放課後に、僕らは   作:やまざる

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その音は、まだ鳴っている。

 

 雨が降っていた。

 

 六月の初めにしては冷え込む午後、校舎の裏手にある誰も使わなくなった音楽準備室の扉を、日暮夏彦は躊躇いがちに開いた。

 

 重たい空気が、押し寄せるように彼を迎え入れる。小さな窓から差し込む薄い光と、静かに積もる埃の匂い。棚に並ぶ古びた楽譜、壁に立てかけられた譜面台、そして、角に寄せられたままの壊れかけたグランドピアノ。誰にも触れられないまま、そこに“音”だけが残っていた。

 

「……この音は、誰のやつかな?」

 

 彼は呟いた。半ば無意識に。だが、その言葉と同時に、空間の奥から一瞬、微かに響いた音があった。

 

 ──トン、とピアノの最低音が一つ。

 

 耳に聞こえるほどの明瞭な音ではない。だが確かにそこに、“再現”された音があった。過去の誰かが触れた鍵盤。誰かがここにいて、音を出した、記憶の痕跡。《リプレイ》が反応している。日暮の能力は、残響のように過去を拾う。けれどそれは明瞭な再生ではない。雑音と記憶と、感情の濁りが混ざった、音の残り香だ。

 

「……あんまり綺麗な音じゃないな」

 

 膝を折って、埃をはらいながらピアノの前に座る。鍵盤は一部、押しても戻らない。弦が切れている音もある。それでも彼は、右手の人差し指をそっと置いて、ひとつ、鍵を叩いてみた。

 

 ──ポン、と澱んだ音がした。

 

 過去の音ではなく、いま鳴った音。それは、記憶の再生ではなく、現実の触れた証だった。

 

 音は、正直だ。人よりもずっと。誤魔化せない。気配も、感情も、失った時間も、全部音に宿る。そう信じているからこそ、日暮夏彦はこの力と付き合っている。誰かの声も、足音も、泣き声も、時に風の音さえも、記憶として再現するこの力。夏彦はこう呼んでいる、《リプレイ》と。

 

 そして彼は、ずっと探していた。ある“音”を。耳にこびりついて離れない、遠く、柔らかく、どこか痛々しいその音を。

 

「……また、こっちか」

 

 視線をピアノから離し、部屋の隅を見つめる。音の発生源はあちらからだった。けれど近づこうとした瞬間、バラバラと小雨の音に紛れて、誰かの足音が廊下に響いた。彼は咄嗟に背筋を伸ばし、音の再現を切った。

 

 ——静寂。

 

 音楽準備室には、ただ古びた空気と、雨のにじんだ匂いだけが残った。

 日暮はひとつ、息を吐いた。

 この部屋の“音”は、まだ完全には鳴っていない。だからこそ、彼はまたここへ来る。探している“誰かの音”を聞き届けるために。

 

 ────

 

 昼休みの教室には、静かで、けれどどこか落ち着いたざわめきが流れていた。

 

 雨は上がり、窓際に立つ日暮夏彦の頬に、揺れる光がちらちらと射し込んでいる。教室の一角。彼は窓枠に肘をかけたまま、手の中で小さなボイスレコーダーを弄んでいた。けっして録音のための機械ではない。むしろ壊れていて再生もできない、ただの金属の塊だ。

 

 だけど、そこに宿った“音”だけは、本物だった。

 

 ──カチリ。再生ボタンを押す仕草だけを繰り返す。

 

 前の席では、文蔵想汰が机に肘をついて文庫本を開いていた。その隣、朝倉彰良は空中に浮かぶ不可視の選択肢にぼんやりと目を細め、椿原澪は筆記用具の音をたてず、器用にノートへ何かを書き込んでいる。穏やかな昼休み。いつもの風景。

 

 けれど夏彦は、そこに“何か”が足りないと感じていた。静けさではない。笑い声でもない。もっと根源的な──“音”の欠落だ。

 

「なぁ、日暮。お前、また昨日あの部屋行ってたろ」

 

 唐突に、想汰が顔を上げた。夏彦の指が、カチリと止まる。

 

「……なんでわかった」

 

「髪、濡れてた。雨のあと、背中にも雨筋が残ってた。あとそのボイスレコーダー、お前無意識で触るときって、大体“過去”を聞こうとしてる」

 

 想汰の視線が鋭くなった。けれど責めるわけでもなく、どこか心配そうな光を含んでいる。

 

「見つかりそうなのか、その“音”」

 

「わからん。けど……あの部屋、どうも変だ。前に聞いた音が、少しずつ違う形で再生される」

 

「再生される“記憶”が、変わってるってことか?」

 

「多分……いや、“俺の聞き方”が変わってるんだ。能力ってさ、結局自分の内側に反応するもんだから。揺れてるのは、たぶん俺のほうだ」

 

 椿原が顔を上げた。ペンを止め、静かに言葉を差し込む。

 

「……その“音”、誰の?」

 

 夏彦は答えない。けれど瞳の奥で、何かが震えた。再生されるのは、記憶の断片。けれどそれが“誰”のものであるかは、いつだって明確ではない。人が残した音は、時に時間も、名前も、境界も曖昧にする。

 

「まだ──わからない。でも、たぶん……知ってるやつだ。知ってて、でも名前を思い出せない。そんな音」

 

 想汰がゆっくり本を閉じ、教室の外に視線を投げた。

 

「なぁ夏彦。音ってさ……本当に、全部真実なのか?」

 

 それは、問いかけであり、揺さぶりだった。音は嘘をつけない。けれど“聞き手”がそれを歪めることは、ある。

 

 夏彦はわずかに目を伏せたまま、言った。

 

「嘘はつかないよ。音は。ただ……俺たちの耳が、嘘を聴こうとするだけだ」

 

 その瞬間、休み時間のチャイムが鳴った。

 

 けれど夏彦には、それとは別に、小さな“ピアノの音”が、遠くで鳴ったような気がした。

 

 ──もう一度、あの部屋へ行かなければ。

 

 “音”は確かに、そこにある。

 

 ────

 

 午後の授業が終わった放課後。陽はすでに西に傾きかけていた。

 

 日暮夏彦は人気のない廊下を歩いていた。窓越しの光は長く伸び、床にぼんやりと揺れる。靴音が規則正しく響き、その合間に、遠くから吹奏楽部の練習音が微かに届いてくる。

 

 ──金管の音だ。けれど、違う。これは“今日”の音じゃない。

 

 耳を澄ますまでもなく、夏彦にはそれが“記憶の音”であるとわかった。彼の中に鳴る音は、他の誰にも聴こえない。音楽室の奥、備品倉庫の隣にある古びた“準備室”の前で足を止めると、その音は一瞬、ぴたりと止んだ。

 

 誰かが、自分を“待っている”。

 

 ノブに手をかける。開いた扉の向こうから流れてきたのは──

 

 ──ピアノの、単音。

 

 それは繰り返される一つの旋律ではなく、探るように鍵盤を一音ずつ叩く、試行錯誤の音だった。懸命に何かをなぞろうとして、けれどまだ形にならない。それでもその手が、何度も鍵盤に触れていたことがわかる。

 

 夏彦はそっと部屋に入る。室内には誰もいない。埃の匂いと、古い木の家具の冷たさ。薄暗いその空間で、彼は再び目を閉じた。

 

 ──カチリ。

 

 ボイスレコーダーの“再生ボタン”に指を添える。いや、これは操作ではない。これは“感覚”であり、“意思”だ。

 

「この音は……知ってるはずの音だ」

 

 呟いた瞬間、部屋の空気がわずかに震えた。耳に届いたのは──子どもの声。

 

『……違う、そこじゃない。もう一回、最初から……』

 

 誰かが、誰かに教えている。優しい声。そして、それに答えるような小さな音──ピアノの鍵盤を押す、かすれた音。

 

 それは「練習」だった。けれどただの練習ではない。教えている声と、習っている誰かとの間には、音以上の“何か”があった。夏彦の胸が、微かに締めつけられる。

 

 ──これを、知っている。たしかに、自分はこの音を“聴いたことがある”。

 

 でも、誰だ? どうして、その顔だけが思い出せない? 

 

 ピアノの音が止まった。

 

 そして、別の音が再生された。

 

 ──机が倒れる音。

 

 ──椅子を引きずる音。

 

 ──……怒鳴り声。

 

 そして、唐突に、すべてが遮断された。まるで強制的に記憶が巻き戻されたかのように、部屋は再び静寂に包まれる。

 

 夏彦は息を呑んだ。汗が背中を伝って落ちる。今のは、断片だ。だけど、確実に何かの“事件”だった。

 

「誰かが……ここで、何かを失くした」

 

 声に出すことで、その輪郭が少しだけ明瞭になった気がした。

 

 ──あの日、自分はここで“何か”を聴いた。

 それが、“誰か”の大切な記憶だったことだけは間違いない。

 ポケットの中で、壊れたボイスレコーダーが微かに震えたように思えた。

 

「まだ、鳴ってるんだな」

 

 再び、誰もいない準備室の隅で、微かに──ピアノの音が響いた。

 

 ────

 

 夕暮れが完全に教室を染めるころ、日暮夏彦はひとり旧校舎の階段を降りていた。靴音が、古い木造の床をくぐもった音で叩く。どこか、音が“鈍い”。

 

 沈んでいく陽の色は、音の記憶を曖昧にさせる──そんな錯覚すらした。

 

 彼の指先は、いつの間にかジャケットの内ポケットに触れていた。

 

 そこには壊れたボイスレコーダーがある。けれど、録音はしない。これは“再生”だけの装置だ。彼の異能力《リプレイ》が、それを使う。

 

 再生するのは、音。記憶のなかに沈んだ、瞬間の“音”。

 

 たとえば、誰かが泣いていたときの、ひとつの嗚咽。

 

 たとえば、壊れたピアノが悲鳴のように鳴った一瞬。

 

 それらを夏彦は“鳴らせる”。音だけを、過去から引きずり出して。

 

 そして──その音は、決して彼のなかで「終わって」はいない。

 

 準備室で聴いた“断片”。ピアノと怒鳴り声と、崩れるような椅子の音。

 

 あの記憶の主は、誰なのか。

 

 そして、なぜ彼はそれを“聴いたことがある”と感じながら、その顔を思い出せないのか。

 

 答えは、もう一つの“記憶の場所”にあると、彼は直感していた。

 

 ──屋上。

 

 音を再生するたび、断片は細かくなっていく。パズルのピースがわずかに噛み合って、でもその全体像はまだ霧のなか。

 

 彼は、音の記憶を追いながら、少しずつそこに近づいていた。

 

 屋上へと続く扉を開くと、湿った風が頬を撫でた。

 

 そこには誰もいなかった。夕焼けが灰色のフェンスを長く引き伸ばし、遠くに見える街の喧騒は、まるで遠い国の音のようだった。

 

 夏彦はゆっくりと歩く。記憶を探すように、靴音を鳴らして。

 

 やがて、フェンスのそばで立ち止まる。風が一瞬、音を運んできた。

 

 ──ガシャン、とガラスが割れる音。

 

「……!」

 

 

 目を閉じる。再生する。記憶の中で、その音が確かに“鳴った”。

 

『やめてよ……そんなの、聞きたくない……!』

 

 ──女の子の声。泣きそうな声。けれど、怒っている声でもあった。

 

『なんで……なんで、あんたが……!』

 

 言葉が、断ち切られる。後に続いた音は、風の音に紛れて消えた。

 

 夏彦は、喉の奥が詰まるのを感じた。誰だ、この声は。

 

 なぜ、こんなに胸が痛い。

 

 彼は拳を握りしめた。音が、過去が、自分を試してくる。

 

 彼に問いかけるのだ。──お前は、本当に“聴いた”のか? 

 

 お前は、そのとき、何を“選んだ”のか? 

 

「……違う」

 

 夏彦の唇から漏れたその言葉は、誰にも届かない。

 

「違う……聴いたんだ。ちゃんと、聴いた。あのとき、俺は──」

 

 彼の言葉を遮るように、再び音が鳴った。

 

 ──ピアノの、最後の音。

 

 それは、まるで誰かが泣きながら鍵盤を叩いたような、不協和音。

 

 そして、その音は、不思議なことに、屋上にいる夏彦の耳にも“生音”のように響いていた。

 

「この音は……」

 

 夏彦は、確かめるように呟いた。

 

「……お前のやつだな」

 

 そのとき、夕陽のなかに見えた気がした。

 

 屋上の片隅、金網の影に、小さな影が座っている──そんな幻を。

 

 音は、終わってなどいなかった。

 

 まだ、あのときの“痛み”は、鳴っている。

 

 ────

 

 屋上の片隅に座り込む影は、風が吹くたびに輪郭を曖昧にしながら、なお確かにそこに“いた”。

 

 いや──いたような“気がした”。

 

 日暮夏彦は、ただ立ち尽くしていた。風が体温を奪っていくのに、身体の奥は妙に熱かった。

 

 誰なのかはわからない。

 

 けれど、その影を見たとき、胸の奥が妙に軋んだ。

 

 まるで、長いこと置き去りにしていた“音”が、再び鼓膜を震わせたように。

 

 ──ピアノの音。嗚咽。叫び。割れる音。

 

 何度も繰り返し聴いた記憶の断片が、今この場所で一本の“旋律”となって再構築されようとしている。

 

 彼はゆっくりとポケットからボイスレコーダーを取り出した。

 

 もう記録はされていない。だが、異能力《リプレイ》が、今の彼にはある。

 

「……ここだな」

 

 屋上の床、風除けの壁際。ひとつ、深くしゃがみこむ。

 

 記憶の中の音を再生する。

 

 ──カチリ。

 

 再生ボタンを押すような感覚と共に、記憶の音が響いた。

 

『いい加減にしてよ! あたしのこと、何もわかってないくせに──!』

 

 女の子の声。若く、そしてどこか懐かしい響き。

 

 耳元で誰かが叫んでいるかのようなリアルさ。

 

 夏彦は、何も言えずにその音に身を委ねるしかなかった。

 

『音が……音がね、あたしを苦しめるの。ピアノも、声も、全部、全部、怖いの……!』

 

 喉の奥がぎゅっと詰まる。誰だ、この声は。

 

 いつ、こんな音を──こんな記憶を自分は持っていた? 

 

 しかし、記憶の流れは止まらない。

 

『でも、あなたは、それでもいいって言ったじゃない! なのに、なのに、どうして……!』

 

 ──バン、と金属が殴られたような音が響く。

 

 涙と怒りと絶望が混じった叫びの中に、彼は確かに“自分の声”を聴いた。

 

『夏彦、なんで──答えてよ!!』

 

 夏彦はその瞬間、気づいた。

 

 ──この音は、自分のものだ。

 

 いや、自分が“無視した”音。

 

 過去のある日、耳を塞いだ“声”の残響。

 

 そして、影の正体もまた、音のなかにあった。

 

「……まさか」

 

 記憶が断片から輪郭を得た。

 

 確かに、いた。

 

 中学時代、同じ音楽教室に通っていた、ひとりの少女。

 

 教室でも名前を呼ばれることのなかった少女。

 

 音の中でしか存在を証明できなかった、彼女──

 

 そして、その少女が夏彦に縋り、泣いて、叫んだあの時間。

 

 彼は、怖くて答えられなかった。

 

 音を“聴く”ことだけはできたのに、彼女の“言葉”には応えなかった。

 

「……あのとき、俺は、何もできなかった」

 

 風が、彼の呟きをさらっていった。

 

 罪悪感ではない。

 

 これは、自分が置き去りにした“後悔”そのものだった。

 

 でも、今なら。

 

 今の自分なら、音に向き合える気がする。

 

 夏彦は立ち上がる。夕陽が落ちかけていた。

 

 記憶の音は、ここで終わらない。

 もう一度、彼女の声を聴こう。

 そして、あの音に、今度こそ“応える”のだ。

 その瞬間、風のなかでふと微かな音が鳴った。

 

 ──ピアノの旋律。

 

 今度の音は、優しかった。

 どこかで赦されたような、温度のある音だった。

 夏彦は、そっと目を閉じた。

 

「この音は……『すず』、お前のやつだな」

 

 まるで過去が、そう答えてくれたような気がした。

 

 ─────

 

 教室に戻ったとき、窓の外にはもう夜が降りていた。

 

 街の喧騒は遠く、耳に入るのは校舎をかすめる風と、蛍光灯の低い唸り声だけだった。

 

 その中にひとつ、小さな音が混じった。

 

 ──カラリ。

 

 教室の扉が、少しだけ開いていた。

 

 そしてその隙間から、白いイヤフォンのコードが垂れていた。

 懐かしさが、胸を締めつける。

 

 そのコードの持ち主が誰なのか、もう確信していた。

 彼女は、窓際の席に座っていた。

 

 輪郭はぼやけている。影のようでもあり、記憶の具現のようでもある。

 

 だが、彼女の存在ははっきりと“聴こえた”。

 

 ピアノの旋律が流れていた。

 ゆっくりとした、悲しみに満ちた調べ。

 

 それは、かつて夏彦と彼女が一緒に弾いた連弾の、未完成の楽章だった。

 

「……来てくれると思った」

 彼女が顔を上げた。

 ──耳を塞いでも、あの音は聴こえていた。

 ピアノの残響、少女の叫び、そして──自分の沈黙。

 

 ───

 

 中学生になったばかりの話だ。

 

 彼女の“音”は、最初から少し違っていた。

 教室のグランドピアノの隅で、ひとり鍵盤に向かっていた少女。

 茅森すずは、誰よりも音に敏感で、そして──怯えていた。

 

「……弾いてるとね、頭の中が真っ白になるの」

「白くなると、なにも見えなくなる。……でも、音だけは、止まらないの」

 

 ある日、そんなことを言った。

 

 夏彦はそのとき、「すごいな」としか返せなかった。

 彼女の音は、確かに惹きつけるものがあった。

 

 でも、それは“上手い”とは違う。何かに追い立てられるような、壊れそうな旋律だった。

 

 ある日の連弾の練習後、教室の奥で、すずが突然泣き出した。

 

「ねえ……夏彦くん。あたしさ、ほんとは、音が怖いの」

 

 彼女の指が震えていた。ピアノから遠ざけるように、手を握っていた。

 

「……音がね、あたしを苦しめるの。ピアノも、声も、みんな、みんな、怖いの……!」

 

「じゃあ、なんで弾くんだよ」

 

 思わず出た声に、すずはひどく傷ついたような顔をした。

 

「だって、あなたは……それでもいいって、言ってくれたじゃない……!」

「“すずの音が好きだ”って……言ってくれたから、わたし、また弾けると思ったのに……!」

 

 夏彦は、何も返せなかった。

 

「でも、最近……夏彦くん、あたしのこと、避けてるよね」

「連弾の時も、前みたいに目を合わせてくれない。……聴いてくれてない」

 

 彼女の瞳は、張り詰めた糸のように揺れていた。

 このとき、夏彦の中では確かに、《リプレイ》の能力が騒いでいた。

 

 聴こえすぎていたのだ。彼女の音の奥にある、形にならない痛みが。

 言葉にならない感情が、音になって流れ込んできて──それが、怖かった。

 

「……夏彦、なんで、答えてよ……!!」

 

 ──でも、あのとき、俺は。

 

「……無理だよ」

 

 そう言って、立ち去った。

 

 それが、彼女と交わした最後の言葉になった。

 

 数日後、教室を辞めると先生から聞かされた。

 理由は教えてもらえなかった。けれど、わかっていた。

 彼女はあの夜、助けを求めていた。

 でも、自分は“聴きすぎた”せいで、“聴かなかった”。

 ──彼女の言葉を、“音”としてしか受け取れなかった。

 

 

 

 その声は、記憶と寸分違わぬ音色で、まっすぐに夏彦の鼓膜を叩いた。

 

「夏彦。あのとき、どうして答えてくれなかったの」

 

 これは過去の反響ではない。今の彼に向けられた問いだった。

 彼女の声はもう、叫んでいなかった。

 

 彼女の問いは、責めではなく、ただ静かな願いのようだった。

 

 夏彦は、答えた。

 

「怖かったんだ。お前の“音”を聴くのが。……聴いてしまったら、俺が壊れる気がしてた」

 

「……でも、本当は?」

 

「ほんとは、あのときの“お前”の声に、どう応えたらいいかわかんなかったんだ」

 

 あのとき必要だったのは、音ではなかった。

 すずが求めていたのは、“音に宿った感情”じゃない。

 

 “言葉”で、そばにいてくれることだった。

 

 言葉が、やっと、出た。

 

 彼女の瞳が揺れる。

 

「俺は“音”しか聴けないと思ってた。けど、それじゃダメだった。お前の気持ちも、不安も、全部、“音”じゃなくて言葉にしなきゃいけなかったんだよな……」

 

 記憶は音になり、音は過去をなぞるだけのものだと思っていた。

 

 でも今、こうして彼女の前に立っている自分は、確かに“今”を生きている。

 

 彼女は小さく笑った。

 

「やっと聴こえた。ずっと、待ってたんだよ。あなたの“音”を」

 

 夏彦の胸の奥で、何かがほどける。

 

 そして、そこに新しい旋律が鳴り始めた。

 彼女が立ち上がり、そっと何かを差し出す。

 

 それは、昔ふたりで録音したテープだった。

 ボイスレコーダーではなく、アナログのカセット。擦り切れるほど聴いた、最初で最後の連弾。

 

「これ、預ける。あなたが、ちゃんと“次”の音を鳴らせるように」

 

 彼女の姿が、徐々に淡くなっていく。

 

 でも、その音だけは最後まではっきりと残った。

 

 ──ありがとう。そう、聴こえた気がした。

 

「……ああ。必ず、鳴らすよ。今度は俺の“音”で」

 

 今、静寂の中にひとつ、新しい音が鳴った。

 

 それはもう、記憶の残響ではない。

 

 未来へと続く、第一音だった。

 

 彼女の姿が完全に消えたとき、教室の扉が開いた。

 

「おーい、夏彦。お前、まだいたのかよ」

 

 彰良の声。

 

 続いて、想汰と澪の顔がひょっこりとのぞいた。

 

「心配したぞ。……って、なんか泣いてる?」

 

 夏彦は慌てて目をこする。

 

「泣いてねぇし。ちょっと、音が多かっただけだ」

 

「はあ? 何その言い訳」と澪が笑い、彰良が小さく肩をすくめた。

 

 けれど三人の存在は、あたたかかった。

 

 まるで、自分の中の“音”を、受け止めてくれる調律器のように。

 

「帰ろうぜ、夏彦。……ちゃんと“今”を鳴らしにさ」

 

 彰良の声が、やけに透き通って聴こえた。

 夏彦は、テープを胸ポケットにしまいながら、歩き出した。

 この音は、過去のものじゃない。

 

 彼女が残した旋律は、今も、確かに鳴り続けている。

 

「……この音は、お前のやつだったな」

 

 そして、それに重ねるように、彼は自分だけの新しい一音を打ち鳴らした。

 

 それは、未来に続く音だった。

 

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