放課後に、僕らは   作:やまざる

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少しの慣れと変わらない緊張、約束

 

 冬の空は高く、澄んでいた。

 駅前の小さな広場には、すでにクリスマスに向けた飾り付けが施されていて、足早に行き交う人々の肩越しに、イルミネーションの準備をしている係員の姿が見える。時計台の下、ベンチの端に立つ椿原澪は、薄いグレーのコートのポケットに両手を突っ込んだまま、じっと足元を見つめていた。

 

 靴の先が、白く吐いた息で曇る。

 まだ待ち合わせの時間には少し早い。けれど、家を出るときから、なんとなく気持ちが落ち着かなくて、時間を持て余すのを承知で早めに出てきてしまった。静かな駅前の空気を切り裂くように、電車がガタンと音を立てて入線してくる。見上げた先の空は、少しだけ曇っていて、それでもどこか凛としていた。

 

 もうすぐ来る。

 

 そう思ったとき、ふいに背中を押されたような気がして、澪は振り向いた。

 

 「……待たせちゃった?」

 

 微かに首をかしげながら、小柳雪が立っていた。黒髪のボブがふわりと風に揺れ、淡いクリーム色のマフラーが制服の上で小さく結ばれている。その姿に澪は自然と視線を奪われる。すぐに言葉を返せず、ほんの少し遅れて、小さく首を横に振った。

 

 「……ううん、俺も、さっき来たとこ」

 

 雪はふっと笑って、「そっか」とだけ言う。その笑顔に、不思議とほっとする。会話は短く、途切れがち。でも、寒さのせいか、それとも気恥ずかしさのせいか、澪の指先にはほんの少し力がこもっていた。

 

 「寒いね」

 

 雪がぽつりと呟く。白い息がふわりと宙に舞う。その声に、澪も「うん」とだけ応える。

 

 言葉はそれだけだった。それでも、ふたりの間には、どこかあたたかな空気が流れている。お互いを急かすことなく、並んで歩き出す。足元のアスファルトには、昨夜の霜がところどころ残っていて、歩くたびに靴の下で細かな音を立てた。

 

 駅前通りの並木には、小さなライトが巻きつけられていて、昼間でもわずかに光っているのがわかる。澪は視線を横にやり、隣を歩く雪の頬が、冷たい空気でほんのり赤くなっているのに気づいた。

 

 「……手、冷たくない?」

 

 思わずそう聞いてから、自分でも少し驚く。普段はあまり、自分から話しかける方ではないのに。

 雪は驚いたように澪を見て、それから、ふふっと小さく笑った。

 

 「うん、冷たいけど、平気。手袋あるし」

 

 そう言って、指先をもぞもぞと手袋の中で動かしてみせる。その仕草に、澪も微かに口元を緩める。自分の手は、コートのポケットの中。ふたりとも、手はつないでいない。けれど、その距離が遠いとは思わなかった。

 

 駅前の雑踏を抜け、アーケード街に入ると、少しだけ風が和らぐ。商店街のBGMが流れ、ウィンドウの中には冬物のマフラーやニット帽、クリスマス限定のラッピング商品が並んでいる。時折、雪が「あ、かわいい」と声を上げるたび、澪は立ち止まり、そちらに視線を向ける。

 

 それは、どれも何気ない瞬間だった。けれど、澪の心のどこかに、少しずつ色が染み込んでいく。

 

 何かを言わなきゃ、と思う。でも、言葉にしなくても、伝わっている気がする。そんな感覚が、澪の中でゆっくりと形になっていく。

 

 ふたりの影が、低い陽の光のなかで、長く伸びていた。

 

───

 

 澪と雪が足を踏み入れたのは、駅前にある少し古びたデパートだった。

 近代的なショッピングモールとは違って、どこか昭和の匂いが残る静かな空間。空調の効いた館内に入ると、それまで頬に刺さっていた冬の空気がふっと和らぎ、ふたり同時に吐いた白い息が、そこで途切れる。

 

 入口すぐのスペースでは、クリスマス特設コーナーが設けられていた。リボンや包装紙がきらきらと並び、ガラスケースの中では小さなサンタの人形が、絶え間なく首を揺らしている。

 

 「……あ、こっち、手袋たくさんあるよ」

 

 雪が、小さく呼びかける。澪は頷いて、自然とその隣に立った。

 売り場の棚には、ニット地のものや、内側にボアがついた防寒重視のもの、シンプルな革製まで、さまざまな手袋が整然と並んでいる。そのなかの一つ。淡いグレーと白のボーダー柄を手に取った雪が、「これ、あったかそう」と小さく笑った。

 

 その声に、澪の胸の奥が、すこしだけ温かくなる。

 

 「……うん」

 

 それだけ返して、雪が手にした手袋を見つめる。あったかそう、というより、彼女の手にそれが自然に馴染んで見えたのだ。雪はそれを棚に戻し、次の棚へと視線を移していく。澪はそのあとを、少し距離を置いてついていった。

 

 ふたりの間には会話が少なかった。

 

 けれど、静けさのなかに居心地の悪さはなかった。たとえばエスカレーターに乗るとき、自然と立ち位置が決まり、流れる景色をただ一緒に見ている時間が、妙に心地よい。何か話さなきゃ、と思うことはなく、話さなくても、隣にいることが自然に感じられる。

 

 デパートの三階。日用品と雑貨のフロアにあるカフェスペースを見つけて、ふたりは視線を交わすこともなく、そのまま足を向けた。

 

 テーブルの上には、冬限定のメニューが載った立て看板が置かれている。澪はショコラミルク、雪はほんのりジンジャーの効いた紅茶を選んだ。

 

 窓際の席に腰を下ろすと、大きなガラス越しに、街が見渡せた。

 

 外はどんよりした曇り空。だけど、空気は澄んでいて、遠くのビル群までくっきりと見える。街ゆく人々の流れはまばらで、道沿いに並んだ街路樹だけが、静かに冬を纏っている。

 

 「……こういう場所、来るの久しぶりかも」

 

 雪が、湯気の向こうに微笑みながら呟いた。

 

 「澪くんと、こういうところに来るのも……なんだか不思議」

 

 澪は、カップを持ったまま、少しだけ首を傾げた。

 

 「……なんで?」

 

 「んー……だって、教室にいるときの澪くんって、もっと、なんていうか……」

 

 雪は言葉を探すように視線を泳がせてから、「静かだから」と控えめに言った。

 澪はそれに特に反応を示さず、代わりに一口だけ、ミルクショコラを飲んだ。甘さと温かさが、喉の奥をゆっくり通り抜けていく。

 

 「……でもね、静かなのって、けっこう落ち着くよ」

 

 雪が続けた。

 

 「うるさくなくて、優しい感じがする。ちゃんと聞いてくれてる感じ」

 

 「……そう、かな」

 

 「うん。わたし、そういうの、好き」

 

 澪はふと、雪の瞳と目が合った。長くは続かなかったけれど、それだけで何かが伝わったような気がして、胸の奥がほんの少しだけ高鳴った。

 

 「……僕は、」

 

 声を出しかけて、止める。けれど、雪は何も言わずに待ってくれていた。何も責めないで、ただそこにいる。

 

 「……俺も、こういうの、悪くないなって思う」

 「うん」

 

 雪の返事は短く、それでいて柔らかかった。

 

 ふたりのあいだには、言葉よりも多くを語る沈黙があった。窓の外では、冬の雲がわずかに流れていく。湯気は、ふたりのカップから静かに立ちのぼり、ゆっくりと混ざっていった。

 

───

 

 カフェの窓際、ふたりは黙ってカップを手にしていた。

 外にはまだ降っていない雪雲が重たく垂れ込めている。冬の午後の光は鈍く、けれどそれゆえに、店内の明かりが柔らかく感じられた。通りを行き交う人々が、まるで別の世界の住人のように見える。ガラス越しの景色が、ふたりを静かに包み込んでいた。

 

 雪は、そっと自分の手のひらを見つめていた。指先の赤みは、冷たい外気にさらされていた証拠。両手を包むようにしてカップを持ち直し、湯気に頬を寄せる。

 

 澪のほうをちら、と見る。彼はまだカップの中のショコラミルクを見つめていたが、気づいたように目を上げた。視線が合い、どちらからともなく、わずかな笑みがこぼれた。

 

 それだけのやりとりでも、心が近づいた気がした。

 

 「……ねえ、澪くん」

 

 雪が小さく切り出す。ガラス窓の曇りを指先でなぞるようにして、ふと言葉が落ちた。

 

 「なんだか、まだちょっと緊張してるかも」

 

 その言葉に、澪は小さくまばたいた。

 

 「緊張?」

 

 「うん。こうしてふたりでいても……なんていうか、あんまり喋れてないなって」

 

 雪の声はいつもより控えめだった。だが、それは遠ざかる気配ではなく、澪の側にいることへの“照れ”に近かった。静かさが苦しいわけじゃない。ただ、自分の気持ちをどう伝えればいいか、まだ迷っているだけ。

 

 澪は少し考えてから、言った。

 

 「……別に、無理して話さなくていいよ」

 

 それは、いつもの彼らしい、そっけなくも聞こえる言葉だったかもしれない。

 けれど、雪にはわかった。

 

 その言葉の奥には、「君の沈黙も、ちゃんと受け止めるから」というやさしさがあった。だから雪は、その言葉に応えるように、そっと笑った。

 

 「……ありがとう」

 

 湯気の向こうで、ふたりは目を合わせたまま、時間が止まったような静けさを共有する。

 澪はその笑顔を見て、何かが胸の中でゆっくりと溶けていくような感覚に包まれていた。最初は「緊張しているのは彼女だ」と思っていた。でも──それはきっと、彼も同じだったのだ。

 

 どう振る舞えばいいか、どう声をかければいいか。正解があるわけではない関係の中で、それでもただ「一緒にいる」ということを大切にしたくて、言葉を選んで、距離を測っていた。

 

 澪が、窓の外に目をやる。

「……降りそう、だね」 「……うん」

「でも、雪が降るのって、ちょっと楽しみなんだ」

「どうして?」

「白くて、儚くて、すぐに消えてしまいそう。それでも、とても綺麗だから」

 

 そのひとことに、雪は目を見開いた。

 澪は、頬を赤らめながら笑った。冗談ではなく、本気でもなく、その中間のような微笑みだった。

 

 「ね、変なこと言ったかな」

 「……んーん」

 

 澪は少し視線をそらし、カップの中に残ったショコラミルクを見つめた。まるで、あの言葉が胸のどこかにふわりと積もったかのようだった。

 

 外の街並みに、少しずつ夕方の色が混じり始めていた。ガラス越しの空に、一筋、白い光が走る。

 

 雪が降り出すのは、もうすぐかもしれない──

 

───

 

 デパートを出ると、すでに空は夕方の色を帯びていた。

 

 街灯がともりはじめた歩道を、ふたりは肩を並べて歩いていた。ビルの谷間から吹く風は冷たく、マフラーの隙間から首元を刺す。外に出たとたん、雪は両手をこすり合わせて「さむっ……」と小さく呟いた。

 

 澪は自分のポケットに手を入れたまま、何も言わず歩いていた。会話がないことを気にしている様子もなく、その横顔はどこか落ち着いて見えた。

 

 でも、雪にはわかっていた。

 

 沈黙を怖がらずにいてくれる澪の隣は、静かで、でもとてもあたたかかった。

 

 ふと、澪が前を歩いていた小さな子どもが吐く白い息を目で追っていた。手をつないだ親子の姿。その視線の先を見て、雪もまた自分の右手に目を落とした。

 

 少し、冷たいかも。

 

 雪は左手でそっと右の手袋を直すふりをして、ちらと澪の手元を見る。澪のポケットに収まったままの手。その指先も、たぶん、冷たい。

 

 勇気を出してみた。

 

 「……澪くん」

 

 小さな声に、澪は顔を向けた。

 

 雪は何も言わずに、左手で彼の右手に触れた。手袋越しに、そっと。そのまま、ためらいがちに自分の手を重ねていく。

 

 思ったよりも、あたたかかった。

 

 「……ちゃんと、あったかいね」

 

 雪が笑った。手袋の向こう側の澪の手のぬくもりに、心のどこかがほどけるようだった。

 

 澪は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに目を伏せて、少しだけ頬を赤くした。

 

 「……そっちこそ、冷たいでしょ」

 

 そう言いながらも、澪の手は動かなかった。握り返すことも、引くこともせず、ただ静かにそこにある。

 

 雪の指先が、ふと少しだけ力を込めると、澪もまた、ほんのわずかに握り返した。

 

 街の喧騒は遠く、車の走る音と、イルミネーションの点滅が、冬の静けさのなかでリズムを刻んでいる。二人の間には言葉がなかった。でもそれが、不思議と心地よかった。

 

 誰かと手をつなぐということは、こんなにも静かで、あたたかいのだと。

 

 雪は、澪の手に触れて、あらためてそう思った。

 

 「……前にね、言おうと思ったことがあるんだけど」

 

 ぽつりと、雪が言った。

 

 「冬の空って、澪くんの名前に似てるなって思ったことがあって」

 

 「……空?」

 

 「うん。なんか、澄んでて、静かで、でもちゃんと深くて……。だから、今日こうして一緒に歩いてて、ああやっぱり似てるなって思ったの」

 

 その言葉に、澪はまっすぐな目で雪を見た。どこか気恥ずかしそうにしている彼女の横顔は、街灯に照らされてやさしい光を帯びていた。

 

 「……それ、褒められてるのかな」

 

 「もちろん。澪くんの名前、すごく好きだよ」

 

 雪の声には、飾り気のないまっすぐさが宿っていた。

 澪はそれにどう返すべきかわからず、ただうつむき、歩を一歩進めた。つないだ手はそのまま、冬の街をゆっくりと進んでいく。

 

 ふたりの足音が、舗道に小さく響いていた。

 遠くで風が、鈴の音を運んでくる。

 まだ雪は降っていないけれど、澪の中には、すでに静かに“雪”が降っていた。

 

───

 

 駅前の広場まで戻ってきたときには、空はすっかり暮れていた。駅ビルのイルミネーションが、白と金の光を静かにまたたかせている。 

 吐く息は白く、ふたりは自然と足を止めた。帰り道は、ここで分かれる。

 

 「……ありがと、今日」

 

 雪が言った。手はもう離れていて、澪はまたポケットに指を収めていたが、その距離にぎこちなさはなかった。

 

 「こちらこそ」

 

 そう答える澪の声は、静かで、どこかあたたかかった。

 すこしの沈黙が落ちる。けれど、その静けさは不安ではなく、やさしさに満ちていた。

 

 雪が、何かを言いかけて、少しだけ口を開いた。けれどすぐには言葉が出てこない。顔を上げると、駅ビルのガラスに、白いライトが反射している。その光の向こうに澪がいて、雪はひとつ息を吸い込んだ。

 

 「……あのね、澪くん」

 

 「うん」

 

 「もし、クリスマス……空いてたら、また、どこか行けたらなって。無理しなくていいけど」

 

 雪の声は控えめで、どこか落ち着かない響きを含んでいた。けれど、その目はまっすぐで、ほんのりと期待の色を灯していた。

 

 澪はわずかに驚いたように瞬きをして、数秒の間を置いてから、ゆっくりと頷いた。

 

 「……じゃあ、予定空けとくよ」

 

 短いけれど、しっかりとしたその返事に、雪の表情がぱっと柔らいだ。

 

 「……よかった」

 

 ふわりと浮かんだ笑顔は、冬の冷たい空気の中に、ぬくもりをにじませた。澪もその様子を見て、わずかに口元を緩めた。

 

 「じゃあ、またね」

 

 「うん。気をつけて」

 

 雪は軽く手を振って、駅のほうへと歩き出す。その背中を、澪はしばらく見送っていた。肩越しに振り返って笑う彼女の姿に、心が静かにあたたまっていく。

 

 やがてその姿が人ごみに紛れると、澪はふうっと息を吐き、白く舞い上がる蒸気のようなそれを見つめる。

 空を見上げると、雲は薄く、けれどまだ雪は降りそうにない。

 

 ポケットの中の指先には、さっきの感触がかすかに残っていた。手袋越しのぬくもり。言葉よりも、ずっと確かな気持ち。

 澪は小さく呟く。

 

 「……また、会える」

 

 その言葉に応えるように、冷たい風が吹き抜けた。

 時計台の針は、午後五時を指している。静かに光る街のなか、澪は一歩ずつ歩き出した。背筋を伸ばしながら、けれど、どこか足取りは軽くなっていた。

 

 もうすぐ冬休みがやってくる。クリスマスも、年末も、そして年が明ければまた新しい時間が始まる。

 けれど、今はまだ──この日、この夕暮れが、心の中にあたたかく灯っていた。

 

 そしてきっと、その記憶は、冬の街に降る“白い雪”のように

 静かに、やさしく、ふたりの間に積もっていく。

 

 

 

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