朝倉彰良は、気がつけばまた「視て」いる。
教室の片隅でスマホを手にしながらも、心ここにあらずという表情で窓の外を見つめていた。クラスの中では快活なお調子者。誰にでも分け隔てなく接し、場を盛り上げるムードメーカーだ。しかし、その明るい仮面の裏では、彼だけが知る苦しみがあった
選ばなかった未来。歩まなかった結果。拒んだ可能性。
それらが無数の“選択肢”として彼の視界に並び、透けるようにして風景の上を這う。
この日も同じだった。
六月の薄曇りの空。どこか湿り気を帯びた空気。校舎を流れる午後の鈍い光。
視界の端には、授業中の教室、窓辺に腰掛ける少し気になる女子の横顔。頬杖をついた姿勢のまま、彼女はノートをめくることなく、教科書の行間をじっと見つめている。
しかし、彰良の目にはそれとは別の世界が見えていた。
仮にあの朝、家を出るタイミングが五分早ければ——
駅で傘を落とした彼女を拾い上げ、ふたりきりで登校したであろう未来。
あるいは、朝の挨拶に笑顔を添えたなら——
彼女が笑い返し、後の休み時間に話しかけてきたであろう未来。
どれも「起こらなかった」未来。
そして、どれもが「起こりえた」はずの現実。
——くだらないな、と彰良は思う。
そんな選択肢を、彼はもう何千、何万と視てきた。
それは日常に溶け込み、視界の奥に常に貼りついて離れない。
友人に声をかけられるその瞬間でさえ、「話しかけなかった場合の未来」や、「無視した場合の結末」が、脳裏に映し出される。
自分が選んだ言葉。黙っていた沈黙。どちらもその場の運命を変える。
だが、それを知って何になる?
彼はうんざりしていた。
世界はいつも枝分かれする。目の前の現実のすぐ隣に、無限の選ばれなかった世界が口を開けている。
どれを選んでも、どれも選べなかったことを知る。
その繰り返しに、ただ疲れていた。
「……朝倉。ノート写してもいいか?」
ふいに現実が声を持って彰良を引き戻した。
声の主は、隣の席の文蔵想汰だった。
いつものノートをなぜか持っていない彼は、教科書の隙間から彰良を覗き込む。
気怠げな笑みを浮かべながら、どこか不器用な気配をまとって。
「……別にいいけど。珍しいな、文蔵がちゃんと板書を写してないの」
彰良はペンを置き、ノートを差し出した。
その動作の隣に、また“視える”。
断った場合の未来。言葉を濁した未来。笑って応じた未来。
いずれにせよ、結果の差異はわずかだ。
文蔵想汰は怒らない。傷つきもしない。冗談を言って流すだろう。
——だったら、まぁ、なんでもいいか。
そう思いながら、彼はまた視線を教室の外へ流した。
眼下に広がる校庭。跳ねる白球。歓声の音がかすかに届く。
誰かが、何かを選びながら生きている。
自分とは違い、「結果」を知らずに済む人間たちだ。
そのとき、彰良の胸の奥に、言葉にならない空洞が蠢いた。
─────
放課後、空はとうに傾きかけていた。
夕焼けが校舎の窓を朱に染める頃、生徒たちはそれぞれの帰路へと散っていく。
部活動に向かう者。友人と寄り道する者。あるいは誰かと約束を交わした者。
そのいずれにも属さず、朝倉彰良は、いつものように屋上への階段を登っていた。
鍵の緩い扉。吹き抜ける風。
誰も来ない時間、誰も来ない場所。
そこでようやく、彼は“視る”ことをやめられる。
選択肢は、他者との関係性のなかで発生する。
誰かがいて、その誰かに何を言うか、どう動くか、どう応じるか。
だが、一人でいれば、選択は必要ない。未来は分岐しない。
たったひとつの静けさの中に、彼は自分を置く。
——静かだった。
風の音と、自分の息づかいだけが屋上を満たしている。
頭上には、雲の切れ間から現れた薄い青。
眼下に広がる街並みは、夕日に輪郭をなぞられながら、淡く燃えていた。
「……ここに来るの、好きだよな」
背後からかけられた声に、彰良の心臓がひとつ跳ねた。
振り返ると、そこに文蔵想汰が立っていた。
学校指定の黒いリュックを片手に持ち、扉の陰から覗くように、彼はにやりと笑った。
「ひとりで物思いにふけってそうな顔してるから、気になってな」
何気ない口調。けれど、そこにあるのはただの興味本位ではないと、彰良は直感的にわかった。
「……見られてたのか、いつから?」
「まあ、毎日この時間に屋上行くやつって限られてるからな。偶然見かけたのが最初だが、今日は……なんとなく、声かけてみた」
文蔵はそう言って彰良の隣に腰を下ろした。
コンクリートの床が夕日に温まっていて、ぬるく、柔らかい熱が背中に伝わってくる。
「なあ、朝倉」
「……」
「おまえさ、人と距離とるの、得意だろ」
突然だった。
だが、それは核心だった。
彰良は答えなかった。答える必要もなかった。
代わりに、彼は目を細めて空を見た。
西の空に、淡く三日月が浮かび始めていた。
すべてが、ゆっくりと夜に飲まれていく。
「べつに悪いことだとは言わない。俺だって、そういう時期あったし。……でも、今は違う。今は、四人で一緒にいる。おまえも、その中にいる。それって、意味のあることじゃないか?」
文蔵の言葉は、穏やかで、真っ直ぐだった。
それはまるで、自分のように未来を見る力持たない彼が、唯一“視えているもの”を伝えようとしているような、そんな気がした。
彰良は、ひとつ深く息を吐いた。
——ああ、こんなふうに、誰かが踏み込んでくる。
自分が距離を保とうとした、その線を超えてくる。
けれど、それが決して不快でないことを、彼は今、知っている。
「……なれると思うか」
「ん?」
「俺が……“誰でもない誰か”じゃなく、誰かになれるって」
文蔵は、一瞬だけ言葉を探した後、力を込めて言った。
「おまえは、もう“誰か”だよ。俺たちにとってはな」
それは、ひとつの選択だった。
分岐ではない。強制でもない。ただ、差し出された“在り方”だった。
─────
翌日の放課後、教室には、取り残されたように静かな気配があった。
窓際の机に座った朝倉彰良は、誰の気配もない教室で、ただじっと自分の手元を見ていた。
薄く開かれた教科書。筆記用具の整然とした配置。
けれどそのどれにも、彼の意識は向いていない。
眼差しは遠く、どこまでも深く、目の前にない“未来”を見ている。
——選べ。
無数に現れる、未来の枝分かれ。
それらは、彼が動かずとも自然と広がる。誰かの言葉。誰かの行動。それに自分がどう応じるか。
一つひとつの選択が、世界を変える。
「逃げる」
「黙る」
「肯定する」
「否定する」
「笑う」
「無視する」
「傷つける」
「助ける」
無限の可能性は、常に彼の頭上に差し出されている。
そのどれもが、現実になり得る。
だが、最も確からしい未来は、いつだって決まっていた。
——選ばない。
見極めたうえで、最小限の損失をとる。感情を排し、合理的にふるまう。
それが朝倉彰良の生き方であり、《オプションズ》という異能の副作用だった。
「……選べるってことは、自由じゃない」
誰に言うでもなく、彰良は呟いた。
選べるということは、責任を問われるということ。
失敗すれば、自分の判断が愚かだった証になる。
だったら、最初から最善の未来だけを選べばいい。そうして生きてきた。
けれど、それで本当に“生きてきた”と呼べるのか。
文蔵の言葉が、胸の奥で未だに残響のように揺れている。
——おまえは、もう“誰か”だよ。俺たちにとってはな。
その言葉の“意味”を、彼はまだ上手く定義できない。
けれど、心のどこかが確かに反応していた。
「おーい、朝倉ー。……まだ残ってたの?」
急に開いた教室の扉。
そこから顔を覗かせたのは、日暮夏彦だった。
相変わらず寝ぐせのついた髪に、片方の耳から垂れた有線のイヤホン、制服の第一ボタンを開けっ放しのまま、無防備な笑みを浮かべている。
「ん、なんか探し物?」
「……いや、そうじゃない」
「そっか。じゃあ、ちょっと来てほしいとこあるんだけど、つきあってくんない?」
何の前置きもなく言ってくるその軽さが、彰良には苦手だった。
だが、同時にその“曖昧さ”に救われる瞬間があることも、知っていた。
「どこに?」
「まあ、見てのお楽しみってやつ。ほら、さっさと立って」
仕方ない、と呟きながら立ち上がる。
その瞬間——見えた。日暮夏彦の誘いに応じる未来の枝分かれが。
「断る」→その場で解散。特に問題なし。
「少し迷う」→曖昧な空気。若干のすれ違い。
「ついていく」→移動先は……裏庭。何かを話す。
「ついていく+質問する」→内容次第で、関係性に微細な変化。
「ついていく+黙って歩く」→意外と、落ち着いた時間が得られる。
それら全ての未来が、重なり合いながら彼の前に提示される。
けれど、今日は、
「わかった。行こう」
たった一言。それだけで選んだ。
あえて未来を見ず、結果を求めず、ただ“今”に従った。
そしてその瞬間、彰良の中で何かが、確かに静かに揺れ動いた。
─────
夕暮れの校舎裏。西陽が傾き、空の色が茜に染まってゆく。
屋上への階段下にある裏庭は、校内でもあまり人の寄りつかない場所だった。
雑草が生い茂るフェンス際、風に吹かれて葉擦れの音が微かに鳴る。
ふと見上げた空は、すりガラスのように淡く、まるで記憶の中の風景のようだった。
日暮夏彦は、そんな場所を選んでいた。
なぜここに? と訊こうとしたが、彰良は何も言わなかった。
ただ、言葉が訪れるのを待つように、静かに立っていた。
「さっき、花壇のとこに咲いてたツツジ見た?」
唐突に口を開いた夏彦は、笑っているようで、どこか遠くを見ていた。
ツツジ。今の季節には少し遅い気もするが、ちらほら残っているものもあるだろう。
「気にしてなかった」
「だろうね。俺もさ。ぜんぜん見てなかった。でも、今日ふと見たら、まだ咲いててさ。……あ、ちゃんと咲いてんだって思ってさ」
意味のあるようで、ないような言葉だった。
けれど、どこか引っかかる響きだった。
「なんで俺を連れてきた?」
彰良は問いを口にした。
夏彦は、はにかむように肩をすくめた。
「さあ? 理由なんてなくても、誰かと一緒にいたいって時、ない?」
「……そういうのは、俺……よくわからない」
正直にそう答えると、夏彦は少しだけ目を見開いた。
そして、言った。
「でもおまえ、今ここに来てるじゃん。ついてきたじゃん」
「……」
「それって、少なくとも“俺と一緒にいてもいい”って思ったってことだよな?」
その言葉に、心がかすかにざわめいた。
確かに、彼は今日、未来を見なかった。
選択肢を検討せず、損得を考えず、ただ“今”を選んだ。
それは、気づかないうちに“誰かのそばにいたい”と願っていたことの、証だったのかもしれない。
「……日暮、俺の能力のこと、知ってるんだろ?」
沈黙の中で、彰良はぽつりと呟いた。
異能力《オプションズ》。
未来の選択肢が見えるこの力を、夏彦は知っているはずだ。
「うん。まあね。想汰からちょっとだけ聞いてたし」
「じゃあ、今日、俺が来るってわかってた?」
「いや。……でも、来てくれる気がした」
根拠のない言葉だった。
でも、だからこそ、嘘じゃないとわかる言い方だった。
「選べるって、つらいよな」
ふと、夏彦の声が低くなった。
いつもの明るさとは違う、少し陰を帯びた声音。
「なんでも選べるって、なんでも選ばなきゃいけないってことだからさ。俺は選べなかったからこそ、楽なときもあったよ。誰かに流されたり、流したりして、後悔しても“仕方なかった”って思えた。でも、朝倉は……“選べる”んだよな。だから、たぶん誰よりも、自分に厳しいんだと思う」
彰良は、何も返さなかった。
けれど、心の奥で何かがゆっくりとほどけていく感覚があった。
自分のことを“見てくれている”人間が、確かにここにいる。
それだけで、どこか救われる思いがあった。
「俺さ、たまに思うんだ」
夏彦は空を見上げた。
「“選ばなかった選択肢”って、もしかしたら——選んでたのと同じなんじゃないかって」
彰良はその言葉を、胸の中で繰り返した。
選ばなかった選択肢——
それは、可能性の墓場。
けれど、それに心を動かされた時点で、もう“何か”を選んでいるのかもしれない。
彼はそのとき、ようやく、少しだけ息を吐いた。
風が吹き、木の葉がかさかさと音を立てた。
選択肢のない時間。
たった数分、誰かと過ごした、答えのない夕暮れ。
それは、朝倉彰良にとって——選べない“温もり”だった。
──────
屋上への階段を登る音が、夜気に吸い込まれていった。
誰もいないはずのこの時間、響く足音は二つ。
ひとつは、いつものように迷いなく。
もうひとつは、少しだけ遅れて、それでも確かに後を追っていた。
屋上の扉はすでに鍵が外れていた。夏彦が先に開けていたのだろう。
錆びた蝶番が軋んで、灰色の空へと通じる道が開かれる。
夜の校舎は静まり返っていた。
すぐそばを走る幹線道路の騒音もここまでは届かない。
風の音と、自分たちの呼吸音だけが、世界のすべてだった。
夜空には薄雲がかかっている。
星はまばらにしか見えないが、それでも一つひとつ、冷たい光を灯していた。
「……ねえ、朝倉」
隣に立った夏彦が、ポケットから小さな紙の束を取り出した。
「これ、見てみ?」
渡されたのは、折り目のついた古いプリント用紙だった。
日付は数ヶ月前。裏面に何かが手書きされている。
《“自分にとっての本当の選択肢とは何か”を、できるだけ具体的に書きなさい》
——それは、倫理の授業で使われたワークシートの一部だった。
覚えている。
自分は、この設問に何一つ答えられなかった。
「俺、ちゃんと書いてたんだな……」
呆然とつぶやくと、夏彦は頷いた。
「提出前にさ、隣の席でちょっと見た。『誰かと一緒にいる未来』って、書いてたよ」
彰良は、一瞬言葉を失った。
そんなこと、まったく覚えていなかった。
きっと、苦し紛れに書いた。深く考えもせず、とにかく空欄を埋めるようにして。
でも、それが——
「……朝倉は、選んでたんだよ。もうとっくに」
紙の端が、風にあおられてかすかに揺れる。
夜の光の下、その文字はほとんど読めなくなっていた。
けれど、確かにそこに書かれていた。
“誰かと一緒にいる未来”。
「でも俺、そんな未来、見えないんだ」
彰良の声がこぼれ落ちる。
「俺には、無数の選択肢が見えるくせに……それがいつも、誰かと繋がるように見えたことなんて、一度もなかった」
世界が広すぎて、誰の声も届かない。
誰かを好きになることすら、“確率と結果”で考えてしまう。
人を信じる前に、未来を計算してしまう。
だからこそ、自分はずっと“選ばれない”存在だと感じていた。
「そんなの、選択肢じゃねえよ」
夏彦の声が、風の中に低く響いた。
「そんなのただの、呪いだよ」
「呪い……?」
「うん。でも、それを“能力”って言うならさ——その呪いは、誰かに解いてもらえばいい」
彰良は顔を上げる。
夏彦は、まっすぐに彼を見ていた。
どこまでも真っすぐな、あの澄んだ目で。
「なあ朝倉。俺はさ、未来のこととか、全然わかんないよ。選択肢も見えないし、計算とか、苦手だし。でも……今、こうして一緒に屋上にいることだけは、ちゃんと“選んだ”んだよ」
言葉は、言葉以上の意味を持っていた。
それは“未来を見ずに、今を選んだ”という、彼なりの最大限の行為だった。
彰良の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
いや、崩れたのではない。
初めて、ちゃんと“積み上がった”のだ。
無数の選択肢を抱える彼が、ただひとつの場所に立っている。
ただひとつの人間と、ただひとつの時間を共有している。
それは奇跡だ。
かけがえのない、奇跡だった。
「……ありがとう」
その言葉が、思った以上にかすれていたのは、風のせいだけではなかった。
心の底でずっと求めていた答えに、ようやく辿り着いたような気がした。
選ばなかった選択肢。
選べなかった未来。
けれど、そこに“誰かの気持ち”が重なった瞬間、
それはただの“後悔”ではなくなる。
それは、確かに“選んだ未来”に変わっていくのだ。
──────
夜明け前の空は、まだ星の残る薄紺だった。
屋上の風が冷たく、夏彦の手から渡されたワークシートが揺れる。
彰良はそれを胸に抱え、静かに目を閉じた。
彼の胸の中では、今まで見えなかった未来の扉が、ゆっくりと開き始めている。
それは、誰かの声が、手を差し伸べてくれたからだった。
振り返れば、あの日の葛藤も、苦しみも、すべてが繋がっていた。
過去の選択が、未来の自分を形作っていることを、初めて実感した。
「選択肢が多すぎて、何を選んだらいいかわからなかったんだ」
彰良は、ひとりごとのように呟く。
「でも、誰かと一緒にいる未来を選ぶことも、できるんだな」
心の奥で、確かな光が灯る。
その光は、彼だけのものではない。
想太も、夏彦も、澪も、皆それぞれの選択を胸に抱いている。
「俺は、俺の未来を選ぶ」
強く、そして静かに決意を胸に刻み込む。
目を開けると、夏彦が静かに微笑んでいた。
その笑顔は、揺るぎない信頼の証だった。
「これからも、一緒に選び続けよう」
冷たい夜風が、どこか温かく感じられた。
朝焼けが空を染め始める。
それは、新たな一日の幕開け。
そして、四限終わりに集まる少年たちがそれぞれの未来へと歩み出す瞬間でもあった。