朝の空気が、肌に刺さるように冷たい。
11月中旬、まだ陽が昇りきらない時間。椿原澪は制服の襟を軽く正しながら、桐明高校の校門前に立っていた。
集合時間は7時。でも、彼は6時には着いていた。べつに張り切っていたわけではない。電車が空いてる時間に乗ってきたら、自然と早く着いただけ……のはずだった。
(こんなに人いないんだな、朝の学校って)
校門のそばにスーツケースを転がした生徒がちらほらいるくらいで、大半はまだ来ていない。正門の上の空が、ほんのりと明るくなりかけている。
修学旅行、か。
楽しみじゃないとは言わない。
けど、椿原にとって“団体行動のイベント”って、ちょっと疲れるものだった。騒がしくて、落ち着かなくて、どこか気を張る感じがして。そういうの、あまり得意じゃない。
だけど、今年は、なんとなく違う気がしている。
「おっはよー! 旅人澪くん、ご機嫌いかがー!?」
校門から突如現れたのは、朝倉彰良。元気さ全開で、スーツケースをまるで武器のように振り回しながら走ってきた。
「……もうちょっと静かにして」
「えー!? 修学旅行の朝って言ったらテンション爆上げでしょ!?」
「まだ6時すぎだぞ」
「6時すぎだからこそだろ!? 旅の始まりは、日の出とともにあるのだ!」
「なんだその理論……」
澪が少しだけ眉を下げると、彰良はニカッと笑って手をひらひら振った。その後ろからは、やや眠たげな様子の日暮夏彦が歩いてくる。片耳にイヤホンを差し込んだまま、スーツケースを静かに転がしている。
「……おはよー。寒い」
「うん、おはよう。眠そうだな」
「眠いよ。5時半集合って、何時代の文化だよ……」
「6時半な」
「6時だよ」
「どっちでも早い」
夏彦はそれだけ言うと、近くのベンチに座ってイヤホンを外した。スマホをいじりながら、たぶんプレイリストの調整でもしているのだろう。彰良はその様子を見て、「おお、出発BGM選曲してんのか?」と絡んでいた。
そして、三人がそれぞれの過ごし方で時間を潰しはじめたころ。
バスの方から、カツカツと軽い足音が響いた。
「……あれ?」
「おー、想汰! お前もう乗ってたのかよ!?」
文蔵想汰はすでにバスに乗り込み、座席に座っていたらしい。こちらを見て小さくうなずく。そしてノートとスマホを取り出して、何かを記録し始めた。
「なにしてんだ?」
「……班構成の記録と、出発時刻のログ。あと、バスの窓の内側の霜の模様が綺麗だったから」
「……うん、やっぱ想汰だね」
澪は思わずくすりと笑ってしまった。特に“バスの霜”のくだりが想汰らしすぎて。
やがて時間が近づき、先生の点呼が始まる。大きなスーツケース、冬用のジャンパー、どこか浮かれたテンション。そんなクラス全体のざわつきのなかでも、四限組の空気は妙に“いつものまま”だった。
座席は四人並び。澪と想汰が窓側、通路側に夏彦と彰良。
エンジンがかかる音とともに、修学旅行が本格的に始まった。
車窓の外には、だんだんと明るくなる空と、静かな町の景色。
澪は、ふと小さな声で言った。
「……なんか、旅って感じだな」
「そりゃあ修学旅行だからな!」と隣から彰良。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう?」
「……わかんないけど」
言葉にするにはちょっと照れくさくて、でも間違いなく、いつもの朝とは違っている。
きっとこの数日間は、“ふだん”とは少しだけ違う時間になるのだろう。
その予感は、悪くなかった。
───
「おい、ジャンプのタイミング揃ってなさすぎだって!」
「無理! この人数で揃うわけないじゃん!」
「想汰、3秒前に“せーの”言ってよ!録画スタートしてからでいいから!」
「いや、じゃあ録画ボタン押す人変えようぜ!? 俺いったん入る!」
「誰か、記録とタイミングの両立っていう無理ゲーに挑むやついないの!?」
清水寺の境内前、バスガイドさんも撮影スポットと呼ぶ絶好の位置。
四限組を中心に、2年7組の男子と一部の女子がごちゃごちゃと騒いでいた。
観光地の趣きとは真逆に、ジャンプショットへの情熱が異様に高い。
「……こういうの、あとで見返すんだよな」
カメラ役を終えた日暮夏彦は、スマホを下ろしながらつぶやいた。隣では想汰が無言でうなずいている。手にした自前のカメラは、いまもしっかりレンズを向けていた。
「どうせジャンプはブレてるんだろ?」
「……うん。全員ズレてた。でも楽しそうだったから撮った」
「……それが正解かもな」
シャッターの音が静かに響く。観光地の賑わいの中で、妙にその音だけがきれいに聞こえる。
京都。
天気は快晴。清水の舞台から見える街並みがまるごと絵葉書みたいで、思わずカメラを構える生徒たちも多い。
だが、夏彦はあまり観光地に興味がないタイプだった。
“見る”よりも“聴く”派で、風の音とか、人のざわめきとか、そっちの方がずっと面白いと感じてしまう。それでも、旅に出ると写真は撮りたくなるのが不思議だった。
(なんでだろうな……)
それはたぶん、帰ってきたとき、“残ってる”ものが目に見えるから。
音や感情は消えやすいけど、写真は残る。あの瞬間、何があったか、どんな顔だったか。
「……あ、ちょっと待って」
澪がカバンからハンカチを出しながら、小柳雪にそっと手を差し出していた。風で飛びそうになったチラシを拾ってあげたらしい。ふたりは会話もなく、ごく自然にうなずき合っている。
(……うん。ああいうの、写真に撮れないやつ)
ちょっとだけ、シャッターを向けるのをやめた。
「夏彦ー! はい、次あっち! お土産タイム行くぞー!」
「うわ、誰だよそんな命名したの」
「俺だ!」
すべての元凶こと朝倉彰良が、のしのしと先頭を歩いていく。背中のリュックからチラッと「修学旅行マニュアル」らしき冊子が飛び出していたが、たぶん読んでいない。
「ってか、清水寺に来て一番最初に買ったもん、八ツ橋じゃなくて木刀ってどうなの……?」
「男子修学旅行の三種の神器ってやつだろ。木刀・竹刀・謎のマグネット!」
「ちょっと待って、竹刀って誰が持ってんの」
「え、いたよ? 隣の班のやつ」
「まじかよ……」
そんなバカ話の後ろで、澪と雪がほんの数歩だけ離れて歩いていた。
それを見て、夏彦はふっと息を吐く。
なんか、“空気”変わったな。
付き合ってるって話は、本人たちからは聞いている。
でも、なんとなく、知っている。
ああいう静かで穏やかな時間を、共有できるのって、たぶん“そういう関係”なんだろうなって。
「はいはーい! 映えスポット来ましたー! 恒例のアホポーズ選手権スタートしまーす!」
「……なにそれ、聞いてないんだけど」
「今作った!」
彰良が叫んで、澪が「……知らない」と静かに身を引く。
雪が笑って「でもちょっとやってみる?」と軽く引っ張ると、澪がほんの少し困った顔をして。
夏彦はスマホのシャッターを押す。
……これは、あとで見返すやつ。
声じゃなくて、空気が写ってるやつ。
(これ、あとで澪に送ろ)
想汰と目が合う。
向こうも同じタイミングでカメラを構えていて、ふたりで無言でうなずき合った。
旅って、観光地よりも、
“そのへんにある何気ないやつ”のほうが残るんだよな。
そんなことを、ふと思った。
───
畳の上に、ぐちゃぐちゃに敷かれた布団。
その隣で、四人の男子高校生が意味もなく盛り上がっていた。
「違う違う! なんで俺の布団、枕が2個で足元に掛け布団だけなの!?毛布は!?」
「いや、誰かが配置ミスっただけじゃん?」
「想汰じゃないの?」
「……俺、最初にちゃんと配置した。犯人は彰良」
「やっぱりお前かぁぁ!!」
「だって“こっちの方が俺っぽい”って思って、入れ替えたんだよ!!」
「意味わからん! 俺っぽいって何!?」
旅館の一室、夜。
時刻は21時。夕食も終わって、お風呂も済ませて、消灯までにはあと一時間とない。
“いかにも修学旅行”な空気が漂っている。
「てかさ〜、枕投げって、やっぱやっとくべきじゃない?」
「……先生に見つかったら終わるやつだろ」
「だからこそ、バレずにやるのが“美学”ってやつ!」
「その言い回しが一番バレるやつな」
彰良が両手に枕を構え、「誰からいく!?」と構えた瞬間──ドアの向こうから真田先生の咳払いが響いた。
「……聞こえてんぞ」
「……えっ、もう来てたの?」
「というか、先生ら3分前から廊下で見張ってるって、想汰言ってたろ」
「なんで教えてくれなかったの想汰〜!!」
「……言った」
「言ってたわ」
想汰が無言で目を伏せると、澪は肩をすくめて笑った。
「……だから言ったのに」
「無念!!」
叫びながら枕をベッドに投げ捨てた彰良が、そのまま仰向けに倒れる。
「ふぅー……でも、こうやって布団並べて座るだけでも、テンション上がるよな」
「わかる」
「それな」
「……まあ、わかる」
あんまり深くもないけど、否定しようもない会話。
天井を見ながら、誰かが言った。
「明日、自由行動か……」
「早いよな。始まったと思ったら、もう中盤って感じ」
澪がぽつりとつぶやく。
その声に、夏彦が目を細めた。
「“終わってくの早い”ってやつな。こういうの」
「旅ってさ、いつも“始まりのテンション”のまま終わる気がしない?」
「俺はだいたい、中盤で燃え尽きるタイプ」
「それたぶんお前だけだよ」
「ちがうって、明日が“メイン感”あるからさ。だから今日のうちに無駄な体力使っとくの!」
「それを“使い切る”って言うんだよ」
缶ジュースのフタを開ける音。
旅館の冷蔵庫で買った微炭酸。
それを片手に、四人は丸くなって適当な話を続ける。
「先生のいびきがうるさかったらどうするか選手権」
「お風呂に長く浸かってたの誰だ問題」
「明日のルートは「迷子込みでおいしい」前提で決めるかどうか」
「てか、自由行動って誰と一緒?」
「俺ら四人に、女子三人でしょ。たぶん」
「そうそう、水木さんと花森さんと小柳さん」
「……雪」
「……お?」
一瞬だけ、澪の声に間が入った。
夏彦が一瞬にやりとした顔をして、彰良がにじり寄ろうとするのを、想汰が冷静に引き留める。
「明日は……ちょっと楽しみにしてて」
「……ふぅん?」
「……うるさい」
それだけ言って、澪は立ち上がり、窓際に歩く。
カーテンをめくると、夜の街が静かに広がっていた。
遠くに京都タワーの灯り。風の音が微かに、耳の奥に響く。
澪の隣に立った想汰が、無言でシャッターを切る。
「この時間、好きかも」
ぽつりとこぼした言葉は、写真の中には残らない。
でも、たぶん誰かの記憶には残る。
夜って、テンションがちょっとおかしくなるけど。
そういう時間だからこそ、素直になれるのかもしれない。
明日、何があるかはわからないけど——
でもこの旅、たぶん、ずっと思い出す。