購買前の行列は、いつもよりちょっとだけ長かった。
日が短くなってきたせいか、放課後の空はすでに傾き始めていて、体育館の屋根が西日に溶けるように赤く染まっている。
「なーんか、妙に混んでんな。天丼パン、死守できるかなあ……」
彰良が後ろで伸びをしながら言うと、前を歩いていた夏彦がふっと笑った。
「それ、毎回言ってる気がするけど」
「言わなきゃ取れない気がするんだよ。言霊ってあるだろ。天丼パン、俺のもとに来い!」
両手を天に掲げる彰良に、列の前方で振り返った生徒が怪訝そうな顔をする。が、そんな視線もどこ吹く風で、彼は堂々と拳を握った。
「しかし満作が生徒会長って、もう誰も勝てんわ」
「おお、話題転換が雑」
夏彦が苦笑しつつ、少し後ろを振り返る。そこには、文蔵と澪が、少し離れて歩いていた。
「橋ヶ谷くん、すごかったね」
澪の言葉は小さいけれど、はっきりしていた。
体育館での演説、その余韻はまだクラスの中でも囁かれていた。生徒会って言うと堅苦しいイメージだったのに、満作が話したあの星の話は、不思議と誰の中にも何かを残していた。
「ちゃんとしてる人が選ばれて、よかったよ」
淡々とした澪の声に、彰良が振り返る。
「真面目な顔して言うなよ。お前、立候補勧められてたくせに」
「…だから、ちゃんと選ばれてよかったって」
ちょっとだけ睨むような視線を返す澪に、彰良はあっさりと「へいへい」と肩をすくめる。
列が進む。購買のガラス扉が近づく中、文蔵がぽつりと言った。
「去年は生徒会とか、興味なさそうだったけどな」
その言葉に、三人の視線が集まる。
「どういう意味だ?」
「文蔵、満作と同じクラスだったんだよな。一年のとき」
「うん。あいつ、当時は今みたいに人前に立つタイプじゃなかったよ。目立ってはいたけど。どっちかっていうと、メモとってる方だった」
「え、めっちゃ今と逆じゃん」
夏彦が眉を上げる。文蔵は首を横に振る。
「逆ってわけじゃない。たぶん、変わったんじゃなくて、やり方を変えたというか…“進んだ”んだと思う」
誰かの背中を見ているような、そんな声だった。
「ふーん……っていうか満作って、名前のインパクトすごくない? 最初、盆栽の名前かと思った」
「盆栽! ひど!」
彰良が笑いながらも同意するように頷いた。
「でもまあ、インパクト大事だよな。覚えやすいし。『橋ヶ谷 満作』って、漢字で見ても音で聞いても強い。なんか将軍感あるわ。満作将軍、爆誕」
くだらない、と澪が呟いたが、顔は少し笑っていた。
「満作って木、どんなのか知ってる?」
唐突に夏彦が問う。
「……え、木なの?」
「そう。春先に黄色い花が咲く、ちょっと変わった枝ぶりの木。”春が来た”って教えてくれるんだって」
「へえ。ちょっとかっこいいなそれ」
彰良が腕を組んでうなった。
「名前の由来って、案外深いな……。満作将軍、春の先触れ……」
「そんな肩書きの人いない」
澪がすかさず突っ込み、全員が笑った。
ガラス越しに、購買のおばちゃんの姿が見える。あんパン、カレーパン、焼きそばパン。天丼パンは、残り二つ。
「やべえ、ラスト天丼パン! おれ行く!」
彰良がダッシュしようとして、すかさず夏彦に襟を掴まれる。
「ルール、守れ」
「チッ、満作将軍なら許してくれた……」
そんなことを言いながらも、列が進む。何かが変わっていく日々のなか、四人の足取りは、あいかわらず軽やかだった。
───
昼下がりの屋上は、思ったよりも風が冷たかった。
秋の陽射しはまだ優しく残っているのに、吹き抜ける空気にはもう冬の気配が混ざっている。コンクリートの上に落ちた銀杏の葉が、風に煽られてコロコロと転がっていく。
四人が並んで座るベンチには、どこかまばらな空気があった。別に喧嘩をしたわけでも、沈黙が気まずいわけでもない。ただ、みんなそれぞれに好きなように時間を使っていた。
「それにしても、満作すげーよなあ」
彰良が空を見上げたまま呟いた。
「まぁた満作くんの話?」
澪が尋ねると、彰良は「いや、名前が」と返してきて、すぐに続けた。
「満作ってさ、なんか強そうじゃん。たとえばさ、オレらがもし会長だったらどうする?」
「うわ、それは地獄の予感しかしない」
夏彦が即座にツッコミを入れた。
「オレだったらまず、購買に焼き芋を常設するね。あと、廊下にホットドリンクの自販機置く」
「それ、ただの願望だよな」
「いいの、夢くらい見させてくれ」
くだらない会話が続いていく中、文蔵は隣で黙ったまま、風に揺れる校庭の木々を見ていた。枝の先からは、黄色や赤に染まった葉がひらひらと舞い、季節の真ん中を告げている。
「校内にBGM流したいってのもいいな。クラシックとかじゃなくて、ラジオ的なの。昼休みに“今週のランキング!”みたいなやつ」
「うるさくない?」
「うん。でもなんか、テンション上がるじゃん」
澪はそのやり取りを聞きながら、静かに笑った。
彼自身は、「自分だったら何をするか」なんて考えたこともなかった。というより、きっと向いていないと、どこかで思っている。
「でもさ、誰かが前に立つって、やっぱすごいよね」
気づけば、口にしていた。風がちょうど強く吹いて、声が一瞬だけ掻き消されそうになる。
「おっ、まさかの椿原発言」
彰良が身を乗り出したが、澪はそれには乗らず、淡々と続けた。
「人前で話すのって、それだけでもすごいと思う。満作くん、ちゃんと伝わる言葉を選んでたし、わかりやすく話してた。……僕には無理だなって、思った」
「でも、“後ろにいるやつ”がいないと、バランス取れないんだよ」
ふいに、文蔵が口を開いた。
「前に出る人だけじゃなくて、黙って支える人がいるから、ちゃんと立てるんだと思う」
その言葉に、彰良が「おお、名言きた」と茶化すように言い、夏彦も「文蔵が言うと説得力あるな」と頷く。
澪は、ちょっとだけ黙ったあとで小さく言った。
「……でも、僕がやってるのって、ただ黙ってるだけなんだよな」
「それが“いる”ってことだろ」
今度は、夏彦が軽く言った。
そういう話、しなくてもいいのになと、澪はふと思う。
でも、してくれるのがこの人たちなんだとも、知っていた。
風がまた吹いて、ベンチの周囲に落ち葉が舞う。黄色い葉が、一枚だけ澪の肩に落ちた。彼はそれをそっと指で摘まみ、膝の上に置いた。
空は高く、少しずつ茜色へと傾いていた。
───
放課後の空は、ほのかに朱を帯びていた。
街の喧騒とは少し距離を置いたこの通学路は、学校帰りの生徒たちの足音と、遠くの車の音、そして時折吹く風の音だけが聞こえていた。
四限組の四人は、例によって並んで歩いていた。完全な横並びではない。ややばらけて、それぞれが気ままなペースで、でも自然と足並みが揃うような距離感だった。
「いやー、やっぱ満作くん会長はでけぇよな」
彰良が、ランドセルでも背負ってそうな勢いで両手を広げて言った。
「たとえるなら、もう“完成されたポ〇モン”って感じ」
「初手から最終進化してんのかよ」
夏彦が即座に返して、ふたりで笑い合う。冗談の質は低いけれど、笑いの熱量は高かった。
「オレらもさ、なんかやろうぜ」
彰良が急に言い出す。真剣なような、冗談のような、どちらともつかないトーンで。
「また何かのイベント? 文化祭終わったばっかで燃え尽きてない?」
「いや、そういうんじゃなくて、ただの“なんか”。なんか楽しいやつ。例えば……」
そこで言葉が途切れる。アイデアはなかったらしい。
「無計画すぎんだろ」
夏彦が呆れたように笑いながら言った。けれど、それに続けてこうも言った。
「……でも、だらっとしてる今がいちばん落ち着くな」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
後ろからついてきていた澪が、ふと小さな声で呟く。
「……でも、何かしたいなって思えるの、いいことだよ」
三人が少しだけ振り返る。けれど、澪はそれ以上は何も言わなかった。
文蔵が、そんな澪の隣で静かに歩きながら、小さく頷いた。まるで「それだけで十分だ」とでも言うように。
夕陽が、坂道の向こうから照らしている。四人の影が、長く伸びて重なったり離れたりする。
「じゃあなー!」
曲がり角で手を振り、彰良が駆け出す。その後を追うように夏彦が「忘れもんすんなよ!」と叫ぶ。
文蔵と澪は、少し遅れて歩く。風がまた一度、秋の落ち葉を舞わせていった。
その光景を見ながら、澪はふと思う。
何もしなかった一日だった。けれど、それでもなにか、心が満ちていくような感覚があった。
“なんでもない”って、きっとこういう日のことを言うんだ。
そう思いながら、彼は少しだけ笑って、手を振った。