放課後に、僕らは   作:やまざる

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書くの初めてです。


燼の書庫(じんのしょこ)

 音のない昼休みだった。

 

 教室のざわめきの中、文蔵想汰は教卓に近い席で、ひとり弁当を広げていた。窓際ではないし、特別目立つ場所でもない。ただ、それが彼にとって「都合の良い場所」だった。

 

 友人たちは別の机を囲んで話している。朝倉彰良はいつものように口数多く、ジェスチャーを交えて笑いをとっていた。隣には椿原澪が静かに相槌を打ち、日暮夏彦はカセットテープを弄びながら、話に混ざるでもなく、ただその場にいた。

 

 文蔵は彼らの会話には加わらず、しかし完全に離れているわけでもなかった。

 

 距離にして、およそ三歩分。

 

 言葉にして、ゼロ。

 

 彼は食事をしながら、自然と観察していた。誰が何を言い、誰が笑い、誰が無言で、誰が見ていたのか。その一つ一つが、彼の中では“出来事”として記録されていく。

 

 昼食を終え、ゴミをまとめ、ふと目を閉じる。

 

 耳に残るのは、夏彦がテーブルに置いたカセットテープの「カシャ」という機械音だった。

 

(……録音、か)

 

 彼はそう思いながら、胸の奥の重たい何かを感じた。

 それはいつもと変わらないはずの昼休みの中に、確かに沈んでいる。

 

───

 

放課後、鞄を手にして立ち上がると、後ろから声がかかった。

 

「お、文蔵。帰るんか?」

 

 朝倉彰良だった。肩に荷物をぶら下げ、片手を軽く上げている。教室の出口で待っていたらしい。

 

 その後ろから椿原澪が柔らかく微笑み、日暮夏彦はイヤホンを片耳から外しながら歩み寄ってくる。

 

「俺たちも特に用ないからついてっていいか?」

 

 放課後の図書室は、手持ち無沙汰な様子で佇んでいる様子の図書委員の生徒とかすかに感じ取れる埃の匂いしかいない。

 

 西日が差し込む窓際の机で、文蔵想汰は一冊のノートを開いた。

 

 表紙は黒焦げになっていて、紙の端は炭化し、パラパラと黒い粉をこぼす。中身はほとんど判読不能な、焦げと灰にまみれた走り書きの連続。けれど彼は、その一語一句を何度もなぞるように視線を走らせていた。

 

 ──あれから、もう三年か。

 

 ページをめくるたび、指先にこびりつく粉が過去を呼び起こす。

 

 記憶のなかに、声が響く。

 

 「ねえ、失くすって、焼くことだと思わない?」

 

 懐かしくて、ひどく冷たい声だった。

 

 その瞬間、時間が巻き戻る。

 

 焦げたページの奥から──あの夏が蘇る。

 

──

 

 文蔵想汰があの”静かな焔のような少女”と出会ったのは、中学一年の夏休みだった。

 

 その日も彼は、誰もいない校舎の裏手にある木陰にいた。小さなスケッチブックとボールペン。日々の記憶を言葉で“記録”するのが癖だった。

 

 教室では大人しく、目立たず、誰とも積極的に関わらない少年。だが、記憶だけは裏切らないと思っていた。誰かの言葉や仕草、会話の温度。それを全て文字にして閉じ込めておけば、失わずに済む。そう思っていた。

 

 そのときだった。

 

 「……何、してるの?」

 

 背後から、涼しい声がした。

 

 振り返ると、そこにいたのは同じ学年の女子──烏丸藍花。

 

 灰色のセーラー服に、無表情のまま焦げたノートを抱えて立っていた。

 

 彼女の存在は、校内でも少しだけ“浮いて”いた。いつも一人で、あまり口を開かず、けれど不思議と目を引く。

 

 「記録、してるだけ」

 

 文蔵は答えた。特に隠す理由もなかった。

 

 「ふうん……それ、全部?」

 「うん。忘れたくないことを、書いてる」

 「じゃあ、それって──燃えたら、どうするの?」

 

 彼女の声に、文蔵は少しだけ返答に詰まった。

 そういえば。

 もしこのノートが燃えたら、自分は何を思い出せるのだろう?

 

 「……君のは?」

 

 問い返すと、彼女は腕に抱えた黒焦げのノートを見せた。

 

 パリパリと音がしそうなほど、表紙も中身も焼け焦げていた。けれど、まるで大切な宝物みたいに、彼女はそれを優しく撫でた。

 

 「これは、忘れたことを書いてるの」

 

 「……忘れたこと?」

 

 「そう。失くしたもの。燃えて、灰になって、もう見えないもの。でも、私は覚えてる。……だから、書くの」

 

 彼女の言葉は、炎のように文蔵の胸をくすぐった。

 

 その日以来、彼女はたびたび文蔵の記録の場に現れた。

友人と呼び合う関係でもない、たまに会話をする知り合い程度の関係。

 

それでも、文蔵にとっては特別な人間だった。

 

──────────

 

 それは、急な雷雨の翌日のことだった。

 

 文蔵は、彼女に導かれるように、学校の外れにある古びた倉庫までやって来ていた。使用されなくなった資材置き場。窓は砕け、鉄製の扉は錆び、壁には風雨と落書きが染みついている。

 

 「ねえ、ここ……知ってる?」

 

 烏丸が立っていた。

 

 いつものように無表情で、焦げたノートを胸に抱えている。だが、その声にはどこか、ひどく確信に満ちた響きがあった。

 

 「ここ、私の記憶が燃えた場所なんだ」

 

 彼女はそう言うと、倉庫の扉をゆっくりと押し開けた。軋む音があたりに響き、乾いた木材の匂いが鼻を刺す。文蔵は戸惑いながらも、その後を追う。

 

 倉庫の内部は静かだった。埃にまみれ、壊れた棚や濡れた段ボールが積み上がっている。床には煤のような黒い染みが広がっていた。

 

 「火事、だったの?」

 

 文蔵が尋ねると、烏丸はうなずいた。

 

 「……昔、ここで遊んでたの。誰にも言えないようなことをしてて、でも楽しくて……。ある日、火が出たの」

 

 「逃げたの?」

 

 「ううん。私は、ここで“燃えた”の。……全部」

 

 彼女は足元の黒い染みを見下ろしながら、小さく笑った。

 

 文蔵は背筋に冷たいものを感じた。

 

 言葉の意味がすぐには呑み込めない。けれど、彼女がこの場所で何かを“喪った”ことだけは、直感で理解できた。

 

 「……それで、思い出せたの?」

 

 「少しだけ。……でもね、思い出すには“燃え残し”がいるの」

 

 そう言って彼女は、焦げたノートをそっと開いた。

 

 その瞬間——

 

 文蔵の目の前で、空気が歪んだ。

 

 ぼんやりとした炎のようなものが、ノートの上にゆらめいた。何もないはずのページに、赤く、青く、記憶の残像が浮かび上がる。焼けた床。誰かの泣き声。煙。小さな手。

 

 「……これが、私の《燼火(じんか)》」

 

 静かに、彼女は言った。

 

 「焼けてしまったものの“燃え残り”を、燃やし直す。……そうすれば、思い出せるの」

 

 文蔵は、その言葉の意味を飲み込めなかった。

 

 だが、身体が動かなくなるほどの“恐ろしさ”を感じた。

 

 目の前にある炎は、実際には熱を持たない。けれど、それは確かに“何かを焼いている”。目に見えない過去、失われた記憶、忘れてしまった声。

 

 ——それらが、焼かれて、浮かび上がっている。

 

 「どうして……俺に、見せたの?」

 

 文蔵は、ようやく声を絞り出した。

 

 烏丸は、ふと、こちらを見つめた。

 

 「……君が、“記録する子”だったから」

 

 その目は、どこまでも静かだった。

 

 「……君なら、覚えててくれるって、思ったの」

 

 その言葉と同時に、倉庫の外で雷鳴が鳴った。

 

 ふいに、熱の気配が増したように感じた。

 

 振り返ると、入口のほうから煙が立ちのぼっていた。

 

 「……藍花……?」

 

 文蔵が声をかけた瞬間、扉が閉まる音が響いた。

 

 倉庫の中で、炎が、広がっていく——

 

──────────────

 

 煙が視界を曇らせていく。

 

 肺が焼けるように苦しく、喉の奥が灼ける。

 

 「っ……!」

 

 文蔵は咳き込みながら、扉へと駆け寄ろうとする。けれど炎は、まるで意思を持ったかのように彼の進路を遮った。周囲にあった段ボールや木製の棚が、音もなく発火している。

 

 それは、ありえない火のまわり方だった。

 

 どこか現実味を欠いた光景。

 

 炎が床を這い、壁に染みつき、空気そのものが熱を帯びている。

 

 「藍花──どこだっ……!」

 

 叫ぶが返事はない。

 

 彼女がいたはずの場所に目を凝らすが、熱気と煙に阻まれて視界が定まらない。

 

 そして──

 

 そこに、浮かぶように立っていた。

 

 烏丸藍花。

 

 焼ける倉庫の奥、真っ赤に染まった空気のなかで、ただ無表情に立ち尽くしていた。

 

 「逃げろ!」

 

 文蔵は手を伸ばした。

 

 

 けれどその瞬間、足元が崩れた。熱で床材が裂け、彼の身体が前のめりに倒れる。強かに腕を打ち、視界がぼやける。

 

 立ち上がれない。

 

 目の前で、炎が輪を描くように渦巻く。

 

 そこに、黒いノートがゆらりと舞い落ちた。

 

 ──藍花のノート。

 

 燃えかけたページが、風もないのにめくれていく。

 

 見たことのない記述が、そこにあった。

 

 灰色の文字。書きなぐられた言葉たち。

 

 そして──中央に書かれていた名前。

 

 《文蔵 想汰》

 

 「……え……?」

 

 その瞬間、激しい耳鳴りとともに──

 

 世界が、凍りついた。

 

 ──記録する側だった。

 

 忘れたくなかった。

 失いたくなかった。

 だから、書いた。

 それだけだった。

 

 けれど、今──

 

 “記録される側”になった。

 

 文蔵の身体に、奇妙な感覚が走った。

 視界の奥に、まるで図書館のような空間が広がっていく。

 果てしない本棚、無数の本。

 その中に、一冊──異質な本があった。

 

 タイトルのない、黒い背表紙。

 

 表紙には、うっすらと焦げた手形。

 

 ──それが、始まりだった。

 

 彼は、その本を手に取った。

 

 その瞬間、炎が世界を呑み込んだ。

 

 眩しいほどの光と熱のなかで──

 

 彼の胸に、強烈な確信が芽生える。

 《記録》する能力。

 《記憶》を写す図書館。

 

 そして、《彼女》という最初の一冊。

 

 焼かれた倉庫のなか、記憶の中枢が──目を覚ました。

 

──────────────

 

 目を覚ましたとき、そこは病室だった。

 

 白い天井、無機質な蛍光灯。乾いた点滴音。

 

 焦げの匂いはなく、痛みだけが現実を知らせていた。

 

 右腕には包帯が巻かれ、額に薄く絆創膏が貼られている。

 

 全身がだるく、喉はひどく渇いていた。

 

 「……生きてる……」

 

 かすれた声が、自分のものとは思えなかった。

 

 火事が起きたのは、学校裏の旧倉庫。

 

 誰も使わなくなった木造の建物に、なぜか彼がいた──それが記録に残された事実だった。

 

 けれど、文蔵のなかには別の“記録”がある。

 ──《あの本》がある。

 

 目を閉じれば、脳裏に浮かぶ。

 

 どこにも存在しないはずの、巨大な《図書館》。

 静まり返った空間に、無数の本が眠っていた。

 一冊だけ──扉のように開かれていたのは、黒く焦げた本。表紙には、かすかに名前が記されていた。

 

 《烏丸 藍花》

 

 彼女の記憶、彼女の言葉、彼女の残した灰のような断片が、その本のなかに眠っている。

 

 その本を、文蔵は“持っている”のだ。

 

 ──彼女は、いない。

 

 火事のあと、誰も彼女を見ていないという。

 

 記録にも記憶にも、証言は残されていない。

 

 彼女の存在は、あの夏と共に“燃えた”のだ。

 

 けれど、文蔵のなかには確かに彼女がいる。

 

 「俺は──記録したんだな」

 

 炎に包まれる直前、あの瞬間に。

 

 彼女の名を、その存在を、その灰までも。

 

 この手のなかの“本”として。

 

 ──《オムニバス》。

 

 自分のなかに眠る記録の図書館。

 

 記憶を、本の形で残す能力。

 それが、自分に宿った異能。

 そして、最初に記録した本が──《彼女》だった。

 

 不意に、涙がこぼれた。

 

 熱くもなく、冷たくもない、静かな涙。

 

 こぼれた涙は、火傷の痕をなぞるように流れ、枕を濡らして消えた。

その日、 文蔵は屋上にいた。

 

 風が強い日だった。白い雲がちぎれ、空の向こうへ流れていく。

 

 ──記録するということ。

 

 それは、誰かの“存在”を、自分の中に留め続けること。

 だが、それは同時に、自分自身が誰かで埋められていくということでもある。

 

 (……《燼火》は、最初の1冊だ)

 

 あの火の中で何が焼かれ、何が残ったのか──

 

 その答えは、まだわからない。

 

 けれど確かに、《オムニバス》の棚には、“彼女”の物語が収蔵された。

 

 焦げたページ。けれど、まだ読める。

 

 彼女の炎を、彼女の言葉を、彼女の喪失を──

 

 いま、文蔵は手に取っている。けれど、“彼女の章”は終わっていない。

 ページの終わりには、まだ白紙が残っている

 

 彼女の言葉が、脳裏に蘇る。

 

 ──「ねえ、失くすって、焼くことだと思わない?」

 

 でも今なら、わかる気がした。

 焼かれても、すべてが灰になるわけじゃない。

 言葉の残滓、仕草の記憶、目に映った風景。

 それらは、記録というかたちで、

 

 《灰に還らないもの》として残り続ける。

 それが──“記録者”になった自分の、最初の仕事だった。

 

 

──────────

 

 気づけば高校の校庭は、夕暮れの陽光に染まっていた。

 

 図書室の少しだけ開いてる窓の隙間から放課後の風が柔らかく吹き、夏の終わりを告げる。

 

 文蔵想汰は校舎の影から、遠くで談笑する四限組の姿を見つめていた。

 

 朝倉彰良はいつも通り陽気で、日暮夏彦はどこか冷静な視線を落としている。椿原澪は彼らの隙間で微笑みを浮かべていた。

 

 不意に、朝倉が声をかけてくる。

 

「なあ文蔵、今朝のニュース見たか? 宇宙人がUFOで道に迷って交番来たらしいぞ」

 

 朝倉のあまりにもくだらない話に、文蔵は呆れてしまった。だが、口元には笑みが浮かんだ。

 

「そいつ、俺より現実に順応してないな」

 

「どっちもどっちだよ」と笑いながら、日暮が机を朝倉の肩をバシッと叩いてツッコミを入れる。

 

 すぐ隣の椿原が、呆れたように息をついた。「まーたくだらない話で盛り上がって……」

 

 けれど、口元は確かに笑っていた。文蔵はふと、ああ、自分は今、ここに居ていいんだな、と思った。

 

 昔の自分なら、この輪の中に入ることはとは考えられなかっただろう。

 

 けれど今は、彼らの中にいる自分がいる。

 

 ──あの夏の日々は遠くても、記憶は胸にあっても、自分は今を生きている。

 

 文蔵は軽く息を吐き、ゆっくりと歩みを進めた。

 

 手には、何度も読み返した焼け焦げたノートはない。

 代わりに、新しいノートが握られている。

 それは「今」を書き綴るための、白紙のページ。

 彼は静かに、四限組のもとへ向かいながら心の中で呟いた。

 「記録される前の頁を、これから書いていこう」

 

 夕闇が迫る教室。窓の外では生徒たちの笑い声が響く。

 文蔵はノートを閉じ、ペンを置いた。

 机の上には、新しい物語の扉が開かれたように、真っ白なページが広がっている。

 彼の隣には、四限組の仲間たちがそれぞれの未来を模索しながらいる。

 忘れたくない過去も、燃えて灰になった記憶も、全部彼の一部だ。

 けれど、今はここで、彼らと共に新しい頁を紡ぐ時だ。

 西日に染まる校庭を見つめながら、文蔵は静かに微笑んだ。

 

 ──灰の中から芽吹く新たな物語が、今、始まる

 

 

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