放課後に、僕らは   作:やまざる

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屋上、秘密基地につき。

 

 

 夏休みの午後、校舎は息をひそめていた。

 

 いつもの正門は固く閉ざされ、部活の掛け声も、掃除当番の足音も聞こえない。ただ、蝉の声だけが遠くで喧しく鳴いている。まるでこの場所が、もう使われていないことを証明するかのように。

 

 「よっし、誰もいない!」

 

 そう言って両手を挙げたのは、もちろん朝倉彰良だった。金属のフェンス越しに覗き込んだ旧校舎は、思った以上に年季が入っていて、窓には土埃がこびりつき、掲示板のポスターは褪せて端から破れている。

 

 澪は、ちょっとだけ、ため息をついた。

 

「本当に、入るのか……?」

 

「いやいや、ここまで来たらもう入るっしょ。っていうか、来るって言ったじゃん、椿原も」

 

「そうだけど……鍵、どうするんだよ」

 

「鍵はなー、俺の《オプションズ》で、“開いてる可能性がいちばん高い窓”を探した! あとはそれをスライドすれば――」

 

 ガラッ、と小さな音を立てて、彰良が手を差し入れた窓が開いた。

 

「――はい、勝利!」

 

「待て、それ、完全にアウトでは……」

 

「いやいや、文化祭の準備で入ることもあるし? ってことで、これは合法的な“点検”です!」

 

「無理あるだろ」

 

 それでも、夏彦は苦笑いしながらあとに続き、文蔵も無言のまま窓をまたいだ。

 

 澪は、一人取り残されたような気分で立ち尽くした。旧校舎は知っている。普段の校舎の裏手にあって、古くなった備品が集められる倉庫のような存在。学校がある日は普通に解放されている。だが、土日と祝日、それと屋上は立ち入り禁止。フェンスに貼られた注意書きを何度も見てきた。

 

 ──だけど。

 

 夏休みの昼下がり。誰もいない校舎。埃と蝉の声と、友達の姿。そこには、静かな誘惑のようなものがあった。

 

「……少しだけなら」

 

 小さく呟き、澪は身をかがめて窓をまたいだ。スニーカーの先が旧校舎の床を踏んだ瞬間、ほんの少しだけ、心臓が跳ねた。

 

 廊下の空気は、思ったよりも乾いていた。天井の蛍光灯には蜘蛛の巣が絡み、掲示板の下には掃除用具が積まれている。きしむ床を踏みしめながら、四人は黙って階段を登っていく。

 

 踊り場を曲がると、屋上に続くドアが現れた。錆びた取っ手、色褪せた注意書き。

 

 「開くかな……」

 

 彰良がノブを回すと、かすかに金属が鳴って、思いのほかあっさりとドアが開いた。

 

 その瞬間──

 

 強い風が、頬をなでた。

 

 「……うわ」

 

 目を細めながら一歩外に出ると、広がっていたのは、曇りのない空だった。フェンスで囲まれた屋上は、想像よりもずっと広くて、コンクリートにはうっすらと汚れた水の跡や、雑草のような苔が生えている。

 

 誰もいない。声も音もない。

 

 でも、空だけはあった。どこまでも青く、まぶしく、静かに広がっていた。

 

「すげえ……誰にも見られてない感じ、いいな」

 

 彰良がそう言って、フェンス際に駆け寄る。夏彦はその後ろで録音機材の準備を始め、文蔵は無言で荷物を置いた。

 

 澪は、その場に立ったまま、ゆっくりと息を吐いた。

 

 (……こんな場所が、あったんだな)

 

 校舎のすぐ上、けれど普段は誰も登らない。時間が止まったような、秘密の場所。

 胸の奥にあったわずかな不安が、すこしだけ和らいでいくのを感じた。夕立の前にひとつ、窓を開けたような心地。

 

「ほら、お前も来いよー! 基地、完成だぞ!」

 

 彰良がそう呼んだとき、澪はつい、小さく笑ってしまった。

 

「……基地ね」

 

 秘密基地──子どもの頃、そういう言葉が好きだった。大人の目から隠れた場所で、ただ好きなことをして過ごす、わずかな時間と空間。

 

 いま、それが目の前にある。

 

「じゃあ、今日は……この屋上、俺たちのものってことで!」

 

 彰良の声が風に乗って高く響いた。

 

 澪は黙ってうなずく。まるでその言葉が、この場所に魔法をかけたみたいに感じられた。

 

 夏の午後、校舎の屋上には、まだ誰の記憶にも書き込まれていない空白が広がっていた。

 

───

 

 水の音が、思ったよりもよく響いた。

 

 夏彦は録音機材のスイッチを入れ、マイクの位置を調整する。風の通り道を考えながら、しゃがみ込んでコンクリートの地面すれすれにマイクを構える。目の前では、朝倉が派手な水鉄砲を両手に構えて大はしゃぎしていた。

 

「さあ! 本日最大級の装備を見せてやろう!」

 

 そう言って取り出されたのは、まるでSF映画の小道具のような、二丁の大型水鉄砲。ひとつはタンク式、もうひとつはトリガーを引くと連続噴射する電動タイプらしい。

 

「色、すごいな……それ、何色?」

 

「ネオンオレンジとメタリックブルーと、あと、目が痛くなるくらいのピンク!」

 

「なるほど、攻撃色で揃えたのね」

 

「そう! 戦いに、情緒はいらんのだよ!」

 

 笑いながら両手を上げて構える朝倉。その背後には、すでにびしょ濡れになった文蔵が立っていた。無言のまま、朝倉に手渡されたシンプルな水鉄砲を握りしめている。色は白、装飾なし。とても文蔵らしいチョイスだ。

 

 「文蔵くん、それ……撃たれてない?」

 

「最初に被弾した。……不意打ちだった」

 

「おいおい、バトルの基本は先手必勝だろ〜!」

 

「問答無用かよ……」

 

 澪はその少し離れた場所に腰を下ろし、タオルで首筋を拭きながら状況を見守っている。日差しは強く、屋上のコンクリートがじんわりと熱を持ち、靴底にそれが伝わる。けれど、時折吹き抜ける風がその熱をほどよく冷ましてくれた。

 

 夏彦は、保冷バッグからゼリー入りのボトルを取り出し、キャップを外して一口すすった。冷たい甘さが喉を抜けて、体の芯に涼しさが届く。

 

「……うん、やっぱゼリー、正解だったな」

 

 それぞれが持ち込んだものは、あまりにバラバラだった。朝倉のスプラッシュ装備。澪のタオルと文庫本(いまは開いてすらいない)。文蔵は例によって、無地のノートを一冊だけ持ってきていたが、結局使わずに鞄の中にしまったままらしい。

 

「夏彦ー! ほら、そっちで音拾えてる?」

 

「拾えてるよ。水の弾ける音と、風の音、あと想汰が濡れた服絞った音も」

 

「おい、やめろ」

 淡々とツッコむ文蔵の声が、そのまま音として記録されていく。夏彦は少し笑って、録音を止めた。

 

(これくらいの騒がしさ、悪くないな)

 

 騒がしいのに、煩わしくない。むしろ“ちょうどいい”。

 

 屋上という舞台がそうさせるのか、それとも、集まった四人の空気がそうしているのかは分からない。でも、いずれにせよ「ただ遊ぶためだけの場所」が、こんなにも心地よいものだとは思っていなかった。

 

「くらえーーっ!」

 

 水の弾丸が風を切る音とともに飛び、フェンスに激突して砕ける。水しぶきが一瞬、光を反射して宙に舞った。

 

 そのときだった。

 

 夏彦の耳に入ってきたのは、さっきとは少し違う“水音”だった。

 弧を描いて飛ぶ音、地面にぶつかる瞬間の音、跳ね返る水の粒。耳がその“違い”を敏感に拾う。

 

(……今の、もう一回聞きたいな)

 

 そう思った瞬間、《リプレイ》がふわりと動いた。夏彦の中で、今の“記録”が再生される。もう一度、同じ波形の音が耳に届く。

 水が、風に混ざって弧を描く音。リプレイされたはずなのに、それは“今ここにある”ような生々しさだった。

 

 不思議と、心が静かになる。

 

 (……記録じゃなくて、記憶になるかもしれない)

 

 そう思った。

 

 この水音も、笑い声も、ちょっとした汗のにおいも。全部、今日という一日にしかないもので、それを“記録”する必要があるかは分からないけれど……「残ってほしい」と思うのは、たぶん嘘じゃない。

 

「おーい! 夏彦! 避けないと当たるぞー!」

 

「え、なにが――」

 

 その言葉の直後、飛んできた水流が夏彦のシャツを直撃した。

 

「うわっ!」

 

 バシャッと音を立てて水が弾け、背中が一気に冷えた。振り返ると、満面の笑みでゴーグル姿の彰良がガッツポーズをしていた。

 

「よっしゃー! 一矢報いた!」

 

「いや、報われてないし! 俺、戦ってないし!」

 

「だからこそ隙があるのだよ……ふふふ……」

 

 くだらないやりとり。でも、それがきっと正解だった。

 

 夏彦は、びしょ濡れのシャツを持ち上げて絞りながら、もう一度小さくマイクのスイッチを入れた。

 

 水の音が、また一つ、記憶に染み込んでいくような気がした。

 

───

 

 水の音が、やけに耳に残る。

 

 屋上の隅にある排水溝の傍で、文蔵は無地のノートを膝に置いたまま、水鉄砲を握っていた。陽射しは変わらず強く、コンクリートの床はじりじりと照り返す熱を宿している。だけど、不思議とそれが鬱陶しくなかった。

 

 額を濡らす汗と、肌に張りつくTシャツ。少し動けば、背中に流れる水の跡が気になる。でも、構わない。

 

 屋上の真ん中では、朝倉がふざけた動きをしながら、澪を標的に水鉄砲を乱射していた。防戦一方の澪がフェンス際に逃げ込むと、そこへ回り込むように夏彦が歩み出て、水を撃つ“ふり”をして、にやりと笑う。

 

「今の、音だけだった?」

 

 澪が訝しむように問い、夏彦は悪びれもせず肩をすくめた。

 

「うん、でも今の“水が当たる音”、さっき録音したやつね。響き方だけ再生してみた」

 

 ぱしゃん、と空気を裂く音がまた鳴る。けれど、そのたびに誰かが濡れるわけではない。ただ、幻のように“音”だけが波打ち際のように跳ね返る。

 

(《リプレイ》。音を再生する能力)

 

 それは、過去を持ち込む力。音の記録を、そのまま空間に“再現”するだけのはずなのに、不意打ちのような感覚を引き起こす。さっき自分に水がかかった場所と、似た方向からその音が来ると、人は条件反射的に反応してしまう。

 

 遊びの中に交じった異能力。それを「使ってる」と言うべきか、ただ「にじんでいる」と言うべきか。

 

「おーい、そこの記録魔! 隅っこでボーっとしてると、撃たれんぞー!」

 

 朝倉の声。文蔵はそれに無言で水鉄砲を構えた。いつの間にかバンダナを巻いた彼が、思いっきり笑いながらフェンスを蹴ってターンする。その背中を狙って、水を放つ。放物線を描いて、弧をなぞるようにして飛ぶ水流──

 

 それが、朝倉の肩をかすめた瞬間。

 

「くっそ......! おまっ、当ててきたな!?」

 

「偶然だ」

 

 そう言いながら、文蔵は再びノートに視線を落とした。まだページは真っ白だ。いつものように、記録はしていない。けれど──。

 

(なぜか、手がうずく)

 

 紙にペンを走らせたくなる。水の軌道。笑い声。空の青。日陰に座ってゼリーをつついていた澪の横顔。すべてが、記録に値する“何か”を持っている。

 

 だが、今日は書かない。最初からそう決めていた。

 

「……あ、今の完璧だったな」

 

 朝倉が何かを見つけたように声を上げる。水鉄砲を構えた姿勢のまま、ゆっくりと角度を変え、次の的に照準を合わせていた。どうやら、澪の背後に隠れた夏彦を狙っているらしい。

 

 その肩の動き、その目の使い方、すべてが妙に洗練されていた。

 

「朝倉……まさか《オプションズ》?」

 

「うん、ちょっとだけ。“いちばんきれいに水が飛ぶ角度”を選んでみた。あとは、“風に流されないタイミング”と……」

 

「彰良…おまえ、それ、スポーツの試合か何かか?」

 

 澪の突っ込みに、朝倉は満足そうににやりと笑う。

 

「違う違う。“最適”の中から、“楽しい”を選んでるだけ。ほら、ヒット!」

 

 放たれた水が、謎のカーブを描いて夏彦の肩に命中する。

 

「うわっ!? 今の、マジで!?」

 

「ふふふ、《オプションズ》の本気、なめんなよ!」

 

 言葉の調子は冗談めいているけれど、その目には少しだけ、誇らしさがにじんでいる。力をひけらかすのではなく、“遊び”の中にまぎれ込ませる。それは、日常の中に異能が自然に溶けているからこそできることだ。

 

(……俺も)

 

 文蔵はふと、胸の奥に違和感を覚えた。

 

 《オムニバス》は、本来は“記録する”ための能力。けれど、今この瞬間、ページはめくられていないのに、何かが反応している。記録したくなる。残しておきたくなる。

 

 もしかすると――

 

(異能ってのは、“使うか使わないか”じゃない)

 

 “にじむ”ものなのかもしれない。

 

 その時、横から小さな水の雫が飛んできて、ノートの端にぽたりと染みを作った。慌てて閉じようとしたその手を、澪が止める。

 

「……あ、すまん。跳ねた」

 

「別にいい」

 

 濡れたページの一角が、陽射しでゆっくり乾いていく。

 

「……ねえ、なんか、誰も“異能力者”って感じしないな、今」

 

「そうか?」

 

「うん。なんか、“ただの夏休み”っていうか」

 

 澪の言葉に、文蔵は小さくうなずいた。

 

 誰かが力を使っていても、それが特別には見えない。遊びの延長。いたずらの一種。日常の一部。

 

 そうして、能力が特別じゃなくなったとき、ようやく、“自分たち”でいられる気がした。

 

 屋上には、風の音と、遠くの蝉の声がかすかに届いていた。

 

(……記録する必要なんて、ないかもしれないな)

 

 文蔵はノートを閉じ、水鉄砲を再び手に取った。

 

 次の標的は、今、派手に転びかけた朝倉。

 

 ──命中するかは、わからない。でも、その瞬間は、きっと忘れない。

 

───

 

夕方の光が、コンクリートに長く影を伸ばしていた。

 

遊び尽くした水鉄砲は、屋上の隅で眠っている。乾きかけたタオル、まだ濡れたシャツ、びしょびしょになった靴──四人の姿は、それぞれに疲れていて、それでもどこか満ち足りていた。

 

澪は屋上のフェンスにもたれかかるようにして座っていた。隣には、口を開けたまま空を見上げる彰良。向こうには、録音機材のスイッチを切った夏彦と、その隣で静かに目を閉じている文蔵。

 

「……今日一日さ、よくバレなかったよね」

 

ぽつりと漏らした澪の言葉に、誰も返さなかった。けれど、悪い沈黙ではない。言葉の代わりに、涼しい風が屋上を横切っていく。

 

「てかさー」

 

唐突に、彰良が声を上げる。

 

「これ、完全に不法侵入だよね」

 

「わかってて言うなよ」

 

夏彦が肩をすくめながら、頬に張りついた髪を払った。

 

「でも、いい屋上だった」

 

「なんだよその感想」

 

「褒め言葉だよ。今日が楽しかったのは、たぶんこの場所が“誰のものでもなかった”からだと思う」

 

「“誰のものでもない場所”か……なんか詩的じゃん。想汰、書いとけよ」

「……今は、いい」

 

文蔵は目を開けずに答えた。けれど、その声はどこか、やさしかった。

 

澪は空を見上げた。

 

西の空が、淡く朱に染まっている。さっきまで笑い声が響いていたのに、今はただ、風と足音の記憶だけがそこにあった。フェンスの向こうに見える校舎の屋根、遠くで小さく聞こえる蝉の声、そして、静かに流れる時間。

 

“終わっちゃうんだな”と、ふと思う。

 

たった数時間だったのに、ものすごく長くいたような気がする。誰にも知られず、誰にも邪魔されず、ただ四人で遊んで、笑って、水をかけ合って、倒れて、風に吹かれて──

 

(……こんな時間、思い出せなくなったら、どうしよう)

 

澪はそう思った。

 

自分には異能力がない。記録もできないし、過去の音を再生することもできない。選択肢も、力も、ない。

 

けれど──それでも。

 

(それでも、ちゃんと“あった”って、思える)

 

目に焼きついた空の色。誰かが濡れた靴を脱ぎ捨てた音。水鉄砲が落ちたときに跳ねた水しぶき。彰良のはしゃぎ声。夏彦の「録れてるか……?」という呟き。文蔵の、普段よりほんの少し緩んだ横顔。

 

全部、ただの「記憶」だけれど。

 

その記憶が、たぶん、この夏の一番奥に残る気がしていた。

 

「……そろそろ、行く?」

 

夏彦が立ち上がって、誰ともなくそう言った。

 

文蔵も黙って頷き、彰良は「えーもう?」とごねながらも腰を上げた。

澪も、タオルを畳んで、屋上の隅に落ちていたペットボトルを拾う。何気ない仕草のようで、どこか名残惜しさが滲んでいた。

 

旧校舎の階段を下りるとき、光はもうほとんど差していなかった。

 

薄暗い廊下、閉まった教室の扉、古い掲示板。昼間とは違う静けさに、澪は小さく息を呑む。けれど、その静けさも、今日の“秘密”の一部のように思えた。

 

最後に校舎を出る直前、文蔵が振り返った。

 

旧校舎の出入口に取り付けられた、壊れかけた鍵。彼は、そこにそっと手を伸ばし、乱雑に開いていた鍵をきちんと閉める。

 

カチリ、と音が鳴った。

 

「これで、もう誰も入れないな」

 

誰かが呟いた。

 

それが誰の声だったかは、澪にはわからなかった。でも、すぐにそれに応える声が、どこからか聞こえた。

 

「でも、入った記憶は、なくならない」

 

そう。たとえ、記録されていなくても。たとえ、忘れてしまっても。心のどこかには、ちゃんと“あった”という確かさが残る。

 

「秘密基地、解散」

 

彰良がそう言って、ふざけた敬礼をする。

 

四人の影が、夏の夕方に溶けていく。

 

屋上には、もう誰もいない。

 

けれど──そこには、確かに四人の「夏」があった。

 

 

 

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