秋晴れの朝。風は冷たくなりはじめたけれど、空の青さはまだ夏の名残を思わせる。
駅前のロータリーにはちらほらと人の影があり、休日ののんびりした空気が漂っていた。
澪は改札の柱にもたれかかりながら、文庫本を手にしていた。目線は活字を追っているけれど、内容は頭に入ってこない。ページをめくる指の動きは機械的で、意識はずっと別の場所をさまよっていた。
返事、してないな。
それは、小柳雪の顔だった。文化祭のあと、彼女に呼び止められたあの日から、もう少しで一週間が経つ。
放課後の校舎裏、静かな声でまっすぐに伝えられた想い。
「付き合ってください」
その場で、何も言えなかった。
「おーい!待ったか澪〜〜!」
耳に届いた声に、澪は少しだけ肩を跳ねさせて顔を上げる。
大きな声とともに、手を振りながら駆け寄ってきたのは朝倉彰良。その後ろには、眠そうな目でゆるりと歩く日暮夏彦と、静かに歩みを揃える文蔵想汰の姿もあった。
「集合時間、ギリセーフ?」と夏彦が欠伸まじりに言い、彰良が「俺は余裕だったけど?」と無意味に胸を張る。
文蔵は特に何も言わず、澪と視線を交わすと、軽く頷いた。
「さてと!行きますか、紅葉狩りに!俺の秋、見せてやんよ!」
彰良が拳を突き上げると、夏彦が「あーはいはい、燃え尽きろ銀杏と共に」と呆れたように返す。
そんなふたりのやりとりに、小さく笑いながら、澪は背負っていたリュックの紐を引き直す。
電車はほどなくしてやってきて、車内は休日らしいゆるやかな賑わいだった。
座席に並んで腰かける四人。それぞれがそれぞれの空気で過ごしていた。
彰良はスマホを手に、ピクニックの行き先のレビューを読み上げている。
「なになに、『紅葉が落ちる瞬間がスローモーションで見える』?これ絶対盛ってるよな〜」
夏彦はポケットから小さな録音機を取り出し、「今朝の風、ちょっと湿っててさ。これ入ってるか確認したい」とひとりでブツブツ言っていた。
文蔵は窓の外をじっと眺めている。流れる風景と共に、どこか遠くへ心を馳せているようだった。
澪は、そんな三人の横顔を眺めながら、少しだけ目を伏せた。
僕、返事どうすればいいんだろうな。
頭の中に、雪の声が、あの時の表情が、何度も繰り返される。
嫌だったわけじゃない。ただ、驚いた。
まだ自分の気持ちに、ちゃんと名前をつけられないだけ。
気づけば、電車は目的の駅へと到着していた。
降り立ったホームには、ふわりと冷たい風が吹き抜けていく。
「お、空気変わったな!ほら澪、秋だ秋!」
そう言って彰良が背中を軽く叩いてくる。
「……うん」
短く返した澪の頬に、ひらりと落ちた紅葉が一枚。
それを指でつまんで見上げれば、空はどこまでも青かった。
───
「ねえこれ、地味に登山なんだけど」
軽く息を切らしながら、日暮夏彦は斜面の途中で立ち止まった。
足元には落ち葉が積もり、踏むたびにかさこそと乾いた音を立てる。黄色や赤、橙といった色彩の波が、山肌をゆるやかに染めていた。
「登山ってほどじゃないだろ。ハイキングだよ、ハイキング」
彰良が先頭で振り返りながら笑う。どこからか拾ってきた木の枝を杖代わりにして、妙に楽しげだ。
「そもそも、誰が選んだんだっけ?このコース」
「……お前な」
「だよなあ!」
軽く肩をすくめて笑いながら、夏彦は録音機を取り出した。
吹き抜ける風の音、落ち葉のざわめき、遠くで鳴る鳥の声。耳を澄ませば、あらゆる音が景色の一部になる。
「この音、好きだな」
ぽつりと呟いた言葉に、誰も反応はしなかったけれど、それでいいと思った。
四人で歩いているだけで、必要以上の言葉なんていらない。
やがて、ひらけた広場にたどり着く。
ベンチとテーブルがいくつか置かれ、木漏れ日がやさしく差し込んでいる。
辺り一面の紅葉はまるで絵葉書のようで、まぶしすぎて少しだけ目を細めた。
「よし、ここでお昼にしようぜ!」
彰良が早々にレジャーシートを敷き、リュックから弁当を取り出す。
夏彦も腰を下ろしながら、自分の弁当箱を開いた。
中身は冷凍食品と、昨夜の残りものを母親が適当に詰めたもの。それでも、自然の中で食べるとやたらと旨そうに見える。
「俺の見ろよ。これな、朝から焼いたんだぜ。唐揚げ。あと卵焼き、焦げてるけど」
「見た目はともかく、気持ちは伝わるな……うん」
澪の弁当は、丁寧に詰められた手作りだった。味のバランスも配色もきれいで、どこか彼らしい几帳面さがにじんでいた。
「文蔵のは?」
「……白米と、しそ昆布と、漬け物」
「安定すぎて、逆に強いな」
ひとしきり笑いながら、それぞれの弁当を一口ずつ交換する流れになっていく。
それはまるで、少し前の「お弁当選手権」の延長戦のようで、懐かしさと心地よさが混ざっていた。
ふと、夏彦は澪を横目で見た。
今日の澪は、よく食べているけれど、どこか静かだった。笑ってはいる。相槌も打つ。けれどその笑いが、少しだけ遠く感じた。
なんか、あるな。
夏彦は言葉にせず、ただ録音機のボタンをそっと押す。
風の音がふわりとマイクに乗った。
葉が揺れ、ひとひら、澪の肩に落ちる。
「……ん?」
澪が小さく声を漏らして振り返る。夏彦と視線が合った。
けれど、澪は何も言わずに目をそらした。
風が、もう一度吹いた。
録音機の中に、その気配だけが記録されていく。
(ま、今じゃないな)
夏彦はそっと再生ボタンを止めた。
紅葉の下で過ごす昼休みは、まだ終わらせたくなかった。
───
ぱち、ぱち、と。
焚き火の音が静かな森の中にひっそりと響く。
焼きマシュマロの香ばしい匂いが、ほんのりと鼻をくすぐった。
「ほい、できた。食うか?」
朝倉彰良は、串に刺したマシュマロを絶妙な焼き加減で火から外すと、隣にいた文蔵に差し出した。
「……ありがとう」
相変わらずの無口で受け取るその手つきは、慎重そのもの。
まるで、焚き火の熱を通して気持ちまで確かめるかのようだった。
「なあ、焚き火ってさ、なんか落ち着くよな」
「落ち着くというか……ぼーっとするね」
「それだ」
ひとしきり食べては笑い、意味のない話で盛り上がったあとの静けさ。
火の前って、言葉がなくても間が持つ。だからこそ、言えないことが言えたりもする。
「俺さ、昔から決断が早いってよく言われんの」
火を見つめながら、彰良はポツリと呟いた。
隣で夏彦が「自覚あるんだ」と軽く笑い、文蔵は静かに頷いた。
「でもな、たまに思うんだよ。“本当に正しい選択肢”って、後からじゃなきゃわかんなくね?ってさ」
風が、枝葉を揺らす。澪の髪が一瞬だけ浮かび、また元に戻る。
彼は、火から少しだけ距離を取って座っていた。
「俺がさっさと選んで、失敗したやつとか、ほんとは別の道のがよかったんじゃねーかなとか、まあ……いろいろ思うわけよ」
いつもなら、冗談で流すところだ。
でも、今はこの空気が許してくれている。
「……何の話?」
澪が、ふと顔を上げた。
その目は、どこか探るようでもあり、でも素直だった。
「いや。なんとなくな。決めなきゃいけないことってあるだろ?だけど、すぐに答え出せないときもある。そんときは……無理に今すぐ出さなくても、いいんじゃねって話」
火の揺らぎが、澪の横顔を柔らかく照らす。
その輪郭が、いつもより少しだけ不安定に見えたのは、焚き火のせいだろうか。
「……なんもないけど」
澪の口元がかすかに笑った。
「だろうな。でも、なんかあったら、そのうちでいいから話せよな」
彰良は軽く笑いながら、もう一本マシュマロを串に刺した。
火はまだ、ちょうどよく燃えていた。
そういえば、小さい頃。
キャンプファイヤーの炎を見て、「火って生き物みたい」って言ってた奴がいたっけ。
火は、焦らせない。
でも、ちゃんと燃える。
澪がゆっくりと頷いた。
それだけで、今日は十分だった。
───
太陽が山の向こうに沈みかけ、空が静かに茜色へと変わっていく。
焚き火を片づけた四人は、緩やかな下り坂を歩いていた。足元には、少し乾いた落ち葉のじりじりとした感触。風がひと吹きすると、それらがふわりと舞い上がり、また地面に帰っていく。
文蔵想汰は、一歩後ろからその背中を見つめていた。
夏彦が何か冗談を飛ばし、彰良がつっこむ。澪はそれを聞いて、わずかに肩を揺らした。
秋の風は、少しだけ冷たくなっていた。
それでも、その風の中に漂う空気は、どこか心地よかった。
「……風の音、いいな」
ふいに、夏彦がポケットから録音機を取り出した。再生ボタンを押すと、すこし前に録った“風”が、ほんの小さく再び流れる。
けれど本物の風の音がそれを追い越し、重なって、また離れていった。
「どっちが本物かわかんなくなるな」
「どっちも、だろ」
彰良が、なんでもないように返す。そのやりとりに、文蔵は口元だけで微かに笑った。
前を歩く澪の背中が、ほんの少しだけ、軽く見えた気がした。
彼は今日、ほとんど言葉を発していない。
それでも、火の前で笑って、ベンチで静かに弁当をつついて、いつも通りに「そこ」にいた。
文蔵は思った。
答えを出すことだけが、進むことじゃない。
立ち止まっているように見えても、その人の中で、何かが動いているときがある。
「なにか、悩んでるなら」
ふと、言葉が口からこぼれた。
自分でも、出すつもりはなかったのに。
「ゆっくりで、いい」
澪が立ち止まった。
振り返る顔は、驚いていた。でも、すぐに、優しい顔に変わった。
「……ありがとう」
その声が、風にさらわれて遠くへ行く前に、しっかりと届いた。
四人は並んで歩き出す。
肩と肩が、ぶつかりそうで、ぶつからない距離。
風が吹く。
誰かのマフラーの端がなびき、誰かのフードが揺れる。
「でも、そろそろ──」
澪の声が、風の隙間から届く。
「ちゃんと、向き合わないとな」
その言葉は、まっすぐ前を向いたまま呟かれた。
誰かに向けた言葉ではなかった。でも、誰もが、それを受け取っていた。
肩に、一枚の紅葉が落ちてきた。
澪はそれをそっと手に取り、また歩き出した。
空は、すっかり茜色に染まっていた。
次へと進むために。その一歩が、風の中で静かに踏み出された。