「なあ、今日、歌いに行こうぜ」
その言葉が放たれたのは、土曜の午前十一時。駅前ロータリー、やや曇り空の下だった。
提案者はもちろん、朝倉彰良。軽やかにスニーカーを鳴らしながら、手には割引クーポン付きのフリータイム広告を握っている。見たところ、前日の深夜にノリと勢いで印刷したっぽいやつだった。
「期末前なのに、カラオケかよ……」
そう言ったのは夏彦。だが手にはスマホを持ち、すでに近隣のカラオケ店舗を2軒予約候補に入れていた。
「俺がテスト前に本気出すのは、歌うときだけだからな!」
彰良は意味不明な理屈を誇らしげに宣言したが、誰もツッコまなかった。慣れている。
「それ、勉強のほうが本気出すべきだと思うけど」
澪がぼそっと言った。だが、その口調はやわらかかった。鞄を提げたまま、ふと顔を上げる。
「……行く」
その一言に、全員が目を見開いた。
「え、来るんだ!?」
「てっきり断られるかと……」
「つーか澪、カラオケとか行くの?」
三者三様に驚いていると、澪は少しだけ視線を逸らし、ぼそりと返す。
「……このメンツなら、まだ平気」
瞬間、空気が一気に緩んだ。
「へへ、そりゃあ光栄だなぁ」と彰良がニヤつき、夏彦はスマホ画面を見せながら言った。
「じゃあ、行くのはここ。DOMのスタジオルーム。マイクの音質が段違いで、採点も正確。本人映像も多いぞ」
「まって、夏彦。今さらっと“DOMじゃなきゃやだ”みたいな顔したよね?」
「J SOUNDだと、曲のキー設定が微妙に合わないんだよね。あと、歌唱分析の精度が甘い。あと……」
「やべぇ、マジのガチ勢じゃん……」
「DOMに魂を売った男……」
「機種にうるさいやつ、いた……」
三人からの総ツッコミを受けながらも、夏彦は誇らしげだった。
「歌って、データでも記録できるからさ。そういうのも、ちょっと楽しい」
夏彦の言葉に、澪がすっと視線を寄せたのを誰かが気づいたかもしれないが、特に何も言わなかった。
───
カラオケ店に着いた四人は、受付で身分証を提示し、フリータイムを選択。
ドリンクバー付きのルームを選び、通されたのは“ちょっと広めの5人部屋”。壁には誰も知らないビジュアル系バンドのポスターと、「このマイク、実はすごい!」と書かれたPOPが並んでいる。
「おお、ひろっ! マイクも二本あるし、デュエットできるぞデュエット!」
「やる気まんまんだな……」
「さーて、じゃあまずはドリンク選んでくるか」
橙の壁紙に囲まれたルームの中で、それぞれが荷物を下ろす。
文蔵は静かにソファに腰を下ろし、背負っていたバッグからA5サイズのノートを取り出した。表紙には「記録用」と手書きで書かれている。
「……え、もしかして記録すんの?」
「お前、歌ってる最中にメモ取られてたら、ちょっとやだな」
「聞き専じゃねーよな!?」
「……録るかも」
文蔵の小声に、わっと笑い声が起こった。
「とりあえず、ドリンクバーじゃんけんするか」
彰良が腕まくりをしながらマイクをつかもうとすると、夏彦がすかさず言った。
「いや、まずマイクの順番を決めよう。でないと、トラブルのもとになる。公正に、じゃんけんで」
「お前、選挙管理委員かよ……」
「DOMのマイクは精密機器だから」
「ほんとにカラオケへの熱量すげぇな、お前」
笑いながら、じゃんけんでマイク順を決めた。勝った順にマイクが回る。
そして同じ流れでドリンクバーに行く順番も決められ、カラオケの戦場。いや、青春のアリーナに足を踏み入れた四人は、それぞれの“選曲”という武器を手に取っていく。
さあ、誰が一番にマイクを握るのか
その順番で、性格も、ちょっとだけバレる気がしていた。
───
「最初は俺がもらうぜー!」
言うやいなや、勢いよくマイクを引き寄せたのは、やっぱり彰良だった。リモコンを奪うように操作し、曲名をタップ。壁の大画面にタイトルが映し出されると、残りの三人がそろって同じ表情になる。
「またそれか……」
「いやこれ、途中のラップ部分が超むずいんだって! 今日はフルで成功させる!」
画面に流れはじめるのは、有名アニメのオープニング曲。それも、かなりテンション高めのやつだ。しかもサビが妙にキー高くて、ラップパートが異様に長い。
「ほらほら、ここの入りが──」
♪ 一閃! 夜を裂くぜ斬鉄ノ──
「……カッコつけて噛むなよ」
夏彦のツッコミをよそに、彰良はマイクを振り回しながら歌いきる。途中から歌詞を忘れて「イェー!」でごまかしはじめるのも、彰良らしかった。
「でも、楽しそうなのが一番すごいよな……」
澪が苦笑混じりに言ったころ、曲はなんとかエンディングへ。終了音と共に、部屋には妙な拍手が響く。
「どう? 採点機能入れてないけど、俺的には85点」
「俺的には爆笑したから95点」
「おまえ、笑わせにきてるわけじゃないからな?」
「違うの!? てっきり」
「違うわ!」
和気あいあいとした空気のなか、次にマイクを取ったのは夏彦だった。
「じゃあ、流れぶった切っていい? ガチのやついくわ」
「お、ついに夏彦の本気くる?」
「ちょっと期待してます」
夏彦は軽く咳払いして、リモコンでDOMの設定画面を開く。
「ちょ、また!? エコーの強度とか細かすぎん?」
「いや、エフェクトは声質に合わせて最適化するのが大事だから。…よし」
「プロかよ……」
流れ出したのは、邦ロック。テンポは爽やか、でも音程が細かく跳ねる、やや難しい曲だ。
だが、夏彦は当たり前のようにサビを通し、音を外さない。いや、それどころか、ふとした低音の伸びが妙に心地いい。
(……うま)
澪が息を呑むように口元を押さえ、彰良が「こいつ、隠してたな!?」と笑う。文蔵は黙ったまま、じっと画面と夏彦を見ていた。
歌い終わると、夏彦は照れたように肩をすくめた。
「なにその反応……俺、なんかやっちゃいました?」
「なんかイラっとした」
「……なんでそれで部活、軽音じゃなくて帰宅部なの?」
「いや、歌うのは好きだけど…なんかステージに立つって違うなって」
「わかる気もする。けど、それでこのクオリティは反則だわ」
再び部屋に拍手が起こるなか、次にリモコンを握ったのは澪だった。
「……じゃあ、次俺で」
「あ、いく? いいぞ!」
彼が選んだのは、しっとりしたバラードだった。季節の終わりを感じさせる、どこか物寂しいメロディ。派手さはない。でも、耳に残るような。
曲が流れ出すと、澪は緊張したように小さく息を吸い、マイクを持つ手をぐっと握りしめた。
最初の音が出た瞬間、部屋の空気が変わった。
(……声、やさしいな)
夏彦は驚いた。澪の声は淡々としてるのに、なんだか沁みる。音程は完璧じゃない。でも、歌詞をまっすぐに運ぶその歌い方が、澪という人間の“正しさ”みたいなものを表していた。
誰も口を開かず、黙って聴いていた。
曲が終わったとき、数秒だけ、沈黙が落ちた。
「……なんか、しみた」
「それ、思った。……良かったぞ」
「……ありがと」
澪は少しうつむきながらマイクを置く。照れくさそうに耳まで赤くなっていた。
「じゃあ、行く」
淡々とリモコンを操作したのは文蔵だった。画面に表示されたのは、昭和の歌謡曲。タイトルに見覚えのないそれに、全員が思わず「誰!?」と反応する。
「これ……うちの親がよく歌ってた」
イントロが流れ、文蔵が歌い出す。低めのトーンで、無表情なまま。
なのに、不思議とテンポがよくて、サビに差し掛かると、なぜか全員が手拍子してしまう謎の一体感が生まれた。
「……これ、盛り上がってない?」
「なんだろう……クセになる……」
歌い終わったあと、文蔵は一言だけ「満足」と呟いて水を飲んだ。
「……で、満作にも聞かせたいな」
「急にその名前!? てか、絶対ノリノリになるぞ、あいつ」
爆笑が広がるなか、夏彦はもう一度DOMの設定画面を開いて、細かい調整を始めた。
「ねえ、それ、今いる!? 休憩時間だよ!?」
「だからこそ、次の波に備えて……」
「いや、そんな“波”ある!?」
コップの氷がカラカラと鳴る音に、笑い声がかぶさる。
音と笑いと、それを囲む四人の時間。
それは歌の巧さよりもずっと、心に響く一曲だった。
───
午後も深くなってきた頃、カラオケルームのテーブルには、ドリンクバーで調達された謎のジュースミックスと、小袋のスナック菓子が散乱していた。
「おい文蔵、それコーラとメロンソーダ混ぜただろ……なんでそこにカフェラテいく?」
「……飲めた」
「飲めたって何!? 感想になってない!」
澪が半笑いで突っ込み、彰良がゲラゲラ笑い転げている。夏彦は「混ぜる自由と責任は比例するんだぞ……」と小声で呟きながら、トングでポテトをつまんでいた。
そんな平和なひとときに、彰良が突然立ち上がる。
「よし、ここで新ルール発動!」
「え、こわ」
「ジャンケンで負けたやつ、次の1曲は“絶対似合わないジャンル”を全力で歌うこと!」
「まって、それ地味に傷つくやつじゃ……」
「勝者のセンス次第だけどなー!」
誰よりもノリノリな彰良の掛け声で、ジャンケンが始まる。結果──
「……負けた」
文蔵が、静かに拳を差し出したまま沈黙していた。
「っしゃ! じゃあ文蔵にはラップ、いってもらいまーす!!」
「やると思った……」
澪がため息まじりに呟いた。けれど文蔵は、うっすら肩をすくめただけだった。
「……実は、ラップは嫌いじゃない」
「なんかもう、それが一番こわい」
そして始まったのは、どこかで聞いたことのあるようなやつ。文蔵の低音がやたら響くせいで、想像以上に“それっぽい”。
「やばい、これ……」
「……似合ってるの、悔しい」
本人は至って無表情のまま、ラッパーのようなポーズでサビを熱唱した。終わる頃には全員が妙に感動していた。
「……文蔵、今日のMVPでいいんじゃない?」
「満場一致」
「うむ」
称賛とポテチが飛び交うなか、ふと彰良がぽつりと呟く。
「……高校生がさぁ、恋愛バラード歌うの、ちょっと照れるよなぁ。照れない?」
澪がぴくっと反応する。
「……何の話」
「いや〜、さっきの澪のやつさ、聴いててちょっとこっちが照れたっていうか?」
「うるさい」
「わかるけどな、それ。むしろ、その“ちょっと照れた”感じが良かったんじゃね?」
夏彦がさらっと言うと、澪が少しだけ目を伏せる。
「……ありがとう」
文蔵がストローをくわえたまま、ぽつりと呟いた。
「……歌っても、黙っても、一緒にいられるのがいい」
それはまるで、なんの前触れもなく落ちてくる夜みたいな言葉だった。
一瞬だけ、空気が静かになる。
夏彦がグラスを回しながら、小さく笑った。
「……ま、俺たち、無言でも気まずくないからな」
「って言いながらずっと喋ってんの夏彦だけどな」
「おい、それはそれ、これはこれ」
笑い声がまた弾けて、部屋が揺れる。
歌って、笑って、突っ込んで、息継ぎして。
歌そのものよりも、そんなリズムのほうがよっぽど大事な気がしていた。
そして、次の曲がまた、部屋のスピーカーから流れはじめた。
───
フリータイム終了五分前──室内に流れるBGMも、どこか名残惜しげに聞こえる頃。
「で、ラスト一曲、誰がいくか問題なんだけどよ」
彰良が言った瞬間、誰からともなく目線をそらす時間が始まった。
「……夏彦」
「無理、喉死んでる。あと、もうエコーいじりたくない」
「澪」
「…………」
無言。目だけで「絶対に譲らん」という意志が伝わってくる。
「じゃ、文蔵!」
「……やだ」
即答。
「全滅かよ!」
彰良が頭を抱えるのをよそに、澪が静かに口を開いた。
「じゃあ……一人一フレーズずつ、順番に歌う?」
「……それは意外とありかも」
「地獄のリレー方式、開幕って感じ」
夏彦が笑い、文蔵は無言でリモコンを操作する。選ばれた曲は、なんとなく全員が知っている、ちょっと昔の青春ソング。
イントロが流れた瞬間、空気が軽くなる。
「じゃ、トップバッターは俺な!」
彰良が勢いよくマイクを取って、最初のフレーズを叫ぶように歌う。音程はずれてるが勢いは満点。続く夏彦は、微妙にオシャレぶって声色を変え、周囲をニヤリとさせた。
「ふふっ……」
澪が小さく笑いながら、三番手でマイクを受け取る。声は控えめながらも、しっかり届く。彼の後ろ姿に、なんとなく“楽しかった”という気持ちがにじんでいた。
ラストは文蔵。ピッタリ音程を合わせ、サビの締めを完璧に歌い上げる。
「……やっぱ地味に一番うまくね?」
「才能、そこにあったか……」
全員でどっと笑って、自然と拍手が起きた。
───
片づけを終えて廊下に出ると、照明の明るさが妙にまぶしい。
「じゃ、次回もこの順番で」
「えっ、また!? 次回って、いつだよ」
夏彦のツッコミに、彰良が肩をすくめて答える。
「年末とか、よくね? 大掃除よりカラオケでしょ」
「つまり、忘年会……?」
文蔵がぽつりと言い、誰も否定しなかった。
「……やるか」
澪の一言で、全員が顔を見合わせる。
「……DOMでな」
夏彦が当然のように言うと、全員が「そこかよ!」と同時に言い、また笑いが起きた。
外に出れば、街は夕暮れに染まり始めていた。
空気は少し冷たく、けれど頬を撫でる風には、どこかやわらかな余韻があった。
そのなかで、澪がぽつりとつぶやく。
「……楽しかったな」
誰も返さなかったが、その沈黙はきっと──同意の形だった。
帰り道、マイクはなかったけれど、四人の会話は最後まで止まらなかった。