冬の朝は、空気がぴんと張りつめている。
目覚ましが鳴る少し前に目を開けた朝倉彰良は、天井をぼんやり見つめたまま、ふう、とひとつ息を吐いた。
カーテンの隙間から差し込む光は淡く、部屋の温度は低い。布団から出るのをためらう理由としては、それで十分だったけれど、
「……寒い、けど。今日も、あるしな」
そう口にして、毛布を蹴った。
まだ眠気の残る足取りで洗面所に向かい、蛇口をひねる。冷たい水に顔を浸した瞬間、現実がじわりと戻ってきた。
鏡のなかに映る、自分。
右側の前髪が、寝癖でぴょこんと跳ねていた。
「……あー、もう、これ。直すのもめんどくせぇけど……」
整えるか、帽子をかぶるか、寝癖をスタイリング扱いするか。そんな小さな選択肢が、朝から頭の中に浮かんでは消える。
この程度で《オプションズ》が作動するほどではない。でも、自分の中で確かに「選んでいる」感覚だけはあった。
結局、濡らして撫でつける。ワックスは使わない。
夏彦あたりに「気合い入れてんの?」とか、からかい交じりに言われる気がして。それが嫌だったから。
リビングに戻り、ソファの端に腰を下ろす。
テーブルには、開きかけのノートとスケッチブックが並んでいた。
昨夜、描きかけていたラフ──選ばなかった未来の断片たち。進路相談のあとの余白に、ふざけたようで、どこか本気の落書きが並んでいる。
「……ま、いっか。続きは放課後」
ぼそりと呟いて立ち上がると、コートを羽織って玄関に向かう。
いつも迷うのが、ピアスをつけるかどうか。
学校ではグレーゾーンだ。その辺は先生による。
それにバレたら外せばいい。目立つのは好きだが、悪目立ちは好きじゃない。
それでも今日は、そっと耳たぶに小さなピアスを引っかけた。
「……ちょっとくらい、遊んでいいだろ」
自分に言い訳するように。
玄関を開けると、冷たい風が頬をかすめた。
吐く息が白い。駅までの道を歩きながら、電線に止まる鳥の影や、自転車の車輪音をぼんやりと聞いていた。
電車のホーム。スマホをいじるフリをして、画面に映る自分の顔をぼんやり眺める。
そこにあるのは、少しイケてる、どこにでもいる高校生の顔。でも、自分の中ではいつも「選んでいる」自覚があった。
「……今日も“なんかやるしかない”よな」
電車が滑り込む音に、思考がかき消される。
誰にも強制されていない。
でも、何かを選んでいくことは、確かに自分の足で歩いている証だ。
彰良はポケットに手を入れて、車内へと足を踏み入れた。
今日という“ありふれた一日”に、少しだけ肩の力を抜いて。
───
昼の教室は、こたつのような空気感だった。
外は寒いのに、日差しは優しくて、窓際の席はぬくもりに包まれている。四限組の面々は、いつものように自然と集まり、机をくっつけていた。
「なあ、これ見てくれ。おれのポケットティッシュ、三段重ねになってたんだけど。どこで混ざったんだ……」
日暮が、ぽそりと手のひらに広げた白い紙のかたまりを差し出す。彰良はさっそく食いついた。
「それ、もう合体事故だろ! 新種のティッシュかよ!」
「じゃあ名付けてやって」
「うーん……“ハイパー三層防衛団”?
「…いや、ちょっとだせぇな」
「名付けてって言ったのお前じゃん」
そんな他愛のない会話に、椿原が小さく笑って「くだらないね」と漏らす。
でも、その表情はいつものように柔らかく、どこか落ち着いていた。
文蔵はといえば、黙々とプリントの端に何かを書いている。
ちらりと覗くと、「昼休みの言動記録」とか書いてあった。日付も、細かいメモも、律儀につけてある。彰良は苦笑する。
「お前、それいつか暴露本出すつもりだろ。タイトルは『日々、くだらない。』」
「……悪くないかもな」
真顔で返され、思わず笑う。
こんなふうに、何でもない時間が積み重なっていく。
でも、たまに、ほんの一瞬だけ。
「……」
笑いのあと、ふと沈黙が生まれるときがある。
何かを言いかけてやめた文蔵の表情に、ほんのわずかな“引っかかり”が見えた。
その小さな沈黙を、彰良は拾う。
「……はいっ、じゃあここで日暮くん、三段重ねティッシュのCM、3秒でいってみよう!」
「無理だよ」
「3、2──」
「ハイパー三層防衛団! 乾燥に、勝つ!」
「優勝!」
笑い声がまた弾ける。
その瞬間、想汰の表情が、ほんのすこしだけ和らいだのを、彰良は見逃さない。
気づかないふりをして、気づく。
誰かの心が傾いたとき、ほんの少し重力を変えるように、空気を動かす。
そんなことが、できるようになったのは、きっとこのメンバーのおかげだ。
昼食が終わり、各自ばらけていくなか、彰良は廊下へ出た。
冬の光が差す窓のそばで、制服のポケットに手を入れ、ふと空を見上げる。
「……午後、晴れるかな」
誰に言うでもない独り言。
でもそれは、どこかの誰かに届いてもいいと思えるような、そんな穏やかな響きだった。
───
放課後、美術室の扉はいつもと同じように、半分だけ開いていた。
廊下を歩きながら何気なく覗き込んだその先に、やっぱりあの人はいた。
真田先生は、絵の具で汚れたエプロン姿のまま、棚の整理をしている。
「失礼しまーす。……先生、今日ヒマ?」
「……どうした」
特に驚いた様子もなく、真田は棚の中からカッターの刃を取り出す手を止めずに答える。
彰良はいつもの調子で入ってくると、カバンからスケッチブックを取り出して差し出した。
「この前描いたやつ。見てほしくなってさ」
先生は黙って受け取ると、ページをぱらりとめくった。
描かれていたのは、校舎の階段の踊り場。誰もいない空間に、冬の光だけが差し込んでいた。
「構図は……悪くないな」
「お、めずらしく褒めた」
「ただし、影の付け方が雑だ」
「やっぱりダメ出しは入るのか……。でも、正直そこ、迷ってたとこでさ」
真田は眼鏡越しに彰良の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「……迷うくらいには、ちゃんと見ているってことだろう。いいことだ」
その言葉は、まるで乾いた木の枝に湯気が染み込むみたいに、ゆっくり胸に沁みる。
彰良はスケッチブックを受け取って、軽く会釈した。
「ありがとう。じゃ、また」
短い会話。それでもそれは、今日の中でいちばん“確かなもの”だった気がした。
階段を下りる途中、踊り場の窓際で、ふと足が止まる。
スケッチしたばかりの場所。
校舎の裏庭に向けて開いたガラス窓の向こう、冬の光はもう傾いていて、空には夕焼けの色が滲み始めていた。
「……もし、あのとき……」
言葉にならない思いが、心の底からひょっこり顔を出す。
たとえば──
“もっと早く、本気になってたら”
“別の進路を選んでいたら”
“異能力なんて、持ってなかったら”……
そんな“選ばなかった未来”たちが、ガラスの向こうでじっとこっちを見ているようだった。
でも、そこに手を伸ばすことはできない。
たとえ描き直せたとしても、それはもう“今”じゃない。
彰良は深く息を吐いた。ポケットに手を突っ込み、歩き出す。
廊下には、誰かの足音と、遠くで誰かが笑っている声。
“戻れない”ということと、“選びなおせる”ということは、たぶん両立する。
階段の先にある出口へ向かいながら、彼は小さく笑った。
「ま、こっちも悪くないし」
夕暮れの光が、背中をやさしく追いかけていた。
───
自分の部屋に帰り着いたのは、午後七時を少し回った頃だった。
コートを脱ぎ、軽く伸びをしながらリビングに入る。空気を換気しようと窓を開けると、夜の冷たさが一気に入り込んできて、思わず肩をすくめた。
「……さっむ」
独り言にしては妙に元気がある。
暖房をつけてから、足元にあったマットに寝転んで、腕を上に伸ばす。簡単なストレッチをひと通り済ませると、録画しておいたバラエティ番組をテレビで流し見し始める。
ソファの上、毛布にくるまりながら無造作にスマホをいじっていると、メッセージの通知がひとつ届いた。
想汰:明日、図書室に寄るかも。
「……おう、って送っても、これは既読つかないやつだな」
苦笑しながらも、返信はすぐに打った。
彰良:了解。寒かったらあったかい飲み物持ってくわ。
送ったあと、自分で読んでちょっとだけ笑う。
誰かのことを考えて行動するって、案外悪くない。
ふと、机に置きっぱなしだったノートに目がいった。
先週あたりから、そこには「今日のどうでもいい選択集」と称して、日々の“選んだこと”が箇条書きで綴られている。
・朝、ピアスは左だけつけた
・昼、澪に先にパン譲った
・帰り、図書室に寄るのはやめた
・スケッチブック、見せに行った(予定外)
ペンを取り、空いたスペースに今日の項目を書き足していく。
筆が止まったあと、ふと呟く。
「俺、たぶん、選んでばっかだな……」
ため息ではなく、確認するような声だった。
選びたくない朝もある。
笑ってるけど、本音は置き去りにした昼もある。
未来に迷った夕方もある。
でも、それでも。
自分で選んで、進んでる。
誰かに手を貸すのも、自分に少し甘くするのも。
「まあ、いいか」と思える夜も、選んで、たどり着いたものだ。
ノートを閉じると、灯りを少しだけ落として、部屋にやわらかな影が滲んだ。
テレビの音も切って、静けさに包まれる。けれど、それが寂しいとは思わなかった。
眠る前、もう一度スマホを見ると、想汰から短く返信が来ていた。
想汰:あした、晴れるといいな
それを見た彰良は、声を出さずに笑った。
「晴れるといいな───俺の中も、な」
部屋の明かりを落とし、毛布にくるまって目を閉じる。
明日が来る。
また何かを選んで、笑って、ちょっと後悔して
それでもまた、進んでいく。
「……おやすみ、未来の俺」
そんな一言が、夜の静けさに溶けていった。