放課後に、僕らは   作:やまざる

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二学期
また、はじまるから


 

 

 朝の陽ざしは、夏の終わりにしてはまだまぶしいほどで、蝉の声だけが取り残されたように続いていた。

 

 澪は制服の襟を軽く直して、改札を出た先のロータリーで立ち止まった。着慣れたはずの学生服が、少しだけ窮屈に感じる。けれどそれは、背丈が伸びたからでも、布地が暑いからでもない。夏の間に身についた“非日常”が、まだ身体に馴染んでいるだけだった。

 

「……あ」

 

 視線の先、ひとりの少年が駅の柱の陰から現れた。文蔵 想汰だった。

 いつものように無言で、いつものように、どこか遠くを見ているような眼差し。その手には、白いメモ帳が握られていた。

 

「おはよう、文蔵くん」

 

 声をかけると、文蔵は軽くうなずいた。それだけなのに、なぜかほっとする。言葉は少ないが、その立ち方やうなずき方、歩幅ひとつひとつに、彼の“いつも”がにじんでいる。

 

「……なんか、久しぶりだね。制服の文蔵くん」

 澪がそう言うと、文蔵はちらりと自分の制服姿を見下ろし、首を少し傾けた。

 

「……そうかもな」

 

 わずかに口元が緩んだような気がした。文蔵が見せる感情は、ごく微細だ。それでも、澪にはそれが、きちんと伝わってくる。

 

二人はそのまま、並んで歩き出した。

 

 

 校門までの道のりには、夏のなごりがあちこちに残っていた。蝉の抜け殻。日焼けした看板。誰かが落とした折りたたみ傘。季節の終わりは、風景の端々にしがみつくようにして残っている。

 

「……もう、夏休み終わったんだね」

 

澪はぽつりとつぶやいた。

 

文蔵は返事をしなかったが、その歩みは一瞬だけ、わずかに遅れたようにも思えた。

 

それでも、二人は歩き続けた。言葉にしなくても、共有できる“時間”がそこにあるような気がしたから。

 

 

校門前に着くと、聞き覚えのある声が背後から響いた。

 

 

「おーい、澪、想汰!」

 

振り返れば、銀髪を風に揺らした朝倉 彰良が手を振りながら歩いてきた。その横には、私服のようなラフなシャツ姿の夏彦が、録音機材を斜め掛けしてついてくる。

 

「ほんとにそのままで来たんだな、銀」

 

「当たり前だろ。俺的にはこれが完成形。“夏の儚さ、象徴”ってやつ?」

 

「“儚さ”って言葉に銀髪が似合うのはファンタジーだけでしょ……」

 

「はいはい、夏彦は録音してないで助けて」

 

「おれ今日、耳で記録するモードだから」

 

 軽妙なやりとりが始まると、校門をくぐるのが少しだけ楽になった気がした。

四人が揃った。たったそれだけのことが、どうしようもなく“嬉しい”と感じる朝だった。

 

 

そして、正門の先には、懐かしいあの校舎。

新しくも、戻ってきたようでもあるその景色を前に、澪はもう一度、制服の袖口を見下ろす。

 

「……また、始まるんだな」

 

その言葉が誰かに届いたかはわからない。でも、たぶんそれでいい。

 

次のページに進む前に、一度だけ深呼吸をして、四人は一歩を踏み出した。

 

───

 

体育館の扉がゆっくりと閉じられ、湿った夏の空気が一気に満ちる。

 

ざらついた校内放送の音声がスピーカーから流れ、しばらくして、壇上のマイクが「キーン」と耳障りなノイズを響かせた。

 

 

夏彦はそのすべてを、耳の奥で丁寧に拾っていた。

 

「始業式を、始めます」

 

教頭先生の低い声と同時に、左右の壁に設置された扇風機が順に回り出す。その音と、誰かが制服の袖を擦る音、数百足のローファーが床に触れる音。

 

音は、記憶の底に沈んでいく前に、一瞬だけ輪郭をくっきりと描く。

 

「……この時間、案外好きかも」

 

ぼそりと、誰に言うでもなく呟いた言葉が、前の列に座る友人の背中に届いたかどうかはわからない。

 

夏彦は肩掛けの録音機をそっと撫でた。けれど、今日はスイッチを入れていない。ずっと、それでいいような気がしていた。

 

“録る”ためじゃない、ただそこに“いる”だけの音。

 

それは、記録できない時間にしかないものだと思う。

 

 

 隣では、文蔵が小さなメモ帳を開いていた。ページをめくる音が、誰の話よりもはっきりと耳に残る。

その筆先は、なにかを丁寧に追っているようでもあり、ただ動かすこと自体が目的のようにも見えた。

 

「……記録してるの?」

 

夏彦が小声で尋ねると、文蔵は顔を上げて一瞬だけ視線を返した。

 

そして、ふっと微笑む。

 

本当に小さな、小さな笑みだった。でも、その表情の奥にあるものを、夏彦はなんとなく理解した気がした。

 

“記録してるわけじゃない。ただ、残るかもしれないと思っただけだ”

 

そんな声が、音に乗らずに伝わってくるようだった。

 

 

壇上では、校長の話が終盤に差し掛かっていた。未来を見据えた生活態度、気持ちを新たに、何事にも全力で。

 

そんな言葉たちが、音として、風として、波のように通り過ぎていく。

 

誰かの咳払い。制服の襟を正す気配。校舎の梁を鳴らす風の音。

それらすべてが、この空間の一部になっていた。

 

 

そして、ふと。

 

「……もうすぐ、文化祭だね」

 

澪の声だった。少し離れた列から届いたその言葉に、夏彦はそっと顔を上げる。

 

遠くの方で、彰良が首を傾げて「はやくね?」とでも言いたげに口を動かしている。

 

それを見て、笑った。

 

 

体育館の天井には、去年から変わらない照明が並んでいた。夏彦はその一つを見つめながら、心の中で録音ボタンを押した。

今じゃない音は、録らなくても、残るときがある。

 

 

そして、始業式が終わる。

 

ざわめきが戻ってきた体育館のなか、四人は再び、同じ教室へと歩き出した。

 

“いつも”の続きを、それぞれの音で刻みながら。

 

 ───

 

教室に戻ってくると、どこかほっとする気配があった。

 

誰かが椅子を引く音、窓の隙間から入ってくる蝉の声、教卓にノートを置く音。

 

文蔵はそうした“日常の音”を静かに耳に受け取りながら、自分の席へと腰を下ろした。

 

机の位置が、ほんの少し変わっている気がした。数センチほど左に寄っていて、壁に近くなった分、少しだけ涼しい。

 

まあ、別にいいか。

 

ノートの背表紙を撫でながら、彼はそう思った。始業式は終わった。二学期が始まる。

 

それは大袈裟な言葉ではなく、ただ、椅子に座ってノートを開くというだけの動作に宿る事実だった。

 

 

「おーう、2年7組ー!元気してたかー!」

 

教室の扉ががらりと開いて、彰良が戻ってくる。

 

光を反射するような銀髪に、教室の空気がほんの少しだけざわめく。

 

その姿はすっかり馴染んでいて、四限組は誰ももう何も言わないくらいには、それが”朝倉彰良”になっていた。

 

「やっぱ、俺っぽいっしょ?」

 

と、彰良自身が満足げに髪をかき上げながら言う。

そのあと教室をぐるりと見渡して、夏彦と目が合い、

 

「なつぴこ、オレの席ちょっとズレてね?」とくだらない文句をつける。

 

「知らんよ。太ったんじゃない?」

 

「うっそぉ!?」

 

わずかに響く笑い声と、静かに笑う澪。

 

文蔵はそんなやりとりを目で追いながら、手のなかのノートをぱたんと閉じた。

 

 

始まったばかりの教室は、少しだけ埃っぽくて、でもやっぱり、落ち着く場所だった。

 

窓の外では蝉が鳴いていて、風がカーテンをかすかに揺らしている。

 

誰かが窓際の席に腰かけ、誰かがドリンクを手にして笑っている。

 

「ねえ」

 

澪がふと、文蔵の隣の席から声をかけた。小さな声。

 

「……また、こうして戻ってこれたね」

 

それは独り言のようでもあり、確認のようでもあった。

 

文蔵は言葉で返さず、ただ頷く。それで十分だった。

 

「でさ」

 

彰良が急に立ち上がって、いつもの調子で言う。

 

「二学期最初の勉強会、いつにする?」

 

「早くない!? 今日からなんだけど!?」

 

澪の素っ頓狂なツッコミに、夏彦が「その返しが聞きたかったんだよ」と笑う。

 

文蔵も、口角をすこしだけ上げた。

 

 

なんてことのないやりとり。

でもそれが、たしかに戻ってきた日常の証だった。

 

 

二学期という言葉の響きは、まだ肌に馴染まないけれど――

 

「またここで勉強して、話して、時々黙って、時々笑うんだろうな」

 

そんなふうに思える場所があることが、文蔵にとっては、すでに少し特別だった。

 

 

廊下の先ではチャイムの音が鳴っていた。

 

四人の教室に、変わらない一日が、またひとつ、始まろうとしていた。

 

───

 

放課後の教室は、午前中の喧騒が嘘のように静かだった。

 

机の上には、それぞれが買ってきた清涼飲料水や、食べかけの駄菓子、ノートの切れ端。

 

誰かが脱ぎかけたカーディガンが、椅子の背にふわりとかけられている。

 

想汰、澪、夏彦、そして彰良。四人とも制服姿のまま、めいめいのペースで居座っていた。

 

 

特別な会話があるわけでもない。

 

それでも、誰も帰ろうとは言わなかった。

 

 

夏彦は窓辺に座り、開いた録音機を膝に乗せながら、外の風の音に耳を傾けていた。

 

彰良はプリントの裏に落書きをしていて、途中からそれがいつの間にか「次の勉強会でやる遊びリスト」になっていた。

 

澪はその落書きを苦笑しながら横目で見つつ、日直ノートに黒板の連絡事項を書き写している。

 

文蔵はそんな全体の空気を、ただじっと、眼差しに記録していた。

 

 

すると、教室の扉が「こん」と控えめにノックされ、開いた。

 

「……あら、まだいたのね、四人とも」

 

優しい声がした。現れたのは、小橋先生だった。

 

髪を後ろで軽くまとめた姿は、相変わらず穏やかで、けれどその目元にはどこか“気づいている”光がある。

 

「始業式の日にしては……珍しいわね、こんなに静かな教室」

 

先生はそう微笑んでから、目を細めた。

 

「でも、なんだかいいわね。こういう時間」

 

それだけを言い残して、小橋先生は扉を静かに閉めた。

 

余計な言葉も指導もなかった。ただ、そこにあった“空気”を肯定するように。

 

 

再び静寂が訪れる。

 

けれどその静けさは、どこかあたたかかった。

 

外では、風に乗って木の葉がこすれる音と、遠くのグラウンドで吹奏楽部が鳴らす音がかすかに混じっていた。

 

 

「……さ」

 

ふと、夏彦がぽつりと声を出す。

 

「今年の文化祭、なにする?」

 

 「今から準備すれば、たぶん派手なことできるぜ?」と彰良が悪ノリを始める。

 

「去年は何してたっけ」と澪が首を傾げ、

 

「……俺はわたあめ」と文蔵がぼそっとつぶやく。

 

 

「あ、それ地味に人気だったやつ!」

 

「ただし、終盤に砂糖切れ起こしたやつな」

 

「じゃあ今年は逆に、全員スーツでやるか」

 

「屋台でスーツ!? 溶けるわ!」

 

 

くだらない会話が、静かな教室にぽこぽこと浮かびあがっては、ふわりと消えていく。

 

記録するほどではない。

 

けれど確かに“ここ”にあった、そんな時間だった。

 

 

文蔵は、膝の上に置いたノートを一度だけ開いて、そっと閉じた。

 

記録しようか迷ったその瞬間。

 

けれど、ページは白紙のままでも良かった。

 

これはたぶん、記録しないでいい時間だ。

 

 

「じゃあ、また明日」

 

そう言ったのは、誰だったか。

 

だけど全員が、自然とそれに頷いて立ち上がった。

 

 

午後の光が教室に差し込む中、四人の影がゆっくりと伸びていく。

 

それは、記録も録音もされない、けれど確かに積み重なっていく“今”だった。

 

 

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