放課後に、僕らは   作:やまざる

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勉強会という名の居座り・第四章 〜静かに鳴る、記録と音〜

『勉強会という名の居座り・第四章 〜静かに鳴る、記録と音〜』

 

 

 インターホンの音が鳴ったあと、しばらくしてドアが開いた。

 

「よ」

 

 ひと言。それだけだった。けれどその声には、確かに迎える意思が込められていた。

 

「おじゃまします」

 

 澪は小さく頭を下げて、団地の一室に足を踏み入れた。夏彦の家に来るのは、今日が初めてだった。

 

 玄関は思ったよりも広く、靴が二足分くらい置けるスペースがすっきりと整えられている。隅の傘立てには、畳まれたビニール傘と、折りたたみ傘が一本ずつ差してあった。

 

 部屋のなかには、微かに音楽が流れていた。澪が聞き取れたのは、柔らかなアコースティックギターの音と、風の音を思わせる環境音のような旋律。主張はしないのに、耳を澄ますとしっかりそこにいる。

 

「……これ、流してるの?」

 

「うん。っていうか、録ったやつをランダム再生してるだけ」

 

 夏彦は台所から出てきて、麦茶の入ったコップを二つ持ってきた。コースター代わりのタオルを敷いたテーブルにそれを置くと、もう片方を澪に差し出した。

 

「冷たいの、飲む?」

 

「ありがとう」

 

 麦茶の表面には、ちいさな気泡がいくつも浮いていた。触れたガラスがひやりとして、思わず指先に力が入る。

 

「……なんか、落ち着くね。この音も、この部屋も」

 

「そう? まあ、録音とかしてると、自然にこうなる」

 

 部屋のなかは静かだった。テレビもラジオもついていない。けれどまったく無音というわけではなく、どこかの窓から差し込む風の通り道が感じられる。カーテンが軽く揺れ、その向こうで団地の子どもたちが遠く遊ぶ声がぼんやり聞こえていた。

 

 夏彦の部屋は、生活感がありながらも、どこか整っていた。

 床にはラグが敷かれ、その上には読みかけの文庫本と、小型の録音機材。それに、何冊かのノート。机の脇にはイヤホンが丸められて、音の波形が印刷されたポスターが一枚、壁に貼られている。

 なんというか──必要なものだけが、必要な場所にある。そんな印象だった。

 

「録音の整理中って、言ってたけど……」

 

「うん、さっきまでね。海の音とか、焚き火の音とか、仕分けしてた」

 

「この前のキャンプの?」

 

「それもあるし、もっと前のも。聴き直してると、“あーこの時の空気だ”って思い出せるんだよね。音って、けっこう正確に記憶を引っぱり出すから」

 

 夏彦はそう言って、片手でコードをまとめ直した。声は淡々としているけれど、話すたびにどこかに熱が滲む。

 澪は、テーブルに出された麦茶をひとくち飲んだ。冷たい感触が喉をすべり、微かに胸の奥に余韻を残す。

 

「……この家の音って、落ち着くな」

 

 思わず、そんな言葉が口をついた。

 夏彦は少し驚いたようにこちらを見て、それから目線を外して照れくさそうに笑った。

 

「そう?」

 

「うん。静かすぎないし、でも、うるさくもない。なんていうか……自然に耳に入ってくる」

 

「それ、ほめ言葉でいいんだよね?」

 

「もちろん」

 

 ふたりの間に、微かな沈黙が落ちた。

 

 けれどそれは、気まずさではなかった。ちょうどいい音量のBGMのように、何かが流れていることを感じさせる空白。

 

「……ところで、今日って他のふたり、何時に来るんだっけ?」

 

「たしか、彰良が“迷わなければ15分後”って言ってた。文蔵は“行く”しか言ってなかった」

「らしいな……」

 

 ふっと笑い合ったその瞬間、カーテンがまた軽く揺れた。

 風の音。室内の小さな物音。遠くの子どもの声。ほんの少しだけ軋んだ椅子の足音。

 

 澪は、その全部を──“音”としてではなく、“気配”として感じていた。

 

 なんだか不思議だった。音が鳴っているのに、静かな気がする。静かにしているのに、どこかに音がある。

 

 そうか。夏彦の家って、たぶん──そういう場所なのかもしれない。

 沈黙と音のあいだにある、ちょうどいい間隔。それがここには、ちゃんとある。

 

「……なんかさ」

 

「ん?」

 

「今日、いい時間になりそうな気がする」

 

 澪がつぶやくと、夏彦は言葉を返さなかった。けれど、うん、というように首をひとつ縦に振った。

 

 それだけで、たしかに通じ合えた気がした。

 

───

 

窓から入り込む風が、カーテンをわずかに揺らしている。

音楽は止まっていた。いや、止められていた──文蔵が玄関をくぐって「来たよ」と呟いた直後、夏彦がさりげなくスマートフォンの操作をしていたからだ。

 

「あと彰良が来れば全員だな」

 

そう言って、夏彦は麦茶を新たに一杯ついだ。ガラスのコップが軽く音を立てる。キッチンとリビングの境にあるローテーブルの上には、ノート類やペンケースがすでに整然と置かれていて、それぞれの居場所は黙っていても分かるようになっていた。

 

「……静かだな」

 

思わずそう呟くと、斜め向かいにいた澪がうなずいた。

 

「うん。でも、なんかこの“静けさ”は……ちょっと違うよね」

 

 言葉にするほどのものじゃない。だけど、確かに、違った。

澪の家のときは“気を遣わない沈黙”で、文蔵の家では“整えられた静寂”だった。

 でも今、夏彦の部屋にあるのは──“音のすぐ手前”にある、静けさだった。

 

「流していい?」

 

そう尋ねた夏彦が、スマートフォンの画面を軽くタップする。

次の瞬間、ゆるやかなピアノと、遠くの風のようなノイズが部屋に満ちた。

それは自然音と音楽が交差するような、ジャンルも何もない“記録された音”だった。

けれど耳に障らない、むしろ空気の一部みたいな存在だった。

 

「これ、俺が前に撮ったやつ。……風の音、ちょっと強めだけど」

 

 文蔵はうなずいて、自分のノートを開く。課題プリントに目を通しながら、鉛筆を滑らせた。

 それは静かな時間の始まりの合図だった。

 

やがてドアが開く音。彰良が「おーす」と声を上げて入ってきた。

 

「うわ、なんかめっちゃ落ち着いてるじゃんここ!」

 

そう言いながら、彼は自分の定位置に腰を下ろした。

ひとしきりノートを広げ、ため息をつくようにぼやく。

 

「うちのときと空気感ちがいすぎじゃね?」

 

「違うけど……これはこれで、いいよ」

 

そう返したのは文蔵だった。

 

彰良が目を見開いて、「うお、めずらしく即レスきた」と笑う。

 

「夏彦の部屋って、“音があるのにうるさくない”んだよね」

 

それは澪の言葉だった。文蔵はうなずいた。

 

音がある。でも、それが“誰かの言葉をかき消すため”じゃなく、“居心地をつくるため”に流れている。そんな風に感じた。

 

「……“記録”ってさ」

 

夏彦が、不意に口を開いた。

 

「俺、音を録るの、好きだけど……ずっと、思ってたことがあるんだ」

 

誰も遮らない。ペンを走らせていた文蔵も、少しだけ手を止めた。

 

「“記録する”って、“残す”ことだろ。でも同時に、“記録しないと消える”ってことでもあるじゃん」

 

その言葉に、澪がふと顔を上げる。彰良も、口にしていたお菓子を一度止める。

 

「だから……自分が“今、何を記録してるか”って、意識してるんだ。

 

意味ある音か、ただの雑音か──。気配も、呼吸も、気まぐれな一言も。どこまでが“録る”べきものなのかって」

文蔵は、ノートに目を落としたまま言った。

 

「……“音”を記録するのって、“気配”を残すことと、似てるかもな」

 

夏彦が、ゆっくりと目を細めた。

 

「文蔵、おまえ、たまにそういうこと言うよな」

 

「いつも言ってるだろ」

 

「いや、言ってない」

 

すぐそばで、彰良が吹き出す。

 

澪は苦笑しながら、麦茶の残りを一口飲んだ。

風の音が、窓の外からも、スピーカーからも重なって聞こえる。

 

それでも、誰も気にしない。

それが“今ここにある音”で、それと一緒に過ごしている自分たちを、ちゃんと理解していた。

 

記録された音。記録しないまま流れていく音。

 

どちらも、確かに“ここにあった”。

 

文蔵は鉛筆を持ち直し、再びノートに向かう。

その音さえも、どこかに“残って”いくような気がしていた。

 

───

 

 午後三時を少し過ぎた頃、夏彦が「ちょっと休憩にしよう」と声をかけた。

 全員が、ほっとしたように筆記用具を置く。集中が切れたわけじゃない。ただ、音のなかで過ごすことは、意外とエネルギーを使うということを皆が知っていた。

 

「飲み物、まだあるよ」

 

 冷蔵庫を指差した夏彦に、彰良が「持ってくる!」と立ち上がる。

 

 澪は立ち上がらず、ただ椅子に身を預けるように背を伸ばし、ふうっと小さく息を吐いた。

 目を閉じて、微かに流れる室内の音楽に耳を澄ませる。

 

 文蔵はというと、ほとんど無音で椅子に座ったまま、指で机をコツコツとリズムを取っていた。音楽のテンポに、わずかに合わせるように。

 

「録ってある音、流していい?」

 

 夏彦の問いに、みんなが自然とうなずく。

 リモコンで再生されたのは──波の音だった。

 おだやかで、けれどしっかりとした引きと打ち返しのある、夏の海岸の音。

 

「……これ、海、だよね?」と澪が口にする。

 

「うん。たぶん、あの日の」

 

それだけで全員が分かった。

“あの日”──波音と、花火と、風が吹く夏の一日。

 

「……次」

 

 流れたのは、軽く雨の叩く音。木の葉を打つような、やわらかい雨音。

 

「これ、夜じゃない?」

 

 彰良の声に、夏彦はうなずいた。

 

「七月のはじめ、夜に録った。商店街の裏で」

 

「……なんか、懐かしいな」

 

 文蔵の呟きに、誰かが返すことはなかった。でも、全員がきっと同じ気持ちだった。

 三つ目は、遠くで聞こえる蝉の声と、ガラス風鈴のような音。

 どこかで聴いたような、けれど思い出しきれない音。

 

「……これ、肝試しのときの鈴か?」と彰良が冗談交じりに言うと、夏彦が「それは録ってないって」と笑った。

 

「でもまあ、似てるな。山道のどこかで聴いた音だと思う」

 

「音って、不思議だよね」

 

澪がぽつりと言った。

 

「映像とか言葉と違って、“覚えてなくても覚えてる”感じがする。……聴いた瞬間に、そのときの空気とか思い出せるっていうか」

 

「言葉は、忘れてるときもあるもんね」

 

文蔵が静かに続けた。

 

「何を話したかより、どういう音だったかが残ってる時がある」

 

「“言葉にならなかったこと”が、録れてる気がする」

 

夏彦が最後に、そう付け加えた。

 

 しばらくの間、誰も言葉を発さなかった。

 ただ録音された音が部屋を満たし、みんなの心に、それぞれの“あのとき”が浮かんでいた。

 

 過去をそのままに持ってくるのではなく、

 過ぎた時間の“気配”だけを、この部屋に呼び寄せるような──そんな音たちだった。

 

 やがて、再生が終わる。

 部屋が少しだけ静かになった。

 けれど、それは「無音」ではなくて、

 “いまの音”が、静かに、確かに、ここにある時間だった。

 

───

 

 午後五時過ぎ。

カーテンの隙間から差し込む光が、淡い橙に変わりはじめていた。

壁にかけた時計が、針の音すら聞こえそうなくらい静かな空間で、夏彦はペンを置いた。

 

「……そろそろ、終わりにしよっか」

 

その言葉に、誰も「まだやる」とは言わなかった。

どこかで同じことを考えていたのだろう。ペンの音も、ページをめくる音も、自然に止まっていく。

 

澪が立ち上がり、プリントを丁寧に重ねて片づけはじめた。

 

彰良は「いやー、今回は意外とやった気がする」と腕を伸ばし、口を大きく開けて欠伸をかみ殺す。

 

文蔵は特に音を立てず、静かに自分のノートを閉じる。

 

夏彦は、床の隅に置いていた録音機材に目をやる。

 スイッチは、最初から最後まで、入れていなかった。

指先が一瞬、スイッチに触れかけて──それでも、押さなかった。

録らなかったから失われるわけじゃない。

 

 むしろ、録らなかったから、ちゃんと“今”として残った気がする。

いつもは拾い上げようとしてしまう時間を、今日はただ、過ごせた。

 

「……今日の音、録ってないな」

 

そう呟いた声が、誰に向けたでもなく部屋に漂う。

すると文蔵が、ぽつりと返す。

 

「今日は“残す日”じゃなくて、“過ごす日”だったかもな」

 

その言葉に、誰も否定しなかった。

澪が軽くうなずいて、「また、こんなふうに過ごせたらいいね」と言う。

 

「なにその、名残惜しさ全開のセリフ」

 

彰良が笑って、夏彦の背中をぽんと叩いた。

 

「でもまあ……いい空気だったな、今日は」

 

玄関で靴を履きながら、誰かが言う。

 

「次は……また澪んちか?」

 

「いや、屋上じゃない? 秘密基地ふたたび?」

 

「それ、勉強じゃなくて水遊びじゃん」

 

「夏、まだ終わってないしな」

 

 やりとりは軽くて、声に重さはない。

けれど、そのどれもが“また一緒に過ごす前提”のある会話で、

 

 夏彦は、それがひどくうれしかった。

玄関のドアを開けて、空を見上げると、夕焼けはもう終わりかけていた。

淡いグレーが混ざりはじめた空を見て、ふと夏彦は思う。

 

──録音機を回さなかったことに、後悔はない。

 

でも、耳にはちゃんと残っている。

ペンの音。誰かの咳払い。紙のすれる音。そして、休憩のあとの小さな笑い声。

 

最後に、彼らが団地の階段を下りていく音が遠ざかる。

ドアを閉めてからも、耳の奥には、まだ音が残っていた。

録らなくてもいい。残らなくてもいい。

でも、思い出せる。

今日の音は、確かに“ここ”にあった。

 

夏彦は録音機に一度も触れず、机の上のノートを閉じた。

 

 

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