放課後の校舎裏には、まだ西日が届いていた。
夕焼けに染まる空が、校舎の窓に反射してゆらゆらと揺れている。そんな時間に、椿原澪は、昇降口とは反対の静かな通路を歩いていた。呼び出された場所。“ここで待っててほしい”と、小さく書かれたメモの場所だった。
人通りはない。誰かが立ち話をするには、少し肌寒すぎる。だけど澪は、制服のポケットに手を入れながら、そこに佇んでいた。何となく理由は察している。けれど、確証なんてどこにもない。
そのとき、足音がした。
くるりと振り返ると、制服のスカートが風に揺れた。小柄な女の子が、少し息を切らせて、けれど笑顔でこちらへ歩いてくる。
「待たせちゃいましたか?」
ふわりとした前髪に、柔らかな声。『小柳雪』二年七組、同じクラス。文化祭の準備で、たまたま装飾係の作業が重なったことがきっかけだった。特別に仲が良いわけじゃない。でも、話せる相手。澪にとっては、そういう存在。
「ううん。ありがとう」
雪は小さく息を吸い込んでから、ほんの少し笑って、言った。
「……あのね、椿原くん」
その声が、不思議と澪の中に、深く、白く、積もっていく。
「……わたし、あなたのことが好きです」
どこか風の音に似た、けれど確かな言葉だった。
沈黙。通り過ぎた風が、落ち葉を一枚、ふわりと持ち上げていった。
雪の瞳は、まっすぐこちらを見ていた。どこまでも揺るがず、怖がらず、ただ、まっすぐに。
それはまるで、春先に咲くユキヤナギのような。
ひとひらもこぼさず、真っ白に咲ききる花のようだった。
澪は、何も言えなかった。
ただ、そのまま立ち尽くしていた。
けれどそれを、雪は責めなかった。ただ、ふっと小さく微笑んで、
「……びっくりしますよね。ごめんなさい、いきなりで」
そう言って、制服の袖をぎゅっと握った。
「でも、どうしても、伝えたくて」
その言葉の重さに、澪はようやく小さく頷く。
その一瞬だけ、夕陽の色が、二人の間で白くほどけた気がした。
───
二時間目の終わり、教室に差し込む陽はすっかり秋の色をしていた。
窓際の席でノートをめくる手を止めた澪は、ちらりと廊下の向こうを見た。誰かが小走りで駆け抜けていく音。そのあとに、かすかに聞こえる笑い声。もうすぐチャイムだ。周囲がざわめき始める気配のなかで、澪は静かに視線を戻す。
「椿原くん、これ……一つ余ったから、いる?」
声をかけてきたのは、小柳雪だった。少し後ろの席から、澪の机にそっと置かれたのは、教科書に挟まっていたらしい折りたたみメモ用紙と、個包装のミントキャンディ。
振り返ると、小柳は微笑んでいた。教科書に顔を隠すようにして。
「……ありがとう」
澪は一拍置いてから受け取り、ミントの包み紙を開いた。口の中にひんやりとした清涼感が広がる。
小柳はそれを見て、少しだけ嬉しそうにした。
些細なことだった。けれど、彼女は以前から時折そういう“さりげない気配り”をしていた気がする。教科書を借りたとき、ノートの余白に描かれた小さな雪柳のイラスト。澪が言葉にしなかった「ありがとう」を、小柳はいつも先に拾ってしまう。
昼休み、四限組のいつもの席に着くと、彰良がいきなりパンの袋を引きちぎっていた。
「見よ、購買のラスボス・メープルシナモンパンを制した俺を!」
「……澪、これシナモン嫌いだったっけ?」と夏彦が尋ね、文蔵は無言でポケットからカメラを取り出していた。
そんなやり取りをぼんやり眺めていた澪のところへ、また小柳がやってきた。
「ねえ椿原くん、さっきの数学で使った公式、後でもう一回教えてもらってもいい?」
「ああ……うん、大丈夫」
「ありがとう、放課後、図書室でもいいかな?」
そのやり取りを遠巻きに見ていた彰良が「おおっと?」と口元をゆがめたが、澪が軽く目線を送ると、彼は肩をすくめて引き下がった。
その後の放課後。図書室の隅、静かな空気の中で、小柳は例の公式を何度かノートに書き直していた。わからない箇所を聞いてくる姿は真剣で、無駄なおしゃべりは一切なかった。
けれど、それが終わって帰ろうとしたとき、小柳はふと立ち止まった。
「椿原くんって、なんか……いつも風みたいな感じだよね」
「風?」
「うん。気がついたら近くにいて、気がついたらいなくなってる。音も残さないのに、なんか、ちゃんといたなって思える感じ」
「……よくわからないけど」
「えーとね、いい意味だよ?」
そう言って、小柳はほんの少しだけ、恥ずかしそうに笑った。
図書室を出て、教室に荷物を取りに戻る。途中、廊下の掲示板には文化祭のときの写真が何枚か貼り出されていた。
そのなかに、自分と小柳が映っている写真がある。クラスの展示準備中、澪が資料を指さし、小柳が真剣に見ているような場面だった。誰が撮ったのかはわからない。けれどその距離感と表情は、当時の空気をそのまま閉じ込めていた。
──いつからだったろう。
気がつくと、小柳雪はそばにいた。
距離を詰めてくるわけでも、過剰に馴れ馴れしくなるわけでもない。ただ、静かに、でも確かに。
そして今。夕日が差し込む教室で、机に置かれた一枚の封筒。
「放課後、ちょっとだけ校舎裏に来てくれませんか?」と丁寧な筆跡で綴られた文字。
澪は、ポケットにミントキャンディを残したまま、廊下へと歩き出した。
───
校舎裏。
夕日が校舎の窓を赤く染めて、長い影をグラウンドに投げかけている。落ち葉が、風にかすかに転がる音。壁越しに聞こえるのは、部活動のかけ声とボールの跳ねる音、そして遠くのチャイム。
その空間だけ、放課後のざわめきから取り残されたように、静かだった。
「……来てくれて、ありがとう」
少し遅れて現れた小柳雪は、校舎の角から現れると、そっと深呼吸するように立ち止まった。いつも通りの制服姿。けれど、前髪の隙間から覗く目元が、どこかいつもより揺れて見える。
「別に、断る理由もなかったし」
澪は壁にもたれたまま、正面から彼女を見た。
小柳は手元の何かをぎゅっと握ったまま、しばらく言葉を探すように黙る。
風が、またひとつ落ち葉を吹き抜けた。
「椿原くんって、やっぱり不思議な人だなって思うの。最初からずっと、目立つわけでもないのに、気になってて……。文化祭のとき、一緒に作業してて、余計にそう思った」
彼女の声は、どこかで緊張と迷いを隠しながら、それでも真っすぐだった。
無理に笑おうとするでもなく、早口で誤魔化すでもなく。ただ、静かに、言葉を並べていく。
「私ね、誰かとすごく深く関わるのって、あまり得意じゃないんだ。自分から話しかけるのも、ほんとはけっこう勇気がいるし。でも、椿原くんには、なんか……そういうの、あんまり気にせずに話しかけられてた」
「……それは、たぶん、こっちも似たようなもんだからじゃない?」
澪の言葉に、小柳は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
でも、次の瞬間には、ほんのりと笑う。
「そっか。……うん、たぶん、そうだね」
それから、小柳は一歩、澪のほうに近づいた。
制服の袖がわずかに揺れ、夕陽がその輪郭を縁取る。
「だから、今日……ちゃんと伝えようと思って。……私、椿原くんのことが、好きです」
言葉のあとに、風が吹き抜ける。
その音がすべてを包み込むように、ゆっくりと時間が流れていった。
「文化祭の日、憶えてる?」
そう言って、小柳雪は、夕暮れの空に目を向けた。
澪は、答えなかった。ただ、黙って立ったまま、その続きを待っていた。
「私、実行委員じゃなかったし、目立ったことは何もしてない。けど、あの日は、ずっと周りを見てた。……みんなが楽しそうで、わたしはその輪にうまく入れなくて、ちょっとだけ教室の外に出たの」
彼女は、空を見たまま言葉を継いだ。
まるでそれが、自分の“記憶”を呼び出す鍵であるかのように。
「廊下の掲示物の前で、あなたが立ってたの。……装飾を直してて、誰もいないのに、真剣に。テープが剥がれてたとこ、ちゃんと見つけて。貼り直して、次のとこにも目を配ってて」
そこには何の演出もなかった。ただ、見えない仕事を、丁寧に、淡々とこなす姿。
「わたしね、あの時……すごく羨ましかったの。“誰のためでもなくて、自分がやるべきことを、黙ってできる人”って、なんか……かっこいいなって思った」
ほんの数秒の静寂が落ちる。
風がまた、二人のあいだを通り抜けた。
「その後も、何度か一緒になって。小道具作るの、手伝ってくれたときもあったよね。会話なんて、たぶん全然してない。でも、ちゃんと目が合って、うなずいてくれて。……“いてくれてる”って、思えたんだ」
一言一言が、丁寧に選ばれていた。
それはまるで、咲ききる直前の花びらが、ひとつずつゆっくりほどけていくみたいだった。
「ねえ、椿原くん。きっとあなたは、“どうして自分なんだ”って思ってるよね?でも、私は、たぶん、誰でもよかったわけじゃない。あなただから、好きになったの。あなただから、“伝えなきゃ”って思ったの」
声は震えていなかった。
それは告白というよりも、自分の中の“記憶”を、ただ確かに語るような響きだった。
澪はしばらく何も言わなかった。
ただ、その言葉の重みと、目の前の少女の表情を、しっかりと受け止めていた。
澪は、目を伏せていた。
どう返せばいいのかわからなかった。彼女の言葉が、あまりにも真っすぐだったから。
それは、どこかで自分が見過ごしていた時間。
見つけてもらった、ということ。
そこに“意味”を感じてくれた誰かがいた、ということ。
「……ごめん。すぐには、答えを出せない」
ゆっくりと絞り出したその一言に、小柳は目を伏せて、そして頷いた。
「うん。わかってた。でも……ちゃんと、伝えられてよかった」
声は少しだけ震えていたが、笑顔は変わらなかった。
一途で、真っすぐで、まるで季節外れの雪柳のように、やわらかく、それでいて芯がある。
「それだけで、たぶん……今日のわたしは、十分です」
小柳は、そう締めくくって、にこりと笑った。
「……ありがとう」
澪のその一言に、小柳は「こちらこそ」と小さく笑顔を返した。
まるで、春のように、淡くて、けれど強く残る笑みだった。
彼女の背が校舎の影に溶けていくのを、澪は最後まで見送っていた。
そしてその場に残った秋風だけが、澪のポケットの中のミントを、少しだけ冷たく思い出させた。