時は少し遡り、文化祭の終わったころ。
放課後の旧図書室には、もう何年も使われていない木製の書架と、わずかな陽の名残が差し込んでいた。かつて理科準備室と並んで「物好きな生徒しか寄りつかない場所」として名を馳せたこの一角は、今では、橋ヶ谷満作にとっての“司令室”である。
埃の積もった地図帳、誰も手に取らない星座図鑑。隅の棚には「天文年鑑 1997」の背表紙が、時間の止まった空間を誇るように立っていた。
彼は古い机の上に広げたノートの前で、丸眼鏡をぐいと上げ、ペンを握る指を止めた。緻密に書かれたスケジュール表、時折走り書きのように挿まれる「観測条件:天候不安定/代替案=屋内観察会」という文字。高校生のメモというよりは、どこか研究者じみている。
けれど──その隣に置かれた紙には、丁寧な字でこう綴られていた。
《生徒会立候補届》
「……これで、よし」
満作は満足げに頷き、書き終えた届出用紙に日付を書き込む。筆記具は旧式の万年筆。インクが乾く音すら、彼にとっては大事な“儀式”の一部だった。
生徒会室の掲示板に貼り出された、立候補受付の案内。それを見たのは昨日のことだった。誰かがチラシ感覚でペラッと破っていったのか、角が折れ、テープが片方はがれかけていた。
(でも、書いてあったんだよね)
『桐明高校 生徒会選挙 立候補受付開始』
『新しい校風を、君の手で』
彼はそこに、なんの装飾もないまっすぐな“呼びかけ”を感じた。
「変わらないために、変える必要がある」
彼はそう呟いた。誰に聞かせるのでもなく、けれど確かに自分のなかで意味を持った言葉として。
満作は、いわゆる“浮いてるタイプ”だった。友達がいないわけじゃない。話せないわけでもない。けれど、会話のテンポはズレているし、ノリも独特。天才肌と呼ばれることもあったが、彼自身はその言葉を好まなかった。
彼が好んだのは、「自分のスケールで、世界を見続ける」ことだった。
だからこそ、選挙という枠に、自分をぶち込むことにしたのだ。
「ひとりで十分。やれるだけ、やる」
そう思っていた。少なくとも、最初は。
けれど、書類を三つ折りにしながら、満作はふとペンを置いた。
「……とはいえ、会長だけじゃ成り立たないんだよなぁ。文明ってやつは」
生徒会長。副会長。書記。会計。庶務。
思いつくだけでも役職はいくつかある。
「副会長は……まぁ、今泉かな」
即決だった。
あの正論好きで、ちょっと面倒くさがりで、でもなんだかんだで人の世話を焼く男の顔が、真っ先に浮かんだ。以前、ちょっとした校内イベントの準備で一緒になったときのこと。文句を言いながらも最後まで付き合ってくれたのを、満作はしっかり覚えていた。
(今泉は、説得するより“巻き込んだほうが早い”タイプだ)
思考が速度を増す。口元が笑う。
「次の放課後、体育館裏に呼び出してみよう。……あ、でもストレートすぎるのは避けるべきかな。“地球の危機について相談がある”とか?」
満作は真剣だった。本気でふざけ、本気で選ぼうとしていた。
ノートの隅に、新しい計画タイトルが書き加えられる。
《プロジェクト:生徒会、発進》
旧図書室に、夕暮れの光が落ちてくる。満作はその光を背に、立ち上がった。
彼の胸ポケットには、立候補届と、銀色の星型ピンバッジが揺れていた。どこで拾ったのかも忘れたような、それでも彼にとっては“旗印”のような、小さな輝きだった。
「さあて、まずは一人。惑星の引力ってやつを、信じてみようか」
誰に届くとも知れぬその声は、静かな旧図書室に、どこか楽しげに響いていった。
───
「なあ、これって──どう考えても事件じゃね?」
放課後の体育館裏。コンクリートの壁に射す斜めの夕日と、風で舞い上がる落ち葉のなか、今泉秋明は額に手を当てていた。呼び出された理由は不明。ただ、差出人が《橋ヶ谷 満作》という時点で、ろくでもないことだけは確定している。
(わざわざ放課後、体育館裏、って……なに? 決闘?)
いや、あいつがそんな野蛮なことを言うタイプじゃないのは分かってる。でも、満作の中では“重大案件”か“世界の危機”か、それか“すっごく個人的なひらめき”のどれかだ。たいてい、第三のパターンである。
「……来てくれてありがとう、今泉」
ぬっと現れた影がひとつ。影の主は制服の上に白衣(なぜ?)を羽織り、右手には分厚いファイル、左手には天体観測用の小型望遠鏡(やっぱりな)を提げていた。
「なんの会合だよこれ。どこに持ってくつもりだその道具」
「いや、これは演出」
「演出……」
「俺は、星を見てるからって、“星のことしか考えてない”わけじゃないよ?」
「ああもうめんどくせえ!! それで? 呼び出した理由はなんなんだよ!」
今泉が我慢の限界とばかりに声を上げると、満作は真顔でファイルを掲げた。
「副会長、やってくれ」
「は?」
聞こえてはいたが、脳が即座に処理を拒否した。
「生徒会、立候補するんだ。僕が会長。副会長は今泉。ぴったりでしょ?」
「いやいやいや、待て待て。ちょっと待て」
「時間は有限だから、回答は今すぐ欲しいな」
「人の話を聞け!!!!」
叫んでから、今泉は大きくため息をついた。案の定、満作は“計画を進める段階”に入っていた。やっぱり第三のパターン。いや、もはや分類不能だ。
「なんで俺なんだよ。お前の考えてることって、たぶん9割方“わけわかんねえ”の域だぞ」
「……でも、君だけは、俺の引力に抗えない気がした」
その一言は、思った以上にストレートに響いた。言葉の意味はよくわからない。が、妙にズルい。逃げ道をふさがれたような感覚。
(俺だけはって……なにそれ)
中学の頃から、なんとなく印象に残ってた。クラスが違っても存在感があった。目立つタイプじゃないのに、目が離せない。変なやつ、なのに、どこか憎めない。
「ふざけんなよ……」
呟くように言って、壁に背を預ける。けど、顔は見せたくなかった。こういう時、満作の言葉はやたらまっすぐで、ちょっとだけずるいのだ。
「……お前、勝手に引力とか言って、こっちの気持ちも考えずに引っぱってくだろ」
「そうかもね。でもさ」
満作は、少しだけ目を細めた。
「地球も、月を引っ張ってる。言葉なんか交わさなくても、ちゃんと引き合ってる」
「……やかましいわ」
今泉は観念したように、首をゴリゴリと回した。
「いいよ、やるよ。副会長。お前が“止まんない”のは知ってるから。……誰かが横で、ブレーキ踏まなきゃならねーんだろ」
その瞬間、満作の目がぱっと輝いた。心から嬉しそうに。
「ありがとう。じゃあ、次は書記だね」
「……もう誰かアテあんのかよ」
「うん。たぶん、すでに気づいてる。こっち見てたし」
「見てたって、どこに?」
「……図書室」
そう言って、満作はにやりと笑った。
今泉は、背中に嫌な予感が走るのを感じた。
───
放課後の図書室は、いつだって少し肌寒い。
本棚の隙間からこぼれる夕陽と、規則的なページをめくる音。そのなかで、橘薫は黙って机にノートを広げていた。いつもの定位置。いつもの勉強。けれど今日は、ページに視線を落としながらも、心ここにあらずだった。
窓の向こう、体育館裏のちょっと先。少し開いたカーテンの隙間から、制服の男ふたりが並んで立っているのが見える。
「……始まったね」
橘は小さく呟くと、ペンを止めてその光景に目を向けた。
橋ヶ谷満作と、今泉秋明。
片や、突拍子もない発言ばかりの宇宙人じみた男。
片や、口が悪いくせに根は面倒見が良すぎる常識人。
……で、なぜか妙に相性がいい。
(やっぱり、動いたんだ)
橘は、満作の演説を初めて聞いたあの日のことを思い出していた。選挙前の討論会。みんなが「現実的な施策」や「現状維持」を掲げるなか、ひとりだけ「星が見える空にしたい」と言い切った男。
誰もがぽかんとした。笑いを堪える生徒すらいた。でも橘はちょっと、憧れたのだ。
(ふざけてるように見えて、ふざけてないんだよな。あの人)
なにより、その“まっすぐすぎる理想”を、誰かが笑わずに見ててくれたらいいのに、って思っていた。
だから今泉が立ち上がったことも、きっと偶然じゃない。むしろ、あれだけの熱量に引き寄せられる人がいて当然なのだ。
「……さて、そろそろ行くか」
静かに立ち上がって、バッグを肩にかける。図書カードをポケットにしまいながら、カーテンをすっと戻す。あとは、歩くだけだ。
廊下に出ると、ちょうどふたりが戻ってきたところだった。今泉は渋い顔をしていて、満作は上機嫌。橘はそんなふたりに迷いなく近づいていく。
「生徒会、立ち上げるんですか?」
「おっ、橘くん。見てたでしょ、図書室から」
「バレてました?」
「気配がした」
「やっぱ宇宙人だわ……」
今泉がぼそっと言うが、橘は気にしない。
「書記、空いてますか?」
その一言に、ふたりの目が見開かれた。
「……マジで?」
「別にマジメにやるつもりはないですよ。ただ、“まじめにふざける”っての、案外嫌いじゃなくて」
満作が一瞬ぽかんとしたあと、「やはりね」とふっと笑った。
「よかった。じゃあ、三人そろったね」
その言葉に、今泉もなんだかんだで頬を緩める。
「なんで俺たちなんだろうな」
問いかけるように呟いた今泉に、満作が静かに答えた。
「星って、ひとつだけじゃ輝けないから」
「……いいこと言ってる風だけど、意味わかんないですよ」
橘がさらっと返す。けれど、それでいいのだ。この三人は、それぞれがズレていて、それぞれが合っている。まるで、ちぐはぐな星座のように。
「じゃあ、行こっか」
満作が言った。
橘は頷き、今泉は「まじでやるのか……」と肩をすくめながらも歩き出す。
夕焼けの校舎前。昇降口の掲示板の前には、まだ「生徒会立候補受付中」の文字。
三人は、その用紙を手に、それぞれの名前を書いた。
“たった三人”の立候補だったけれど、それはきっと、“ひとつの星”をつくるのに、十分な数だった。