坂道を上りきった先、川沿いの橋はすでに人で賑わっていた。
川面に揺れる提灯の光。夕闇に沈む空。
日中の暑さは和らぎ、代わりに風が肌をなぞるように吹いていた。澄んだ風ではなく、少し湿気を含んだ、夏の終わりの風。
「……うわ、すご。人いっぱいいるな」
彰良が目を細めて辺りを見渡す。黒地に金の鯉の模様が浮かぶ甚平が、ぼんやりと照明に照らされている。
その隣で澪は、着物の裾を押さえながら人の流れに合わせて歩いていた。髪を上げた襟足には、微かに汗のきらめきが残っている。
「こっち、少しスペースある」
文蔵が指差したのは、橋の中央から少し外れた場所。欄干のそばに小さな空間があって、そこなら川面と夜空が同時に見える。
四人は並んでそこに立ち、肩をすこし寄せ合うようにして風に吹かれた。
「……いい場所だね」
澪がふと呟く。どの方向を見ても、揺れる光とざわめきが重なり合って、賑やかで、それでいてどこか静かだった。
水音と人波。提灯の灯りが川に映り、歪んではまた戻る。
夏彦は肩にかけたバッグから録音機を取り出す。親指で電源を入れかけ、赤いライトが一瞬点灯する──が、そのままの動作でスイッチを押し戻した。
「……いや、今の音じゃないな」
かすかにそう呟いて、機材をバッグに戻す。
今、この瞬間に《リプレイ》は無粋だ。
「……録る?」
文蔵の問いかけに、夏彦はかすかに眉を上げ、少し笑った。
「……いいや。録らないよ。たぶん、録っても違うんだよな、今日のこれは」
「違うって?」
「写真も、音も、記録にはなる。でも……」
夏彦は録音機を持った手を少しだけ上げて、スイッチを入れずにまた下ろした。
「こんな風景、写真にも録音にもできないなって思って」
言葉を受けて、澪がふっと笑う。
「うん。わかる。目で見たままじゃないんだよね。音も、匂いも、風も、肌に触れる感じも……いっぺんには残せない」
橋の上を通り抜ける風が、ふたりの言葉の隙間を吹き抜けた。
文蔵は手にしていたノートを開きかけて、やめた。
代わりに、ペンを閉じ、そっとページを指でなぞるだけにした。
「……想汰くんも今日は、書かないの?」
澪の問いに、文蔵は一度だけゆっくりと頷いた。
「うん。書いても、きっと、全部は書ききれないから」
「らしくないけど、たぶん正解」
彰良がそう言って笑う。
それまで何か喋ろうとしては口をつぐんでいたらしい。
夜風が乱す前髪の奥に、どこか遠くを見るような目をしていた。
「にしても……」
彰良が空を仰いだ。
「こっからが本番だろ。なあ?」
その言葉に、三人の視線が同時に夜空へと向けられる。
遠くで、ひゅう、と風とは違う音がした。
それは風ではなく、空に向かって放たれた小さな火のうねり。
誰かが息をのんだその瞬間、
ひゅう、という音が空へ駆けのぼり、一拍の静寂を挟んで、「ドン!」と、夜空がひとつ、破裂する。
乾いた爆ぜる音とともに、夜空にまたひとつ、大きく花開いた。
黄金色の光が、川面と橋の上と、彼らの顔を照らす。
花火は、まるで夜をひと時だけ明るく塗り替えるように咲いては散り、
その一瞬の光を残して、また闇へと戻っていった。
四人は並んで橋の欄干に立っている。
誰も喋らず、ただ空を見上げていた。
耳をつんざくような連続音が打ち上がり、
次々に赤、青、白の花が咲き乱れる。
空の広さを、ひとつずつ確かめるように。
まだ始まっていないようで、もう始まっていた。
音はゆっくりと、空から落ちてきた。
「……来たね」
「始まった、か」
四人の肩がわずかに触れ合う。けれど誰も、それを気にしなかった。
目は空に、耳は風に。手のひらには何もないけれど、
誰もが、なにかを確かに握っているような気がした。
その夜が、少しずつ深まっていく。
───
最初の一発が空を割り、視界が閃光に染まる。
文蔵は、何も言わない。
言葉にできない、というより、言葉にする必要がなかった。
夜空に浮かぶ光の線が、まるで自分の胸の奥をなぞるようだった。
ひとつの音に、一瞬の光に、なぜこんなにも心が揺れるのだろう。
文蔵は無意識にノートへ手を伸ばしかけ──そして止めた。
炎の色が瞳に映るその瞬間、自分の中で何かが「違う」と告げていた。
(今、記録しても、意味がない)
頭の中でそう言葉が浮かび、静かに手を下ろす。代わりに、目を閉じる。音とまぶた越しに見える光だけが、確かに胸の奥に残っていく。
手の中には、閉じられたままのノート。
書かないと決めたそれは、今日だけはただの重みとして手の中にある。
《オムニバス》で記録しなくても、それでも、確かに残る気がした。
この光も、音も、誰かの横顔も。
それは「記憶」になると、どこかでわかっていた。
───
夏彦は、録音機に触れなかった。
少しだけ迷って、ポケットの中に入れたまま、空を見上げている。
目の前で散っていく花火の音は、どれも知っているようで、知らない音だった。
似ているけれど、違う。それはきっと、「誰と聞くか」で変わる。
音は同じでも、きっとその音は、隣に誰がいるかで残り方が違うのだ。
「音」としてではなく、「記憶」として残したい。
そんな気持ちが、いまは強かった。
「録らない」という選択も、悪くないな。
そう思いながら、ふと横を見ると、
隣で文蔵が、同じようにノートに触れずにいた。
ふたりは何も言わなかったけれど、
その沈黙のなかで、なにかが交わされた気がした。
───
「うわ、今の見た!? でかすぎだろ!」
彰良の声が、ひときわ大きく夜空に届く。
「次は金色か!? いや銀色? おれの髪と甚平に合わせてくれよ!」
そう言って、ふざけた調子で両手を広げる彼の後ろで、
澪がふっと吹き出す。
「……誰に言ってるの、それ」
「いや、空に?」
「甚平の色に合わせて打ち上げ花火してくれる神様、いるのかなあ」
「いたら俺もうちょっと人生うまくいってる!」
そんなやり取りがあって、ふたりは笑った。
だけど、澪は知っている。
彰良のその賑やかさの裏に、どこか不器用な優しさがあることを。
さっきの空気が、少し静かになりすぎたとき、
あえて大きな声を出して、雰囲気を軽くしたのも、彼なりの気遣いだった。
ありがたい、とまでは言わないけれど、
「……それ、助かるんだよ」
とは、小さく思った。
花火の光がふたりの顔を照らし、
一瞬、銀髪が金色に染まる。
澪はそれを見て、
「あ、さっき言ってたやつ。今の花火、甚平に合ってたかもね」
と、ぽつりと呟いた。
彰良は目を丸くして、すぐに笑った。
「お、マジで!? じゃああれ俺専用ってことで!」
「はいはい、よかったね」
ふたりのやりとりに、ふと吹いた風が応えるように通り抜けた。
───
ドン、ドドン、と空に花が連なる。
光が流れて、また闇が戻ってきて、
誰かの横顔を、そっと浮かび上がらせる。
橋の上、四人は並んで、空を見上げる。
肩と肩の距離。風と風の温度。
それは「近すぎない」けれど、「遠くもない」絶妙な距離。
祭りの喧騒で、誰かと過ごす、静かな時間。
言葉数は少なくても、音がなくても。
ただ「ここにいる」という実感が、
なによりもはっきりと胸に刻まれていた。
───
花火が終わったあと、空はしんと、重たい闇に包まれていた。
光も音も、風に散った煙の匂いも、すべてがさっきまでとは違う空気をまとっている。
橋の上から歩き出した四人は、川沿いの通りをゆっくりと戻っていく。
屋台通りは、いつのまにか少しずつ静けさを帯びていた。
明かりの落ちた店もあり、売り切れの札が下がっている屋台もある。
「終わっちゃったな、って感じするなあ」
と、彰良がぽつりと呟いた。
その言葉に応えるように、遠くから聞こえてきたのは、祭囃子の音。
けれど、それももう少しで終わるとわかるような、どこか緩やかなリズムだった。
「……うん」
澪が、小さく相槌を打つ。
今日着てきた着物が、すこしだけ肩に馴染んでいる。
着慣れない衣装はいつもより自分を背筋正しくさせていたけれど、
今はそれすらも、ただの一日を終える服のようだった。
「花火、綺麗だったな」
夏彦が、歩きながらふとそう言った。
録音機材はもうバッグの中。
音ではなく、記憶の中に残したそれは、まだ耳の奥で小さく響いている。
「録らなかったんだな」
文蔵の静かな声が重なる。
「うん。……たまには、ね」
と、夏彦は笑った。
「じゃあ、おれの甚平に合わせてくれたやつも録ってないの!? マジで!? 限定花火だったのに!?」
彰良がすかさず騒いで、三人がふっと笑う。
「だから、それ誰も確認してないから」
「というか、甚平の色に合わせて花火が出るわけないでしょ」
「じゃあ来年は合わせにいこうぜ! おれ全身ド派手にしてくから!」
軽口と笑い声が混ざって、また少しだけ歩くスピードが上がった。
屋台通りの端のあたり、まだ営業中のたい焼き屋の前で、澪が立ち止まった。
「……あ、これ好きなんだよね」
「買ってく?」
文蔵がさっと財布を出しかけて、
「いや、自分で買うから」と澪が笑う。
「俺もそれ食べたかった」
夏彦が後ろからのぞき込んで、
「俺はさっき焼きそば三玉食べたし……」と彰良が呟く。
「焼きそばは焼きそば。たい焼きはたい焼き」
「うるせえ、おれの胃に入れば全部一緒!」
焼き立てのたい焼きを一つずつ手に持って、
四人はまた、歩き出す。
口にした瞬間、外はカリッと香ばしく、中は熱々で甘い。
ふーふーと冷ましながら、誰からともなく言葉が少なくなっていく。
そのとき、澪がぽつりと呟いた。
「……あんまり、夏、終わってほしくないかも」
空気が、すこしだけ止まる。
誰もすぐには返事をしなかった。
しばらく歩いて、たい焼きを食べ終えたあと。
文蔵が、不意に小さな声で答えた。
「……でも、記憶には残るよ」
その言葉は、まるで祭りの灯りがひとつずつ落ちていくように、静かに響いた。
「……なんか、文蔵が言うと重みがあるんだよな」
「だね。本人がちゃんと“記録のひと”だから」
そう言いながら、夏彦は録音機をそっとバッグの奥にしまい直した。
もう、今日は音を拾うつもりはない。
足元には屋台からこぼれた紙くずや、浴衣の裾の名残、帰る人たちの靴音。
風が、涼しくなってきた。
「次は……文化祭、だっけ?」
澪が、少し前を見ながら言った。
「うわ、出た! 現実! 俺まだなんにも準備してねーよ」
と、彰良が頭を抱える。
「そもそも何やるんだろ、うちのクラス」
「え、決まってなかった?」
「決めるのは夏休み明け最初のホームルームでだろ」
ふたたび始まった小さな騒ぎとツッコミ
祭りの余韻にちょうどよく溶けていく。
祭囃子は、いつのまにか聞こえなくなっていた。
それでも、歩いている足取りは重くない。
終わっていく、けれど、残るものがある。
そんな夜のにおいが、屋台通りを包んでいた。
───
午後九時。
駅前の広場は、昼間とは違う色合いに沈んでいた。
照明の明かりは柔らかく、でもどこか現実的で、祭りの提灯とは明らかに違っていた。
さっきまで歩いていた屋台通りの賑わいも、すっかり背後に遠ざかっている。
ここで、今日の四人は解散となる。
「じゃ、そろそろ帰るか」
最初にそう言ったのは夏彦だった。
彼は肩のストラップを調整しながら目線をあげる。
けれど、その顔にはどこか名残惜しさがあった。
「……今日は、録らなかったな」
彼はぽつりと呟いた。
「録ってても録ってなくても、たぶん覚えてると思うよ」
と澪が、横から返す。
着物の裾を片手で押さえながら立つ澪の表情は、少しだけ名残惜しそうに揺れていた。
でも、どこか満ち足りているようでもあった。
「俺は録ったぜ? お前らの顔、心に焼き付けた」
と、彰良が笑いながら指差す。
「銀髪でそれ言うと、なんか説得力ない」
「ほんとに銀髪だったのかすら怪しいんだけど……」
「うるせえ、記憶は上書きされるんだよ!」
四人で最後に笑って、少しだけ、足元を見る。
この時間が終わることに、誰もが気づいている。
でも、それを寂しいと言葉にすることはなかった。
「……じゃあ、また」
文蔵が静かに言う。
それだけで、誰もが自然と頷いた。
夏彦は駅へ。電車で少し離れた団地まで帰る。
彰良は自転車で来ていたから、反対側の通りへ。
澪は徒歩圏内。文蔵と方向は一緒だけど、途中で道が分かれる。
「じゃ、そっち曲がったら、すぐなんで」
と、澪が少しだけ頭を下げた。
「気をつけて」
「うん。文蔵くんも」
信号が点滅しはじめたタイミングで、澪は向こう側の歩道へと渡っていく。
その背中が遠ざかっていくのを、文蔵はしばらく見ていた。
そしてふと、足を止めて、空を見上げる。
夜の空には、もう花火はなかった。
けれど、目の奥にはまだ残っている。
大きく開いて、静かに消えていった、あの色と光。
─きっと、記録しなくても残るものはある。
そう思いながら、文蔵はバッグの中のノートに手を伸ばさず、そのまま歩き出す。
その道はいつもと変わらない帰り道だけれど、
今日は、少しだけ違って見えた。
風が吹いた。
あの夏の終わりの風だ。
誰かの声が聞こえるわけでもなく、
何かを約束したわけでもないけれど。
「……また」
そう呟いた声は、誰に向けたものだったのか、
自分でもわからなかった。
それでも、たしかにまた、会える気がした。
次の季節へと、静かに歩きながら、
それぞれの夏は、ゆっくりと終わっていった。