文化祭二日目、午前十時。朝のざわめきが、ゆるやかに校舎に広がっていた。
制服の上にクラスTシャツを羽織った日暮夏彦は、昇降口を抜けたところでふと足を止め、校内の音に耳を澄ませた。
玄関をくぐった瞬間から変わる空気。いつもの学校じゃない気配が、今日もまだ残っている。
教室から漏れ聞こえる笑い声、廊下を駆けるスニーカーの足音、どこかのスピーカーから流れるポップスのサビ。音の重なりが、文化祭の朝をゆるやかに告げていた。
「うぃーっす、夏彦ー! 遅くね?」
廊下の先から、クラスTシャツを大胆にリメイクした朝倉彰良が、手を振りながら駆けてきた。
髪をなびかせ、Tシャツの裾を軽く結び、袖を無造作にまくって。胸元から金色のアクセがちらついているあたり、相変わらずの派手さだ。
「遅くないし。集合時間、十時って言ったの、お前な」
「だーかーら! ぴったりに来たら負けだろ? 余裕って大事」
彰良はニカっと笑って、手にしていた文化祭パンフレットをひらひらさせた。
ページにはびっしりと展示名が並び、いくつかの箇所にマーカーで〇がつけられている。
「まずどこ行く? 演劇? 雑貨? 模擬店? 俺的にはさ、この“おばけ屋敷迷路”も気になんだけど、昨日のホラー展示とカブるよな〜」
「まるで自分でやった展示の中身忘れてるような言い草だな」
「はは、あれはあれで完璧だったから、もう記憶から卒業してんだよ!」
そんなふたりのところへ、今度はゆっくりとした足音が近づいてくる。
クラスTシャツの上に淡いグレーのカーディガンを重ねた椿原澪と、少し大きめサイズのTシャツをリュックに合わせてくしゃっと着こなした文蔵想汰だった。
澪の手元にはパンフレット。すでに何カ所か折り目がついていて、予定が立て込んでいるのがよくわかる。
想汰のシャツは、洗いざらしの白地にクラスロゴがゆるく馴染んでいて、胸ポケットのあたりに細いマジックで自分の名前が手書きされていた。
「ごめん、ちょっと待った?」
「いや、全然。今からどこ回るか決めようとしてたとこ」
澪の声に合わせて、文蔵も小さく首を振った。
「昨日の当番疲れたわー。今日はただの客でいさせてくれって感じ」
そうぼやいた夏彦は、空を見上げるように小さく息を吸い込む。風の音がすうっと抜けていく。その背後に、別の教室から歓声とBGMのフレーズが重なって聞こえた。
昨日まで“自分たちが鳴らしていた音”とはまた違う音の響き。ドア一枚、壁一枚を隔てただけで、こんなにも風景が変わるのだ。
「クラスごとに、ぜんぜん音の感じが違うな」
「は? 何いきなり詩人ぶってんの?」
「……言ってみただけ」
彰良のツッコミに肩をすくめつつ、夏彦は廊下の先を見やった。ドアが開け放たれた教室、張り出されたポスター、出入りする生徒たちの笑顔。
観る側でいられる時間は、今日だけ。
だからこそ、その“音”を聴いておきたいと思った。
「じゃあさ、まずは近くのクラスから順番に攻めてみるか。気になったとこ、片っ端からな」
彰良が先頭に立って歩き出すと、澪と文蔵も自然とそれに続いた。
夏彦は一歩遅れて、その後ろを歩く。何の計画もないようで、けれど確かな方向へと進む足音。それを、耳で追いかけていた。
今日だけの音を、逃さないように。
───
廊下の窓から差し込む光が、歩くたびにきらきらと反射していた。
椿原澪は、パンフレットを軽く折ったまま手に持ち、足元に気をつけながら次の展示へと向かっていた。
「え、これすごいね……細かいとこまで凝ってる」
廊下の突き当たりの一室。手作り雑貨の展示販売をしているクラスの教室だった。中に入ると、色とりどりの布小物やアクセサリーが整然と並び、ポップなBGMが程よく流れている。
澪の目が止まったのは、小さな瓶に詰められたカラフルな砂のアートだった。瓶の口には英字タグが添えてあり、「HAPPY」「LUCKY」などの手書きの言葉がちょこんと飾られている。
「ちゃんと“商品”って感じがするな。なんか……プロっぽい」
ぽつりと漏らした言葉に、隣で耳をそばだてていた夏彦が反応した。
「まあ、ここのやつら、なんかやたらとデザイン系の部活入ってるらしいよ。下調べ、完璧だな」
「そうなんだ……どうりで、って感じ」
目の前にある出来栄えの良さは、どこか自分たちの展示と比べてしまう感覚を呼び起こした。
自分たちのクラスは、体験型の和風ホラーと喫茶の組み合わせ。装飾は頑張ったし、喫茶ブースの雰囲気作りも凝った。でも、こうして客として他の展示を歩いていると、「もっとできたかもしれない」なんて、つい思ってしまう。
「……比べてもしょうがないってわかってるんだけどね」
「ん? なんか言った?」
振り返ると、彰良が見本のキーホルダーを手に取りながら、首を傾げていた。
その表情はいつも通りで、何も気にしていない風。けれど、澪の頬の緊張を読み取ったかのように、自然と笑って言った。
「ほら、よく言うだろ。遊園地でも、アトラクションの評価じゃなくて、“誰と乗ったか”のが大事って」
「……なにそれ。どっかで聞いた気がする」
「俺の名言集から抜粋した」
どや顔の彰良に、思わずくすっと笑ってしまう。
その横で、文蔵が一つのコーナーをじっと眺めていた。手にしたノートは、今日も開かれたまま。
記録すること。
目に映ったものを、言葉で残すこと。
けれど、今この瞬間、誰一人として“記録”に縛られてはいなかった。
「うちのクラスってさ。派手じゃないけど、ちょっと変わってたよね」
澪の言葉に、彰良がパンフレットを丸めながらうなずいた。
「そうそう。最初はホラーで笑わせるって意味わかんねーとか思ってたけど、やってみたら案外ウケたし
な」
「“うけた”って……あなた、やたら客脅してたでしょ。途中で演出忘れて素で笑ってたし」
「バレたか! でもそれも愛嬌ってことで」
声をあげて笑う彰良の横で、夏彦が少しだけ歩を緩めた。
「作る側じゃなくなると、こういう空気もいいもんだな。何もしなくても、全部が進んでる感じ」
澪はうん、と小さくうなずいた。
誰かが作ってくれた空間を、今は“楽しむ”だけでいい。そう思った瞬間、自然と肩の力が抜けていった。
楽しむ側になってみて初めて、昨日の自分たちの姿が少しだけ見えてくる。
あの教室のざわめきも、笑い声も、手作りの飾りも、誰かのための時間だった。
「……そろそろ次、行く?」
文蔵の言葉に、三人がそれぞれ頷いた。
パンフレットを折りたたんで、廊下に出る。昼前の太陽はもう高く、床に落ちた光がやけにまぶしかった。
そして、彼らの影もまた、少しずつ伸びていく。
───
体育館の中は、いつになく静かだった。
分厚いカーテンが閉ざされた窓の向こうから、薄い光が漏れている。そのかすかな明るさも、ステージ上の照明が灯るたびに押し返されて、辺り一帯が暗闇に沈む。
客席に腰かけた文蔵は、ゆっくりと瞬きをした。
舞台の上では、別のクラスによる演劇が始まっていた。衣装を着た生徒たちが台詞を交わし、舞台の端では裏方が照明のタイミングを合わせて動いている。観客は静まり返り、誰もがその物語の一部を見逃すまいと息をひそめていた。
舞台袖の向こう。目を凝らさなければ見えないその場所に、文蔵の視線は吸い寄せられていく。
裏側にも、何かがある。
それはきっと、“誰かが立っていた時間”だ。
演者に視線を送るスタッフ、段取りを確認する音響班、照明を操作する手元、交わされる無言のジェスチャー。観客の目には映らないすべてのやりとりが、光の向こうで繰り返されている。
「あいつら、すごいな……」
小さく呟いたのは、隣に座る夏彦だった。彼は袖口からチラリと録音機を覗いたが、何も録らずにそっとポケットへしまい込む。
「こういうのも録ってみたかったな」
文蔵は、彼の声に頷くでもなく、ただ目を細めてステージの端を見つめていた。
彼の目に映るのは、脚本の一行でもなければ、演出の盛り上がりでもない。ふと手にしたカーテンの揺れ、緊張で固まった背筋、誰にも気づかれずに引かれる幕の手。
それを、記録と呼ぶべきかは分からなかった。
けれど、確かに「残る」ものはそこにある。形にならずとも、言葉にならなくても、そこにいた誰かの時間は、ちゃんと“あった”のだと思えた。
「演技、上手いなあ。てか演出、うちより凝ってるかも」
前方の席から、彰良の声が聞こえた。無邪気に感心するその響きに、澪が「うちはうちでよかったって言ってなかった?」と苦笑しながら返す。
「いや、比べてるわけじゃないって。うちはうちで……ちゃんと“残った”しな?」
「そうだね」と澪が小さく頷くのを、文蔵は耳の端で拾った。
ステージの明かりが落ちる。観客からぱらぱらと拍手が起きる。
音と光がすっと引いていくと、舞台袖で動いていた人たちのシルエットが、少しだけはっきり見えた。誰かの肩に手が添えられ、また次の準備へと流れていく。
こういうのを、見逃さないでいたい。
記録というには、あまりにも曖昧で、定かでない。それでも、“観ていた”ということを、いつかどこかで思い出せたら。
「……想汰」
夏彦の声に、ほんの少しだけ首を傾ける。
「こういう舞台の上に、俺たちも立ってたんだな。知らないうちにさ」
それは、なんでもない会話のようでいて、きっと“その先”を含んでいた。
観る側と、見られる側。その境界を越えて、今はただ、目の前にあるものを受け止めている──それが今日の自分たちだということを、彼は自然に認めているようだった。
観劇が終わり、客席のざわめきが戻ってくる。
「次、どこ行く?」
彰良が声を弾ませる。
「そこの展示、パンフだと面白そうだったよ」
澪がパンフレットを見せる。文蔵は、黙って立ち上がった。
観るという行為の中に、自分の輪郭が混ざる。誰かの記録の中に、自分の姿が映る。そんな時間が、今日はずっと続いていく気がした。
記録されない、でも確かにある、今。
───
「なあ、マジで言ってんのか。お前、あのタイミングで“ギャーッ!”はねえだろ」
購買前の広場は、相変わらず混雑していた。文化祭二日目、昼休み。普段なら静かな石畳のスペースも、今日は騒がしくざわめいている。
パンとジュースを手に、彰良はやっとの思いで人混みから抜け出す。三人と合流したのは中庭のベンチだった。秋の気配がほんの少しだけ混ざりはじめた風が、額の汗を拭ってくれる。
「それ言うなら、お前の“どーもぉ〜、怨霊ですぅ〜”の方がひどかったよ」
夏彦がスパイシーピザパンをかじりながら、じとっとした目を向けてくる。その隣で澪はチョコ蒸しパンを大事そうに食べていて、文蔵はあいかわらず黙ってアンパンをかじっていた。
「違うって、あれは計算されたアドリブ。ホラーハウスの空気を壊さずに、かつ笑いを取りに行ったわけよ。うん、深い意図があったね」
「うわ、自信満々だ」
「というか……来てた女の子、びっくりしすぎて転んでたじゃん……」
「でも最後には笑ってたし、セーフでしょ?」
言いながら、自分でも吹き出してしまった。誰かの笑顔で締めくくれるなら、それはもう“よかった”ってことでいいんじゃないか──なんて、ずるい理屈で正当化しながら。
文蔵がくい、とジュースを差し出してきた。無言のまま「飲む?」とだけ目が言っていた。
「サンキューな」
受け取った缶の冷たさが、やけに心地よかった。
ベンチの上では、誰もが何かを食べながら、それぞれの昨日を思い出しているようだった。あの演出、よく決まったな、とか。予想外にお客さんが多くて焦ったよな、とか。
「……でも、なんだかんだで、残ったな」
彰良がそう呟くと、三人とも顔を向けた。
「昨日の俺らの出し物。あれって、さ。うまくいったとか、そういうのは抜きにしても……なんか、“あった”って感じするんだよ」
パンの袋をくしゃっと握り、彰良は立ち上がった。軽く伸びをして、ポケットに手を突っ込む。
中には、昨日お客さんからもらった感想カードのひとつが、まだ入ったままだった。丁寧な文字で、「怖かったけど楽しかった!」とだけ書いてある。
誰が書いたのか、名前はなかった。でも、たった一行で十分だった。
これは、残った。
思い出ってやつは、ぜんぶ記録できるわけじゃない。そもそも、記録しきれないからこそ価値がある、なんて考え方もある。
だけど、“覚えてる”ってことは、それだけで意味があるのかもしれない。
風が吹く。ふと視線を上げると、澪がぼんやり空を見上げていた。夏彦は録音機をいじっていた手を止め、何も録らずにしまった。文蔵は、なにやら自分のシャツの裾をいじっていた。
きっと、照れ隠しだ。
「なあ、次どこ行く? まだまだ時間あるしさ、ひとつでも多く“残して”こうぜ」
「その言い方、ちょっとエモすぎ」
「うるせー、俺だってたまにはマジメになるんだよ」
そう返しながら、笑いがまたひとつ、夏の空にほどけていった。
パンの味も、誰かの声も、全部が雑多に混ざった午後の真ん中で。
ポケットの中の紙片が、ちりちりと指先に馴染んでいく。
“あった”ってことが、ちゃんと分かる。
それだけで、充分だと思った
───
午後の校舎は、やわらかく光を弾いていた。
日が少し傾きかけてきたことで、ガラス越しの陽射しは落ち着きを帯び、廊下を歩く生徒たちの影が長く伸びる。さっきまで四人で一緒にいたはずの四限組も、気づけば自然に散っていた。
別に、「解散」と声をかけたわけじゃない。ただ、そういう流れだった。
日暮夏彦は、昇降口近くのベンチに腰かけていた。録音機を掌の中で転がしながら、通り過ぎるざわめきをぼんやりと聞く。前を通る生徒の声、笑い声、遠くからかすかに響くスピーカーの音。録音ボタンに指をかけて、やめる。もう一度やって、やめる。
録るかどうかじゃなくて、残ってるかどうか、だよな。
自分でもよく分からない感覚だった。けれど、録らずに記憶できる音がある気がした。昼の中庭での笑い声、昨日のクラス展示で聞こえた誰かの悲鳴、それらはもう自分の中にちゃんとあると思えた。
───
一方で、椿原澪は校舎二階の教室を、クラスの女子たちと見て回っていた。
「これ、すごいね……」「本格的だよね、セットとか」
周りの声にうなずきながらも、彼の視線はどこか浮ついていた。
自分たちのクラスも、こう見えてたのかな。
そんな風に考えるのは、少し照れくさくもあり、どこか誇らしいようでもあった。昨日までの「つくる側」ではなく、今日は完全な「観る側」。気を張らずに笑っていられることが、こんなに楽だったのかと、改めて知る。
視線の先、窓からは校庭が見えていた。模擬店の煙がのぼり、音楽が流れ、誰かが誰かと手を振っている。
“高校の文化祭”って、こういうものだったんだな。
そう思った時、ふとスマホのカメラを構える女子の隣に立ち止まり、「今は撮るより、見る方がいいな」と小さくつぶやいた。気づかれないほどの声量で。
───
そして、文蔵想汰はひとり、旧校舎の屋上へ向かっていた。
この時間、普段なら人影はほとんどない。階段を上る足音だけが響いて、彼は無言のまま扉を開ける。開かれた風景がそこに広がっていた。
風が、ひとつ息を吐くように頬をなでた。
騒がしい校舎から一歩離れるだけで、空気の温度が変わる気がする。遠くに祭のざわめきがまだ微かに聞こえるけれど、ここにはそれとは別の時間が流れていた。
文蔵は制服のポケットに手を突っ込む。中には、昨日の感想カードが折れたまま入っていた。それを広げるでもなく、ただ指先で触れる。
伝わってたかどうかは、たぶん、わかってる。
昨日の客の反応、仲間の動き、クラスの笑い声。
どれも、記録はしていない。でも、なぜか胸の中にはちゃんと残っていた。文字にも、映像にもしていない感触が、こんなにも重たく、確かだなんて、思ってもみなかった。
───
場面は変わり、朝倉彰良は校舎裏のテラスに腰かけていた。
パンフレットを膝に広げたまま、ページをめくるでもなく視線だけが彷徨う。たぶん、どこかで三人とも“何かを見てる”んだろうなと、なんとなく思った。
自分も何かを見ようか、と軽く目を閉じたその瞬間、《オプションズ》がゆるやかに開いた。
あの日と同じように、未来の断片がいくつか流れる。
このあとの道を、どれにする?
その問いに、彰良は軽く笑った。
「いや、今は……これでいいや」
結局、どの選択肢も選ばないまま、《オプションズ》の視界はふわりと閉じていく。
目を開けると、風が揺れていた。世界は、変わらず続いている。
それぞれが、別の場所で、別の時間を過ごしている。
けれど不思議なほどに、それは“離れている”とは思わなかった。
バラバラなのに、ちゃんと繋がっている。
“すれ違う”っていうのは、きっと、そういうことなんだ。
四人が四人で、それぞれの午後を過ごしていた。
でもきっとまた、同じ場所に帰ってくるのだと、誰もがどこかで思っていた。
それぞれの“今”を抱えながら。
───
午後四時を少し回った頃、校内放送がやわらかに鳴り響いた。
「文化祭終了まで、残り三十分となりました。展示・公演・模擬店などの皆さんは、片付けの準備を始めてください」
アナウンスが終わると、校舎の空気がふわりと緩んだ。ざわめきの質が変わる。さっきまで弾んでいた声が、どこか名残惜しそうに余韻を残して響いていく。
夏彦は、録音機のボタンを押さなかった。
ただ、階段を降りながら、その音の変化だけを耳で確かめていた。かつて“録音するため”に聞いていた音が、今は“そのまま聞きたい”と思えるものになっていた。
一階の踊り場でふと視線をあげると、澪と目が合った。
「……お疲れ」
「うん。そっちも」
澪は展示室から戻ってきたところらしく、スケッチブックと折れた鉛筆を手にしていた。使いきった画材は、まるで今日一日を象徴しているかのようだった。
そこへ、彰良が曲がり角から軽く走ってくる。
「お、いたいた! 全員集合?」
「まだ想汰が来てないな」と夏彦。
「ああ、さっき、階段下りてくるの見たよ」と澪が言ったその時、ちょうど文蔵が廊下の先から歩いてくるのが見えた。足音は変わらず静かで、けれどその手には昨日と同じ進行ボードの紙ファイルが握られていた。
「……教室、寄ってみる?」
誰かが言い出したわけではない。ただ自然と、その方向に歩き出していた。
二年七組の教室は、もうほとんど片付けが始まっていた。和風喫茶の飾りも、ホラーブースの垂れ幕も、半分は箱に収められ、床には折れた竹ひごやガムテープの切れ端が転がっている。
開け放たれた窓から、風がカーテンを膨らませる。
数人のクラスメイトが、掃き掃除をしていた。装飾班の子が「お疲れー!」と手を振る。その向こうに、小橋先生が立っていて、掲示ボードに「進捗状況」の札を一枚、裏返す。
そこにはこう書かれていた。
『文化祭・完了』
教室の入り口で立ち止まったまま、四人は誰も何も言わなかった。
でも、それでよかった。
「終わっちゃうんだね」
ぽつりと澪がつぶやくと、夏彦が隣で笑った。
「でも、残る音もあるでしょ」
それは、彼の中だけにしか分からないような、やわらかな言葉だった。けれど、聞いた誰もがそれを否定しなかった。
「さーて……でもなんか、このまま帰るのもなぁ」
彰良が背伸びしながら言った。軽く見えて、どこか名残惜しさが混じる声。
「もう一ヶ所だけ、後夜祭終わったら寄っていい?」
「どこ?」
そう尋ねる前に、彰良はニッと笑って振り返る。
「屋上」
文蔵はそれを聞いて、微かに目を細めた。
たぶん、言われる前から分かっていた気がする。
最後に見る場所が、そこだって。
その場所がきっと、今日という日をきちんと終わらせてくれる気がして。
廊下にはもう人もまばらだった。教室のドアが音もなく閉じられる。四人の背中を追うように、風がカーテンを揺らした。
外は少しだけ、朱くなっていた。
───
夕焼けが沈みかけ、空は少しピンクに見えてくる。
校庭にはぽつぽつと灯りが灯されていた。仮設のライトが地面を照らし、電飾を這わせたテントが浮かぶように光っている。音楽室から引っ張ってきたスピーカーが、スローテンポのポップスを流していた。
後夜祭──文化祭最後の余白。
フォーマルな進行も、特別な催しもない。ただ、思い思いに集まった生徒たちが、余韻を分け合っている。それが、この時間のすべてだった。
四限組の四人も、いつの間にかその輪の端にいた。
「けっこう人いるなあ」
彰良が、まだ温かい缶ココアを開けながらつぶやく。自販機前の混雑をかいくぐって手に入れたばかりのそれを、夏彦に押しつけるように渡した。
「ほれ。お前、冷たいのばっか飲んでたろ」
「……ありがとう。でも、口火切ったのそっちなのに、なんで俺が開けんの?」
文句を言いながらも、受け取る夏彦。ふっと立ち上る湯気に、少しだけ顔がほころぶ。
少し離れた場所では、輪になって踊っている生徒たちもいた。じゃんけんで盛り上がるグループ。ぼんやりと空を見ているカップル。ベンチで笑い声を交わす先輩たち。
みんなが「終わること」を知っていて、それでもまだ「ここにいたい」と思っているような空気だった。
「こういうの、初めてかも」
澪がぽつりとつぶやいた。
「中学の文化祭は、ほとんど来場者もいなくて、片付けだけして帰ったから……。こんなふうに、名残惜しいって思うこと、なかった」
「……同感」
文蔵も静かにうなずいた。
「うちのとこも、あんまり“楽しむための祭”って感じじゃなかったな」
夏彦が缶ココアのふちに口をつけたまま、低く言う。
それを聞いて、彰良がちょっとだけ笑った。
「じゃあさ。来年も出ような」
「まだ終わってないぞ。あと30分くらいある」
「いや、そういうことじゃなくてさ」
声は冗談めいていたけれど、口調は意外とまっすぐだった。
「来年の今頃も、たぶんまた“終わっちゃうな”って思うんだろうけど。その時に“今年もよかったな”って言えたら、最高じゃね?」
「……うん」
それは、誰が答えたのか分からないほど、重なった返事だった。
夜の風が少しだけ強くなり、校庭の飾りが揺れた。紙で作られた花輪が光に透けて、まるで夜空に咲いた静かな花みたいだった。
それぞれが、それぞれのままで、ただその場にいた。
それだけで、十分だった。
ライトの隙間から、誰かがシャボン玉を飛ばした。ひとつ、ふたつ。光をまとって、ふわりと空に消えていく。
澪が少しだけ背伸びして、空を見上げた。
「……屋上、まだ行けるかな」
それに応えるように、文蔵がゆっくりと立ち上がった。
「ああ。……行こうか」
四人は言葉を交わさず、目だけでうなずき合った。
最後に訪れる場所は、きっともう決まっていた。
───
扉を開けたとき、風の音が最初に届いた。
夕焼けはもうとっくに過ぎ去って、空は群青と黒のあいだで揺れていた。遠くに市街地の灯りが滲み、校舎の屋上は驚くほど静かだった。ほんの少し肌寒さすら感じさせる風が、四人の髪をやわらかくなでる。
「……誰もいないな」
彰良がぽつりと呟く。
誰もいないのが、むしろ自然だった。この時間、この場所を選んだのは、そういう空気を求めたからだと、四人とも分かっていた。
文蔵は、柵の前まで歩み寄って、無言のまま空を見上げた。夏の終わり。夜の始まり。文化祭の終わり。すべてが交じり合って、あいまいなまま広がっていた。
「終わったね」
澪の声がした。肩をすぼめながら、小さく笑っていた。
「うん。でも……」
夏彦がポケットに手を入れたまま、続けた。
「残ってる感じ、あるよな」
「なんの?」
「んー、空気とか、風とか、音とか……あと、あのカフェの甘すぎる紅茶とか」
「それ、全部お前の記憶フィルターじゃん」
彰良が笑いながらツッコんだが、誰も否定はしなかった。
文蔵はそっと、制服の内ポケットに手を伸ばした。取り出したのは、小さなノート。使い込まれて、角が丸くなっている。
でも、そのページは
「……今日も書かないの?」
澪の問いに、文蔵は少しだけ首を横に振った。
「うん。……今日も、いい」
風が吹いた。ノートのページが、一枚めくれた。けれど文蔵はそれを閉じたまま、胸元に仕舞った。
それでも、何かが確かに“ある”と思えた。
書かなくても、言葉にしなくても、いま、ここにいるということが、記録よりも鮮やかだった。
「ここ、やっぱりいいな。高いとこって」
彰良が、柵の向こうに広がる街を見ながら言った。
「なんか全部、ちゃんと“終わった”って感じがする」
誰も返事はしなかったが、否定もしなかった。
夜の風が、また吹いた。夏の熱気を少しだけ連れて、秋のはじまりの匂いを混ぜながら。
やがて、校舎の下のほうから「そろそろ下校時間です」という放送が聞こえてきた。
それは、ほんとうに終わりの合図だった。
「……帰るか」
誰かが言った。
四人はゆっくりと歩き出す。屋上の扉を背にして、階段を下りていく。廊下の灯りは少し白すぎて、まるで現実に戻るための光のようだった。
最後に、文蔵が小さく呟いた。
「また、来年もやれたらいいな」
それは誰に向けた言葉でもなく、けれど、ちゃんと届いていた。
四人の足音が、空っぽの廊下に重なって、少しずつ遠ざかっていった。
終わりと始まりの、ほんの一歩だけ先へ。