放課後の教室は、少しずつ音が薄れていく。椅子を引く音や、友達同士の笑い声、廊下を走る足音。それらがだんだん遠くなるたびに、小柳雪は自分の呼吸の音ばかりがやけに大きく聞こえるような気がしていた。
窓の外では風が、落ち葉を小さく舞い上げている。夕焼けにはまだ早い、けれど日差しはどこか柔らかくなっていて、夏の光とは違う優しさがあった。
隣の席の子が先に帰るねと笑って手を振っても、雪はただ「うん」と頷くだけだった。手は振り返さなかった。たぶん、今、笑うと変な顔になる気がしたから。
(返事、来ないな……)
その言葉は、声にならないまま胸の内側でだけ静かに響く。澪からは、何も言われていない。嫌な顔をされたわけでも、避けられているわけでもなかった。ただ、何も。何も、返ってこない。
それでも、目が勝手に追ってしまうのだ。今日も。
授業中、前の方の席で教科書をめくる音。廊下で、鞄を肩に引っ掛ける姿。中庭のベンチで、文蔵と並んで座っていた後ろ姿。全部、ふとした瞬間に目に飛び込んできて、そのたびに胸がきゅっとなる。
(こうやって、好きって気持ちは残っていくのかな)
そんな感傷じみた考えが浮かぶたびに、自分で自分を恥ずかしくなる。でも、止められない。止められるくらいなら、とっくにもう──。
「……振られた、ってことじゃないの?」
放課後、机に頬杖をついた雪に、中学からの親友である水木 日向(みずき ひなた)がぽつりと言った。明るい性格の友達で、言い方は悪気のないものだった。むしろ心配してくれてるのはわかってる。でも。
「うーん、どうだろうね。まだ“どっち”とも言われてないから」
雪はそう言って、笑った。上手に笑えた自信はない。でも、日向は「そっか」とだけ返して、深くは聞いてこなかった。
「……っていうか、雪ってさ、あの人のこと、そんなに好きだったんだ?」
「え?」
「いや、ほら。文化祭のとき、ちょっと仲良くなって、話した感じだったでしょ? あたし、けっこうびっくりしたよ」
「……うん、自分でも、ちょっと、びっくりしてる」
これはたぶん、正直な言葉だった。話した時間は、そんなに多くない。だけど、その間の言葉や表情のひとつひとつが、ちゃんと心に残っている。澪の声、考える前に少しだけ目を伏せる仕草、文化祭のとき笑いながら「自分は裏方が似合う」って言っていたこと。
(たった数週間だったけど、すごく、まっすぐだった)
そのことだけは、ずっと忘れない気がする。
「……ねぇ雪、明日さ、カフェでも行かない? “お疲れ様会”しよ。あんた頑張ったし」
「……うん、ありがとう」
今度こそ、ちゃんと笑ってみせた。たぶん少しぎこちなくても、それでいい。親友の言葉に救われる瞬間が、たしかにあったのだと思いたかった。
そして窓の外を見やると、ちょうど一人の後ろ姿が廊下の先を横切った気がした。肩にかけた鞄、少し歩幅の狭い歩き方。それは、まぎれもなく椿原澪の姿だった。
声をかけることは、できなかった。
でも目は、ちゃんと追っていた。
風が、教室の窓の隙間からひゅうと吹き込む。乾いた葉が、机の脚元をすべっていった。
雪はその音に目を落とし、少しだけ目を細めた。
(……まだ、終わったって決めたくないな)
そう、思った。
───
駅前通りにある、小さなカフェの窓際席。
くすんだ木目のテーブルには、笑い声と甘い香りが満ちていた。並べられたメニューは、カラフルなパフェと季節限定のケーキプレート。あたたかな飲み物の湯気が、ほんの少しだけ冬の入り口を予感させる。
「ほら、これ見てよ〜!文化祭のとき、雪が着てたエプロンのやつ!」
「えっ、なにそれ、誰が撮ったの!?」
「A組の誰かのストーリーに載ってたの。スクショだけどさ、これ、可愛くない?」
そう言ってスマホを差し出してきたのは、日向。彼女の隣には、もう一人の友達、菜月が笑いながらストローをくわえていた。
雪は画面を覗きこみ、ふと息をのんだ。写っていたのは、自分が調理ブースで配膳の補助をしていた時の写真。エプロン姿で笑っている自分と、その奥には白いシャツの袖をまくって、横顔を向けている椿原澪の姿があった。
「あ……」
「ね、隣にいるの椿原くんでしょ? 文化祭で仲良さげだな〜って、思った人も多かったっぽいよ」
「うーん……どうかな……。そんな、仲良さげだったかな……」
思わずごまかすように言った声が、少しだけ裏返った。日向と菜月は見逃さず、「うわ、照れてる〜!」とからかってくる。
笑い声。ティースプーンがカップに当たる音。店内に流れるBGMは、耳慣れたアコースティック。ふと外を見れば、窓の向こうに校舎の屋根が夕陽に照らされて、遠くににじんでいた。
「……でも、まあ、言えたのは、よかったかな」
雪はぽつりと呟いた。パフェの上の生クリームを、スプーンの先でくるくると撫でながら。
「お、前向き!」
「うん。だって、何も言わなかったら、何も起きなかったし。……それだけは、避けたかったから」
言葉にしながら、自分でも「ああ、自分ってこんなふうに思ってたんだ」と気づいていく。告白の返事はまだもらえてない。でも、言えたこと自体に後悔はないのだ。
「……ほんとは、ちょっと怖かったんだよ。いきなりだったし、澪くんも何考えてるかあんま分かんないし」
「それな」
「だよね〜。でも、雪ってさ、けっこうすごいと思うよ? 普通、返事もないともっと落ち込むって」
「うーん……。落ち込んでないって言ったら、嘘になるけど」
笑いながら、雪は少しだけまつげを伏せた。
(ちゃんと終わったってわけじゃない。……でも、はじまってもいない)
曖昧なままの時間は、優しさと苦しさを同時に連れてくる。気まずくもないけど、気楽にもなれない。笑顔の中に、ちょっとだけすきま風が吹いてくるみたいな。
「……たぶん、ちゃんと好きなんだよね」
ぽろりと出たその言葉に、日向と菜月は一瞬黙って、それから笑顔で「だね」と頷いた。
その反応に救われて、雪はようやく本当に笑えた気がした。
そして、ふと視線を窓の外に向けた。カフェの窓から見える校舎の屋上に灯りはなく、教室の窓もすっかり暗い。だけど、どこかで澪があの道を通って帰っているような気がした。
どこかの路地。どこかの角。見えなくても、つながっている場所。
(また、どこかで話せたら、嬉しいな)
そんな淡い願いを、飲み物の残りと一緒に胸の奥へと飲み込んだ。
「さーて、パフェも食べ終わったし、そろそろお会計しよっか!」
「うん。……ありがとね、二人とも」
「何言ってんの。私たちの“お疲れ様会”は、無期限延長よ!」
カラン、とティースプーンの音が鳴って、夕暮れのカフェがほんの少しだけ明るくなった気がした。
(終わりじゃない。まだ、続いてもいいって、思ってる)
帰り道に吹く風は、もうすぐ冬の匂いだった。