教室の窓ガラスが、うっすらと曇っている。
12月に入った途端、冷たい風が校舎の隙間を縫ってくるようになった。
「……寒い、って言うと負けな気がするんだけどさ。寒いわ」
そう言いながら、椿原澪は教室の隅で首をすくめた。放課後の自習、という名の集まりにしては、やってくるメンツが騒がしい。
「やー、ついにきたな、冬将軍!」
バン、と自分の机にノートを広げながら朝倉彰良が宣言する。
「将軍っていうか、普通に寒波でしょ……」
澪が冷たく返すと、今度は横からふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。
「……ん、いい匂いがする」
「ココア。作ってきた。今日のはガーナ産」
文蔵想汰が自分の水筒からカップに注いだ液体を差し出す。湯気の向こうで、彼は無表情なままスプーンでかき混ぜていた。
「なにそれ、大好きじゃん」
「うまいよ」
「なんか説得力あるのが腹立つ……」
「ていうかお前ら、勉強する気ある?」
日暮夏彦がイヤホンを外し、ノートを片手でぱたんと閉じる。
「この期末で赤点とったら、冬休み補習だぞ?」
「補習って……冬に校舎とか絶対つらいじゃん」
「じゃあやれよ」
「……がんばる」
やる気があるのかないのか、言葉と行動がちぐはぐなまま時間だけが過ぎていく。
「つかさあ、みんなマフラーしてきてるけど、俺、今日つけてないのなんでだろう」
彰良がふと気づいたようにつぶやく。
「え? ほら、そこにあるじゃん」
澪が指差す先には、青と黒のチェックのマフラーがぐるぐるに巻かれて置かれている。
「……それ、俺の?」
「しらんよ」
「いや、なんかちょっと匂い違くない?」
「お前は犬か」
「想汰、今メモしただろ。やめろ、やめろって」
その横で、想汰は黙ってメモ帳に何かを書きつけていた。
“冬の男子高校生:嗅覚に頼る本能。寒さによる知性の低下。”
「いや、今の完全にバカにしただろ!? それ、なんかのレポートに使うなよ!」
「それよりお前ら、さっさと暗記進めろ」
夏彦が赤ペンを回しながら、テキストのページをめくる。
「……でもほら、語呂合わせで覚えようぜ、語呂で。古典単語とかさ、“いとをかし=マジでやばい”みたいなさ」
「それ、中学生のノリだろ……」
「じゃあ、“いとわろし”は?」
「マジでダサい」
「お前は毎回うまいのかうまくないのかわかんねえ語呂作るよな」
「ふん、俺の辞書には敗北という文字はない」
「そもそも、お前の辞書って今どこにあるの」
「……失くした」
「負けとるやないかい」
談笑とツッコミの渦の中、ページの進行は一向に進まない。でも、不思議とその空間に焦燥はなかった。
湯気がのぼるココア。机の上に散らばるプリント。
ゆるく流れる時間の中で、澪はふと外を見た。
窓の向こう、空は夕方の色になりかけていた。
「……なんかさ」
「ん?」
「今日が、ちょっとだけ冬っぽいなって。空気も、音も」
そうつぶやくと、夏彦がイヤホン越しに頷いた。
「それ、録ってみれば?」
「録るって、どうやって」
「目を閉じて、覚えとけばいいんだよ」
誰かのペンの音。水筒から注がれるココア。誰かが笑う声。
「……あー、そういうの、いいかもな」
そしてまた、ページがめくられる。進まないけれど、楽しくて仕方ない冬のはじまり。
───
翌日の昼休み、教室の窓際。ストーブのそばでマフラーを脱いだ椿原澪は、ふと違和感を覚えた。
「……ん?」
首元にあったはずの、自分のマフラー。いつものグレーのやつ。ふわっと香るその匂いが、妙に甘い。
「これ、僕のじゃないかも」
「は?」
背後から声がした。朝倉彰良だ。パンを口にくわえながら、マフラーの片端を持ち上げる。
「これお前のじゃねーの? 似てるし」
「いや、色は似てるけど、なんか違う……気がする」
「おまえ、嗅覚そんな鋭かったっけ」
「いや、わかんない。ていうかこれ、柔軟剤の香り、違くない?」
「知らんがな!」
彰良がツッコむ。その横で、日暮夏彦がイヤホンを外して言う。
「人のマフラー借りてんじゃないの?」
「借りてない。今日、朝自分のロッカーに入れてあったし……」
澪が頭を抱える。
そのとき。
「写真、いる?」
無表情のまま現れたのは、文蔵想汰。手にはスマホがあり、すでに“マフラー混乱中”の澪をパシャっと1枚。
「やめろ!」
「記録、大事」
「……てか、これ誰の?」
マフラーを机に広げると、微妙に澪のより長い。そしてタグに見覚えのないロゴ。
「僕のは……あ、あったわ」
教室の後ろの椅子の背に、澪の本物がひっそりとかかっていた。
「やっぱり! じゃあこれ誰のだよ」
彰良がマフラーを手に取って、軽く鼻を近づける。
「……なんかいい匂いするな、これ」
「やめろ、変態」
「ちがうわ、興味本位だよ! なんかお菓子っぽいっていうか」
「俺のか?」
夏彦が言った。机の横にかかっていたマフラーと比較する。「……いや、俺のこっちだわ」
「想汰のは?」
「黒。短いやつ」
「それなら違うな……」
場が静まる。誰のか、結局わからない。
「これ、女子のじゃないよな……?」
「ちょ、それまずいって!」
「いや、そしたらお前、女子のマフラー首に巻いてたってことだぞ。どんなラブコメだよ」
「……やめろ、死にたくなる」
「じゃあ、持ち主探す? 教卓の上に“忘れ物です”って置いといて」
「それもなんか怖いな……」
そのとき、教室の後ろから声がした。
「あ、それ私のかもー」
女子の一人がひょいと近づき、澪の机の上のマフラーを手に取る。
「朝来た時にロッカー間違えて入れたかも……ありがとー」
「………………」
沈黙が流れる。
「よかったな、澪。ラブコメじゃなかった」
「心底ほっとした」
「でもまあ、結果的には女子のマフラー巻いてたんだよな」
「その言い方やめろって!!」
「記録、消す?」
「絶対消して、想汰。お願い、後生だから」
澪が頭を抱える中、想汰は黙ってスマホをタップした……ように見えたが、真相はわからない。