朝倉彰良の家には、生活音が満ちていた。
ドアを入ってすぐの玄関には、バスケットボールと片方だけのスニーカーが転がり、リビングに入ると、ソファの上には漫画とクッションとTシャツが同居している。床にはスピーカーのコードが微妙に絡まり、テーブルの上には開けかけのスナック菓子と……カラフルすぎるゼリーが並んでいた。
「まー、こんなもんでしょ!男の家って!」
開き直ったような声とともに、彰良はエプロンの紐を結んだまま、冷蔵庫の扉を勢いよく閉める。
「うん、完璧。準備よし! さあ来いゲストたち!」
張り切った声が空間に響く。
ホスト役という肩書きが、やたらと似合っていた。
一番乗りは、夏彦だった。
ぴんぽーんとインターホンが鳴るより少し前、スマホで「そろそろ着くよ」と連絡が入り、玄関を開けると彼はすでに日陰に立っていた。リュックの肩紐を緩めて、タオルで首元を拭っている。
「……暑い。予想以上に暑い」
「よっ! いらっしゃいませ、クールボーイ日暮!」
「やめて、その呼び方」
「ま、そう言わず。ほら冷たいのあるぞ〜。今日の主役! 「スイーツ研究所」名物、カラフルゼリー!」
「……何味?」
「それは食べてからのお楽しみ〜!」
リビングへと招き入れられた夏彦は、ちらと部屋の様子を見渡す。散らかっている、というよりは“生活がそのまま存在している”ような空間。あまり作り込まれていない感じが、逆に落ち着く。
「うん。らしい、って感じ」
「それ褒めてる?」
「八割くらい」
夏彦はリュックからスケジュール帳とプリント類を取り出し、低いテーブルの端にまとめて置いた。ちゃんと“勉強会”の名目は忘れていないらしい。
次に到着したのは椿原澪だった。
「あ……どうも。お邪魔します」
「おう、澪! ようこそ朝倉彰良の城へ!」
「……うるさ」
彼は前回よりも少しだけラフな服装で、手にはコンビニの袋。中には麦茶と、個包装のビスケットが入っていた。どうやら差し入れらしい。
「ありがとう! やさしさポイント高い!」
「別に……いつも飲んでるやつ、買っただけ」
それでも玄関に立つ彼の足元が少し落ち着きなさげだったのは、“他人の家”という空間への戸惑いか、それとも前回とのギャップゆえか。
リビングに通されて、一歩足を踏み入れた瞬間——目に飛び込んできたカラフルなスイーツ群に、彼の目が一瞬だけ止まる。
「……なにこれ」
「ふふふ、朝倉特製! 見た目が9割、味は……1割くらい!」
「なんの割合なんだよ」
そう言いながらも、椿原は自分の座る位置を探して、静かに腰を下ろした。端っこの、壁に近いポジション。でも、彼の動きにはどこか“慣れ”のようなものが混じっていた。
最後に来たのは、文蔵想汰だった。
玄関のチャイムが鳴り、誰もが「あ、想汰かな」と察する。ドアを開けると、黒いTシャツと薄いデニム、リュックを背負った想汰が無言で立っていた。手にはペンケースとノートが入ったクラッチバッグ。
「……お邪魔する」
「いらっしゃーい。スイーツあるよ、想汰のぶんも!」
「……食べる」
まったく戸惑いのない足取りで、想汰は真っ直ぐテーブルのそばに座り、黙ってゼリーをひとつ手に取る。スプーンですくって、口に入れる。
「……」
「どう?」
「……味は、ない」
「だろ! でも色はいいだろ!」
「……うん。きれい」
それを聞いた彰良が、なぜか「感性バトルに勝った!」とガッツポーズをする。が、誰もツッコまない。
こうして、全員が揃った。
床に置かれた座布団、テーブルの上のスイーツ群、勉強道具と、どこか懐かしいテレビの音。いつも通りのようで、でも少しだけ違う雰囲気に包まれた“勉強会”。
「じゃ、第二回……開幕ってことで!」
彰良の宣言に、誰かが拍手をしたわけでも、口に出して同意したわけでもない。
ただ、少しだけ空気がやわらかくなった。
そして、夏の午後がまた始まる。
───
「え〜っと、まずは……どこからやる?」
誰ともなく、夏彦がテーブルの端に置いていたスケジュール帳を開く。その手つきは前回と同じく落ち着いていて、進行役としての立ち位置も自然なものになっていた。
だが、周囲の雰囲気は──どうにも“ふわふわ”していた。
「その前にさ!」
と、勢いよく手を挙げたのは当然ホストである朝倉彰良だった。彼は立ち上がると、リビングの奥に置かれたミニホワイトボードをくるりと裏返す。
そこに描かれていたのは──
「『スイーツ研究所・目標達成グラフ』……?」
「そう! 本日のお菓子は“色別に糖度が異なる説”をもとに開発されており、このグラフはその検証と実食評価を……」
「……待って。今、普通に“開発”って言った?」
「したよ?」
夏彦の冷静なツッコミにも、彰良は全力で胸を張る。その隣で椿原は、ホワイトボードに描かれた「お菓子別糖度比較表」に目をやり、思わず小さく息を吐いた。
「なにこの……縦軸の“幸せ度(自己申告)”って」
「味覚って主観だから! 大事なのは気持ちだよ気持ち!」
「……お前がそれ言うと、逆に説得力ない」
テーブルの上には、確かにそれぞれ色の違うゼリーが並んでいた。赤、青、緑、黄色。透明なグラスカップに分けられているが、どれも似たようなぷるぷるの塊で、スプーンですくうとやけに弾力がある。
「ちなみに、黄色がいちばん“自信作”!」
「味は?」
「……黄色いって感じ」
「もうちょっと言語化してほしい……」
そんなふざけた空気の中で、唯一、ノートをすでに開いていたのは文蔵だった。
英語の問題集に目を落とし、鉛筆の先で単語をなぞる。ふと視線を上げて、ちらりと彰良の前に置かれたプリントに目をやると、そこには──
「朝倉。……ここ、間違ってる」
「え?」
「この単語、品詞違い。文脈に合ってない」
「あ、マジ? てか、想汰って英語できるんだっけ」
「できるとかじゃなくて……ただ、合ってない」
「……くっ、地味に刺さるなそれ……!」
彰良は苦笑しつつ、文蔵の指摘どおりにプリントを修正する。その動きはどこか“兄弟感”のような親密さと、ぎこちなさの混ざった距離感だった。
「まあでも、勉強会ってさ。ガチすぎても疲れるじゃん?」
「“甘くてもいい”ってこと?」
「そう! 勉強も甘くていいじゃん! 人生に糖分を!」
「じゃあこれはどうするの」
と、夏彦がスッとホワイトボードのグラフを指差す。縦軸と横軸がぐにゃぐにゃしていて、そもそもどう評価すればいいのか分からない。
「全体的に“幸福感”が高すぎて、参考にならない。これ、グラフとしての意味が……」
「なるほどね、つまり“現実味がない”と。よし、じゃあ描き直そう」
「え、やってくれるの!?」
「歪んだ視覚情報がストレスになるから」
そう言いながら、夏彦は別の紙に手早く新しいグラフを書き始める。色別の味覚評価、個人の主観による差異、ゼリーの温度管理による口当たり……なぜか妙に科学的。
「夏彦…お前、ほんとに勉強会の進行役なのか……?」
椿原がぼそりと呟くと、夏彦は笑いもせず「なんとなく、気になってしまって」とだけ返した。
その間、澪はノートを開きながらも、どこか“空気の温度”を測るように皆の様子を見ていた。
この部屋は、自分の家とは違う。
整ってはいない。でも、“気を抜いても怒られない”空気がある。
前回は、自分が受け入れる側だった。今回は、受け入れられる側。
その違いが、なんとなく嬉しくて──けれど、少しだけ落ち着かない。
「……ねえ。澪」
ふと、彰良が声をかけてくる。
「今度さ、お前もなんか持ってこいよ。“澪スイーツ”って感じのやつ!」
「……無理」
「即答〜! いや、でも前回のクッキー、マジでよかったって!」
「だから、そういうの……期待されると……」
「でも、また食べたい」
そう呟いたのは、文蔵だった。スプーンを口元に運びながら、ごく自然に。
「別に、今日のが悪いわけじゃない」
「おっ、それって……もしかして比較対象に?」
「言ってない」
「でも言ったよな今、ちょっと……」
「……黙れ」
静かに、けれどどこかあたたかいやりとりに、椿原の表情がかすかに和らぐ。
そして、彼は気づく。
(……ああ、たぶん)
自分はもう、「ここ」にいても、浮いていない。
少しずつ、そう思えるようになっていた。
リビングには、スイーツの甘さと、涼しい扇風機の風が混じっていた。
ふざけたグラフ、真面目なノート、ゆるく続く会話。
“勉強のような、勉強じゃないような”時間が、やがて小さな安心感として、場の空気をつくっていく。
───
「……じゃ、そろそろ休憩にしよっか」
時計の針が午後三時を回ったあたりで、夏彦が言った。暑さがピークを過ぎ、空気が少しだけ和らぎ始める頃。扇風機の風が、机の上に散らばったプリントの角をふわりと揺らす。
「待ってました〜!」
とばかりに、彰良が勢いよく立ち上がり、冷蔵庫の方へ向かう。その背中を見送りながら、椿原はひとつ小さく息を吐いた。勉強道具はあまり進んでいない。でも、居心地は悪くなかった。
ガラガラッと冷蔵庫の扉が開く音のあと、彰良が何やら得意げに両手でトレイを持って戻ってくる。トレイの上には、カラフルなゼリーが四つ、並んでいた。
「お待たせ! こちら本日限定、朝倉スイーツ研究所・特製虹色ゼリーでございます!」
「……やっぱり虹色って言ったな」
「うむ! あらゆる色素とフルーツシロップを駆使して作った、俺の全力の賜物!」
「見た目は、確かにすごい」
夏彦が少し眉を上げながらグラスを持ち上げる。透明なカップの中に、層になったゼリーが七色に輝いている。赤、橙、黄、緑、水色、青、紫。スプーンですくうと、ぷるぷると揺れて、それぞれ微妙に硬さも違う。
「……味は?」
「うん、まぁ……うん」
「……“うん”?」
夏彦が慎重にひとくち食べて、しばし黙りこむ。その間に澪と文蔵もそれぞれのゼリーを口に運ぶ。……直後。
「……なんか、見た目の割に、味……うすくないか?」
「色に対して、味の主張が迷子って感じ……」
「俺、途中で水入れすぎたかも……いや、薄めた方が“夏っぽい”って思ったんだけど……」
彰良は苦笑しつつ後頭部をかいていたが、文蔵だけは無言でもくもくとゼリーを食べていた。
「……あれ? 想汰、それ気に入ってる?」
「悪くない」
「えっ、マジ? 今、人生でいちばん嬉しいかも!」
「甘さ控えめの方が……集中は、しやすい」
「あ、そういう観点なんだ……!」
スプーンの音が響くなか、ふと夏彦がつぶやく。
「そういえばさ……もう、夏休みも二週目なんだよね」
その言葉に、全員がわずかに手を止める。
「なんか、時間経つの早くない?」
「はやい……」
「おれ、ついこの前まで“夏入ったぜイエーイ!”とか言ってた気がするのに……」
「言ってたな、駅で。お菓子抱えて」
「その記憶、詳細に残ってるのやめてくんない?」
彰良が照れたように笑って、ゼリーをひとくち。
「……でも、あれからちゃんと海も行ったし、勉強会も二回目だし、意外と“ちゃんと夏してる”感じあるよね」
「うん。なんか、密度ある感じする」
夏彦がうなずくと、誰からともなく「そうだね」という空気が広がる。
「じゃあさ、“まだやってないこと”ってある?」
そう尋ねたのは、椿原だった。
「せっかく夏休みなのに、まだやれてないこと」
「え〜〜なんだろう。お化け屋敷?」
「文化祭の?」
「いや、リアルに夜の学校とか行ってみたい……肝試し的な?」
「こら。夜の学校はダメでしょ」
夏彦が即座に却下する。すると彰良は「そうか〜じゃあバーベキューか? いや、スイーツバーベキュー! マシュマロ焼こうぜマシュマロ!」と騒ぎ出す。
「椿原は? やってみたいこと、ある?」
そう夏彦に問われ、澪は少しだけ考えてからぽつりと。
「……花火。線香花火じゃなくて、でかいやつ。打ち上げとか」
「おおっ、派手だね! やっぱさ、夏っていったらそれだよな〜!」
「想汰は?」
しばし沈黙があってから、文蔵が答える。
「……キャンプ。したことないから」
「キャンプ!」
「それは、準備が大変そうだね……」
「でも……いいかも」
椿原が意外そうに頷いた。焚き火、テント、夜空と虫の声──どこか、彼のイメージには合うような気もする。
「おれ、キャンプでスイーツ作りたい! スモアとか!」
「それ、絶対焦がすだろ」
「信頼ゼロかよ!」
笑い声が混じり合い、ゼリーの甘さがほんのり舌に残る。窓の外では、セミの声が少し遠くに感じられるようになっていた。
ふざけた話題でも、真面目な話題でも。
“素直に言葉を交わせる”時間は、それだけで充分価値がある。
誰かが場を整えなくても、何かを言わなくても、こうして自然に輪ができていく。
──勉強会という名の、夏の寄り道は、まだもう少し続いていく。
───
日が傾き、窓の外にオレンジ色の光が差し込んでいた。午後五時を過ぎたころ、外から聞こえていたセミの声も、いつの間にか静かになっている。
朝倉彰良の部屋には、使いかけのノート、空になった麦茶のグラス、そして中途半端に減った“虹色ゼリー”が散らばっていた。さっきまで賑やかに響いていた笑い声も、今は落ち着いた沈黙に変わりつつある。
「……勉強、結局、どれくらいしたっけ」
椿原がぽつりと呟いた声が、夕暮れにやわらかく溶けていく。
「えっと……数学のプリント半分、英単語小テストもどき二枚……あと、スイーツ評価会?」
「評価会は勉強じゃないな」
「えー!? おれ的には“実験と検証”って感じだったんだけどな!」
彰良はソファの背もたれにのしかかりながら、両手を広げて“充実”をアピールする。けれど、誰もその主張に異論は唱えなかった。なんとなく、今日もちゃんと“いい時間”だった気がした。
夏彦がプリントをファイルに戻しながら呟く。
「でも、思ったよりちゃんと続いてるよね。勉強会って」
「ああ。なんか……定例化してきたな」
澪の言葉に、文蔵が軽くうなずいた。
部屋の空気は穏やかだった。誰も急いで帰ろうとしない。窓の外には、ゆっくりと変わる空の色。遠くから、誰かが犬を連れて歩く気配。そういう“音のない景色”が、耳に届くような静けさ。
「じゃあ……次は誰んち?」
ふと、彰良が訊ねる。
「俺んちでもいいけど、ずっとホストってのもなあ。スイーツ研究所もネタ尽きそうだし」
「もう十分やったと思うよ、彰良は……」
夏彦が苦笑しながらそう返すと、彰良は「ちぇー」と小さく唇を尖らせる。
その空気の中で、文蔵がふと顔を上げて言った。
「……俺の家でも、いいよ」
全員の動きが、一瞬止まった。
誰も声を出さずに、目だけが彼のほうを向く。
「マジで……? 文蔵くんが……?」
澪の声が、ごく小さく響く。文蔵はうなずいた。
「別に、特別なことはできないけど……場所として、使うくらいなら」
「うわっ、なんか……めっちゃありがたみある発言なんだけど」
「それ、何出されるんだろ……お茶と記録用紙とか?」
「記録はしない」
文蔵はあくまで真顔で言う。それが逆に“本気なんだ”という印象を与えた。
そして、みんながそのまま――自然と、笑った。
「じゃあ、次は文蔵んちで決まりか」
「マジで行くぞ?」
「構わない」
「じゃあ、僕は何か持っていくね。クッキーとか?」
「よっ! 安心の味担当・椿原!」
「……変な二つ名つけるなよ」
夕焼けが窓のガラスに反射し、少しだけ部屋の中が赤く染まった。誰かが笑い、誰かが片付けを始め、また誰かが次の予定を口にする。
この「勉強会」がどれくらい続くのかなんて、誰も知らない。けれど、次があると信じられること――その確かさが、いま一番の支えだった。
リュックにプリントを詰める音。
机の上のグラスを運ぶ音。
ふとした会話の切れ間に、誰かが言った。
「今日って……“勉強会”だったよな?」
「たぶん、ね」
「……楽しかったけどな」
「うん。ちゃんと、ね」
言葉は途切れ、でも意味はちゃんと伝わる。
そうして今日の“勉強会という名の居座り・第二章”も、夕暮れとともに幕を下ろしていった。