放課後に、僕らは   作:やまざる

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準備中、ただいま進行中。

 

「じゃあ、決まりねー! 二年七組の出し物は、『体験型ホラー&喫茶』で!」

 

 文化祭実行委員の女子が声を張り上げた瞬間、教室内がざわめきに満ちる。

 

 九月の昼過ぎ。まだ夏の名残を引きずるような暑さのなか、教室の窓からは強い陽射しが差し込んでいた。エアコンの涼しさも、熱を吸いきれずにぼんやりと漂う空気の中に溶けている。

 

 澪は、配られたばかりの「役割分担表」を手に、周囲の騒がしさにほんの少しだけ圧倒されていた。

 

(……これ、決まったんだ。ほんとに)

 

 ホラーと喫茶のミックス。しかもちょっとだけ和風。

 

 最初に出たときは冗談かと思ったその案が、結果的にクラス内でじわじわと人気を集め、今こうして正式決定に至っている。その流れを思い返すと、案外みんなのノリやセンスって、悪くないのかもしれないとすら思えてくる。

 

 澪は「装飾・デザイン係」に名前が書かれていた。希望したわけではないけれど、役割調整で回ってきたポジションだった。

 

 気づけば、同じ班になった女子たちがすでに黒板の前に集まり始めていて、「ねえ椿原くんも描ける?」「あ、こっちのポスターの下書き手伝ってもらえると助かるかも」と自然に声をかけてくれる。

 

「うん、描くよ。道具、持ってくるね」

 

 立ち上がった自分の声が、思っていたよりも軽く響いたことに少し驚いた。

 

 数か月前なら、こんなふうに教室の真ん中で何かを始めるなんて、考えられなかった。人に頼られることも、頼むことも、つい躊躇していた。だけど、今は違う。

 

 手には、家から持ってきたスケッチブックとシャープペン。描くものがあるなら、きっと描ける。誰かと一緒なら、たぶん大丈夫。

 

 黒板に貼られた大きな白紙の模造紙に、女子たちが描いたざっくりとしたレイアウト案。和風の提灯、幽霊の影、ぼんやりとした草木と古民家の屋根の線。

 

「じゃあ、ここに門と木を描き足す感じでいこうか」

 

「うん、雰囲気出したいし、ちょっと墨っぽい感じでもいいかも」

 

「線細めがいいかな……」

 

 そんな会話を耳で拾いながら、澪はスケッチブックのページをめくり、さらさらと試し描きを始める。

 

 炭の黒、湿った空気、光と影のコントラスト。怖すぎないけれど、ちゃんと“雰囲気がある”もの。

 

 他の三人───文蔵、彰良、夏彦───は、それぞれの持ち場で別のグループに交じっている。視線の端で、文蔵がホワイトボードに何か書き込んでいるのが見える。夏彦はノートPCを開き、イヤホンを片耳に、何かを編集している。彰良はと言えば、クラスの中心で何かを語りながら笑いを取っていた。

 

 それを遠目に見て、少しだけ口元が緩む。

 

(なんか……みんな、ちゃんとそこにいるんだな)

 

 その事実が、妙に安心できる。

 

 黒板に描いた木の線が、ひとつ、またひとつと増えていく。

 

 筆圧を変えて、枝を細く。葉の影をかすれるように。

 

 後ろから見ていた女子が「すごい……!」と息を漏らした。

 

「美術部だったりするの?」

 

「ううん、全然」

 

「えー、もったいない!」

 

 軽い会話。すぐにまた筆に集中する。

 

 描きながら、澪は思う。

 

(あの日、初めてこの教室に入ったとき、まさかこんなふうになるなんて、思ってなかった)

 

 文蔵想汰、朝倉彰良、日暮夏彦、椿原澪。バラバラのようで、どこかで呼吸が合う、不思議な関係。あの頃は、まだ言葉もぎこちなかったのに。今では、こんなふうに、それぞれの場所で“居る”ことが、自然に感じられる。

 

 澪は、描きながら、ふと思う。

 

(準備って……楽しいかも)

 

 完成じゃなくて、途中のこの空気が。まだ誰も全体像を知らない、未完成のスケッチたちが、クラスのあちこちで動いているこの空間が。

 

 遠くで、実行委員が進捗チェックを始めた。

 

 「動き出してるな」と、誰かの声が重なる。

 

 澪は鉛筆を止めて、小さく頷いた。

 

 確かに、何かがちゃんと始まっている。

 

───

 

「で、俺的にはやっぱ、びっくり箱だな」

 

「はいはい出た、また昭和か!」

 

 昼休みの教室。机を寄せ合った男子グループの中心で、彰良は例によって冗談半分の口調で話していた。もう一人の企画担当の男子が、半笑いで突っ込んでくる。

 

 「いやでも考えてみ? 真っ暗な通路を進んで、いきなりドンッて扉開いて、内側から……」

 

「何が出るの?」

 

「俺」

 

「お前かい!」

 

 一斉に笑いが起きた。教室の片隅で、誰かの飲んでた麦茶が吹き出されたのを、遠巻きに見てニヤリとする。

 

 くだらないことばかり言っているようで、実は頭の中では常に「場の温度」を探っている。盛り上げるのは好きだ。でも、それだけじゃだめだとも思っている。

 

 ちらりと視線を上げると、向こうの黒板では澪が女子たちと一緒に装飾の下描きをしている。落ち着いた線と、周囲との自然なやりとり。あいつ、本当によく馴染むようになったな、と思う。

 

 その横で、文蔵が黙々とホワイトボードに日程や進行を書き込んでいた。いつ見ても静かだけど、確実に“回して”るのがわかる。

 

(……ま、俺は俺で、うるさくしてる係だしな)

 

 「なあ、でもさ」と彰良は再び声を張る。

 

「ホラーって、ただ怖がらせればいいってもんじゃないと思うんだよ。びっくりだけじゃなくて、“間”とか、“余韻”とか。……わかる?」

 

 ふざけた調子を抑え、ちょっとだけ真面目なトーンを混ぜた。

 

 「あー、なんか、それっぽいこと言い出したぞこいつ」

 

「いやでも、確かに……一瞬の静けさの後に何か起きるのって、怖いよな」

 

 意外にも真剣にうなずく子がいて、周囲の空気が少しだけ変わる。小さな変化。でも、こういうのが大事だと知っている。

 

「それとさ、笑いもアリだと思うんだよな。あまりに怖すぎると客も引くし、俺らも準備してて疲れるだろ。だからこう……“何だよ今の!”って笑えるポイントも混ぜるの」

 

「なるほど、“ホラコメ”ってやつか」

 

「そうそう、それ!」

 

 調子に乗ったふうに見えて、実はちゃんと相手の言葉を拾っている。

 

 それが、朝倉彰良という男の“持ち味”だった。

 

 ポケットの中で、指が一瞬だけ止まる。

 ──いくつかの選択肢が、ふと頭の中に浮かぶ。

 

 《オプションズ》の力は、今も日常のそばにある。

 

 「全部ぶち壊して、ド派手に笑い取る」ルートも、「あくまで調和優先で小さくまとまる」ルートも、今ならきっと見える。でも、

 

 「……ま、俺ららしく、ってことでいっか」

 

 選ばなかった選択肢は、静かに溶けていった。

 

 「で? 演出は誰がやるの?」

 

 誰かの問いに、彰良は軽く肩をすくめる。

 

「夏彦でしょ。あいつ、音フェチだし。……今も録ってんじゃね?」

 

 窓の外、グラウンドの隅で何かに耳を澄ませている姿が一瞬見えた気がした。

 

「マジで? あいつガチじゃん」

 

「うちのホラーは“音”で泣かすぞ、きっと」

 

 口ではそう言いながらも、内心ではどこか嬉しかった。

 

 ふざけているようで、本気でやってる。

 

 誰も無理をしていないのに、自然と役割が分かれていく。

 

 それぞれが自分の場所を見つけて、形にしようとしている。

 

 「……案外、いいとこにいるのかもな」

 

 ぼそりと漏れた言葉を、誰も拾わなかったのがちょうどよかった。

 

 その瞬間だけ、少しだけ目を伏せて、ひとつ深呼吸をする。

 

 「さて。そろそろ本気出すか」

 

 軽い調子で立ち上がり、再び机を囲む輪の中心に戻っていく。

 

───

 

 昼下がりの校舎は、夏の終わりをまだ少し引きずっているようだった。開け放たれた教室の窓からは、遠くで練習中らしい吹奏楽部の音と、時折ふっと涼しげな風が入り込んでくる。

 

 その音を、日暮夏彦はイヤホン越しに、あるいは片耳だけで確かめながら歩いていた。

 

「これで……効果音は、昼用三パターン、夜用二パターン。雨と風と、廊下の軋む音……」

 

 片手にメモを持ち、肩には録音機材の入ったバッグ。制服の上着は脱いで、シャツの袖をまくっている。まだ暑い。けれど、肌をかすめる風に、夏彦はほんのわずかだけ「秋のにおい」を感じていた。

 

 目的地は旧校舎の一階──文化祭のホラー&喫茶企画で使う教室だ。音響班としての役割は、演出の“空気”をつくること。音は、目に見えない装飾であり、空気の導線でもある。

 

 ドアの前に立ち、耳を澄ます。

 

 ……静かだ。

 

「録るなら、今かな」

 

 そう呟いて、録音機材を取り出す。軽く息を吐いて、スイッチを入れようとして──一瞬、指が止まる。

 

 《リプレイ》を使えば、わざわざ録る必要もない。記憶にある音なら、正確に再現できるのだから。

 けれど。

 

 

「……今の、この空気は、“今”しか録れないんだよな」

 

 ぽつりと独り言のように呟く。記録ではなく、記憶に残すための音。いや、その逆か。

 

 録音機のスイッチが入る。小さなランプが点灯する。

 

 カツン、と遠くで誰かの靴音がした。

 

「よう、熱心だな」

 

 唐突に声がした。振り返ると、開いたドアの向こうに朝倉彰良が立っていた。

 

「なに録ってんの、今度は」

 

「空の音。って言ったら笑う?」

 

「笑うけど、それっぽく聞こえるから反応に困るな」

 

 そう言って教室に入ってきた彰良は、制服のネクタイを緩めながら窓辺に寄る。

 

「ほら、クラスの連中が体育館の出入りしてるから、ここ通ってるっぽいよ。ドア、ちょいちょい開けとくと臨場感出るかもな」

 

「……なるほど。音、拾ってみるか」

 

 夏彦がもう一度録音の準備をする横で、彰良はにやにやしながら口を開く。

 

「なあ、文化祭ってさ。何が面白いんだと思う?」

 

「……準備?」

 

「そこを即答するやつ初めて見た」

 

 笑いながら彰良が背伸びをする。天井に目を向けながら、

 

「ま、でも。こうして誰かが頑張ってると、ちょっとだけマジメになりたくなるな。なーんてな」

 

「わりと本音でしょ、それ」

 

「……かもな」

 

 窓の外から、風に乗って体育館の扉のきしむ音が届く。カツン、と誰かの足音が、廊下に響く。

 

 夏彦は録音を止めて、しばらく無音のままのイヤホンを外した。

 

「録れた?」

 

「うん。でも……」

 

「でも?」

 

「なんか、音より会話の方が、あとで思い出しそう」

 

 思わず夏彦がこぼすと、彰良は「だろ?」と得意げに笑う。

 

 

「そういう時のために、録音機ってあるんじゃねーの?」

 

「それもあるけどさ」

 

 夏彦は静かに、録音機のスイッチを切った。

 

 たぶん、もう録る必要はない。

 

「こういう時間、案外いいよな」

 

「うん。……ちゃんと“文化祭準備”って感じがする」

 

「なあ、夏彦」

 

「ん?」

 

「録音ってさ、いつも“未来に渡すため”にしてんの?」

 

「……いや。自分が“今”を忘れないため、かな」

 

 その言葉に、彰良は「へえ」とだけ返した。

 

 それっきり、二人は何も言わずに教室を出た。

 

 けれどその沈黙には、妙に心地のいい余韻が残っていた。

 

 階段を上がると、遠くで扇風機の回る音が聞こえた。

 

 夏はまだ、終わっていなかった。でも、秋も、もう少しで届きそうだった。

 

 

───

 

教室の隅にあるホワイトボードの前で、文蔵は黒のマーカーを手に取った。

 

カレンダー形式で日付が並ぶ進行表。その日の予定、各班の割り当て、完成予定の目安。

 

それを丁寧に、けれど手早く書き込んでいく彼の所作は、誰に見せるでもないのに迷いがなかった。

 

「わっ……見やすくなってる……」

 

休み時間に覗き込んだ女子の声が、文蔵の耳の奥でゆるやかに反響する。

 

それでも彼は顔を上げず、淡々とマーカーを走らせるだけだった。

 

自分に割り振られた係は「記録・進行管理」。

 

必要なことを、必要なときに、必要なだけ伝える。

 

喋ることより、動きを目で追う方が得意な自分には、案外ちょうどよかったのかもしれない。

 

「おーい、ぶんちゃん。確認だけど、明日の搬入って……午前中だよな?」

 

言ったこともないようなあだ名で壮太を呼びつつ、後ろから現れたのは、音響班の夏彦だった。録音用の小型マイクを片手に、どこか焦げた匂いを連れている。

 

文蔵は無言でうなずき、ボードの該当箇所を指さす。

 

「あー、よかった。演劇班の方とちょっと調整しててさ。こっちのタイミングも共有しておくわ」

 

頷いて立ち去ろうとする夏彦に、ふと文蔵はぽつりとつぶやいた。

 

「……“書く”と、動くんだよな。誰かが」

 

夏彦が振り返る。「ん?」

 

「ホワイトボード。予定。……これ、足音になるっていうか」

 

それ以上言葉を重ねることはなかったが、夏彦は少しだけ笑って、「いいね、それ」と応えた。

 

録音機をポンと軽く叩いて、彼は再びざわめく教室へと戻っていく。

 

文蔵は視線を戻し、ボードの端に小さく「今日のToDo:やれるとこまで」と書き足した。

 

誰かに命令するわけでも、目立つわけでもない。

 

でもこの一文が、少しだけ背中を押す力になるかもしれない、そんな気がした。

 

その数分後。

 

プリントを手にした女子がふたり、進行表の前で「あ、これもう反映されてる!」「神……」とささやき合っていた。

 

別に、感謝されたいわけじゃない。

 

でも、こうやって誰かが次の一歩を踏み出すなら、自分の仕事にも意味がある。

 

「お前、めっちゃ舞台監督向いてんな」

 

唐突に現れた彰良が、感心したように言う。

 

文蔵が少しだけ眉を動かすと、彼は「マジで」と重ねた。

 

「見てみ? ほら、みんなあの予定見て動いてるじゃん。

 

声で指示するより、先に“書いとく”ってさ、案外むずいんだぜ」

 

照れるという感情はあまりない。

 

けれど、そう言われて見る教室の風景は、たしかに少し変わって見えた。

 

椿原がデザイン案を調整して女子と話している。

 

夏彦がスピーカーの位置を演劇班と確認している。

 

彰良は数人に囲まれて、大げさな身振りで説明している。

 

そのどれもが、文蔵が書いた「時間」の上に流れている。

 

「……まあ、そんな感じ」

 

彰良は言葉を濁して笑い、文蔵のマーカーを一本盗って、黒板の隅に「がんばろー!」と殴り書きしていった。

 

「……それは、いらない」

 

ぽつり、文蔵が呟いたときにはもう、彼は笑いながら教室の端に消えていた。

 

それでも、ホワイトボードの隅に残ったその落書きは、意外と、消す気にならなかった。

 

───

 

 九月も下旬にさしかかったある日、教室には涼しげな風が通り抜けるようになっていた。窓を開け放った午後の空気には、微かに金木犀の匂いが混じり、文化祭準備も折り返しを迎えていた。

 

 椿原澪は、腰をかがめて装飾用のパネルに筆を走らせていた。黒と赤を基調とした和風ホラーハウスの入口看板。下絵は完成しているが、塗りのバランスにはまだ微調整が必要だった。

 

「澪、これ、このへん薄くない?」

 

声をかけてきたのは同じ班の女子。澪は顔を上げて頷き、少しだけ苦笑する。

 

「うん、光の当たり具合でムラが見えるね。ここ、もう一度上から塗ろっか」

 

 隣に腰を落とし、筆を持つ彼の動作は丁寧で、落ち着いていた。女子のひとりがぽつりと「椿原くんって、なんか美術部っぽいね」と言うと、「違うけど……ありがとう」と控えめに返す。場の空気がやわらぐ。

 

その頃、教室の後ろでは、朝倉彰良が手製のイベント看板を前に、男子たちを笑わせていた。

 

「ほら、『入ったら二度と出られない!』って書くだけで、怖そうじゃね? あとはお化け役の演技力がすべて!」

 

「じゃあ、演技指導はあんたがやれよ!」

 

「は? オレ、演出家気質だから現場には立たない主義なんだけど?」

 

 笑いと軽口が飛び交うなかで、彼はちゃっかり進行に必要な道具や配置図をまとめていた。ふざけているように見えて、実際には誰よりも周囲の動きをよく見ている。

 

 その間、日暮夏彦は音響のタイミング確認のため、仮設スピーカーの設置と動作テストを繰り返していた。カセットテープ型の機器とスマホを交互に扱いながら、教室の隅でスピーカーから流れる「軋む戸の音」や「風鈴の音」を聴き比べている。

 

「……今の、ちょっと遅いかも。0.7秒前に鳴らした方がいいかな」

 

 近くにいた別班の男子が「タイミング、そんなに重要なん?」と苦笑交じりに尋ねると、夏彦は肩をすくめる。

 

「“怖がる準備”ができちゃうと、怖くないからさ。驚かせるなら、前のめりがちょうどいいんだよ」

 

言葉の端に、どこか演出家の顔が見える。彼の選ぶ音は、どれも細部にこだわっていた。

 

 そして、教室の一番前。文蔵想汰は、壁に貼られたホワイトボードの前でペンを走らせていた。進行スケジュール、班別の担当、道具の貸出表。誰が見ても一目でわかるよう、簡潔に、整然と。

 その背中を、何人かのクラスメイトがちらりと見て、自然と足を止める。

 

「これ……次の会議、ここでやった方がわかりやすくない?」

 

「だな。あのボード、なんか市役所の掲示板みたいに機能してるよな」

 

 小さなつぶやきの数々は、感謝の表れだった。文蔵は反応することもなく、黙々とペンを動かす。だが、彼の書く一行一行が、クラスの足並みを確かに揃えていた。

 

そんな中、小橋先生が教室を覗いた。

 

「……ふふ、いいクラスになってきたわね」

 

 その言葉は、廊下で聞いていた澪の耳にも届いた。思わず視線が前の方へ向き、文蔵の背中と、楽しそうな彰良、音に集中する夏彦の姿が目に入る。

 

(……ああ、なんだろう。この感じ)

 

誰か一人が主役ではない。でも、それぞれが必要で、それぞれが自分の持ち場を全うしている。

 

色が違うのに、にじんで、溶けて、重なっていく。

 

そんな“輪郭”の気配を、澪は確かに感じていた。

 

───

 

 放課後の教室は、曇りガラス越しの光のように穏やかだった。

 白熱の準備がひと段落し、ざわついていた空気がふと静まる。

 

 文蔵想汰はホワイトボードの前に立ち、ペンのキャップを外した。

 今日の日付の横に、予定通り進行中の印──丸をひとつ、淡く丁寧に書き加える。

 

(……よし)

 

 声にはならなかったが、喉の奥で言葉が形になった気がした。

 振り返れば、まだ残っている数人が教室のあちこちで作業を続けている。

 机を移動させている班、衣装をたたむ班、道具の確認をしている演出チーム。

 

 その中で、椿原澪が、窓際の装飾棚に腰掛けながらデザイン画の確認をしていた。

 文蔵は歩き出す。音を立てずに、澪の横へと。

 

「……あ。お疲れさま」

 

 澪は顔を上げて、自然な笑顔を見せた。

頬に貼りついていた紙片を指先で取って、笑う。

 

「みんな、頑張ってるよね。自分もだけど。……正直、ちょっとだけ緊張してる」

 

文蔵はうなずく。そして、視線をホワイトボードに戻す。

 

「準備中、か。……たぶん、ずっと、そうなんだろうなって」

 

「え?」

 

「終わった後も、たぶん。また“次の準備”が始まってる気がする」

 

澪は、なるほどと頷き、ふと視線を上に向けた。

 

空はもう、すっかり秋の色を纏っていた。風が窓の隙間から入り込み、紙の端を揺らす。

 

その頃、教室の後方では、彰良と夏彦がじゃれ合っていた。

 

「おいおい、それは音響用のコードだって! 絡ませんなよ!」

 

「だーいじょーぶだって! ほら、結んだらオシャレな輪っかに──って、うわ、引っかかった!」

 

「お前、ホラーより怖いぞマジで……」

 

机の間にしゃがみ込んだ夏彦が、困ったような笑みでコードを引きはがす。

 

その後ろで、彰良が高々と手を上げる。「ではこの失態、笑いでカバーします!」

 

「やめとけ! その場が凍る!」

 

わいわいと声が響き、隣の班の女子がくすっと笑った。

 

それを見た文蔵も、わずかに口角を上げる。

 

「みんな、うるさ……でも、ちゃんとやってるな」

 

澪がつぶやくと、教室のドアが静かに開いた。

 

小橋先生が入ってきて、黒板の隅を見上げた。

 

「進捗、順調ね。……よかった」

 

静かな声。それだけで、教室の空気が柔らかくなった気がした。

 

先生は、ホワイトボードの下にある進捗札のひとつを手に取ると、微笑みながら掛け直した。

 

《準備中》

 

その札が、ぱた、と揺れた。

 

「“準備中”って、悪くない言葉よ。進んでるってことだから」

 

そう言い残して、先生は出て行った。

 

夕暮れが教室の床に差し込み、影を伸ばす。

 

文蔵はそれを目で追いながら、ぽつりと口を開いた。

 

「本番も、きっと大丈夫だな」

 

誰に向けた言葉でもなかった。けれど、それを聞いた澪がふと、笑った。

 

そして、自然と四人が同じ場所に集まっていく。

 

音の鳴る教室で、誰かの笑い声と紙の擦れる音が重なる。

 

未完成の装飾、仮置きの機材、スケッチの端。

 

すべてがまだ“途中”で、でも確かに進んでいた。

 

準備中。だけど、たしかに向かっている。

 

その教室は、まだ終わらない“今”の真っ只中にあった。

 

 

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