夏の午後、陽射しは強いはずなのに、どこか乾いた風が吹いていた。
澪はひとり、駅前の書店にいた。特に目的があったわけじゃない。ただなんとなく、本棚を眺めて、気が向いたら何か買って帰ろう、くらいの気持ちだった。文庫コーナーの前で立ち止まる。背表紙の色がずらりと並ぶその静けさが、少し心地いい。
……と、その背後からふと気配を感じた。
「椿原」
聞き慣れた、けれどあまり人混みでは聞かない声だった。
振り返ると、想汰がいた。灰色のTシャツに、膝下丈の黒いパンツ。いつも通りの無頓着な服装なのに、不思議と違和感がない。彼は手ぶらで、ただ立っていた。右手だけポケットに入れて、目線だけこちらを向けて。
「……文蔵くんも?」
「ああ」
「ふーん」
澪は少しだけ肩の力を抜いた。気まずさも、驚きも、ほとんどなかった。ただ、「あ、いるんだ」と思っただけで、気がつけば隣に並んで歩き出していた。
ふたりで駅前を抜け、商業ビルの外に出る。日差しは強いけれど、足元に落ちる影は長くなりつつある。
近くのカフェに入って、アイスティーを頼んだ。想汰は特に迷わずアイスコーヒーを選んでいた。
「あんまり……こういうとこ来るイメージないけど」
「うん。来ない」
「だよね」
会話は短く、ときどき止まる。でも、それが不思議と心地よかった。澪はストローでグラスをくるくると回しながら、カフェの中の他の客たちをぼんやり眺める。大学生らしきグループ、親子連れ、ひとりで本を読んでいる男性。色々な“夏休み”が、そこにはあった。
「今日、なんか予定あった?」
「いや。ない」
「俺も。……でも、家にいる気分じゃなかったんだ」
「わかる」
想汰はそう言って、アイスコーヒーをひとくち飲んだ。
会話が途切れても、沈黙がきまずくなることはなかった。駅前の喧騒から一歩離れたこの空間が、ふたりにとってちょうどよい“隙間”になっていた。
そのあとは、ぶらぶらとゲームショップを覗いたり、文房具屋で新しいノートを手に取ったりした。想汰は何も買わなかったけれど、澪は小さな付箋セットをひとつ選んでいた。使うあてもないのに。
「そろそろ……帰る?」
「うん」
駅に戻るまでの道、風が少し涼しくなっていた。空の色も、少しずつ夕焼けの気配を帯びてくる。
「……文蔵くん」
「ん?」
「今日のことって、たぶんすぐ忘れると思う。でも、忘れたくないなって、ちょっとだけ思った」
想汰は特に表情を変えずに、「そうか」とだけ答えた。
改札の前で立ち止まり、自然に手を振る。
「じゃあ、また」
「うん。気をつけて」
澪は人混みに消えていき、想汰はしばらくその背中を目で追っていた。ふと時計を見て、来た道をゆっくり引き返し始める。足元に伸びる影が、ゆらりと揺れた。
何もなかったはずの午後に、ふたりの足跡だけが静かに残っていた。
───
駅前から少し外れた道を、想汰はゆっくりと歩いていた。コンクリートに染みた夕立の跡が、ところどころ灰色を濃くしている。澪と別れたあとの時間は、特に急ぐ理由もなく、ただ足の向くまま、路地裏へと誘われていた。
そのとき。
「うわっ、想汰? ……いや、まじで偶然すぎない?」
ふいに背後から声がして、振り返る。
夏彦だった。Tシャツの上にゆるいシャツを羽織り、カーゴパンツにスニーカー。首からは例の録音機材を提げていて、見慣れた無線マイクのコードがゆるく揺れていた。
「……録ってるのか?」
「ああ、ちょうどカラスの鳴き声。今の季節、住宅地と商店街の間がベストでさ」
そう言って、夏彦は小さく笑う。肩の力が抜けたその笑いに、想汰はなんとなく歩調を合わせた。
ふたりで歩く路地裏は、狭くて、少しだけ薄暗い。古びたアパートのベランダから垂れる洗濯物、カラスの羽音、遠くの車のクラクション。都市の隙間にある、濁りと静けさの混ざった空間。
「こういうとこさ、普通だったら“何もない”って思うんだよ。誰かに話すと、“何しに行ったの?”って言われる。でも俺は、なんか、……音があるだけで意味になる気がする」
夏彦の声は、録音のためか少し抑えめだった。けれど言葉の輪郭ははっきりしていた。
「意味に……するんだな」
想汰がぽつりと言う。
「ん?」
「音も、記録も。意味があるんじゃなくて……意味に、するものだろ」
夏彦は目を細めた。しばらく考えるように無言が流れ、それから言った。
「……なあ、想汰」
「うん」
「全部、残す必要って、あると思う?」
問いは不意だった。だからこそ、想汰は少し考えてから答えた。
「ないと思う。でも、残るものはある。……そういうものだろ」
「……あー。やっぱお前、俺より一歩先のとこにいるよな」
そう言って夏彦は肩をすくめた。悔しそうというより、どこか納得しているような表情。
ふたりの影が、路地裏の壁に少し長く伸びていた。夕陽が差し込み、街の喧騒の代わりに、蝉の声が背中を押すように鳴き始める。
「そろそろ、次のポイント行くわ。カラス、たぶんこの辺じゃもう鳴かないし」
「……そうか」
「想汰は? もう帰る?」
「もう少し、歩く」
「んじゃ、またな」
「うん。また」
夏彦は録音機を確認しながら、軽く手を上げて路地の角を曲がっていった。想汰はしばらくその背を見送り、ふと足元のアスファルトに目を落とす。
音は消えても、誰かとすれ違った“何か”だけが、微かに残っている気がした。
───
風が、少しだけ涼しくなってきた。
日も傾き、商店街には夕飯の買い出しをする人たちがちらほら。路地から抜けた澪は、ふと懐かしい駄菓子屋の前で足を止めていた。ショーケースの中にはカラフルなラムネと、懐かしい名前のチョコバー。扇風機が唸る店内からは、かすれた昭和歌謡が漏れていた。
「よお、澪じゃん。ひとり? ──ってか、なんか今日、夏っぽくていいじゃん、その服」
声に振り向くと、そこには彰良がいた。
アイボリーのシャツにグレーのワイドパンツ、耳元にはシルバーのピアス。アッシュブラウンの髪が日差しの下でふわりと光っていた。
「てか、ヒマなら付き合えよ。今日の俺はお菓子の目利きになる予定でね」
「予定って……」
「今、思いついた!」
あまりにも自信たっぷりな即興に、澪は小さく息をついた。それでも、「まあ、いいけど」と答えたのは、たぶん自分でも不思議じゃなかった。
ふたりで並んで歩く。駄菓子屋の袋を片手に、道端の風鈴がチリンと鳴る。商店街のアーケードには、古い祭りのポスターがいくつか残っていて、その色褪せた朱色が、妙にきれいに見えた。
「そういやさ、澪ってさ。服、いつも夏っぽいよな。なんか涼しげっていうか、こう……“風”っぽい」
「……風?」
「うん。見てて、勝手に爽やかな気持ちになる」
「なんそれ」
「褒めてんの! 照れてんのか?」
「別に……」
小突かれて、澪はそっぽを向いた。でも、耳の先が少しだけ赤くなっていたのは、たぶん風のせいじゃない。
「さっき、文蔵くんと会ったんだ」
澪がぽつりと言うと、彰良は「へえ」と相槌を打つ。
「夏彦とも会ったって。今ごろ、どこで録音してんだか」
「それ、俺もどっかで出くわすんじゃね?」
「かもね」
その“かもね”の言い方が、やけに柔らかくて、思わず澪は足を止めた。
「あのさ、彰良」
「ん?」
「……また、こういう日って、あると思う?」
彰良は立ち止まり、少しだけ空を見上げた。
西の空が、オレンジに染まりはじめていた。
「あるさ。ていうか、俺がつくるし。次は、なんかちゃんと計画して遊ぼうぜ。今日のは偶然すぎて、“会えたけど足りない”って感じ」
「……うん」
駄菓子屋の袋が、風に揺れた。
「じゃ、またな。澪もどっか寄るんでしょ?」
「うん。じゃあ、また」
ふたりは、違う方向へと歩き出す。偶然と偶然の合間に、誰にも知られない小さな会話だけが、そっと残っていた。
───
「おーい、そこの耳にコードぶっ刺してる人! もしかして、夏彦くーん?」
明らかにわざとらしい大声に、夏彦はイヤホンを片方外した。
振り返ると、案の定そこにいたのは、派手な動きで目立ちまくっている朝倉彰良だった。
「……マジで、よく見つけるね、あんたは」
「んふふーん。だって、なんかそれっぽい後ろ姿してたもん。音拾ってそうな雰囲気、出てる出てる」
「俺、蚊じゃないんだからさ……」
夏彦はちょっと肩をすくめながら、録音機を小さく掲げて見せた。
「で? 今度はどこの音?」
「商店街のアーケードの軋み音。ちょっと古くて、風が吹くとギギって鳴るんだよ。ほら、あれ」
指さした先で、ちょうど鉄骨の繋ぎ目がきしんだ。夕方の風がゆるく吹いて、誰も気にしないような雑音が、夏彦にはちゃんと聞こえている。
「すげー……ほんとに拾ってるんだな、こういう音」
「ふつうは拾わないけどね。俺は、たぶん、残しときたいだけ」
「ほうほう、じゃあ今日という日の“音”も記録しちゃってるってわけか」
「んー……でも今日は、なんか“記録より記憶”寄りかも」
「お、どした、ロマンチック発言。恋でもした?」
「ないない。ていうか、お前が言うと全部ギャグにしか聞こえない」
「失礼なやつだなー!」
冗談を飛ばしながらも、足取りは自然と並んでいた。商店街の端にあるベンチに腰を下ろす。近くの金物屋から、古びた風鈴の音が聞こえた。
「彰良は? 今日、何してたの」
「んー……なんとなく、ぶらついてただけ。そしたら澪に会ってな」
「……マジで? 俺も想汰と会った」
「なんそれ、偶然過ぎじゃね?」
「なに、今日って“ばったりデー”?」
思わず顔を見合わせ、ふたりで笑う。
「なあ、さっき澪にも言ったんだけどさ。偶然って、けっこう良くない?」
「うん。予定じゃないから、変に気負わなくていい」
「そうそう。それで、でもさ──こういうのも、“残っちゃう”んだよな。不思議と」
夏彦の言葉に、彰良はふと真面目な顔になる。
「……ああ。わかる。記録も記憶も、どっちもなにかしら残っちまうんだよな。予想外って、結構、強い」
ふいに沈黙が落ちた。
だけど、その沈黙はどちらも気まずくなくて、風が通りすぎる音だけが、ふたりのあいだにそっと流れていた。
「じゃ、俺、そろそろ帰るかな」
「おう。またどっかで、ばったりな」
「……次は、ばったりじゃなくて、ちゃんと約束してもいいかもな」
「お、デートの誘いですかー?」
「帰る」
夏彦は無言で立ち上がり、イヤホンを戻しながら歩き出した。その背中に、彰良は楽しそうに手を振って、ぽつりと呟いた。
「──今日って、やっぱ、いい日だな」
───
夕暮れが、街の輪郭をゆっくりとぼかしていた。
西の空はオレンジと薄紫に染まりかけていて、遠くから聞こえる踏切の音が、その静かな終わりを告げているようだった。
文蔵想汰は、駅の改札前で立ち止まった。
今日は、特に目的があってここへ来たわけではなかった。昼間は澪と少しだけ歩いて、別れたあとはなんとなく川沿いを散歩し、本屋で立ち読みをして、気がつけばここへ戻ってきていた。
改札の上に設置されたアナログな時計が、午後五時二十二分を指している。
「……」
なんとなく、帰るには早いような気がして、改札横のベンチに腰を下ろす。
そのときだった。
「──おいおい、また会っちゃった?」
聞き慣れた軽い声に、顔を上げる。
案の定、そこに立っていたのは彰良だった。掻き上げたような髪が夕陽を受けて、やけに目立っている。
「お前も帰り?」
「そう。でも、なんか……」
彰良が言いかけたそのとき、
「──あれ、彰良?」
背後から別の声。振り向くと、商店街のほうから澪が小走りで近づいてくる。
「椿原、もしかして……」
「うん。彰良とさっき別れたと思ったら、今度はここで……」
そして──その隣に、もう一人の影があった。
「やっぱり、みんなここに来る運命だったのかもな」
そう言って歩いてきたのは、録音機材を首に提げた夏彦だった。
文蔵は思わず、肩を小さくすくめた。
「……どうして、こんな偶然が成立するんだろう」
「知らん。でもなんか、すげぇな」
「今日、なにが起きてるんだ……?」
四人が改札前に並んだ瞬間、しばしの沈黙が流れる。けれどその沈黙は、どこか面白くて、温かかった。
「ってか、俺、今日だけで全員とばったりしたわ。これもう、奇跡ってやつじゃね?」
「……記録しておけばよかったな」
夏彦がぼそりと呟くと、文蔵は小さく笑って、頭を振った。
「記録しなくても、残ると思う」
「……だね」
夕陽が改札のガラスに反射して、四人の姿をゆがませて映し出す。
誰かがぽつりと、言った。
「──予定がない日って、案外いいよな」
それを皮切りに、
「わかる」
「むしろ、今日が一番“予定”だったかも」
「誰かが決めたスケジュールよりも、こっちのが、ずっと面白い」
自然と笑いがこぼれる。
夕焼けは徐々に赤みを増し、やがて夜の帳へと変わっていく。
四人は、いつものように、特に約束もせず、それぞれの帰路についた。
でもきっと、誰もが今日の“偶然”を、少しだけ覚えているのだろう。