午後五時を少し過ぎたコンビニのイートインコーナーに、涼しげな空調音と微かに流れる有線の音楽が空間に広がっている。レジ横で買ったアイスがじわじわと溶けていくのを横目に、日暮夏彦はストローの刺さった紙カップをかき混ぜていた。
「なーなー、肝試し行こうぜ、肝試し!」
最初にその言葉を言い出したのは、朝倉彰良だった。スイカソーダ味のアイスをくわえたまま、テーブルに肘をついてニヤリと笑うその顔は、どこかしら悪戯を思いついた子どものようで。
「急だな……どうしたの、また変な動画でも観た?」
夏彦がそう言うと、彰良は「んー、まあな」とあっさり肯定した。
「昨日の夜さ、配信でやってたんだよ。“ガチでヤバい心霊スポット凸”とか言って、テンション高く乗り込んでって、全然なにも起きなかったやつ。でもさ、観てたら思っちゃったんだよね。『これ、俺たちでもできんじゃね?』って」
「……いや、なんでそうなるんだよ」
アイスの溶けかけた部分をすする音の向こうで、澪が小さく笑った。肩越しにちらりと視線をやれば、彼は缶の麦茶を指先で弄びながら、どこか落ち着かない様子だった。
「でも、ちょっと分かるかも。……“今しかできないこと”って感じ、するし」
「なー、だろ? なんつーか、こういうノリって、夏じゃなきゃ成立しないだろ。しかも高校生。最強」
誇らしげに胸を張る彰良をよそに、夏彦はストローを止めて少し考える。
“肝試し”
それ自体は、よくある遊びの一つだ。定番。予定調和。けれど、実際にやるとなると、やっぱりちょっとだけハードルがある。
「まあ、俺はいいけどさ。……想汰は?」
テーブルの端で黙ってアイスを食べていた文蔵が、すっと視線を上げる。
「行く」
「即答!?」
思わず声が裏返った。文蔵はスプーンを口元に運びながら、少しだけ首をかしげる。
「おかしいか?」
「いや、別に……おかしくはないけど」
この人、たぶん“怖い”の概念がちょっとだけズレてる。夏彦はそう確信していた。
「……で、場所は?」
「それなんだけどさぁ。学校の裏手に、旧公民館跡あるの、知ってる?」
「ああ……」
「その裏山、地元だとけっこう有名らしい。“夜になると、鈴の音が聞こえる”って」
「出た、鈴。心霊エピソード鉄板すぎる」
「にゃはは、それな。でもなー、だからこそ行きたくね? ちょっとワクワクするっていうか」
言ってから、彰良はすっと目を細める。
「それにさ、こういう“ちょっと怖いこと”って、誰かと一緒じゃなきゃできないじゃん? ひとりじゃ無理だけど、四人なら……まあ、なんとかなるっしょ」
「……なんとか、ね」
夏彦は笑いながら、足元の影をちらと見下ろす。夕方の光が、コンビニの床に長く落ちていた。外では蝉の声が遠くなり、代わりに車の走行音が響いている。
この空気も、夏の“終わりの方”って感じがする。
だからこそ──
「いいよ。行こうか、肝試し」
その声に、澪がわずかに目を丸くする。
「え、夏彦、やるの?」
「うん。……まあ、録音目的ってことで」
「録音?」
「“夜の山道に響く音”とか、“風の音に混じる気配”とか、そういう素材、わりと使い道あるんだよ。ホラー音源として」
なるほどな、と彰良が頷く。
「そういう目的なら、ガチの怖がりでも参加できるな。なあ、澪?」
「僕、怖がりって決まったわけじゃないし……」
「でも、顔がめっちゃビビってる」
「うるさいな」
珍しくぷいっと目を逸らした澪に、夏彦はちょっとだけ助け舟を出す。
「でもさ。別に、怖がるのが悪いわけじゃないし」
「……うん」
「怖くても、付き合ってくれるの、俺は嬉しいけどな」
その言葉に、澪が小さく目を伏せる。
コンビニのドアが自動で開き、誰かが入ってくる。その音で、ふっと空気が緩んだ。
「じゃ、決まりな!」
彰良が手を叩く。
「集合は明後日の夜、八時! 持ち物は懐中電灯と勇気、あと虫除けスプレー!」
「虫のほうが怖いかもしれないな……」
「マジそれ」
「それ言ったら終わりだぞ!」
テーブルの上では、アイスのカップが空になっていく。
この軽口が、ほんの少しだけ夜へと続く道を開いたことに、まだ誰も気づいていなかった。
───
夜の八時、夏の風はほんの少し湿気を含んでいる。
駅から少し外れた住宅街の公園に、四つの懐中電灯の灯りが集まり始めていた。蝉の声はすっかり鳴りを潜め、代わりに草むらからの虫の音が耳に残る。どこか遠くで犬が一声だけ吠え、すぐに静寂が戻った。
「……揃ったな。さあ、肝試し行きましょうか!」
誰よりも元気な声でそう言ったのは、やはり朝倉彰良だった。ハーフパンツにTシャツというラフな服装に、なぜか首からはホイッスルがぶら下がっている。
「何それ。体育の先生?」
「いやいや、安全第一だからさ。なんかあったら吹く!」
「むしろ、何もない時のが不安になるわ」
夏彦がそう返すと、彰良はにっと笑った。
椿原澪は、そのやりとりを少し距離をおいて見つめていた。
手には虫除けスプレーと、スマホ。懐中電灯のアプリを点けるか、迷っていた。ポケットの中の手が、少しだけ汗ばんでいる。今日の昼間、冗談半分の誘いに「……うん、いいよ」と頷いた自分の声が、今になって思い出される。
“怖いのは、嫌いじゃない。けど、得意でもない”。
そのあいまいな感情を、どう伝えればいいのか分からなかった。
「よし、それじゃ……レッツゴー!」
彰良の号令とともに、一行は街灯のない道へと足を踏み出した。
旧公民館跡地までは徒歩で二十分ほど。線路沿いの細道を抜け、畑を挟んだ山の麓へ向かっていく。照明は少なく、足元のアスファルトはすでに熱を失い始めている。
澪はその列の少し後ろ、文蔵の背中を見ながら歩いていた。
その背中は、大きくも小さくもなく、ただまっすぐだった。歩幅はゆっくりで、自分のペースに近い。だからこそ、無理をせずに済む。
「澪、歩くの大丈夫?」
振り返った夏彦の声に、澪は小さく頷いた。
「うん……ありがとう。今のところは、まだ」
「“まだ”って」
「だって、これから怖くなるでしょ」
冗談めかして言ったのに、自分の声が少しだけ震えていたのが分かった。
空を見上げると、雲がゆっくりと流れていた。満月には届かない白い月。風が肌を撫でる。日中の暑さが嘘のように、空気はひんやりとしている。
やがて、旧公民館跡が見えてくる。
今は取り壊されて更地になっており、フェンスに囲まれた空間の奥には、草が伸び放題の敷地が広がっていた。その奥、裏山へと繋がる細道が口を開けている。
澪は思わず、喉を鳴らした。
「ここ……なんか、思ったより“それっぽい”……」
「でしょ?」
彰良が嬉しそうに手を広げる。
「看板、見てみ。ほら、“立入注意”って、かすれて読めるだろ? これよこれ!」
「いや、むしろ入りたくなくなるやつじゃ……」
「“入りたくなくなる”って感情こそが、もう肝試しのスタートラインなのだ!」
どこから出た理論か分からないが、妙に説得力がある。澪はため息をひとつついて、フェンスの隙間から覗き込む。
山道の入口は、草に覆われて細くなっている。けれど、確かに道はある。そして、その奥へと続く空気が、日常とは明らかに違っていた。
温度。光。音の反響。すべてが変わる。
「……ここから、入るのか」
自分でも気づかないうちに出た言葉に、隣の文蔵が頷く。
「戻るなら、今のうち」
「……行くよ」
澪は、深く息を吐いて、一歩を踏み出した。
夜の山道は、すぐに懐中電灯の光だけが頼りになる。
木の葉がこすれる音。足音。誰かの呼吸。遠くの虫の声。
澪は、怖かった。でも、それ以上に──
“自分だけじゃない”ということが、心を支えていた。
───
懐中電灯の明かりが、草の影を濃くする。
山道の入口でじゃんけんをして、誰と誰がペアになるかを決めたとき、文蔵想汰はとくに感情を表に出さなかった。決まったのは、椿原澪とのペアだった。
彰良と夏彦は順番を後に回すと言い出し、「まあ、こういうのは慎重派から行った方が“味わい深い”からな」と、よく分からない理屈をつけて笑った。
懐中電灯は一人一つ。文蔵が持ち、澪はその少し後ろを歩く。足元を照らす光が、土の上に落ちた木の葉や小石を浮かび上がらせていた。踏みしめるたびに、ざらりと音がする。
「……静か、だね」
澪の声は小さかった。文蔵はうなずくだけで返す。
歩き始めて五分も経たないうちに、文蔵は空気の変化を感じていた。下界では聞こえていた街の残響や車の音はもうない。風も木の枝を鳴らすことはなく、ただ虫の声と、時折どこかで羽音を立てる何かの気配だけが残されている。
闇は、静かではなかった。音が、言葉よりも饒舌だった。
「ね、文蔵くん」
唐突に名を呼ばれ、少しだけ首をかしげる。
「怖くない?」
問いは素直だった。けれど、正直に答えるのは少しだけ難しい。
「怖い……とは、少し違う」
「違う?」
「……緊張、してる。だから、音がよく聞こえる」
その言葉に、澪が小さく頷いたのが分かった。
「……うん、分かるかも。僕も、音でびっくりする。葉っぱが落ちただけで、心臓が跳ねる感じ」
「……跳ねた?」
「ちょっとね」
くすりと、かすかな笑い声。
そんなふうに言葉を交わす間も、足は止まらない。山道は緩やかに登りながら、ところどころで枝分かれしているが、ロープや看板が掛かっているところは進入禁止の合図だった。彼らが通るべき道は一本だけのはず。
ふと、文蔵は足を止めた。
風が吹いた。
前方の木々の隙間から、何かが一瞬だけ揺れたように見えた。草の間から音がする。
「……いま、なにか──」
言いかけた澪の声と、同時に聞こえた。
チリン。
風鈴のような、高い金属の響き。
空耳かとも思ったが、確かにそこにあった。揺れるような音ではなく、単音。ひとつ、だけ。
澪の肩がすっとすくむのが分かった。文蔵は懐中電灯を少しだけ持ち上げ、周囲を照らす。けれど、そこには何もいなかった。
風鈴など、どこにも見当たらない。
「……聞こえた?」
しばらくしてから、澪がそっと言った。
文蔵は、うなずいた。
「たぶん……風が、草を鳴らしたんだと思う」
「そっか」
「たぶん、ね」
もう一度言ったとき、澪は少しだけ笑った。
「……怖かった。……けれど、それも悪くなかった」
澪の声は、確かに震えていた。けれど、それ以上に“伝えよう”としている意志が感じられた。
文蔵は言葉を返さず、ただ前を向いて歩き出す。彼女の足音が、すぐ後ろに続く。
その瞬間、《オムニバス》が微かに反応しかけた。
いつものように、胸の奥にある“記録する感覚”がふっと立ち上がる。今の光景、空気、足音、誰かの声──それらを“記す”準備を始めようとする。
意識的には行わない。
……それで、いい。
そう思った。澪の言葉の通り、“怖いけど悪くない”というこの感情は、もしかしたら、記録しないままの方が正しいのかもしれなかった。
思い出そうとしても輪郭がぼやけるような、それでも、確かに“そこにあった”記憶。
光が、少しずつ強くなる。出口が近い。
「文蔵くん、見えてきた」
「ああ……戻るか」
二人の足音が、最後にもう一度、落ち葉の上を鳴らした。
───
夜の山道で誰かを待つというのは、想像以上に長く感じられる。
とくに“今、自分の番ではない”という状況は、妙な不安を膨らませる。
「なあ、待ってる間の方が、怖くね?」
誰に言うでもなく、ぽつりと朝倉彰良がつぶやく。
旧公民館の裏手にある林の入口。そのすぐ脇、わずかに草が刈られた地面に腰を下ろし、彼は夜空を見上げた。小さな星が、枝の隙間からまばらに覗いている。
少し離れたところで、夏彦が黙って懐中電灯の明かりを手元のノートに落としている。何かを書いているわけではなさそうだった。録音機のボタンには手がかかっておらず、ただそこにあるだけ。
「おーい、夏彦~。怖い話でもする?」
「そういうノリじゃないでしょ。誰か戻ってきたら、マジでびっくりするから」
「え、でもさ。今なら“後ろから誰か来る気配がする”とか言っても許される空気じゃん?」
ふざけた声。けれど、彰良の口調はいつもよりわずかに軽さを欠いている。芝居がかった冗談の背後に、わずかな焦燥が滲む。
静けさが続き、草むらの中からカサリと音がするたび、心が跳ねる。虫の羽音、遠くの車の気配、夜の音が世界を包む。
「なあ、夏彦」
「……何」
「“境界”って、さ。どこからが“向こう”なんだろな」
突拍子もない話題に、夏彦は顔を上げた。
言葉を選びかけて、やめた。そして、ぽつりと答える。
「……俺が小学生のとき、録音したことがあってさ。友達と近所の神社で、“夜の音を撮ろう”って。そしたら、帰って聞いたときに――“知らない声”が入ってたんだ」
「まじで?」
「うん。俺たち、誰も喋ってなかったのに。小さい女の子の声で、『だれか いるの?』って」
「やば。え、今ここでその話する!? 怖すぎ!」
そう言いつつ、彰良は笑った。大げさに背筋をぞくっと震わせるような動き。でもその笑いは、確かにほんの少しだけ強張っていた。
「……でも、まあ、なんも起きなかったんだけどさ。そのときも、録音はその一回だけ。聞き返すと、何回目でも同じとこに声が入ってる」
「それは、さ……消してないの?」
「残してるよ。そういうのも含めて、“記録”だから」
夏彦の声は静かで、けれどどこかしっかりしていた。
それを聞きながら、彰良は手元の石を拾って転がす。何かを打ち消すような無意識の仕草。
「……俺さ、意外と、こういうの苦手かも」
ポツリと零した言葉に、夏彦は目を細めた。
「意外、ね」
彰良は空を仰いだ。
どこまでが冗談で、どこからが本音なのか、自分でもよくわからなくなる夜がある。
いつも軽くいたいと思う。冗談の一つでも言えれば、場が回る。笑ってれば、誰かが安心する。
けど──そんな自分が、時々「どこにもいない気がする」ことも、ある。
そんな沈黙を裂くように、ざくざくと足音が聞こえた。
「……あっ、戻ってきた?」
彰良が立ち上がると、懐中電灯の光が揺れ、文蔵と澪の姿が見えた。
「おお、おかえり! どうだった? 何か見た?」
明るく迎える彰良に、澪が首をすくめながら小さく笑う。
「……鈴の音、聞こえたような……気のせいかも」
「まじ? そっちのが逆に怖くね?」
「でも、想汰くんは落ち着いてた」
「だろうなぁ……想汰、何か見た?」
「……夜だった」
「それはみんな知ってる!」
くだらないやり取りが交わされる。その温度感が、じんわりと場を満たしていく。
気づけば、胸の奥に詰まっていた何かがすっとほどけていた。
「次、俺らか」
夏彦が懐中電灯を手に持ち、立ち上がる。
「おう、行くか! 俺たちで幽霊を笑わせてこようぜ!」
そんな無茶なことを言いながら、彰良は笑った。
けれど、歩き出した背中はいつもよりほんの少し、静かだった。
───
「じゃ、次は俺らの番ってことで!」
口火を切ったのは、もちろん彰良だった。軽快に懐中電灯を振りながら、まるで遠足にでも出かけるような足取りで山道の入口へと向かう。
その背中を追うように、夏彦が歩き出す。手には懐中電灯と小さな録音機器。歩きながら、気温と風の具合をこまめに確認するのはもはや癖のようなものだった。
「にしてもさ、肝試しとか久しぶりすぎるわ。中学のとき以来?そんくらいぶり」
彰良が振り返りながら言う。
「そうだな。俺もそんくらい。結局誰か泣いて終わったんだよなー」
軽口の応酬が、山道にゆっくりと響く。だが、道が少しずつ暗がりに包まれるにつれ、笑いの音も小さくなっていった。
足元には小石。頭上には風に揺れる枝葉。ふと、夜の山が“音”に満ちていることに気づく。
「……鈴の音、まだ聞こえないな」
ぽつりと夏彦がつぶやいた。
「本当に聞こえるのかねえ、そういう話って」
「ま、聞こえたとしても、録音したら再生できるし」
「え、マジでやるの? やめとこ? “録っちゃいけない系”の音って、あると思うんだよ、俺」
冗談めかして言う彰良の声が、思ったより近くにあった。並んで歩いているはずなのに、その距離を測りたくなるような、不思議な静けさがある。
「さっきさ、夏彦が言ってたじゃん。昔、録音したら“知らない声”が入ってたことあったって」
「うん」
「……ほんとにあったの?」
「あったよ。嘘だったら、もうちょい怖くない話にする」
「……お前、それさぁ、もっと早く言ってくれよ……今になって思い出すやつじゃないだろ……」
ふと、木々の隙間から風が抜ける音がした。葉が揺れ、足元に落ちる影がふらりと形を変える。
二人とも、一瞬だけ言葉を止めた。
夏彦は静かに録音を止め、機器をポケットにしまう。その仕草に、彰良が思わず訊いた。
「……なあ、本当に録れたら、どうする?」
「たぶん、記録する。でも、それを誰かに“聴かせる”かどうかは、また別」
その答えに、彰良は少しだけ目を丸くした。冗談じゃない、けど本気でもない──その曖昧さが、この夜にちょうどいい気がした。
「……なあ、俺さ、こーいうのも嫌いじゃないんだけど」
「怖いの?」
「いや、違う。……あ、いや、怖くないとは言ってないけど!」
少し笑って、また歩き出す。葉を踏みしめる音が交互に響いて、道がやや開けたところで、ふと夏彦が立ち止まった。
そこには、誰かが手入れしていたような小さな祠があった。けれどもう朽ちかけていて、屋根は傾き、前にあったはずの何かはすでに姿を消していた。
「……なんもないな」
「でも、なんか残ってる」
「……なにが?」
「“昔ここに何かあった”っていう空気」
彰良の言葉に、夏彦は黙って頷いた。
ふいに、遠くから誰かの声が聞こえた気がした。澪か文蔵か、それとも虫の音か。いずれにせよ、この夜はもうすぐ終わる。
「なあ、夏彦」
「ん?」
「こういうのさ、“くだらない”って思うか?」
ふとした問いだった。いつものように笑いながら言ったはずなのに、どこか、心の奥に届く音がした。
「……思わないよ。くだらないことほど、あとでちゃんと残る」
「……なんだよ、それ。……くそ、真顔で言うなよ、怖いわ」
再び笑いがこぼれて、道の終わりが見えた。小さな看板が月明かりに照らされ、入口が近いことを教えてくれる。
二人は肩を並べて戻っていく。
夜の山道を歩いた記憶が、確かに、そこに残った。
───
誰も叫ばなかった。誰も走らなかった。けれど、確かに、みんな“ちょっとだけ”怖がっていた。
「――終わった、な」
そう言ったのは文蔵だった。全員が歩き終え、旧公民館跡の前に四人が揃ったとき、空にはもう月が高く登っていた。
夏の夜風がそよいで、どこかの民家の風鈴が鳴った。それは噂に聞いた“山で鳴る鈴の音”ではなく、確かに生活の気配のある、小さな金属の響きだった。
澪は小さく深呼吸をする。怖さで張っていた体が、ようやく緩む。ペアで歩いた山道のこと、草むらの音、風の中に紛れた気配。何もなかった。でも、何かがあったような気もする。
そんな曖昧な余韻を、誰もが口にせず、でも捨てきれないままに、街灯の下を歩き始めた。
「いやー、肝試しって、終わってからが一番楽しいまであるな!」
元気よく言ったのは彰良だった。懐中電灯をくるくる回しながら、さっきまでのやや硬さのあった表情も、もうすっかり緩んでいた。
「“終わった”っていう安心感と、なにか“やり切った感”、みたいな?」
「たしかに。あの緊張、どこに消えたんだろうな」
夏彦が笑うと、誰かが小さく笑った。文蔵は特に何も言わず、前を見て歩いていたけれど、その歩幅がさっきより少しだけ軽くなっている気がした。
虫の音が戻ってきていた。蝉ではなく、夜の虫たちの声。カサカサという足音と混ざって、夏の夜道がゆっくりと、日常に戻り始めていく。
そんな中、ふと、誰かが言った。
「……なあ、さっき、五人目の足音、聞こえなかった?」
澪の足が一瞬、止まった。
誰が言ったのか、判然としない。彰良か、夏彦か、文蔵か──それとも、自分だったのかもしれない。風がふと、背中を撫でていった。
「……まーたそういうこと言う〜!」
すかさず彰良が大袈裟に振り返り、肩をすくめて笑った。懐中電灯で後ろを照らし、「はい、誰もいません!」と明るく言う。
空気が少しだけ和む。冗談だ。もちろん冗談。けれど、誰もその“冗談”に、本気でツッコミを入れようとはしなかった。
澪はふと、自分の胸の内を覗く。怖かった。確かに怖かった。けれど──それだけではない。
誰かの後ろを歩く足音。そっと伸ばした袖の端。無言のやりとり。そのどれもが、確かに自分の中に“何か”を残していた。
夏の夜は静かで、優しくて、少しだけ残酷だ。今日が終わってしまうことも、わかっている。でも。
「……また、やってもいいかもな」
そう言ったのは、思いのほか自然な声だった。たぶん文蔵。あるいは夏彦。もしかすると自分。
「やだよ、絶対!」
今度は澪が、ツッコミを入れた。反射的に。でも、その声は、ほんの少しだけ笑っていた。
四人の笑い声が、夜空にふわりと舞っては消えていく。
風が吹く。月は、薄くかかった雲の向こうで、変わらず丸かった。
街灯が遠ざかるたびに、今日という夜もまた、少しずつ思い出になっていく。
怖かった、でも悪くなかった。
そんな“夏の夜”が、今、確かに終わっていく。