中間テストの返却日だった。
チャイムの音がやけに軽く響く午後、文蔵想汰は、教室を出るとそのまままっすぐ帰路についた。
カバンの中には、戻ってきた答案用紙と、もうひとつ。自分が書いた作文が入っている。国語で小橋先生から出されていた、自由課題。テーマは「記録について」にした。
先生から返されたその用紙のすみには、小さくこう書かれていた。
「“記録”と“記憶”は、別の形をしているね。面白かったです」
読み返しながら、想汰は小さく息をつく。
悪い意味じゃないのは分かる。けれど、どこか引っかかった。
帰宅後、ストーブを点けると、母の声が居間の奥から聞こえた。
「想汰ー! ついでに二階の押入れ、ちょっと見てくれない? 古い布団が邪魔でさあ」
「……あぁ」
上着を脱ぎながら、階段を上がる。押入れの戸を開けると、ほこりの匂いと一緒に、古びたダンボールがいくつも積まれていた。
布団をどかして奥に手を伸ばしたとき──
「……これ、なんだ」
ひとつの箱が目に入った。中には、ずしりと重い黒い物体。レンズとダイヤル。父親の名前が記された、小さなタグ。
フィルムカメラだった。
その晩。こたつに足を突っ込みながら、想汰はそのカメラをいじっていた。
説明書もない。バッテリーも要らない。シャッターの巻き上げレバーを引いて、カチッと戻す。
「……へえ」
指でそっと、シャッターを切ってみる。
カシャン。
耳に馴染みのないその音は、どこか乾いたようでいて、不思議な重さがあった。
まるで、時を留めるような
いや、音だけじゃない。その一瞬、手元に世界が収まった気がした。
その感覚を、想汰は知っていた。
《オムニバス》で記録が走るとき。
“これは物語になる”と、胸の奥に灯るような確信。
けれど、今のそれは少し違った。
形がないのに、なにかを閉じ込めてしまったような違和感。
ノートにも、“本”にも書けないものが、どこかに引っかかっていた。
「……なんでだろ」
気まぐれに巻き上げたレバーの手触り。レンズの先に、ピントが合っているのかも分からない景色。
想汰はふと、テーブルの上のノートを見た。
ペンは置いたままだった。
今日、なにも記録していない。
それでもなぜか、カメラを触っていた時間の方が、何かを“残した”ような気がしていた。
───
翌日、文蔵想汰はカメラを鞄に入れて登校した。
正確には、「持っていたら何か撮れるかもしれない」というほどの、あやふやな理由だった。
空はやわらかい曇り空。吐く息が白く、手袋を忘れた指先がかじかんでいる。
校門をくぐると、朝倉彰良の声が飛んできた。
「おっ、想汰! やっば、今日寒くね!? 冬本気出してきたなー!」
「……あぁ」
いつも通りのテンション。だが、今日の想汰は少しだけ違った。
制服の内ポケットからそっとカメラを取り出すと、目の前でピースをする彰良に、何の前触れもなくレンズを向けた。
「ん? なになに、俺? おーけー、かっこよく写してくれよ?」
カシャン。
「うおっ、まじで撮った!? ってかそれ、なんかレトロでかっけーな!? フィルム? マジで?」
「……たぶん」
想汰は撮ったばかりのカメラを見つめた。もちろん、まだ中身は確認できない。ピントが合っていたかも、光が入りすぎてないかもわからない。
けれど、“今この瞬間”を残したという実感だけは、指先にかすかに残っていた。
昼休み。
教室の窓際に腰かけていた想汰の隣に、椿原澪がやってきた。
教科書を抱えたまま、そっと彼の隣に腰を下ろす。
「……カメラ、始めたの?」
「見てたか」
「うん。……なんか、珍しいなって思って」
想汰が肩をすくめると、澪は笑った。
「……“思い出”ってさ、写真で見ると、ちょっと違って見えるよね」
「違う?」
「うん。……撮ったときよりも、きれいに見えたり、逆に“こんなだったっけ”って思ったり」
窓の外では、グラウンドの影が長く伸びていた。
穏やかな午後の光に包まれた教室。その空気ごと、想汰はカメラに収めたくなった。
「でも、それでも残したくなるのって……たぶん、今が、良い時間だからだと思うよ」
澪の言葉が、静かに想汰の胸に降りてくる。
“今が良い”から、残したい。
ノートには書かないその感情が、シャッターの音に紛れていた気がした。
放課後。
昇降口で靴を履き替えていると、背後からもうひとつの“記録媒体”が声をかけてきた。
「……それ、何撮った?」
振り返ると、片耳にイヤホンをさした日暮夏彦がいた。
手には小型の録音機。どうやら今日も校内の音を拾っていたらしい。
「朝倉。あと、澪。……あとは風景」
「ふーん。……写真って、音入んないじゃん」
ぼそりと呟くように言った夏彦は、少しだけ笑った。
「でも逆に、それがいいのかもな。音だけだと、こういう空気って録れないし」
そう言って、録音機を一瞬掲げる。想汰も、カメラを持ち上げた。
お互い、似たようなタイミングで録ろうとして、そのまま目が合う。
「……同類、だな」
「……あぁ」
2人の手の中には、それぞれの“記録”があった。
残したい理由も、対象も違うのに。
なのにどこかで、「同じものを残そうとしてる」。そんな気がした。
その夜、想汰は初めて、自分でフィルムを巻き取った。
そして、ノートを広げずに机の上に置いたまま、カメラを見つめる。
明日もまた、撮るかもしれない。
なにも写らないかもしれない。
それでも。
“言葉にならない何か”が、そこにある気がした。
───
現像が終わったフィルムが手元に戻ってきたのは、それから数日後のことだった。
想汰は放課後、駅前の小さな写真屋の封筒を受け取ると、そのまま人通りの少ないバス停のベンチに腰を下ろした。
封筒の中には、現像済みの写真と、使い終わったフィルムが丁寧に収まっていた。
初めての撮影。ピントの合わせ方も知らなかった。構図なんて考えていない。
それでもページをめくるように、一枚ずつ写真を見ていく。
一枚目。
登校時の曇り空と、校舎の隅にある駐輪場。
二枚目。
窓辺であくびをしている朝倉彰良。
三枚目。
教室の片隅でうつむいて本を読む椿原澪。
四枚目。
笑っているのか、風が吹いたのか分からない日暮夏彦の横顔。
……ぼやけていた。
ブレていた。
露光も甘い。
光が入りすぎて真っ白になってしまったものもあった。
なのに、
「……悪くないな」
想汰は、写真を一枚、また一枚とゆっくり見つめた。
思っていたより、なにも写っていなかった。
なのに、その空気だけが、確かに焼き付いていた。
あの瞬間の教室のざわめき、誰かの笑い声、誰もいない廊下の静けさ。
ノートには書けなかった「時間そのもの」が、写真の中に漂っている気がした。
言葉にならなかった“空気”が、そこにあった。
《オムニバス》で読み返す物語は、言葉になる記憶だった。
けれど、写真に写っていたのは、“記録されなかった記憶”だった。
その夜。想汰はノートを広げたまま、ページをめくる手を止めた。
そのかわりに、今日の写真の中から、一枚を選ぶ。
教室の窓辺で、椿原澪が静かに外を見ている横顔。
ピントはやや外れている。でも、光の入り方と、澪の髪の動きが、妙に心に残った。
「それでも残したくなるのって、きっと今が良いからじゃない?」
あの時の澪の声が、写真の中に染み込んでいる気がした。
───
その翌日。
何気なく開いたノートの端に、誰かの字が書かれていた。
「文蔵、これ、見たぞー」
おそらく朝倉彰良だ。
ノートに勝手に落書きされたら普通は腹が立つのかもしれないが、
その下に描かれていた“ヘタクソなカメラと笑顔のスタンプ”が、想汰を思わず笑わせた。
そして、ふと気づいた。
あの笑った瞬間も、シャッターを切れば残せたのかもしれない、と。
ノートを閉じる。
カメラをそっと持ち上げる。
それは、想汰にとっての“言葉にならない記録”のかたち。
それでもきっと、物語になる。
そんな気がした。
───
誰もいない放課後の教室で、文蔵想汰は一人、シャッターを切った。
カシャン。
窓から差し込む冬の日差し。埃がふわりと舞って、机に長い影を落とす。
何気ないその光景が、なぜか今日は“撮っておかなきゃいけない気がした”。
別に特別な瞬間じゃない。
誰かが笑っていたわけでも、劇的な何かが起きたわけでもない。
けれど、“静かだった”という事実が、どうしても愛しかった。
カメラのファインダーを覗くとき、世界が少しだけ遠くなる。
音が消えて、色が変わって、
全部がひとつの“場面”になる。
その瞬間、自分が何を感じていたのか、後になっても思い出せる気がする。
……いや、違う。思い出すというより、立ち返れるのだ。
ノートには、書かなかった。
シャッターを切った瞬間のことも、
そのとき誰が隣にいたかも、
何を話していたかも。
それでも、記憶はそこにある。
曖昧で、ぼやけていて、
だけど消えない。
机の引き出しに、現像済みの写真を一枚そっと挟む。
教室の隅。窓辺に座った四限組の面々が、何気なく笑っている場面。
想汰はそこにいた。
写真の中にも、外にも。
それが、なんだか誇らしかった。
ノートに書かなかった一日。
《オムニバス》にも記録されなかった場面。
それでも、今ならわかる。
不完全だからこそ、残したい瞬間がある。
それを写したものが、
“写真”ってやつなんだろう。
ページを閉じる。
シャッター音が、遠くに響いた気がした。
そして想汰は、心の中で静かに呟いた。
「たぶんこれも、“物語”になるんだと思う」