放課後に、僕らは   作:やまざる

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はじまりのざわめき、緊張の空気

 

 

 二学期に入ってからの数週間が、あっという間だった気がする。

 

 けれど、その中身はちゃんと詰まっていて、放課後の教室に長居することも増えた。笑ったり、黙ったり、騒いだり、手を動かしたり。そんな日々の先に、ついに文化祭当日の朝がやって来た。

 

「……おはようございます」

 

 誰もいない教室に入って、澪はそっと声を落とすように挨拶した。時刻はまだ午前七時台。クラスの集合時間よりも一時間近く早い。

 

 教室の中は、昨日までの“準備の匂い”が残っている。カーテン代わりの黒い布、少し斜めになった提灯、壁に貼られたメニュー風の飾り。いくつもの色が混ざったガムテープの切れ端や、床に落ちた紙吹雪の欠片。それらが、誰かが頑張った跡のように澪の目に映る。

 

「よし……」

 

 自分の机を端に寄せて、すぐに黒板へ向かう。描きかけだった看板の縁を、昨日の続きから描き出す。使い慣れたチョークの感触が、指先に心地いい。

 

 静かだった教室が、やがて誰かの声や足音で少しずつ賑やかになっていく。

 

「うわ、間に合った〜!」「昨日のアレ、直った?」「今日、おばけ役って誰だっけ?」

 

 そんな声が聞こえるたびに、文化祭の“本番”が始まるのだと澪の胸の奥がきゅっと引き締まった。

 

 黒板のイラストを描き終えたタイミングで、ドアがゆっくり開く音がした。

 

「……おはよう」

 

 振り返ると、文蔵が立っていた。いつものように、何も飾らない表情で、鞄を片手に持ったまま。白いシャツの袖はまくっていて、顔は少し眠たげだ。

 

「文蔵くん、早いね」

 

「……うん。少し、気になって」

 

 彼はそう言って教室を見回し、黒板の絵に視線を留めた。

 

「……完成、したんだな」

 

「うん。朝のうちに、と思って」

 

 文蔵は小さく頷いてから、進行ボードの前に歩いていった。澪が使ったばかりのチョークを手に取り、端に小さく「最終確認済」と書き加える。

 

 彼のそういう丁寧さは、言葉よりもずっと伝わってくる。

 

「おーっす、いると思ったわ」

 

 今度は元気すぎる声が飛び込んできて、彰良が登場する。制服のシャツはいつもよりきっちりボタンを留めていて、髪もきちんと整えている。けれど、表情はいつもの通りに軽快だ。

 

「準備ばっちり? 今日、成功したら俺、もう来年の文化祭実行委員名乗ってもいい気がする」

 

「その前に、自分のセリフ覚えようよ」

 

 廊下側の扉が開いて、夏彦が現れる。すこし肩の力の抜けた歩き方で、けれど目元はどこかキリッとしていた。

 

「昨日、BGMのタイミングずれてたの、自分のせいだと思ってるでしょ」

 

「えっ、バレた?」

 

「当たり前。音ずれてたの、俺が一番わかるし」

 

 くだらないようで、どこか安心感のあるやりとりが教室の空気に溶けていく。文蔵も、ほんの少しだけ口元を緩めていた。

 

 教室の奥に差し込んだ朝の光が、装飾の赤い布を透かして、天井にぼんやりした影を落としている。

 

 始業式の時とは違う、夏休み明けともまた違う。

 

 「今日は、誰かが来る日なんだ」と澪は思う。

 

 いま、この教室は、たくさんの人の目に触れるためにある。見てもらうために飾りつけて、体験してもらうために工夫して、楽しんでもらうために声を合わせる。

 

 そういう日が、いま始まろうとしている。

 

 心の中にひとつ、大きく深呼吸をした。

 

───

 

 午前十時、チャイムが鳴った瞬間、校内の空気がふっと変わった気がした。

 

 開場。

 

 その二文字が、掲示された案内ポスターにも、進行ボードにも、そして教室の空気にもにじみ出る。

 

 文蔵はホワイトボードの前でマジックを回しながら、ざわつく廊下の気配に耳を傾けていた。クラスの扉は開かれていて、その向こうにはもう、何人かの生徒が立ち止まっている。

 

「いらっしゃいませー! 二年七組、体験型“ちょい和風”ホラー&喫茶へようこそ!」

 

 廊下に響く彰良の声。朗らかで、ちょっと芝居がかった口上が、その場に笑いを呼ぶ。

 

 澪は黒い羽織を肩にかけ、メニュー役の看板を手に立っていた。夏彦はスピーカーの前で音量を調整しながら、微かに笑っている。

 

 文蔵は、ホワイトボードに目を戻す。

 

 「開場済」

 

 静かに、そう書き足してから、目線を教室の中へ。

 

 来客第一号は、近くのクラスの女子グループだった。軽いノリで中に入りながらも、空間の雰囲気に足を止める。

 

「……え、意外と本格的じゃない?」

 

「え、こわ……この廊下、ちゃんと演出してあるじゃん」

 

 その反応を聞いた瞬間、教室の空気がまた、わずかに変わったのを感じた。

 

 椅子の配置、照明の落とし方、導線の確保、喫茶コーナーの間の取り方。自分たちが準備の中で少しずつ整えてきたものが、いま“誰かに伝わっている”という実感。

 

 文蔵は、その“反応”を黙って見ていた。

 

 自分自身が言葉を発さなくても、展示は語ってくれる。

 

 準備してきた日々と、そのとき交わした視線や笑い声が、教室全体に染み込んで、今日を動かしている。

 

「おばけ役、準備オッケー!」

 

 教室の奥から男子のひとりが手を振る。そのタイミングで夏彦がBGMを切り替え、和風ホラー調の効果音が流れ出す。空間の緊張感がぐっと増した。

 

 案内役の彰良が手を挙げ、「では、こちらへどうぞ!」と笑顔で来客を誘導する。誰かが笑い、誰かが小さく悲鳴をあげた。教室の奥で、驚かせ役が飛び出すと、ひとりが軽く肩をすくめて後ずさる。

 

「うわっ、ほんとにびっくりした!」

 

「え、喫茶の方、めっちゃ雰囲気いい……」

 

 声が、教室を行き交う。その一つひとつを、文蔵はただ、静かに観察していた。

 

 自分の能力、《オムニバス》を使えば、この空間も、反応も、映像のように記録できる。

 

 けれど今は、その必要がないと思った。

 

 記録しなくても、伝わっている。

 

 そう感じられる瞬間が、確かにそこにあるから。

 

「文蔵くん」

 

 声をかけられて振り返ると、装飾係の女子が台車を押して近づいてきた。

 

「ごめん、備品の移動って、次ってここだっけ?」

 

「うん、合ってる。十五分後に次の班が交代だから……そのあとで」

 

「あ、よかった。ありがと」

 

 笑顔とともに、軽く手を振って女子は去っていく。

 

 その後ろ姿を見送りながら、文蔵は進行ボードの前に戻った。マーカーのキャップを外し、ほんの少しタイムテーブルを修正する。

 

 書いた予定に沿って、誰かが動く。誰かが助け合う。

 

 自分が残す“目印”が、誰かの足音になっていくこと。

 

 それが、少しだけ誇らしかった。

 

 ふと横を見ると、夏彦がジュースのストックを補充していた。

 

「文蔵、ありがとな」

 

「……何が?」

 

「全部。予定ピッタリだった。音、外さずに済んだ」

 

「……それは、お前の耳がいいだけだろ」

 

 夏彦は小さく笑って、「まあね」と言った。

 

 最初の来客たちは、笑って帰っていった。出口で手を振りながら、「これ、また来たいね」と言葉を残して。

 

 文蔵の胸の奥に、微かな達成感がふくらんだ。

 

 今日が始まって、よかった。そう思えたこと自体が、もうひとつの“成果”のように感じられた。

 

───

 

 教室の片隅、スピーカー横の電源コードが、また微妙に浮いていた。

 

「……頼むから、ここだけは機嫌よくいてくれよな……」

 

 小さく呟きながら、日暮夏彦はしゃがみ込んでプラグの差し込み口を押し込む。文化祭本番、午前の部も後半に差しかかり、教室内の熱気が一層増していた。

 

 スピーカーは二台。ひとつは教室入り口、もうひとつはおばけ登場のタイミングを知らせる合図音専用だ。シンプルな構成だが、音の“間”が命──と夏彦は思っている。

 

「なつひこー、今の音、ちょいズレたよ」

 

 装飾係の女子が片手を上げて教室の奥から声を飛ばす。夏彦は即座に小さく手を振って応えた。

 

「了解、次のタイミングで修正入れる」

 

 言い終えるより早く、ポケットの中の小型レコーダーに指を伸ばし、次の効果音の切り替えを確認する。最初の構成案では決まった音源だけを使う予定だったが、初回の来客の反応を見て、夏彦は即座に演出の組み替えを決めた。

 

「“音”は予想外がちょうどいいんだよな……」

 

 ヘッドホンの片耳を押さえながら呟き、ミキサー代わりのタブレットを操作する。

 

 新しい効果音──床を引きずるような和太鼓の低音を再生し、間髪入れずに障子の破れるような音を重ねる。

 

 教室の奥から、悲鳴と笑い声が同時に上がった。

 

「っわ、なに今の!」

 

「え、音怖っ……! 本気じゃん!」

 

 夏彦はそこで、ようやく少し息をついた。

 

 教室の中で響く音は、彼にとって“空気の温度”を測るバロメーターだ。

 

 音が届く角度、反応の速度、そして何より──“違和感”のなさ。

 

 演出が機能していれば、教室は“物語”になる。

 

 彼がこの空間で果たしている役割は、そんな“物語の音”を編むことだった。

 

「なつひこー、バケツの水のやつ、次から一個後ろにずらしていい?」

 

 今度はガイド係の彰良が、教室の真ん中から顔だけ覗かせてきた。

 

 夏彦はタブレットを確認し、数秒でうなずく。

 

「了解。タイミングは俺の合図で」

 

「おっけー!」

 

 ぱん、と手を叩いて引っ込む彰良の背中が軽快に揺れていった。

 

 ……ふと、夏彦は気づく。

 

 この会話、説明いらなくなったな。

 

 夏休みの頃は、何か伝えるにも一手間かかった。異能力のこと、距離感のこと、自分のペースのこと。全部を飲み込ませるために、いつも“ちょっとだけ待ってた”。

 

 でもいまは違う。

 

 自分の“間”で話しても、誰かが拾ってくれる。

 

 その拾い方が、ズレてない。

 

 だからこそ、即興の判断が効く。

 

 体育館の演劇班から頼まれていたBGM素材も、今朝のうちに追加で調整しておいた。昨日の夜、文蔵が進行表に小さく書き込んでくれたおかげだ。

 

「……結局、これが一番“文化祭”っぽいんだよなあ」

 

 コードを束ね直しながら、夏彦はぽつりと呟く。

 

 走ってる、回ってる、音が鳴ってる。

 

 目の前の“今”にだけ集中して、それでいて“ちゃんと届いてる”とわかる。

 

 これが「誰かのためにやる」ってことなのかもな──と、そんな感覚すらちらついた。

 

 どこかで、椅子が軋む音がして、誰かが笑った。

 

 教室の扉の向こうからは、別のクラスのBGMが流れてくる。

 

 それも、今日という“音”の一部だ。

 

 夏彦は一度だけ、ポケットのレコーダーを見た。

 

 電源は、入れていなかった。

 

 ……録らなくても、残る。

 

 そう思える瞬間が、いまここにあった

 

───

 

 廊下の奥から響く悲鳴に、朝倉彰良は思わずにやけた。

 

「おっ、いいねいいね。あれくらい反応あると気持ちいいわ〜」

 

 教室の入り口近く、ちょうど入場待ちの列が落ち着いたタイミング。

 

 彰良はガイド係として、テンションを絶やさず客を出迎えていた。

 

「はーい、それでは“七組百物語〜闇の茶屋へようこそ〜”、こちらの扉からどうぞ〜!」

 

 軽快な声とともに、和風ホラーテイストに装飾されたのれんを押し開ける。

 

 中ではクラスメイトの一人が、おばけ役に徹して待ち構えているはずだった。

 

「……って、ちょっ、おい。誰か今、頭ぶつけた音したぞ?」

 

 思わず振り返ると、のれんの裏から「いってぇ〜!」と素の声が漏れてくる。

 

「ごめん、天井低いの忘れてた……!」

 

「ほんとに呪われる前に気をつけてくれよなー!」

 

 そう返しながら、彰良は軽く笑って場を和ませた。

 

 けれど心のどこかで、すでに動いていた。

 

 今の音、客にはどう聞こえた?

 

 演出じゃなく、事故だってバレなかったか?

 

 ……いけるか? 続行? 一瞬で判断する。

 

「よし、次の班入れるぞ〜!」

 

 いつもの調子を崩さず、でもテンポだけは少しだけずらした。

 

 《オプションズ》は使わない。

 

 使わなくても、ここでは“選ぶ力”が育っている気がするから。

 

いや、嘘か。

 

 《オプションズ》は、ちょっとだけ見た。

 

 でも、すぐに「今」の道を選んだ。それが一番、しっくり来たから。

 

 文化祭の空気って、なんかいい。

 

 わちゃわちゃして、雑音が多くて、いろんな感情が飛び交ってて。

 

 でも、“みんなで”って言葉が自然にしっくり来る。

 

 クラスの連中も、なんだかんだ楽しんでる。

 

 澪が女子グループと談笑しながら飾りを直してるし、夏彦は音の出し方で細かくこだわってる。

 

 文蔵は……進行ボードの前で、無言で立ってるだけなんだけど、それが妙に“中心”感あるのがずるい。

 

「……なんであいつ、あんな静かなのに場が回るんだよ」

 

 小さくぼやいて笑いそうになったそのとき、ひとりの男子が走ってきた。

 

「彰良ー! 次の回のメンツ、一人遅刻で来てないって!」

 

「マジか。あいつ昼過ぎの班だったよな?」

 

「今呼んでるけど、代打いる?」

 

 彰良は一秒だけ黙って考えた。

 

 自分が回るのもアリ。でも、今は案内役がいる。

 

「よし、俺ちょっとだけ中に入る。次のガイド、神谷に回して」

 

「了解!」

 

 そう言い残して、彰良はのれんをくぐった。

 

 すぐに闇に目が慣れる。

 

 和風の帳、すすけた提灯の灯り、そして……隅に控えていた後輩役の男子が不安そうに振り向いた。

 

「朝倉さん……俺、あんまり脅かすの得意じゃなくて……」

 

「なら、無言で近づいて後ろに立ってるだけでいい。しゃべるとボロ出るだろ?」

 

「……あ、それならできそうかも」

 

「よし。じゃあ、俺が代わりに一発やるわ」

 

 瞬間、彰良は構成を頭の中で並べ替える。

 

 出入口から侵入→右手の障子前→突如現れる“謎の客人”

 

 用意された“驚かせ役”を、本来とは逆の順序で繰り出す。

 

 タイミングは、夏彦の出す鳴子音に合わせて──

 

 やれる。いける。

 

 お化け役に変身する前、ほんの一瞬、彼は心の中で呟いた。

 

 ……こういうの、悪くない。

 

 決まった配役じゃなくても、自分が“誰かの役に立てる”って思える瞬間。

 

 そんなの、昔の自分だったら「ダサい」って笑ってただろうな。

 

 でも、いまは違う。

 

 “誰かと一緒にいる”って、たぶん、こういうことなんだ。

 

 提灯の陰から、子どもたちのわくわくした声が近づいてくる。

 

 彰良は深呼吸をひとつ。

 

 そして──静かに、襖を開けた。

 

───

 

 午後一時過ぎ、陽射しが教室の窓を斜めに貫く。

 

 文化祭1日目も、後半に差し掛かっていた。

 

 喫茶スペースでは数組の来客が机に座り、ほうじ茶プリンや団子を味わっている。

 

 奥ではホラー展示の案内が一段落し、ちょうど交代のタイミングでメンバーが入れ替わっていた。

 

 そんな穏やかな空気が、ふとしたきっかけで揺れる。

 

「……え、これ、落ちた……?」

 

 小さな声が澪の耳に届いた。黒板付近に吊るしてあった竹細工の飾りが床に転がっている。

 

 どうやら、吊り紐が緩んでいたらしい。タイミング悪く、人の肩が当たって外れてしまったのだ。

 

「ちょっと、誰かガムテープ持ってる?」

 

「これ、貼り直しできるかな……?」

 

 周囲の声がざわつき始める。

 

 装飾班のメンバーが集まりかけたそのとき、澪はすぐに立ち上がった。

 

「うん、大丈夫。これ、最初から緩めだったかも。……ちょっと脚立、持ってくるね」

 

「澪くん、危ないから私も行く!」

 

「ありがとう、支えてもらえると助かる」

 

 数秒後、近くにいた小柳という女子がもう一人加わり、脚立の左右を押さえてくれた。

 

 澪は手際よく紐を結び直し、飾りを掛け直す。

 

 その横顔を見ながら、支えていた女子がぽつりと漏らした。

 

「澪くんって、頼りになるよね。なんか……こういう時、絶対慌てないもん」

 

「いや、内心けっこう焦ってるけど……ね」

 

 それでも声は落ち着いていた。

 

 文化祭の準備を通して、こうした“咄嗟の判断”に慣れてきたのだろう。

 

 「よし、OK」と小さく頷いて降りると、自然と拍手が起きる。

 

「おお〜助かった!」

 

「さすが装飾班〜」

 

 いつの間にか、喫茶スペースの数人がその様子を見ていたらしく、和やかな笑い声が広がる。

 

「……まさか、これも演出のうち?」

 

 誰かが冗談を飛ばし、場がふっと軽くなる。

 

「ならもっと派手に落とすよ」

 

 と澪が返して、周囲が笑った。

 

 そんなやりとりのすぐ外、音響スペースでは夏彦が効果音の再設定を行っていた。

 

「……このタイミング、やっぱ0.3秒早いな」

 

「さっきの班、悲鳴がずれたもんな」

 

「直すわ。次の回までには合わせる」

 

 夏彦のそばにいた男子が、配線を覗き込みながらうなずく。

 

「日暮、マジで助かってる。お前がいなかったら、うちの班やばかったわ」

 

「……それ、褒められてる?」

 

 冗談めかしつつ、手元は的確。ケーブルの調整、再生タイミングの確認、周囲への指示

 

 かつての“録音だけの人”ではなく、今は“その場の空気”を読んで動ける存在になっていた。

 

 彰良はといえば、外で受付の整理をしていたが、様子を見て中にふらりと戻ってきた。

 

「ほーん、なんか崩れた? 大丈夫だった?」

 

「うん、澪くんがすぐ直してくれて……」

 

「ってことは、あとでクッキーの追加差し入れ決定だな」

 

「え、なんで?」

 

「“誰かが助けてくれたら甘いものを返す”、四限組の謎ルールじゃん?」

 

「聞いたことないけど……」

 

 その場の空気がまたひとつ、笑いで緩む。

 

 一方、教室後方のホワイトボードには、いつの間にか進行の補足が書き足されていた。

 

《装飾再点検 14:10〜/備品補充チェック 15:00〜》

 

 手書きの文字は、文蔵のものだった。

 

 誰が頼んだわけでもない。

 

 でも、“あったらいいこと”を無言でやってくれるのが彼だ。

 

「文蔵、書いといてくれたの?」

 

 澪が訊くと、彼は軽くうなずいて、「……気づいたから」と一言。

 

 派手な活躍ではない。でも、確かに“支えている”。

 

 そのとき、後方の入り口が開いて、小橋先生が顔をのぞかせた。

 

「どう? 順調そうじゃない」

 

 思わず振り返った数人の顔に、安堵の表情が広がる。

 

「ちょっとだけバタついたけど、大丈夫です」

 

 澪がそう答えると、小橋先生はゆるやかに微笑んで、

 

「それでいいと思うよ。誰か一人じゃなくて、みんなで動いてるのが、ちゃんと伝わってくるもの」

 

 その言葉に、教室の空気がひとつ落ち着いた気がした。

 

 午後の陽が、窓から差し込んでいる。

 

 揺れる影と、笑い声と、ほんの少しの疲労。

 

 でもその全部が、“この文化祭の色”なんだと思えた。

 

───

 

 窓から差し込む光が、教室の床を柔らかく照らしていた。

 

 時刻は午後三時を少し回ったところ。ホラー展示の交代タイムと喫茶の客足が落ち着いたその隙間に、短い“休憩”の時間が訪れていた。

 

「ちょっとここ、一旦クローズでーす。十五分後に再開しまーす!」

 

 彰良が声を張り、入口の札を「準備中」に裏返す。

 

 それを合図に、教室の空気がふっと緩んだ。

 

 片隅では、黒い三角帽を脱いだ女子が髪を結び直していて、喫茶スペースの隅では団子の皿を片付ける男子が「あ、箸ごと捨てた!」と騒いでいる。

 

 その中央の机に、見慣れた人物がふらりと現れた。

 

「はい、差し入れ」

 

 白い紙袋を二つ、小橋先生が机の上に置く。中からは冷えた缶ジュースと個包装の焼き菓子が覗いていた。

 

「えっ、先生……! これ、もしかして全部うちのクラス用?」

 

「そうよ。職員室の冷蔵庫、さっき開けたらぎっしりで笑っちゃった。はい、暑いでしょう」

 

「神……!」

 

 歓声とともに、クラスメイトたちが感謝の声を上げる。

 

 その中心にいない四人、四限組のメンバーは、喫茶スペースの窓際の机に集まっていた。

 

「……これ、レモンスカッシュ」

 

 文蔵がぽつりと缶を指差し、夏彦が「うん、合ってる」と笑った。

 

 その机には、ジュースと焼き菓子と、少しばかりの静けさがあった。

 

 騒がしくもどこか満たされた空気のなかで、ふとだけ、言葉の音が小さくなる瞬間が訪れる。

 

「疲れた?」

 

 夏彦が問うと、文蔵は少しだけ肩をすくめて、視線を外に向けた。

 

 窓の外では、運動場を使った発表が続いていて、音楽が小さく流れている。

 

「……まだ終わってないし」

 

「うん、そうだね。でも、ちょっとだけ休憩。記録係も休んでいい時間」

 

 そう言って、夏彦は胸ポケットから小さな録音機を取り出す。

 

 手にしたまま、しばらく何も録らず、ただ指先でカチカチとスイッチを弄んでいた。

 

 録音を始めるそぶりも、止めるそぶりもなく。

 

「……どうした?」

 

「いや。録ろうかなと思って。でも、やめた」

 

 そう答えて、夏彦はふっと息を吐く。

 

「録っても、きっと再生しない。……たぶん、覚えてるから。今日の感じ」

 

 文蔵は言葉を返さなかった。けれど、どこか共感のような間が、そこに漂った。

 

 二人の背中越しに、澪が紙袋を持ってやってくる。

 

「お疲れ。これ、最後の一本。ぶどう味だけど」

 

「ありがと」

 

「先生の差し入れ、意外とセンスいいな……って、彰良は?」

 

「……さっき“購買で謎ドリンク探してくる”って出ていった」

 

「謎ドリンク?」

 

「“原材料が3つ以上読めないやつ”だって」

 

 言ってから、三人が顔を見合わせて、ふっと笑った。

 

 差し入れの冷たさが、手のひらにじんわりと残る。

 

 カップの水滴がテーブルに丸い跡を残す。

 

 ほんの十五分。けれど、この時間は記録にも演出にも残らない。

 

 誰かに見せるためではなく、自分たちのためだけにある時間。

 

 喧騒の裏にある、その静かな光景こそ、

 

 文化祭という“非日常”の真ん中にあって、最も日常に近いものだったのかもしれない。

 

「そろそろ、再開だな」

 

 文蔵の小さな呟きに、夏彦が缶を飲み干す。

 

「うん。……あと何回、こういうのあるかな」

 

「今日? それとも、これから?」

 

 澪が問い返すと、夏彦は笑って首を傾げた。

 

「どっちも。できれば、何度もあればいいなって」

 

 そんな言葉に、文蔵が少しだけ──ほんの、ほんの少しだけ──目を細めた。

 

 祭りの一日は、まだ終わらない。

 

───

 

 夕方に差しかかる頃、二年七組の教室は少し疲れた熱気に包まれていた。

 

「次が今日最後の回でーす!」

 

 彰良の声が、もう何度目か分からないくらいの明るさで飛ぶ。

 

 何度繰り返しても、最後はやっぱり少しだけ声に力が入る。

 

「はい、こちらのお客様、最後の案内です!」

 

 にこにこと手を引くようにお客を誘導しながら、心のどこかで「ちゃんと届きますように」と念じている自分に気づく。

 

 教室は、半分が和風のホラールート、もう半分が簡易喫茶スペースになっていて、怪異の演出を経た客が団子や冷茶で落ち着ける構成。

 

 展示というより、ひとつの“流れ”を感じてもらうようにと皆で考えた企画だった。

 

 最初は不安もあったが、午前から午後にかけて、多くの生徒や保護者が来てくれた。

 

 クラスメイトたちも、いつの間にか役に馴染み、段取りが自然に身体に染みついている。

 

 案内を終えた彰良は、袖に控える“妖怪”役の男子にこっそり合図を送った。

 

 タイミングは完璧だった──…驚いたお客の悲鳴と笑いが、見事に響き渡る。

 

「っしゃあ!」

 

 彰良はガッツポーズを小さく決めると、教室の片隅に戻ってきた。

 

 そこには、音響卓に目を光らせる夏彦と、控えの椅子に腰を下ろす澪、黒板の横で進行を確認している文蔵の姿があった。

 

「どう? ラスト回、うまくいったっぽくない?」

 

 夏彦は少し頷きながら、フェーダーを下ろしてBGMの音量を調整する。

 

「今の音の入り、綺麗だったよ」

 

「だろ? っていうか、もう身体が勝手に動いてた感じ」

 

「本番強いなぁ」

 

 澪が感心したように言い、文蔵は小さく進行ボードにメモを足す。

 

 そこには“最終案内終了”“撤収準備→17:00〜”と、静かに、だが丁寧に書き加えられた文字。

 

 やがて最後のお客が退出し、教室内には拍手と「ありがとうございまーす!」の声が響いた。

 

 ホラーも演出も喫茶も、すべての流れが、ひとつの拍手に繋がっていく。

 

 そんな一体感が、目に見えない形で残されていく。

 

「これで、今日の出番は終了……ってことでいいんだよな?」

 

 誰かがそう確認し、他の誰かが「はい! お疲れさまでしたー!」と声を上げる。

 

 自然と教室のあちこちから、安堵の吐息と笑い声がこぼれてくる。

 

 「最後が一番うまくいったよね!」という言葉も聞こえた。

 

 彰良は、ふと教室全体を見渡した。

 

 このひとつひとつの動き、声、表情……どこかで自分も、少しは役に立てたのかな。

 

 ムードメーカーという言葉にはいまいち自信がなかったけれど、

 

 「楽しかった」って誰かに思ってもらえたなら、それでいい。

 

「……なんか、今日、終わっちゃった感じだな」

 

 小さく呟くと、すぐ近くにいた文蔵がふと顔を上げた。

 

「でも、まだ明日ある」

 

「うん。明日は“観る側”だもんな。……楽しめるかな?」

 

「楽しめるように、今日が終われたから」

 

 短いけれど、妙に説得力のあるその言葉に、彰良は苦笑した。

 

「名言っぽいのに、わかるような、わからんような」

 

 それでも、なんとなく納得してしまうのが文蔵のすごさだ。

 

 そういう“記録者”の目線が、きっと今日を良い一日に変えてくれたのだろう。

 

 すると、入口から現れた小橋先生が、静かに教室を見渡し、拍手をひとつ打った。

 

「うん、いい雰囲気ね。お疲れさま。……明日は思いっきり楽しんでらっしゃい」

 

 その一言に、教室の空気がまた少し和らいだ。

 

 夕方の光が、窓から長く差し込んでいる。

 

 拍手も、笑顔も、もうすぐこの一日が終わることを告げているようだった。

 

───

 

 教室の片付けがひと段落した頃、外はもうすっかり夕焼けに染まっていた。

 

 窓の向こうには、赤と橙がまざり合った空。その下を、保護者や生徒たちがぽつぽつと歩いている。

 

 校内放送の「本日の文化祭は終了となります」のアナウンスが、さざ波のように教室の空気を揺らした。

 

「……終わっちゃったね、一日目」

 

 澪がぽつりと呟く。教室の隅、扇風機の前に腰を下ろして、手にした団扇で顔を仰いでいた。

 

「いやー、燃えたわ、今日」

 

 彰良はTシャツの首元を引っ張りながら、笑うでもなく満足げな表情を浮かべている。

 

 その隣で、夏彦が机に突っ伏していた。

 

「録音機、つけとけばよかったかも。音で今日の空気、残せたかもな」

 

「録らなかったから残ったんじゃね?」

 

「……ああ、それもあるか」

 

 ぼそぼそとしたやり取りが、心地よい空白を挟んで響く。

 

 文蔵は、いつものように進行ボードの前に立っていた。

 

 もう予定は全部終わっていて、あとは「片付け」と「明日の朝集合時間」の記載だけが、淡々と残っている。

 

 けれど、不思議と寂しさはなかった。

 

 掲示されたスケジュールは、確かに“やった”という記録のように見えた。

 

 ふと、文蔵はホワイトボードの端にチョークで小さく、「ありがとう」と書き足した。

 

 それを見た澪が、ちょっと笑って言った。

 

「……なんか、地味にエモいんだけど」

 

「照れてる照れてる」と彰良が茶化し、夏彦も顔を上げて「案外似合ってるよ」と笑う。

 

 文蔵は否定も肯定もしない。ただ静かに、手にした黒のノートの表紙を撫でた。

 

 今日一日、何度もページをめくった。でも、今は閉じたままだ。

 

 書くべきことは、もう書かれていたのかもしれない。

 

 それとも、書かなくても残る何かが、そこには確かにあるような気がしていた。

 

「明日は、どうする?」

 

 澪の問いに、夏彦が椅子の背にもたれながら答える。

 

「んー、午前中は空いてるから、他の展示見に行こうよ。演劇とか、屋台っぽいとことか」

 

「パンフに書いてあったな。3組の脱出ゲームとか面白そうだったぞ」

 

「お、攻めるか脱出系」

 

 話しているうちに、だんだんと顔に元気が戻ってくる。

 

 澪が「じゃあ、集合は……中庭?」と提案すれば、みんなが自然と頷いた。

 

「明日は昼から担当交代って言ってたから……午前、動けるよ」

 

「おっけ、なら明日は“遊ぶ側”満喫コースってことで」

 

 言葉の端々に、ちょっとした期待と寂しさが混ざっている。

 

 今日が楽しかったからこそ、明日が“終わりの日”だという実感が、じんわり胸に残っていた。

 

 帰り支度をしながら、文蔵はもう一度、教室を見渡した。

 

 喧騒の残り香のような空気。外が暗くなるにつれて、教室の蛍光灯が温かく感じる。

 

 この景色を、ノートに描くことはないかもしれない。

 

 でもきっと、記録以上に、記憶として残っていく。

 

「明日も、ちゃんと残るかな」

 

 誰にともなくそう思った瞬間、背中で誰かの声が重なる。

 

「また、明日な」

 

 振り向けば、彰良が軽く手を振っていた。

 

 夏彦と澪も、それに続くように教室を出ていく。

 

 文蔵は、ノートをポケットにしまって、一歩ずつ、彼らの後を追った。

 

 教室の電気は、最後にひとつだけ残った明かりを灯していた。

 

 まだ、終わってはいない。

 

 でも、確かに“一日目”が終わった、という実感だけが、静かに心に灯っていた。

 

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