朝の空気が、少しひんやりしている。
京都の旅館の玄関前。玄関脇に据えられた木製ベンチに座って、椿原澪は湯気のたつ紙カップを両手で包んでいた。中身は、旅館の売店で買ったインスタントコーンスープ。朝食はしっかり食べたはずなのに、なぜかこういう温かいものをもう一杯ほしくなるのが、旅の朝というやつらしい。
「……うん、まあ、悪くないかも」
昨夜、騒がしい男子部屋の空気に巻き込まれながらも、思ったほど疲れは残っていない。団体行動とか、修学旅行ってやつに不安がなかったわけじゃないけど──。
「おっはよー!旅の民たちよー!!」
景色をかき消すような元気な声が、旅館の建物を震わせるように響いた。
「……そのテンション、あとで後悔するぞ」
「え?なにそれ、朝から預言者みたいなこと言ってるじゃん。俺にはそんな未来見えてないね!」
ぴょこっと跳ねるようにして現れたのは、言うまでもなく朝倉彰良だった。肩から斜め掛けにした小さなリュックには、既に何かしらの“戦利品”が詰まっているらしい。前日にもらった観光地マップは、早くも折り目がくたくたになっている。
「今日のルート、把握してるか?」
「ざっくりはな!まず京都駅に向かって、それから電車で奈良行って、東大寺寄って、そのあと土産屋で甘いもん食って、適当に商店街ぶらぶらして、夕方に戻ってくる!完璧!」
「……どこが完璧なんだ」
「心意気!」
もはや澪は突っ込むのをやめた。朝からフルスロットルの彰良に、今さら手加減は期待できない。
そのうち、パラパラと他のメンバーも玄関前に集まってきた。
「……おはよう」
文蔵想汰がカメラを片手に静かに合流する。手帳とスマホを交互に見つつ、既に“記録モード”に入っている様子だ。集合写真の時ですら滅多に喋らない彼が、なぜか旅に出るとアクティブになるのが不思議だった。
「おはようございます、澪くん、朝倉くん」
笑顔でやってきたのは、小柳雪。水木日向と花森菜月も一緒だ。女子の三人は動きやすい服装にスニーカー、バッグには日焼け止めとカメラとハンカチ。あとたぶんお土産のリスト。準備力がちがう。野郎共も見習った方がいい。
そして、最後に現れたのが日暮夏彦。イヤホンをつけたまま、片手で缶コーヒーを持って現れる。
「ん……集合時間、ピッタリ」
「いや、二分過ぎてるぞ」
「そのくらいは誤差。……さて、地図は誰が持つ?」
「オレ!!」
一歩前に出て胸を張った彰良に、夏彦が露骨に眉をしかめた。
「フラグ立てたな、今の」
「大丈夫だって、直感を信じればたどり着ける!」
それが最初の間違いだったと、みんなが気づくのは三十分後のことだった。
───
「……おかしいな、こっちじゃなかった?」
「明らかに“鹿の気配”が減ってる」
「それ以前に“人の気配”が減ってるだろ」
奈良駅を出て歩き出した一行は、予定していた観光ルートから見事に逸れていた。商店街っぽいエリアを越え、小道を抜けた先には、見事なまでに観光客の姿がない住宅地と古びた石碑。
「これ絶対地元の人しか通らない道だよ……。騒ぐなよ?」
「雰囲気はいいよね。ちょっと映画みたい」
「雪、こんな状況でも楽しめるのすごいな」
澪は地図を覗き込みながら、じんわりと苦笑いを浮かべた。案の定、現在地がどこかもわからなくなっていた。
「じゃあさ、もう目的地とかいったん置いといて、“ここでしか出会えないもの”探す方向にシフトしない?」
「いいね、それ!そしたら、あの神社寄っていこうよ」
「わたし、鹿まんじゅう食べたい」
「待って、それ駅前にあった気がする」
そんな会話の中、想汰は黙々とカメラのシャッターを切っていた。風景じゃない、友人たちの足取り、振り返る姿、ちょっと疲れた顔。観光パンフレットには載らないものばかり。
───
迷って、歩いて、笑って。最終的に辿り着いたのは、奈良町にある小さな商店街だった。
「……この豆大福、マジでうまいんだけど」
「うまい。やばい。語彙力ゼロ」
「迷ったおかげで発見した感、ある」
カウンターだけの和菓子屋。誰もが手にしていた豆大福は、甘すぎず、ふんわりとした餅と中の塩気のある豆が絶妙だった。
「地図がズレてるっていうより、こっちがズレたんだな」
澪がぽつりと言うと、隣で雪がふわっと笑った。
「でも、“ずれた方”が覚えてたりするよね。旅って」
その一言に、誰もがちょっとだけ、頷いた。
───
「やっぱ、奈良来たら鹿グッズ買わなきゃでしょ。鹿キーホルダー、鹿マグネット、鹿クッキー。ほら見てこの鹿うちわ、耳ピコピコするんだって!」
「どの層にウケるの、それ」
日暮夏彦は、そんな彰良のテンションに呆れつつも、なんとなく笑っていた。奈良の土産店はやたらとキャラものが多くて、見ているだけで混沌としている。店の外では、鹿せんべいを求める本物の鹿が観光客を取り囲んでいた。
「なあ、みんなってさ、お土産って誰に買うタイプ?」
唐突に彰良が尋ねる。手には鹿の顔が印刷された湯呑みと、ちょっと微妙なセンスのマグネット。
「基本は……自分、かな」
夏彦が応じると、彰良がすかさずツッコミを入れる。
「それ、ただの記念じゃん!」
「記念でいいだろ。思い出に物が付いてくるなら、悪くない」
「じゃあこれは?」と彼が差し出してきたのは、「しあわせの鹿神様」と書かれた顔の長いぬいぐるみ。
「それは……ちょっとデカい」
「えー、先生にこれ渡す予定だったのに」
「もっと軽くてネタに走りすぎてないやつにしろ。いや、渡すのやめたほうがいいまである」
ふざけたやり取りの横で、小柳雪と椿原澪が並んで棚を眺めていた。雪は澪に向かって、なにか軽く囁いている。澪は照れたような表情で棚の奥から何かを取り出した。
「澪くんって、家族へのお土産ばっか選びそうだよね」
「……べつに、全部家族用ってわけじゃないよ」
「うん、知ってる。でも、それがちょっと意外だったから」
雪と澪のやりとりに、夏彦は視線をそっと逸らした。わかってはいたが、自然に並ぶふたりを見ると、なんとも言えない気持ちになる。別に羨ましいとかじゃない。ただ──そういう空気に、まだ慣れていないだけだ。
「日向、何買ってんの?」
「うーん、友達と家族用に。あと、クラスの女子でお揃いにしようって話になってて……でも、菜月がすごい爆買いしてて引いてる」
「失礼な。用途を考えて選んでるだけだし」
花森菜月がさらっと言いながら、すでに手にいくつもの袋を下げている。
「すごいなぁ、女子って」
彰良が感心したように言うと、想汰がふいにぼそっと呟いた。
「……渡す相手考えながら選ぶの、なんか、面白い」
いつもは寡黙な想汰の言葉に、夏彦もわずかに頷いた。
「そうだな。“自分のため”っていうより、“誰かを思いながら選ぶ”って感覚、あんまり普段ないし」
「ねえ、先生にマグネット渡す会、結成しようよ」
空気を変えたのは、やっぱり彰良だった。
「なにそれ」
「オレが“このセンスどう?”って先生に聞く。で、先生が“うーん”って困った顔したら、隣から夏彦が“違うのもありますけど?”って冷静にフォローする」
「そのフォロー、絶対必要になるやつだ」
「そして最後に澪が“それ、僕のやつのほうがよくない?”って冷静に言って、雪が“ふふっ”って笑うんだよ!」
「未来まで全部脚本かよ」
突っ込みながらも、全員がなんとなく笑っていた。
誰かのために選ぶ物が、その瞬間だけでも“自分以外を思ってる”って感覚をくれる。そういうものなんだと、夏彦はようやくわかった気がした。
そのあとの買い物は、それぞれが無言で動いていた。でも、空気はにぎやかだった。
───
夕方、京都駅の喧騒から少し離れた、鴨川沿いの遊歩道に、七人の影が並んでいた。日が落ちかけた空は、淡い橙から群青へとゆっくりグラデーションを描いている。
「ふぅ〜。やっと一息って感じだな……」
彰良がベンチに大きく腰を下ろすと、横から菜月が「途中まで歩きすぎたんだよ」と半分笑いながら指摘する。
「いや、むしろ適度な運動! 全然問題なし!」
「お前が地図見てなかったからだろ」と澪が突っ込む。
「え、あれって方向感覚を鍛える修行じゃなかったの?」
「ちがうよ」
日向が笑いながら言い、その隣では雪が、空の色を眺めていた。
七人の旅路は、午前中の迷走と昼の買い物ラッシュを経て、いまようやくひと区切りの落ち着きを得ている。誰もがどこかほっとした表情で、コンビニで買ったアイスや飲み物を手に、今日一日を振り返っていた。
「……でさ、結局、今日いちばんよかった瞬間って、どこだった?」
唐突に彰良が問いかける。
「写真とかに残ってなくてもいい。心に残ったやつ」
その一言で、なんとなく輪の中に沈黙が落ちる。けれど、それは居心地の悪いものではなくて、むしろ心地よい“間”だった。
「豆大福の店、偶然見つけたとこ。あれ、神だった」
最初に口を開いたのは澪だった。
「俺も〜。あれは……跳ねた」
「跳ねた?」
「豆大福が、弾んだの。俺の舌で」
「知らない感覚の表現やめて」
日向が笑いながら言い、雪も「でも、おいしかったね」と頷く。
「私は……地図を見ながら、全員が“どうする?”って顔してたときかな。あれ、ちょっと面白かった」
雪の言葉に、水木が「あー、わかる。あの時間って、わちゃわちゃしてたけど“班”って感じがした」と続けた。
「俺は……」
夏彦が少し考えてから、にやっと笑う。
「水木と雪が、無言でアイス交換してたとこ」
「え、気づいてたの?」
「勝手に見てた。盗撮はしてないから安心して」
「言い方!」
一通り笑いが起きて、また少しの静けさが訪れる。
そのときだった。想汰が、膝の上でいじっていたデジカメの画面を、ぽん、と澪の膝にそっと置いた。
「……?」
澪が覗き込むと、そこには一枚の写真。
誰かがポーズをとっているわけでもなく、ピースもしていない。ただ、六人がそれぞれ違う方向を見ながら、歩道を歩いている瞬間。花森はカバンを直していて、夏彦はイヤホンを片耳に外し、澪と雪は小さく笑っていて、彰良は何かを指差している。日向は歩幅を合わせるように横を見ていて、想汰自身は写っていない。
「……これ、いつ撮ったの?」
「さっき。……あの、曲がり角の前」
夏彦がふと声を落とした。
「写真って、いいいな」
「うん。でも」
澪がぽつりと呟く。
「記録より、“覚えてたい”って言葉のほうが、強い気がする」
誰もすぐには返さなかった。でも、全員がその言葉をどこかで噛みしめたように、少しだけ顔を上げた。
日が完全に沈む前、最後の光が川面を滑っていく。空気は冷え始めているのに、誰も寒いとは言わなかった。
「さ、戻ろっか。夕飯遅れると、また先生に怒られるし」
澪の言葉で全員が立ち上がる。
帰り道、想汰はまた静かにカメラを構えていた。けれど今度は、シャッターを切らなかった。代わりに、風が吹いた瞬間の音だけを、耳の奥に焼きつけていた。