秋の午後は、いつも気づけば斜めになっている。
放課後の教室には、四限組の笑い声がさざ波のように広がっていた。
「なあなあ、文化祭終わって、ハロウィンも終わったってことはさ……次、なんかやる?」
彰良が机に頬杖をつきながら、思いつきのテンションで言った。
夏彦が即座に「勉強だろ、期末あるじゃん」と返すが、真剣みはゼロ。彼の手元には飴玉の包み紙と落書きだらけのノートだけが転がっていた。
「じゃあ、焼き芋大会とかさ」
「もう寒いんだから、外で食うのやめような? 指かじかむだろ」
「やってねえのに、やめようなって何?」
そんな軽口の応酬に、澪はくすりと笑った。
彼の席の前には、文蔵が淡々とプリントを束ねている。手元の動きは変わらないのに、時おり微かに口元が緩むのが見える。
こんな、なんでもない日が、好きだ。
ふと、そう思った瞬間、脳裏に浮かんだのは一人の少女の顔だった。
(……雪さんなら、こういうの見て笑ってくれたかな)
自分でも驚くほど自然に、彼女の名が浮かんだ。
黒猫の耳をつけた仮装姿。昨日、遠くから一瞬見ただけだったけど、それがどうしてか、記憶に残っていた。
普段の制服姿とも、文化祭で笑っていた顔とも違って、“誰かに見られたい”と願う気配をほんの少しだけ纏っていた。
「澪ー、お前もなんか言えって!」
彰良に呼ばれて顔を上げる。
気づけばみんなで「四限組忘年会をやるなら何を食うか会議」が始まっていた。
「……鍋とか、かな」
ぽつりと答えると、夏彦が「おー、意外と定番で攻めるタイプ」と笑った。
文蔵は「鍋なら……準備、分担いるな」と既に段取りを考えているようだった。
その声にうなずきつつも、澪の視線は、窓の外に伸びていた。
秋の陽は傾いて、校舎の壁を赤く染めている。手すりの影が長く延び、いくつもの影が重なっていた。
(なんでもない日って、たぶん、いちばん話したくなる)
「楽しかったよ」なんて、特別なことじゃない。
でも、それを誰かと共有したくなる瞬間は、案外“平凡な日”にこそ訪れるのかもしれない。
「おーい、澪〜?。鍋の具材な、澪は何推し?」
彰良の声が再び飛んでくる。
澪は少しだけ考えて、口を開いた。
「……だし巻き卵」
「それおかずだろ!」
笑い声がまた弾ける。
その中心にいながらも、澪の心は、少しだけ別の場所にいた。
“もし、雪さんがここにいたら”
そんな想像をしてしまった自分に気づいて、目を伏せる。
気づかないふりをしていたけれど、もう誤魔化せない。
(……たぶん、僕は、あの人に)
教室に風が通り抜けた。
少し冷たい空気に、マントの裾がふわりと揺れた気がした。
澪は静かに立ち上がる。
「ちょっと、外、行ってくる」
「ん? どした? まだ鍋決まってないぞー?」
「……決めといて」
後ろで夏彦が笑っていた。文蔵はちらりと彼を見たが、何も言わなかった。
廊下に出た澪の足取りは、少しだけ速かった。
この気持ちがどこに向かうのかは、まだわからない。
でも、もうちゃんと、答えなきゃいけない気がしていた。
誰かを目で追う時間が、もう“ただの時間”じゃないと気づいてしまったから。
午後の陽が傾きはじめ、校舎の影が中庭に長く落ちていた。
椿原澪は、図書室から出てきたばかりだった。
残っていた夏の名残を探すように、窓辺に置かれた数冊の雑誌をめくっていただけだ。読んだわけでも、何かを調べていたわけでもない。そこに誰もいない静けさと、少し埃っぽい匂いが、今日は心地よかった。
中庭に足を踏み出すと、秋風がさっとシャツの裾を撫でた。
落ち葉が足元を転がり、少し先では誰かがベンチに腰掛けている。
その姿に、澪の足が止まる。
小柳雪だった。
制服のまま、スカートの裾を押さえるようにしてベンチに座る彼女は、どこか所在なげに空を見上げていた。
視線の先には、枝の先に残った小さな葉と、オレンジ色に染まった空がある。
話しかけるべきか、それとも通り過ぎるべきか───
そんな葛藤が、澪の胸を瞬時に駆け抜ける。
目が合えば、たぶん笑ってくれる。
でも、いま自分が声をかけることが、果たして正しいのかどうか。
返事を保留にしたまま、三週間が過ぎた。ずっと“見ているだけ”だった自分が、突然言葉を交わしてもいいのか。そんな臆病が、まだ残っている。
だが、そのとき。雪がふとこちらを向いた。
一瞬だった。
視線が交錯し、微かな驚きと、それからほんの少しの喜びのようなものが、彼女の表情に浮かんだ気がした。
けれど澪は、咄嗟に目を逸らしてしまった。
まるで、見ていなかったふりをするかのように、手元のファイルをいじって歩き出す。
───見たのに。
───目が合ったのに。
───声をかけたかったのに。
心の奥で、自分の行動を責める声が響いた。
(もう、目で追うだけじゃ……)
足元の落ち葉を踏みながら、澪は歩く。
何度もそうやってすれ違ってきた。話せたかもしれない瞬間に、目を逸らしてきた。でも、それはもう違う気がする。
自分は、ただ目で追っていたいわけじゃない。仮装のときも、文化祭のときも、楽しいときに思い出したのは雪の顔だった。
「……それって、たぶん」
言葉にならないまま、胸の奥で何かが形を取ろうとしていた。
振り返れば、ベンチにはもう誰もいなかった。
秋の空気がひんやりとしていて、指先が少し冷たい。
澪は、制服のポケットに手を突っ込んで、小さく息を吐いた。
冷たくなった風が、その言葉にならない想いをさらっていった気がした。
でも、心はまだそこにある。
(……逃げたくない)
そんな気持ちが、確かにあった
───
夜の空気は、昼よりもずっと静かだった。
椿原澪は、自室の窓辺に座っていた。
カーテンは少しだけ開いていて、その隙間から見える空には星がひとつ、またひとつと顔を出していた。部屋の灯りは落としてある。天井にうっすら映る街の光だけが、夜の気配をやわらげている。
手には、小さなメモ帳。
何かを書こうとして開いたけれど、言葉はまだそこには落ちてこない。
好き、なのか。
澪は、今日のことを思い出す。
図書室からの帰り、中庭で目が合った雪。
その瞳に浮かんだ一瞬の表情。どこか驚いて、それでいて、嬉しそうな……。
だけど、自分は視線を逸らしてしまった。ただ、それが悔しかった。
(なんで、ちゃんと返せなかったんだろう)
いや、わかってる。
怖かったからだ。
今までの関係が壊れることも、言葉を交わしたその先にある“答え”も、全部。
自分の中の臆病が、まだそこにある。
でも──
でも、澪は思う。
文化祭の日。
彼女と偶然言葉を交わした。あのとき、声がふるえてしまったけど、それでも話せて嬉しかった。
ハロウィンの放課後。仮装してふざけていたとき、“こんな時間を、あの子と共有できたら”と思ってしまった自分がいた。
それは冗談でもなんでもなく、本音だった。
(楽しさを、誰かと共有したいって……)
それって、たぶん“好き”ってことなんじゃないか。
楽しい時間を過ごさせたい。
笑ってほしい。
名前を呼ばれたら、ちゃんと返したい。
そんな気持ちが、ずっと胸の中に残っていた。
あのとき、雪が言ってくれた「好きです」という言葉に、すぐに応えられなかった。
けれど、それでも見ていてくれた。
今も、隣の席で、何気ない日常を変わらずにくれている。
(返事、しよう)
まだ怖い。何を言えばいいのかも、うまくまとまらない。
でも、それでも。
あの子は言葉にして伝えてくれた。
だから、言葉にして返したい。
「ちゃんと」好きだって、今なら伝えられる気がする。
ゆっくりと、窓を開けた。
秋の夜風が、頬を冷やす。
遠くで風鈴が鳴ったような気がしたけれど、もうそんな季節じゃない。
それでも、澪の胸のなかでは、何かが静かに鳴りはじめていた。
「……明日、ちゃんと」
小さな声で呟いた。
自分自身に、聞かせるように。
ページを閉じ、メモ帳を机に置く。
カーテンを閉めると、夜の匂いがそっと外に戻っていった。
目を閉じれば、彼女の笑顔が浮かぶ。
不思議と、少しだけ呼吸が軽くなった気がした。
───
教室のドアを開けると、まだ誰もいなかった。
いつもより少しだけ早く家を出た澪は、自分の席にゆっくりと鞄を置いた。
窓側、前から三列目。秋の朝日はやわらかくて、手の甲を少しだけ温めてくれる。
誰もいない教室の空気は、静かで、少しだけ張りつめているようにも感じた。
(……変わらないな)
そう思いながらも、澪の中では昨日からずっと、何かが変わりはじめていた。
昨日の夜。
窓辺で、自分の気持ちに向き合った。
好きだ、と、そう思った。
だから、ちゃんと返事をしたいと思った。
(……伝えよう。今日、ちゃんと)
心に決める。まだうまく言えるかはわからないけれど、それでも、もう逃げない。
返事が遅くなったことも、怖かったことも、正直に話せたらいい。
“言葉にする”ということの重みを、この数週間でいやというほど知ったから。
ガラッ、と後ろのドアが開く音がした。
振り向かなくても、誰が来たのかはわかった。
その足音の柔らかさも、空気の揺れ方も、いつもと同じだったから。
小柳雪が教室に入ってくる。
澪は、視線をそっと横に流した。
そして、そのまま隣の席を、まっすぐに見た。
雪は、少し驚いたように澪の目を見た。
けれど、すぐに柔らかな笑顔に変わる。
澪も、小さくうなずく。
言葉はまだない。けれど、今日はもう逃げなかった。
それだけで、ほんの少しだけ胸があたたかくなった。
「……おはよう」
声を出したのは澪だった。
ほんのわずかに震えていたけれど、ちゃんと届いた。
雪の目が、ぱちりと瞬く。
そして、「おはよう」と返ってくるその声に、ほんの少し照れが混じっていた気がした。
それだけのやりとりで、十分だった。
今はまだ、ここから始めるだけでいい。
焦らず、ゆっくり、ちゃんと伝える。
そう、放課後に。ちゃんと。
風が窓をかすめる。落ち葉がひとつ、廊下の端をくるくると回っていた。
隣の席が、こんなにも近く感じるのは初めてだった。