日差しが斜めに差し込む、朝の旧図書室は静かだった。
今では誰も使わなくなったその部屋に、澪と雪のふたりの姿があった。
古い本棚が並ぶ奥、割れかけた窓ガラス越しに、秋の風がふと吹き抜ける。ページのめくれる音も、鞄の中でかすかに触れ合う筆箱の音も、今だけは遠くに思えた。
小柳雪は、澪の言葉を待っていた。
それは、三週間越しの「返事」。
季節がすこし変わってしまうほどの時間が経って、それでも彼女は、変わらないままでそこにいた。
はじめに声をかけたのは澪だった。いつものように目で追って、でも今日は、追うだけじゃなくて、ちゃんと伝えようと思っていた。
「……あの」
窓際に立つ彼女の背中が、すっとこちらを向く。
光の具合で少し輪郭がにじんで見えた。
「ごめん。遅くなった」
それは、まず謝るところから始まる返事だった。
雪は驚いたように瞬きをして、けれど何も言わずに、ただ「続きを聞くよ」とでも言いたげに、澪を見つめた。
「……あのとき、答えられなかったのは、たぶん、気づいてなかったからで。自分の気持ちに」
言葉はゆっくりと、けれど確かに、彼の口からこぼれていく。
「一緒にいて、楽しいとか、ほっとするとか、ふいに目が合うのがうれしいとか……そういうのって、もっと後になってから、全部“好き”だったんだってわかって」
雪の目が、少し潤んでいた。
けれど、それを笑ってごまかすように、彼女は微笑む。
「……やっぱり、澪くんの言葉って、静かだけどちゃんと届くね」
澪は顔を伏せた。けれどその手は、ちゃんと前に伸びていた。
ぎこちなくて、少し震えていたけれど、彼女の手をそっと探すように。
「……もし、まだ間に合うなら」
言いかけて、雪の手が先に重なった。
「うん。間に合うよ」
その言葉は、澪の胸の奥に、小さな火を灯した。
それだけでよかった。
返事の理由を、長く並べる必要なんてなかったのかもしれない。
ただ、「君がそこにいて、待ってくれていたから」。
それだけで、全部だった。
廊下の向こうからチャイムが聞こえた。学校が始まる合図。
雪が、ぱっと笑って言う。
「……たぶん今日の昼休み、世界がちょっとざわつくね」
「えっ」
「ううん、なんでもない」
冗談めかした口調。でも、彼女の目はきらきらと澪を見ていた。
たぶんこれから、いろんなことがある。けれどそのすべてを、この人と一緒に受け取っていくんだと、雪は静かに決めていた。
澪は少しだけ、照れくさそうにうなずいた。
そして、ふたりで並んで旧図書室を出ていく。
ほんの少し、肩が触れる距離で。
廊下の気配は秋めいて、風を運びはじめていた。
───
昼休み。教室の時計がちょうど12時30分を指した頃。
2年7組の教室には、いつも通りのざわざわとした空気が広がっていた。弁当のフタを開ける音、ジュースのストローを刺す音、笑い声、呼びかけ、走る足音。どこにでもある日常の、どこにでもある風景。
……の、はずだった。
「なあ……今、見た?」
「いや、見たけど。……え?ほんとに?」
「だよな?手、繋いでなかった?」
「いや、さすがにそれは…え、マジで?」
ざわざわ、が、加速する。
最初にそれを目撃したのは、廊下側の席にいた女子グループだった。
旧図書室の方から戻ってくる椿原澪と小柳雪。その二人が、ほんの一瞬、触れそうな距離で歩いていたのを。
手が繋がれていたかどうか、それは分からない。けれど、明らかに“ふつう”じゃない何かを共有した後の空気を、敏感なクラスメイトたちは感じ取っていた。
「え、え?ちょ、椿原くんが……?」
「小柳さん、だよね?文化祭のときよく一緒にいた子!」
「え、付き合ってんの?え、いつから?マジで!?」
「てか……澪くん、そういうのアリなの!?」
「アリでしょ……ていうか、なにその“神秘キャラが人間味見せる”みたいな……」
わらわらと広がる憶測。拡がる熱。空気の振動。
そして、その中心人物の一人である椿原澪はというと、あくまで“いつもの顔”で教室に戻ってきた。
淡々とカバンから本を出し、席に座り、ペンケースを置き、少し迷ってから手帳を開く。
たったそれだけの動作なのに、そのひとつひとつに周囲の視線が集中していることを、澪本人だけが気づいていない───などということは、全くない!
(……めちゃくちゃ、視線、きてる)
内心、ひたすらに焦っていた。もうなんかすごいレベルで緊張していた。
隣の席から、ちらりと視線が来る。いや、こっちの話じゃないよって顔して本に視線を戻す。前の席の子が後ろを振り返る。いや、そっちの話でもないって言いたい。でも言えない。
(……これは、どう、すれば……)
そんな混乱のなかで、ひときわ目立つ声が教室の後ろから響いた。
「澪ォ!ちょっと待てお前!!今、ちょっとだけでいいから来い!!」
声の主はもちろん、朝倉彰良である。
明らかに「知ってるテンション」で呼び出してくるその姿に、クラスメイトの視線が一斉に澪へ向く。
「お、おい彰良……でかい声で呼ぶなよ……っ」
澪はぼそぼそと抵抗するが、彰良はもうニヤニヤが止まらない。
「いやいやいや、何その今どきの少女漫画みたいな流れ。ちょっとな、四限組代表として事情を聞かせてもらおうか?な?ん?」
「代表って何……いや、お前も四限組じゃん……」
「つまり、自白してくれると助かるってことだな!」
「……はぁぁ……」
肩を落としながら、澪はしぶしぶ立ち上がった。
そして、それを待っていたかのように、日暮夏彦が廊下の窓際から現れた。
「やっぱそうか。なんか様子変だと思ったんだよ。なーんか、“空気に余韻”が残ってる感じしたし」
「オレはさっきの“笑い方”で気づいたね」
「……笑い方?」
「いつもより、ちょっと安心して笑ってた。オレ、そーいうのわかるから」
夏彦の妙な観察眼に、彰良が「名探偵かよ」と突っ込み、
それを聞いた澪は、観念したようにため息をついた。
「……あの、まあ、うん。付き合ってます。朝、返事したから」
しん、と、数秒。
「え、マジか!」
「うわ、ちゃんと言った!正式発表きた!!」
「え、うれしい、けど、マジかぁああ!」
彰良はなぜか悶絶し、夏彦は「いや、予想はしてたけど」と言いながら実際はちょっと驚いていた。
文蔵は教室の隅で静かにお茶を飲みながら、ふっと目を細めて笑った。
(……おめでとう、椿原)
その心の中でだけ、静かに祝福の言葉が呟かれた。
そして、澪の視線がふと、教室の隅に立つ雪を見つけた。
小柳雪は、目が合った澪に、ほんの少し、笑ってみせた。
その一瞬で、すべてが報われた気がして、澪もまた、小さくうなずき返した。
今日の昼休みは、たしかに世界がちょっとざわついた。
でも、それはきっと、悪くないざわめきだった。
───
「で、」
開口一番、朝倉彰良は意味ありげな沈黙をつくってから、手を組み、肘を机に置いて言った。
「お前ら、もうキスはしたのか?」
「お前!そういうところだよ!」
即座に夏彦が箸を止めてツッコミを入れ、
隣では澪が、スプーンを口に運ぼうとして、すべての動作を静止させた。
「……は?」
「いやいや、ほら、“付き合う”ってのは、つまり……な?」
「いや、だからそういうのを昼に聞くなって言ってるだろ、何回目だ。夜に聞こう」
文蔵が水筒の蓋を閉めながら静かに補足し、
昼食を囲む四人の机には、既に空気という名の“笑いの火種”が転がっていた。
昼休み後半。教室の一角にある、彼らの定位置。
それぞれの弁当箱が空き始めたころ、話題は当然、“澪の恋”に集中していた。
「で、実際どうなの?オレらが知ってる澪が“付き合ってる”って、なんかこう、想像つかないっていうか」
「うん、同意。なんかこう、石畳の上で文学的な会話してそう」
「それ何百年前の世界だよ」
「……べつに、そんな変なこと、してない」
澪はちょっとだけ頬を赤くしながら、でもはっきりと答えた。
「ちゃんと返事して……ちゃんと、伝えて……。それだけで、十分だった気がしてる」
真っ直ぐなその言葉に、一瞬、誰もが黙った。
言葉の重さじゃない。ただ、そこに“本気”が滲んでいたから。
ああ、これは、ちゃんと“好き”ってことなんだなって。そんなふうに、思わされる空気だった。
そして、
「……やばい、尊すぎて消滅する」
「なっちゃんは黙ってろ。いや、でも、わかる」
「それな」
夏彦と彰良が謎の共感でうなずき合い、文蔵は小さく笑った。
「……でも、澪が“言葉にして伝えた”ってのは、ちょっとグッときたな」
「え、あんたもしかして今ちょっと感動してる?」
「……まあ、言わないだけで、嬉しいんだよ。たぶん」
そのとき、澪が小さく呟いた。
「……伝えて、よかったと思ってる」
「ん?」
「雪さんが、目を見て、“ありがとう”って言ってくれて。……そのとき、ちゃんと返したかったって、思った」
食器の音が止まり、微風が教室のカーテンを揺らす。
「“言わなくても伝わる”って思ってたけど、でも……やっぱり、“言わなきゃ伝わらないこと”もあるんだって、初めて思ったんだ」
ほんの少し、遠くを見るような目だった。
「だから、“付き合う”ってたぶん、“伝え続けること”なんだと思う」
彰良が「うわ、詩人かよ……」と感動とも皮肉ともつかない声を出し、夏彦が「くっそ、なんか泣きそう」と目頭を押さえるフリをした。
そして最後に、文蔵がぽつりと、
「……ま、そういうのも、似合うようになったな」
とだけ呟いた。
それは、いつかの澪なら受け止めきれなかった言葉かもしれない。
けれど今は、自然に頷くことができた。
「ありがと」
短い言葉が、確かに、そこにあった。
そのあとも話題は“デートって何するのか”とか、“手を繋ぐのにベストなタイミング”とか、“ラブコメのテンプレ”とか、くだらなくも盛り上がる方向へと流れていった。
けれどその真ん中にいた澪の顔は、なんとなく穏やかで、
いつもの“クールな椿原澪”よりも、ほんの少しだけ柔らかく見えたのだった。
教室の窓の外には、秋の風。
落ち葉が、誰にも気づかれず、ふわりと舞っていた。
そして澪は、ふと思う。
(……ああ、こうして、これからも話せたらいい)
それは、雪に対しても、そして今こうして笑ってくれる三人に対しても、同じこと。
“好き”は、ひとつじゃない。
伝える方法も、伝える相手も、それぞれ違っていていい。
でも、ちゃんと伝えたいって思える誰かがいることが、
たぶん一番、幸せなんだと思う。
昼休みは、もうすぐ終わる。
だけど澪の中には、何かが確かに“始まった”気がしていた。
───
授業の終わりを告げるチャイムが、校舎の上に高く響いた。
「あー、終わったー」と誰かが伸びをする声が、教室のどこかで混ざる。
その声に混じって、椿原澪は静かに鞄の中へノートをしまっていた。
黒板の文字はもう消えていて、机の間をすり抜けた風がカーテンを揺らす。
窓の向こうに見える空はどこまでも高く、どこまでも澄んでいて、まるで何かが始まりそうな予感すらする。
ほんとに、十一月か。
そう思いながら、澪は席を立った。
廊下に出ると、夏彦が上着を片手にくるりと振り返った。「よし、じゃあ帰るか!」
「帰りにコンビニ寄っていい? アイス買って帰りたい気分」と彰良が言いながら、早足で前に出る。
「お前いつも甘いの食ってんな」と夏彦がツッコミを入れ、笑いが起こる。
文蔵はその後ろを無言でついてきているけれど、歩幅はぴったり四人とそろっていた。
階段を下りて、下駄箱を抜ける。
そのまま、あのいつもの坂道へ出る頃には、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
「……なんか、まだちょっと、ふわふわしてる」
ふと、澪がぽつりと呟いた。
「おっ、リア充発言きた」と夏彦がすかさず食いつく。「初日から気を抜くと、足元すくわれるぞ?」
「やめたげて〜。せめて今日くらいは浮かれさせてあげてよ」と彰良が笑いながら言ったあと、急に真顔になる。
「でもまあ、マジでおめでとう。オレら、ちゃんと祝う気マンマンなんで。デートの話、週明けにはフル尺で聞くからな?」
「……それは、また今度でいい」
顔を少し伏せて答えた澪に、夏彦が小さく肘でツッコミを入れる。
「いいなぁ、彼氏椿原。彼氏ムーヴ椿原。第一歩って感じだな〜?」
「第一歩って……なに」
「つまりこう……『彼氏っぽさ』が求められていくフェーズっていうか。お前のその、斜め下から照れてる感じとか、最高に初々しい」
「そう言ってるお前の顔が一番ニヤけてるぞ」と彰良。
「む……自覚はある」
「あるんかい」
くだらないやり取りの中で、ひときわ小さな声が、後ろからふっと届いた。
「……幸せになれよ」
ふと振り返ると、文蔵が照れくさそうに目を逸らしていた。
澪は言葉を返す代わりに、そっと頭を下げた。
四人で歩く帰り道は、なんてことのない風景だ。
でもその“なんてことのなさ”こそが、澪にはありがたかった。
ちょっと浮かれた気持ちも、少しだけ不安な胸のざわめきも、言葉にせずともただ並んで歩ける距離に、救われる。
「……あっちの雲、イルカみたいじゃね?」
「お前そういうのよく見つけるよな。オレには、空に見える」
「いやそれは普通」
夕焼けに染まる空の下、笑い声がゆっくりと流れていく。
坂の途中で、それぞれがいつもの帰路に分かれていく。
信号待ちで足を止めたところで、彰良が背中越しに手を振って言った。
「じゃあなー、リア充!」
「……うるさい」
「でも、ありがとな」
最後にぽつりと呟いたその声は、小さくて、確かで、優しかった。
そして四人は、いつも通りの夕焼けに包まれて、それぞれの家へと歩き出す。
今日という日を、少しだけ特別な気持ちのまま、胸に残しながら。
───
夜の空は、どこまでも静かだった。
椿原澪の部屋には、わずかに机のスタンドライトの光が灯っている。教科書は開かれたままだけれど、目はページを追っていなかった。窓の外には、葉を落としはじめた街路樹の影が、風に揺れていた。
(……今日、言えた)
そう思うたび、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。けれどそれと同時に、どこか現実感が薄くて、夢を見ているような感覚がまだ抜けない。
返事をしたのは、ほんの数時間前だ。けれど雪の表情も、声も、触れそうな距離感も、すべてはっきりと心に残っていた。
彼女が、少しだけ目を伏せて、でもまっすぐこちらを見たときのこと。あの瞬間、自分の言葉が誰かに“届いた”と、確かに思えた。
(……うん)
布団にもぐりこんでからも、澪はしばらく目を閉じられなかった。けれどそれは、不安でも、緊張でもなくて。ただ、明日が来るのが、少しだけ楽しみだと思ってしまったからだった。
翌朝。
廊下には、いつもどおりの靴音と、教室にはややけだるげな朝の空気が流れていた。
「おはよー……って、うわ、まぶし」
「寝不足か? ってか顔、ちょっとにやけてね?」
「してない」
夏彦と彰良に軽くいじられながら、澪は黙って席に着く。文蔵はすでに黒板前で日直の仕事を済ませ、いつものように窓際に座っていた。
(今日も、変わらない)
そんな日常の中に、たった一つだけ、昨日と違うことがある。
教室の扉が開く。
そこにいたのは、小柳雪だった。黒髪をそっと耳にかけながら、教室をゆっくり見渡して───そして、まっすぐ、澪の方を見て微笑んだ。
一瞬、言葉が浮かばなくなった。
けれど、雪は何も言わず、ただ静かに隣の席に腰を下ろした。その動作も、鞄を机に置く仕草も、何もかもが、これまで通り。
でも、澪にはわかっていた。
(……今だけは、特別だ)
言葉にしなくても伝わるものがある。けれど、伝えようとする気持ちを忘れないでいたい。昨日、そう思って伝えた気持ちは、たしかに今、隣に座っている。
「……おはよう」
ぽつりと澪が言うと、雪はふとこちらを見て、小さく、でもはっきりと返した。
「おはよう、澪くん」
名前を呼ばれただけで、胸が少し高鳴る。きっと、こんな些細なことが、これからたくさん積み重なっていくのだろう。
チャイムが鳴る。
教室には、今日も変わらない一日が始まる音が響いていた。
そしてその音の中で、椿原澪は小さく笑った。
変わったことも、変わらないことも、どちらも大切にしたいと思えたから──。
(……行こう、今日も)
そう思って、真っ直ぐに前を向いた。
そして、いつもの席に、君がいる。
それだけで、世界が昨日より少しだけ優しく思えた。