教室の扇風機が、ぎい、と低い音を鳴らして首を振っていた。夏休みが明けて三日目。まだ制服のシャツは肌に貼りつくし、窓からは蝉の声が混ざったぬるい風が吹き込んでくる。澪は教室の隅の自分の席に座ったまま、机の上に両肘を置いて頬杖をついていた。
「なあなあ、文化祭、なにやる?」
そんな声が前の列から聞こえてきたのは、HRが始まる数分前だった。何人かのクラスメイトがすでにわらわらと集まり、小さな輪になって喋っている。机と机の間に無造作に座り込む者もいれば、教卓の前で身振り手振りを交えて熱弁をふるっている者もいる。
「演劇とか?」「やだよ、恥ずかしいし」「屋台とかできんの?」「カフェとか……?」
熱気と声が混ざっていく教室の空気に、澪はやや居心地の悪さを感じながらも、それを悪いとは思わなかった。むしろ、にぎやかさのなかにほんの少しの親しみを感じていた。
「なんか、去年とちょっと違うよな……」
独りごとのように呟いたその言葉に、斜め後ろの席から小さな反応が返ってきた。
「……ね」
振り返ると、文蔵が窓の外を見ながら、ぼそっと返事をした。どこか気の抜けたようなトーンだったが、その一言にはちゃんと“分かってる”感じがあって、澪は小さく笑った。
二年七組。この教室で彼と出会ったのは、ほんの半年前のことだ。最初は全然喋らなかったくせに、今ではその沈黙に妙な安心を覚える。隣の席ということもあるが、彼の無言は、拒絶ではなく“選ばれた言葉”の一部であることを、澪は知っている。
「……暑いね」
「……うん」
そこへ、ガラリと後ろのドアが開いて、軽快な足取りで入ってきたのは夏彦だった。首にタオルをかけたまま、少し汗ばんだ額を手の甲で拭っている。
「教室、サウナかよ……あ、ハンディ扇風機こっち向けていい?」
「うん、いいよ」
夏彦が近づいてくると、それだけで部屋の温度が少し和らいだ気がした。風鈴みたいな空気を連れてくる人だ、と澪はよく思う。
「澪、まだ慣れない?」
「え、なにが?」
「このクラスの騒がしさ」
澪は一瞬考え込んだあと、ふっと笑った。
「ちょっとだけ。でも、去年よりは、好きかも」
「お、成長?」
軽く笑いながら、夏彦が隣の机に鞄を置いた。その横で、文蔵は相変わらず静かにノートをめくっている。何かを書き留めているのか、ただページをなぞっているのかはわからない。でも、その手の動きはどこか落ち着いていて、やっぱり“ここにいる”感じがした。
そして数分後、前のドアが勢いよく開き、一番うるさいやつが入ってくる。
「よっ、四限組! 文化祭で伝説残すか?」
「銀じゃなくなってる」と澪。
「うっせ、校則だよ、校則。気に入ってたけどなー、あの髪。めちゃめちゃ怒られた。」
ぶつぶつ言いながら、彰良は自分の席の背もたれに鞄を引っかけて座る。相変わらず、どこか漫画のキャラみたいな存在感だが、そのくだらない一言が教室に馴染んでいた。
チャイムが鳴り、担任の小橋先生が教卓に立つ。
「じゃあ、今日は文化祭の話を進めていきましょうか」
ふわりとした声で始まったHR。けれどその柔らかな調子の中に、ちょっとだけ張りつめた空気があった。去年の文化祭ははやり病で縮小されたと聞いた。今年は“ちゃんとやれる年”だ。だからこそ、クラスのあちこちから本気のアイデアが飛び交っているのだろう。
そして、その真ん中で四限組の四人も、またひとつの小さな輪を作り始めていた。
「で、俺らはどうするよ?」と彰良。
「なんでもいいけど……目立つのはヤだ」と澪。
「目立たず楽しくって、けっこう難しくない?」と夏彦。
「……アイス、配る」と文蔵。
「それただの自分の欲望じゃん」と三人同時に突っ込みが入った。
笑いとざわめきが混じるなかで、季節は夏の終わりから、秋の始まりへと、少しずつ傾きはじめていた。
───
「つーか、カフェってよくね? あの、インスタ映えとか意識しとくやつ。女子ウケ最強だろ」
彰良がそう言って、机に肘をついたままニヤリと笑う。その隣で、夏彦は肩をすくめながら、
「じゃあ、お前がコーヒー淹れんの?」
「それは、ほら、……雰囲気担当?」
「なにそれ。出たよ、口だけ係」
「言うねぇ。じゃあ、夏彦は? なんか案ある?」
「んー……」
夏彦は自分の腕に寄りかかるようにして、半分眠そうな目を教室の天井に向けた。扇風機の音が微かに揺れている。目を細めると、夏彦はぽつりとつぶやいた。
「うるさくないやつなら、なんでも」
「そこ基準?」
「大事でしょ。音ってさ、やっぱ空間の雰囲気決めるんだよね。カフェのBGMとか」
「じゃあお前、選曲担当な。無駄にいい機材持ってんだし」
「やるとは言ってないけど?」
ふっと笑い合うふたりのテンポは、見ていると少し心地よい。教室の空気がざわつくなか、彼らの声はどこかリズムに乗っていた。
「……教室の装飾とかなら、できそうだけど」
澪が静かに言った。四人の輪の中で唯一、やや控えめな声。それでも、その一言に三人の視線が自然と向く。
「お、澪が前のめりな提案してる。何があった?」
「別に前のめりってほどじゃ……でも、そういうの、ちょっと好きだから」
「いいじゃん。内装班リーダー任せた」
「やらないよ。というか、任命早すぎ」
「でも、澪がやるならクオリティ高そう」
夏彦がさらりと乗ってきて、澪は少し照れくさそうに目を逸らす。文蔵は、そんな三人を見て、うん、とだけ頷いた。それだけで充分な意思表示だ。
そのとき、教室の反対側からにぎやかな声が飛んでくる。
「ホラーハウス! やっぱこれでしょ!」
「ギャーって叫ぶ演技、得意だし!」
女子たちが楽しげに話しているのが聞こえる。少し離れた机に座っていた彰良が、その声に耳を傾け、ぽつりと呟いた。
「……意外と、ホラーってアリかもな」
「えっ、ホラー? お化け役やるの?」
「俺が? それは……まあ、迫真の演技ってことで」
「無駄にうまそうなのがムカつくんだけど」
夏彦の突っ込みに、彰良がケラケラ笑う。だが、その笑いのなかには、少しだけ本気が混じっていた。
「でもさ、考えてみ? 薄暗い教室、ライトと音響で雰囲気作って、装飾しだいで本格派にもできんじゃね?」
「確かに。音とか効果音、工夫すれば案外リアルになりそう」
夏彦が腕を組んで頷く。そこに、澪の声が静かに重なった。
「それなら、装飾もやりがいあるかも……。影の落とし方とか、色とか」
「お、だんだん乗ってきたな、うちのデザイナー」
「やめてってば、そういうの」
文蔵は、といえば、鞄の中から何かを取り出していた。ノート。例の、記録を残すための一冊。ページをぱらぱらとめくり、何かを思いついたようにペンを走らせる。
「……配置図、描けるかも」
「天才じゃん」
「どこで使うつもりか知らんけどな」
軽口を交わしながら、四人のあいだに妙な一体感が生まれはじめていた。意見が一致しているわけじゃない。それぞれに“譲れない”ポイントがあり、それぞれに妥協したくないところがある。
でも、交差するところが、ある。
うるさくないこと。
見栄えすること。
装飾のしがいがあること。
記録する価値があること。
その四点が、ぽつぽつと繋がっていくような空気がそこにはあった。
「……ホラー、案外いいかもな」
夏彦のひとことに、他の三人がそれぞれ小さく頷いた。
ああ、きっとこの四人でやるなら、と誰かが思った。
一致じゃなくて、混ざること。
意見の交差点に立つ、わずかな熱。それが、今の“四限組”のかたちだった。
───
「じゃあ次、そっちの班!」
実行委員のポニーテールの女子が笑顔で声をかけると、前方のグループがざわざわと立ち上がる。前に出てきた男子のひとりが、やや緊張した面持ちでホワイトボードの前に立った。
「えっと、俺たちは……“ゆるホラー喫茶”って案を考えました」
ざわめいていた教室が、ちょっと静かになる。文蔵はそれを、ノートの端に記す。“ゆるホラー喫茶”。
たしかに、さっき誰かが「ホラーやりたい」って言っていた気がする。
「中途半端にならない?」「喫茶って、ちゃんとやるの大変じゃない?」
そんな小さな声がいくつか漏れ、前に立っていた生徒たちは苦笑する。
「うーん、じゃあ次の班!」
実行委員が軽やかに仕切り直すと、また別のグループが発表を始める。次は縁日屋台風、その次は映像上映会。にぎやかで、ちょっとだけ賑やかすぎる案が続く。
文蔵は、静かに周囲を見渡していた。教室全体の空気が、じわじわと“収束”に向かっていくような気がした。いろんな意見が交錯しながら、何となく「このあたりが落としどころかも」というラインが見え始めていた。
「じゃ、うちらの番?」
彰良がふと立ち上がる。別に誰が班長でもないのに、自然と前に出るその感じが、彼らしい。夏彦が後ろからついていき、澪も少し躊躇しつつ席を立つ。
文蔵も、ノートを持ってゆっくりと立ち上がる。
前に出た四人を、クラスメイトたちがなんとなく好奇の目で見ていた。あのいつも一緒にいるメンバーか、という視線。文蔵は慣れていた。目立たなくても、そういう注目は逃れられないこと。
けれど、今日は少し違った。
「うちらは、“静かに怖い部屋”っていうのを考えてます。ホラー系だけど、叫ばせるより“じわっ”と来る感じ」
彰良がそう言うと、クラスに小さな笑いが起きた。
「じわ怖?」
「なにそれ、逆に気になるんだけど」
「叫び声とか無理な人もいるし、ゆるいほうがいいよね」
軽い反応がいくつか飛ぶ。悪くない。むしろ、ちょうどいい。
「照明とか、音とか、細かく工夫すれば……」
澪が小さく言い添えると、夏彦がその言葉を拾って、
「実際、そういうので雰囲気ってだいぶ変わる。照明も、音も、派手にしなくていいんだよね。響かせ方で」
そして文蔵が、無言でノートを開き、机に置く。
そこには、教室を簡単に俯瞰したレイアウトと、照明や人の導線が描かれていた。落書きのような絵だったが、見た人は誰もが一瞬でわかった。
「これ、すご……」
「おー!ちゃんと考えてる感あるね!」
実行委員の女子が思わず感嘆の声を漏らし、ホワイトボードに「静かに怖い部屋」の文字が書き加えられた。
クラスの空気が、変わった。
いくつもの意見が散らばっていた空間に、一つの芯が通ったような、そんな感覚。
他の班からも「それ、さっきの案とミックスできるかも」「装飾、手伝いたい!」と声が上がり始める。
最初にホラー案を出していた班の男子が、「じゃあ、僕らの案、そっちに合わせる感じでいいです」と、自然に譲った。
それを見ていた澪が、ほんの少し目を見開く。
(去年の自分だったら、たぶん、この輪の中にはいなかった)
そのことを、ふいに思った。
自分から話し出したわけでも、なにかを主導したわけでもない。それでも、いま、この四人と一緒にいるだけで、自然と輪の中心に近づける。
(ちょっとだけ――いや、ちゃんと、うれしいな)
小橋先生が、黒板の前から教室を見渡している。その目線は、どこにも偏っていない。
「なんだか、いい感じじゃない。ね」
そう言って、笑った。
澪は、ふとそちらを見た。先生の声は静かで、優しくて、それでも確かに届く。
(“みんなでやる”って、こういうことなのかもしれない)
クラスの一員であることを、心のどこかでやっと、実感できた気がした。
───
「それじゃあ、今年の二年七組の出し物は──」
実行委員の女子が、教室の前でホワイトボードを指さす。視線の先には、濃い黒のマーカーでしっかりと書かれたその言葉。
“静かに怖い部屋”
クラスのあちこちから、「おおー」という小さな歓声が漏れる。
賑やかすぎず、でもただの展示でもなく、ちょっと面白くて、誰でも関われて。
“それくらいでいい”を、うまく形にしたような企画だった。
誰が強く推したわけでもない。
でも、誰も反対しなかった。
ただ、いくつもの意見と空気が、自然とこの一点に集まっていった。
「照明班と音響班は、希望とって分けますー!」
「お化け役はあとでオーディションやる?」
「やめて、こわい!」
昼休みにも関わらず、まだ残っている生徒たちが楽しそうに騒いでいる。机の間を縫うように歩いていた澪は、振り返る。
教室の後ろの窓際、いつもの四人が、それぞれの形で“輪”に加わっていた。
夏彦は、イヤホンを片耳だけにして、録音アプリの設定をいじりながら。
彰良は、机に寝そべって「俺は盛り上げ担当な!」と冗談を飛ばしながら。
文蔵は、静かにスケッチブックに教室の配置を書き加えながら。
澪は、その輪の中で、少しだけ遠慮を捨てて「じゃあ、装飾なら僕、やれるかも」と声を上げる。
それぞれの“らしさ”のままに、同じものに向かっていた。
クラスメイトのひとりが、ふと言う。
「なんかさ、今年の文化祭、ちょー楽しみじゃない?」
その言葉に、誰かが「わかる」と返して、笑いが起きる。
小橋先生が、教室の後ろから静かにその光景を眺めていた。
いつものように、口出しはしない。ただ、少しだけ微笑んでいる。
「それでいいと思うよ」
その声は、小さかったのに、不思議と教室の空気に馴染んだ。
“静かに怖い部屋”。
何かを強く主張しなくても、誰かを無理に引っ張らなくても。
「一緒にやる」って、たぶん、そういうことだ。
教室の窓の外には、ほんの少し秋の風。
まだまだ暑さは残っているけれど、季節が少しずつ変わっていく音が、どこかに確かに混じっていた。