秋の教室は、午後の光でできている。
差し込む日差しが机の角を淡く照らし、廊下に続く扉の隙間からは、すでに冷たさを孕んだ風が吹き込んできていた。放課後のざわめきは少しずつ遠ざかり、笑い声も足音も、カーテンの揺れる音に溶けていく。
小柳雪は、教科書を閉じる手をゆっくりと止めた。
あと少しでチャイムが鳴る、というような緊張もない時間。放課後というより、“放課後だった”という余韻のなかで、彼女は教室の一番後ろの席から、前の方に座る一人の男子生徒を見ていた。
椿原澪。
その名前を、誰かと話すことはほとんどない。自分のなかでだけ、静かに響く名前。姿を目で追ってしまうのも、もう何度目だろう。たぶん、最初に好きだと気づいた日から。いや、それよりも前から、すでに目だけは追いかけていたのかもしれない。
今も澪は、いつものように静かに席を立ち、鞄を肩に引っかけて廊下へと出ていこうとしている。その横顔には、何の感情も浮かんでいないように見える。ただ、少し下を向いて歩く癖だけが、変わらずそこにあった。
(あ……)
声に出そうとして、できなかった。
目が合ったわけでもない。ただ、その後ろ姿が視界を横切った瞬間に、心臓が少しだけ跳ねた。それでも、呼び止める勇気はなかった。理由は、もう自分でも分かっていた。
「……まだ、来ないんだね。返事」
ぽつりと漏らした言葉に、近くでプリントをまとめていた日向が顔を上げた。茶色い髪を一つに結んだ日向は、雪のいちばんの友人で、あの日の“お疲れ様会”にも付き合ってくれた子だ。
「……んー、椿原くんって、返事とかそういうの、すごく慎重そうだしね。さっさと返事しろって思うけど、真摯に向き合ってくれてるってことだよね?」
「うん、わかってる。……でも、待つって、ちょっと疲れるね」
雪の声は、消え入りそうだった。かといって、悲しみに沈んでいるわけではない。返事がほしい。できれば、答えがある方が楽になれる。でも、それを催促するようなことをしたくはなかった。
(待ってるあいだに、気持ちが変わってしまうかもしれないのが怖いのかもしれない)
そう思うたびに、胸のどこかがきゅっとなった。
「でもさ、待てるって、すごいことじゃない?」
そう言ったのは、菜月だった。日向の後ろの席でのんびりと荷物をまとめていた彼女は、いつもおっとりした口調で、たまにびっくりするようなことを言う。
「だって、好きな人のこと、信じてないと待てないでしょ?」
「……信じてるっていうか……」
雪は口ごもった。
ほんとうは、信じたい。でも、どこかで不安もある。もしかして気まずいだけなんじゃないか、とか。気づかないふりをしているんじゃないか、とか。そんな考えが頭をよぎるたびに、自分のなかの「好き」という気持ちまで揺れてしまうような気がして、怖かった。
「信じてる……つもり」
それが、今の彼女の精一杯だった。
教室の外では、澪の姿がもう見えなくなっていた。最後に見たのは、斜め後ろからの肩越し。制服の襟が少しだけよれていたのが、妙に記憶に残っている。
(声を、かければよかった……?)
だけど、声をかけて、何を言えばよかっただろう。どうしても言葉が見つからないまま、その背中は廊下の角へと消えていった。
夕焼けには、まだ少しだけ早い。でも、空の色は少しずつ赤みを帯びていて、ガラス窓にはやわらかな光が揺れていた。カーテンがゆるやかに揺れるたびに、教室の中の空気も少しだけ変わっていく。
日向が先に立ち上がり、「そろそろ帰るかー」と伸びをする。菜月もそれに続き、笑いながら「今日こそ、ちゃんと駅まで一緒に歩こうよ」と声をかけた。
雪も、小さく頷いた。
(今日も何も起きなかった)
それは、残念でもあり、少しだけ安心でもあった。
だけど。
(ほんとうは、何かが起きてほしかった)
雪はそんな気持ちを胸の奥にしまいながら、鞄を肩にかけて立ち上がった。
風が、再び吹き込んできた。机の脚元で、どこからか紛れ込んだ落ち葉がひとひら、くるりと回転して、床を滑っていく。
澪の返事は、まだ届かない。
でも今日も、彼はそこにいた。
その姿を、見つけることができた。
それだけで、少しだけ、今日という日が意味を持った気がした。
(もう少しだけ……待ってみよう)
胸の中で、静かにそう思った。
───
放課後のカフェは、思っていたよりも混み合っていた。
駅前通りにある、あの木目調の店。告白のあと、“お疲れ様会”と称して笑いあった思い出の場所。くすんだ木のテーブル、季節のパフェとあたたかな飲み物。変わらない空間に再び座っているというだけで、ほんの少しだけ、心が和らぐ気がした。
日向が、「ほら、今度はマロンのやつあるってよ」とパフェの写真を見せてくる。菜月は、店内BGMに合わせて小さくリズムを取りながら、ホットミルクティーのストローをゆっくり回していた。
笑い声が飛び交う隣のテーブルを横目に見ながら、雪は静かにメニューを閉じる。
目の前の季節限定のケーキプレート。半分ほど食べたところで、スプーンを持つ手が止まってしまった。味はちゃんと美味しい。けれど、心がどこか、味から遠いところにあった。
「ねえ、雪」
不意に、日向がまっすぐにこちらを見た。
「……返事ないの、逆に都合よかったりする?」
その言葉に、ケーキのクリームをなぞっていたスプーンがぴたりと止まる。
「……え?」
「いや、なんとなくね? 返事が来たら、それで“終わる”じゃん。どっちに転んでもさ」
日向の声は、軽いようでいて、どこか核心を突いていた。菜月が驚いたように日向を見て、慌てて「ちょっとそれは……」と口を開こうとしたけれど、雪は手を軽く振って制した。
「……ううん。大丈夫。たぶん、少しは……合ってるかも」
そう認めた自分に、雪自身がいちばん驚いていた。
「“どっちでも終わっちゃう気がする”って、思ってるのかも」
言葉にして、ようやく輪郭を持ったその感情は、自分でも気づかないうちに胸の中に根を張っていたものだった。
澪の返事が“イエス”なら、嬉しい。でも、そこからはまた違う関係が始まってしまう。“ノー”なら、それこそ何もかもが終わってしまう気がして。
今の、この曖昧で不確かな時間の中に、逃げ込んでいたのかもしれない。
「……ひどいよね、そんなの。返事を待ってるとか言って、自分が答えを怖がってるなんて」
雪の声は、自嘲混じりだった。でも、それを否定する声はなかった。
日向はただ、ストローの先で氷をくるくると回しながら、「いやいや、ひと月近く待たせてる椿原くんもあれだと思うよ」とだけ呟いた。
菜月、柔らかな笑顔で言った。
「返事って、“向こうの気持ち”が来るだけじゃないからね。“自分の気持ちに決着をつける”ってことでもあるし」
それは、静かだけれど真っ直ぐな言葉だった。
雪は窓の外に目をやった。少し低くなった夕陽が、ビルの隙間から差し込んできて、店内のテーブルにうっすらと影を落としている。校舎の屋根が遠くに見えた。そのどこかに、澪はまだいるのだろうか。
「……でも、やっぱり、知りたいな」
そう口にしたとき、雪の声はほんの少しだけ柔らかかった。
「知りたいって思えるうちは、きっと、ちゃんと好きなんだと思うから」
その言葉に、日向と菜月がほっとしたように笑う。会話が止まったわけじゃない。ただ、言葉の先にある感情まで、三人がちゃんと共有できた気がした。
カフェの天井には、早くも冬の飾りが吊るされ始めていた。星型のオーナメントがゆっくりと回っている。その揺れに、どこか時間の流れを感じて、雪はそっと目を細めた。
(いつか、ちゃんと届いてほしい。だけど、)
心の奥で、まだ揺れている自分がいた。
でも、それでも。
「ありがと、来てくれて」
「なに言ってんの、いつでもお疲れ様会だから」
「マロンパフェは次リベンジな」
笑い声が再びテーブルを満たしていく。窓の外では、夕陽がそろそろビルの向こうへと沈もうとしていた。
雪はパフェの残りをひとくちすくって、ようやく口に運んだ。
少しだけ甘すぎたけれど、それがなんだか、ちょうどよかった。