蝉の声が遠くで鳴き始めていた。

 何かが始まりそうで、けれどまだ始まっていない、そんな静けさが、このホームの空気にはあった。

 

 手帳も、ノートも、今日は持たなかった。

 記録する代わりに、“感じてみよう”と想汰は思った。

 

 たとえば、ホームのコンクリートに落ちる陽のかたち。

 たとえば、澪の頬から灼熱のアスファルトへ落ちた、ひと筋の汗。

 たとえば、夏彦がバッグから差し出した凍らせたペットボトルの冷たさ。

 たとえば、彰良が「お菓子買いすぎたから、みんな分けてね〜」と配るコンビニ袋のシャカシャカという音。

 

 どれも、“文字”にするにはもったいないような瞬間だった。

 

 だからこそ、書き留めないことにした。

 

 ただ、胸の中に静かに置いておく。ひとつひとつ、丁寧に。

 

「そろそろ、来るね」

 

 夏彦の言葉と同時に、風が少しだけ強くなった。

 電車が遠くから迫る音が聞こえる。まるで、それがこの日を合図しているかのように。

 電車がホームに滑り込み、扉が開く。

 

 四人は、それぞれ違う表情で、その中へと足を踏み入れた。

 

 この日が特別になるかどうかなんて、まだ誰にもわからない。

 

 けれど、たった一つだけ確かなことがあった。

 

 ─この電車に乗った先に、海がある。

 

 

 きっかけは、朝倉の思いつきだった。

 

 「夏といえば海っしょ!」とノリだけで言った提案に、誰も異を唱えなかった。

 ただ、全員が頷いた。それだけのことで、今ここにいる。

 

 窓の外の景色が、少しずつ緑を増やしていく。

 高層ビルが低くなり、車窓に映る空の色が明るくなっていく。

 蝉の声は遠ざかり、代わりに、潮の匂いが少しずつ近づいてくるような気がした。

 誰も言葉を発しない車内。

 

 でも、その沈黙はどこか心地よかった。

 そして想汰は、心の中で呟く。

 

(この時間も、きっと残る。……ちゃんと、残る)

 

 書き残さなくても、誰かの声で、匂いで、空の色で、記憶はきっとそこにある。

 今日はそれでいい。いや、今日はそれがいいのだと思った。

 

 四人を乗せた電車は、緩やかにカーブを描きながら、次第に海の近くへと近づいていく。

─夏の一日が、始まろうとしていた。

 

───

 

 浜辺に着いた瞬間、世界がひとつ、色を増した気がした。

 

 灼けつく陽射し。頭上から降り注ぐような青。水平線と空の境目は曖昧で、けれど確かに遠くて。波の音は絶え間なく、潮の匂いが鼻をかすめる。砂浜には色とりどりのビーチパラソルと、浮き輪を抱えた子どもたちの歓声。

 

「うわー、まじで夏じゃん!」

 

 先頭を歩いていた朝倉が、Tシャツを脱ぎながら声を張った。水着の上に羽織っていたそれをリュックに放り込み、迷うことなく靴を脱いで波打ち際へ駆け出す。

 

「おい、先行くなって……!」

 

 夏彦も慌てたように靴を脱ぎ、ビーチサンダルを手に追いかけた。手には相変わらずスマホ。録音アプリを起動しているのだろう。耳を澄ませながら走る姿が、少し滑稽で、少し羨ましかった。

 

 澪は、みんなからほんの数歩、遅れていた。

 

 足元に目を落としながら、ゆっくりとスニーカーを脱ぎ、脱いだ靴を手提げ袋に収める。その間にも、足の裏に砂の熱がじわじわと伝わってくる。じりじりと焼けた粒が、くすぐったくて、痛くて、それでもなんだか懐かしかった。

 

「……椿原。行かないのか?」

 

 背後から、文蔵の声がした。振り向くと、彼は帽子を深くかぶり、サンダルを履いたまま立っていた。手に下げたトートバッグは、小さな音を立てながら揺れていた。

 

「行くよ。……ただ、ちょっとだけ、目がくらんだだけ」

 

「陽射しか?」

 

「うん。……それも、あるけど」

 

 それだけ言って、澪は視線を海へ戻す。

 

 眩しかった。

 

 彰良のように笑って駆けていく姿も、夏彦が夢中になって波を撮っている様子も、どこか自分とは遠い世界のもののように見えた。もちろん、置いていかれたわけじゃない。誘われた。断らなかった。ここに来たいと思ったのも、確かに自分だ。

 

 けれど、いざ目の前に広がるこの景色に立たされると、「すぐに混ざれる」と思えない自分がいた。

 

「……足、熱くない?」

 

「熱い」

 

 文蔵が即答する。無表情だったが、目の奥に少しだけ、笑っているような気配があった。

 

「でも、これが“夏の足音”ってやつらしい。どこかの歌詞で読んだ」

 

「誰の歌?」

 

「覚えてない」

 

「……それ、記録者のセリフじゃないな」

 

 ふいに笑ってしまった。思わず口を押さえたが、文蔵は気にした様子もなく「そうかもな」とだけ言った。

 

 波打ち際では、朝倉が腰まで水に浸かっている。夏彦は岩場近くで何かを拾っているようだ。貝殻か、小さなクラゲか、もしくはただの水の音を追っているのかもしれない。

 

「……行こうか」

 

 澪は、ようやく砂に足を踏み出した。指の隙間からこぼれる粒が、まだ新鮮だった。潮風が髪を揺らし、耳の裏が熱くなる。

 

「ひとりで歩くより、ましだから」

 

「うん」

 

 並んで歩くと、文蔵の歩幅の方が少しだけ大きい。でも、それに合わせようとは思わなかった。自分のペースで、ただ横に並んでいる。それで十分だと思えた。

 

 気づけば、波の音が大きくなっていた。水際の近くに立つ朝倉が、こちらを振り返って手を振る。

 

「おーい、遅いぞー!」

 

「はいはい、今行く」

 

 夏彦が返事をしながら、こちらへ手を振った。その顔は、なんでもない日常の延長のようで、でも確かに特別な一日を過ごしているような、そんな表情だった。

 

 澪は深呼吸をした。

 

 潮の匂い。光の反射。遠くで笑い声。足元には冷たい波が一瞬触れて、すぐに引いていく。

 

 自分は、たぶん“ついていく側”だ。いつだって誰かのあとを見て、距離を測って、空気を読んでいた。そういう風にしか生きられないと、思っていた。

 

 けれど、今日だけは。

 

 そのまま、ここにいてもいい気がした。

 

 そして、そんな自分を見てくれる誰かがいるということが、ちょっとだけ嬉しかった。

 

「行こう、椿原」

 

 文蔵の声に、うなずいて歩き出す。

 

 夏の砂が、指の間で跳ねた。

 

───

 

 昼下がりの陽射しは、容赦がなかった。けれど、風があった。それが救いだった。海から吹いてくる風が、砂の熱を少しだけ遠ざけてくれる。

 日暮夏彦は、波打ち際から数メートル離れた位置に腰を下ろし、背中のリュックからタオルと水筒を取り出した。ぬるくなった麦茶をひと口。砂の匂いと混じって、どこか懐かしい味がする。

 

 それにしても、想像よりずっと賑やかだった。夏の浜辺というものは、もっとこう、ドラマに出てくるような寂しさがあるかと思っていたけれど、実際には笑い声と子どもたちの歓声が混ざり、遠くで誰かのBluetoothスピーカーから流れる音楽が、波音と重なっていた。

 

 近くで、彰良がビーチボールを片手に叫ぶ。

 

「文蔵ー! 取れーっ!」

 

「……無理だ」

 

 乾いた声が返り、ボールは砂の上をバウンドして夏彦の足元まで転がってきた。拾い上げて軽く投げ返すと、文蔵はそのまま片手で受け取り、ぽす、と彰良の頭に軽くぶつけた。

 

「おい! そういうとこだぞ! 友情ポイントが減った!」

 

「減るなら最初から低かったんだろ」

 

「うわあ、辛辣!」

 

 そんなやりとりを背に、夏彦はスマホのアプリを立ち上げる。波のリズムを微かに捉えて、録音ボタンを押した。マイクは風に弱い。だからこそ、こういう風の混じる音は、きちんと“今の音”として録っておきたくなる。

 

 しばらく聞き耳を立てていると、ふいに視界の端で何かが揺れた。澪だった。ゆっくりと、砂の上を歩いてくる。つま先だけで波打ち際に立ち、すっと目を細める。

 

「……水、冷たくない?」

 

「ちょっと冷たい。けど、慣れれば気持ちいいよ」

 

 夏彦がそう答えると、澪は小さくうなずいて、再び少し距離を取って座った。お互い無言だったが、不思議とその沈黙は居心地が悪くなかった。

 

「なんか、今日さ。みんな、いつもより子どもっぽくない?」

 

 ふと澪が言った。

 

「そうかも。夏ってそういう季節じゃない?」

 

「……うん、まあ。騒ぐには、ちょうどいい」

 

 そこへ、再び砂の上で叫ぶ声が届く。

 

「なあ夏彦! お前の力、ちょっと使ってくんない? 波、もっとこっちに寄せられない?」

 

「えっ、またそうやって“便利屋”扱い……まあ、いいけど」

 

 夏彦はスマホをしまい、立ち上がって波打ち際へと近づいた。足元をさらう波のリズムを感じ取り、目を閉じる。音の層。低い打音と、高いさざめき。その狭間に自分の力を差し込む。

 

 《リプレイ》を、ほんの少しだけ使う。

 

 彼が“記録した音”を、周囲に流し込むようにして再生する。それだけで、波はわずかにリズムを狂わせ、少しだけ高く、少しだけ速くなる。自然の音に、ひそやかに紛れ込む“微細な揺らぎ”。誰も気づかないが、確かに“人為”が介入した証だった。

 

 そして、それに気づいたのか、今度は彰良が石を拾い上げて叫んだ。

 

「よっし、俺の出番だな! 選べ……選べ……この中で、いちばん“跳ねそう”な石は……これだ!」

 

 手の中で“選択肢”が展開されているのが分かる。彼の《オプションズ》が“最も良い結果”を導き出す。選ばれた石は、彼の手から軽やかに投げられ、波の上を数回、跳ねて、消えた。

 

「……よっしゃあああ! 見たか、これがスーパースキップ!」

 

「…海でやるもんじゃなくない?」

 

「一回多く跳ねただけだろ」

 

「その“一回”が、勝敗を分けるんだよ!」

 

 文蔵が少しだけ眉を上げて、何か言いかけたが、結局言葉にはしなかった。そのかわり、彼は自分のリュックからスケッチブックを取り出し、何かを描き始めていた。

 

 夏彦は再び砂の上に座りながら、静かに考える。

 力を使うこと。遊びに混ぜること。日常に溶け込ませること。

 それがいつの間にか自然になっていた。

 

 かつて《リプレイ》は、自分にとって“記録のための呪い”だった。忘れられないこと、逃れられない過去。けれど今は、こうして“誰かと共有する音”になりつつある。

 

 自分が録った音が、誰かの笑い声と混ざること。それはきっと、ただ記録するだけでは得られなかった感覚だ。

 

「夏彦」

 

 澪の声がする。振り向くと、小さな貝殻を手にしている。

 

「これ、きれいだったから。……一応、拾った。いる?」

 

「へえ。いいね、それ。録音より軽いし」

 

「……変な褒め方」

 

「うん。でも、ありがとう」

 

 夏彦は手を伸ばし、貝殻を受け取る。掌の中に残る、ほんの少しの海の重さ。確かにそこにあった“光景”が、静かに手渡される。

 

 波は、また繰り返すように寄せては返し、四人の時間を、少しずつ溶かしていった。

 

───

 

 午後三時を過ぎた頃、海辺に強く照っていた陽射しが、少しだけ角度を変え始めていた。

 

 風が出てきた。太陽の熱をいったん受け止めて、砂の上を撫でながら通り過ぎていく。午前中の喧騒が嘘のように、浜辺の音はどこか柔らかく、遠のいていた。

 

 四人は、堤防の陰に座っていた。海水浴場から少しだけ離れた場所。観光客の姿もまばらで、波音と風の音、そして時折聞こえるトンビの声が、静かな午後のBGMになっていた。

 

 木陰のようなひんやりとした空間に、潮の香りと、少し湿った空気が混じる。

 

「……スイカ、食べる?」

 

 袋から取り出した保冷ケースの中に、赤く冷えたスイカが入っていた。澪が手際よく切って、ひとつずつ差し出す。

 黙って頷いた文蔵が、プラスチックのフォークでひとかけらを口に運ぶ。冷たさと甘さ、わずかな塩気。舌の上で弾けたあと、スイカ特有の水っぽさが喉を滑り落ちていった。

 

「うんま……」

 

 となりで彰良が満足げに声を漏らす。口の端に赤い汁をつけたまま、満面の笑みで空を仰ぐ。

 

「これだよこれ〜。夏って感じ、満点!」

 

「夏を点数で測るなよ」

 

 夏彦が呆れたように返しながらも、スイカを頬張る手は止めなかった。彼はリュックから小さな録音機を取り出し、そっとスイッチを入れる。

 

「……波、さっきより穏やかになってるな」

 

 文蔵がふいに呟く。

 

 誰も明確な返答はしない。ただ、同意するように風の音が耳に届いた。

 四人は、並んで座っていた。特別に話すこともなく、特別に何かが起きるわけでもなく、それぞれが、ただそこにいた。

 

 昼の間は遊びのテンションで包まれていた空気が、少しだけ落ち着いている。

 

 文蔵は、リュックに入れてきたノートを一度だけ見た。

 けれど、手に取ることはなかった。

 

 代わりに、目を閉じる。風が髪を撫でていく。波音が胸に届く。耳の奥で、記憶が静かに呼吸をはじめる。

 

 ─「記録しなくていいの?」

 

 ふと、誰かの声が蘇る。いや、それは今の誰かではない。たぶん、あの夏。炎に焼かれるようにして消えた、誰かの記憶。

 

 焦げたページ。名前のかすれたノート。触れようとしても、その輪郭はもう曖昧で、音すら思い出せない。

 

 けれど。

 

(それでも、こういうのは——)

 

 記録できなくても、記憶には残る。

 書きとめなくても、ちゃんと“生きている”。

 そう思えた瞬間、胸の奥にふわりと小さな灯がともった気がした。

 

「……ねぇ」

 

 不意に、澪が小さく声を漏らす。

 

「うん?」

 

「……なんか、こういうの、いいなって」

 

 その言葉に、他の三人は振り向きもしなかった。けれど、その背中が、たしかに微かに緩んだように見えた。

 

 何も言わずに澪の隣に座っていた文蔵は、ただ頷いた。

 

 目の前に広がるのは、濃くなりつつある青のグラデーション。まだ沈みきらない陽射しが、波間をきらきらと照らしている。

 

「次は、何しようか」

 

 夏彦の声に、誰かが「寝る」と答え、誰かが「夕飯」と呟いた。

 

 そのどれもが、正解で、不正解で、でも心地よかった。

 

 風が吹いた。まるで“もう少しだけ、この時間を続けてもいいよ”と言っているようだった。

 

 そして四人は、その提案に頷くように、また黙って波を見ていた。

 記録されない、何も起きない、けれど確かに“そこにある”夏の時間。

 

 誰かの異能力でも再生できないような、けれど、心の深いところにそっと沈んでいくような、午後の記憶。

 

 波音と、風と、スイカの甘さと。

 

 そのすべてが、ほんの少しずつ、夏のページを埋めていった。

 

───

 

 夜の海は、昼のそれとはまるで別物だった。

 

 海の色は青くない。真っ黒でもない。ただ、底のない深さをそのまま映したような闇が、波の輪郭を僅かに揺らしていた。昼間に賑わっていた浜辺は、すっかり静かになり、時折すれ違うカップルの影と、遠くの提灯の明かりが、かろうじて「人の場所」だと告げてくれる。

 

「……ここでいいか」

 

 夏彦が波打ち際から少し離れた砂地に足を止めた。風が涼しく、頬を撫でて通り過ぎる。

 

 四人は、砂浜に腰を下ろした。昼間と違い、熱はすっかり引いていて、地面の冷たさがじんわりと伝わる。

 

 文蔵が、買ってきた手持ち花火の袋をそっと開けた。

 

「種類、めっちゃあるな」

 

「どれからやる? 線香花火は最後が良くない?」

 

「わかってる〜。〆にしよう、〆に」

 

 彰良がにんまりと笑う。彼の手には、すでに“きらきらスパーク”と書かれた派手なパッケージの花火が握られていた。

 

「じゃあ、火ぃつけるか」

 

 夏彦が着火マンを取り出して、順に火を灯していく。火花がぱっと弾ける。オレンジと白、黄色、ピンク。音はないのに、光だけが強く主張する。

 

「うお、これめっちゃ飛ぶ!」

 

 彰良が一歩退きながら笑った。彼の手にあった花火が、派手にスパークしながら火花を空中へと巻き上げていく。

 

 「ほんとにそれ選んだか」と夏彦が苦笑し、澪はやや遠巻きに見守っている。文蔵は無言で別の花火を手に取り、静かに火を移していた。

 

 火花の光が、それぞれの顔を照らす。

 

 誰かが笑っている。誰かがまぶしそうに目を細めている。誰かが、ただ黙って、炎の揺らぎを見つめている。

 そのどれもが、夜の帳の中でほんの一瞬だけ、くっきりと浮かび上がる。

 

 火が、だんだんと短くなっていく。

 

 燃え尽きた棒が、地面に落ちると、少しだけ砂を巻き上げた。

 

 そして、次に誰かが取り出したのは──

 

「……線香花火、いこうぜ」

 

 彰良だった。普段なら真っ先に派手なものを選ぶ彼が、ふと静かにそう言った。

 

「線香花火?」

 

「うん。……ちょっとさ、試してみたいんだよ」

 

 どんな“試し”かは、誰も訊かなかった。ただ、全員が同じように頷いた。

 

 火が灯される。

 

 最初は静かに、ぽっと。赤く小さな火の玉が生まれて、やがて、細かい火花が、しゅっしゅっと音を立てて落ちていく。

 

「……綺麗、だな」

 

 ぽつりと漏れた彰良の声に、誰も茶化さなかった。

 

 線香花火は、派手さではない。

 

 けれど、光の粒がこぼれ落ちていく様子は、どこか胸を掴まれるような、そんな静けさを纏っていた。

 

 風が吹くたび、火が揺れる。少しでも乱れると、火はすぐに落ちてしまう。

 

 短い命。それを手の中で支え続けるために、四人は自然と呼吸を整え、言葉を止め、ただその火に集中していた。

 

 ──ふっと、ひとつの線香花火が落ちた。

 

 澪の手の中の火が、ぱちん、と音を立てて砂に消える。

 

「……あ、落ちちゃった」

 

「残念」

 

「でも、たぶん持ってた時間は、一番長かったよ」

 

 夏彦がそっと言う。その声に、澪がほんのわずかに、目を細めた。

 

 火は次々と終わりを迎える。けれど、終わったあとの静けさが、不思議と寂しくなかった。

 

 むしろ、その余韻のほうが、大事なもののように思えた。

 

 彰良は、最後の一本を見つめていた。

 

 火を灯した指先が、ほんのわずかに震えている。

 

「……終わっちゃうな」

 

 その呟きは、花火の音にかき消されそうなほど小さかった。

 

 けれど誰も、それを聞き逃してはいなかった。

 

 「今」という時間は、永遠には続かない。

 

 わかっているからこそ、大切にできる。

 

 「また来よう」と言いたい気持ちと、「今」を見つめたい気持ちが交差する。

 

 最後の火が、しゅっ……と音を立てて、静かに消えた。

 

 夜風が、ふわりと四人の間を通り過ぎた。

 

 誰も言葉にしなかったけれど、全員が、今この瞬間が確かに心に残ったことを、理解していた。

 

 夏の夜は、終わりに向かっている。

 

 でも、それが悪いことではないと、彼らはこの時、初めて思えたのかもしれない。

 

───

 

 終電に近い時間のホームは、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。

 

 駅のベンチに腰を下ろすと、身体の奥から疲労がじんわりと立ち上ってくる。太陽の熱をたっぷりと浴びた肌の火照り、潮風にさらされた髪、靴の中に残った砂。そんな些細な感覚さえ、どこか懐かしいような名残として胸に残っていた。

 

 四人は並んで、電車を待っていた。

 

 海で遊びつかれたあとに、近くの定食屋で食べた夕食。名物の刺身定食や、揚げたてのアジフライ。どうでもいい話をしながら口に運び、誰かが味噌汁をこぼして、誰かが笑った。そんな出来事がついさっきだったはずなのに、今はもう遠い昔のようにも感じられる。

 

 文蔵想汰は、手元のリュックに入れたままのノートをそっと撫でた。

 

 結局、今日は一度も開かなかった。

 

 いつもなら、何かを感じれば手を伸ばし、言葉にしようとする。でも今日は、そうしなかった。いや、できなかったというより、「そうする必要がなかった」のかもしれない。

 

 記録しなくても、今日の出来事はちゃんと残っている。焼けた肌にも、心のどこかにも。

 

 「あのさ」

 

 隣にいた彰良が、ぽつりとつぶやいた。

 

 「楽しかったな、今日」

 

 誰に向けた言葉でもなく、ただ零れた声。

 

 けれど、それを聞いた三人のうちの誰もが、静かにうなずいた。

 

 「……また、来ようか」

 

 今度は夏彦の声だった。ホームの柱にもたれかかりながら、録音機を手のひらの上で弄ぶように回している。

 

 「いいね、それ。次はもっと準備して……浮き輪とかさ。クーラーボックスも持ってさ」

 

 彰良が手ぶりを交えながら調子よく乗ると、澪が苦笑交じりに応じた。

 

 「それ、結局また僕の家に集合ってパターンじゃないだろうね……?」

 

 「わかってるわかってる。次はおれんち集合な!」

 

 そう宣言して、ひとしきり笑ったあと、ふと彰良は少しだけ真顔に戻った。

 

 「……でも、たぶん、ちゃんと覚えてると思う。今日のこと」

 

 風が吹く。

 

 ホームの隅、点々と残る濡れた足跡が、乾いた床にやがて吸い込まれていく。

 

 文蔵は、夜空を見上げた。

 

 そこに星はなかった。けれど、昼間に眺めたあの青空の延長線に、今この静かな闇が続いている気がした。

 

 (“また来よう”)

 

 その言葉は、約束でありながら、たぶん本当は、約束すら必要ないものだった。

 

 きっとまた会える。たとえ何も決めなくても、どこかでこの風の続きを見つけられるような気がする。

 

 「……お疲れ」

 

 電車が到着し、開いたドアから冷たい空気が流れ出す。

 

 四人は、順に車内へと乗り込んだ。

 

 文蔵は一番最後に乗り、扉の前で振り返る。

 

 潮の匂い、焦げた砂の感触、火花の光、風の音

 

 そのすべてが、今も身体のどこかに染みついている気がした。

 

 “記録すること”と“記憶すること”は、似ているようで違う。

 

 けれど、今日だけは。

 

 ノートに書かなくても、きっとこの夏の一日だけは──

 

 ちゃんと、生きて残っている。

 

 電車が走り出す。

 

 窓に映る四人の姿が、ひとつ、ふたつ、光の中に揺れていた。

 

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