終業式まで、あと三日。
冬休みの匂いが、ほんの少しだけ廊下の空気に混ざっている。
四限目が終わり、今日の授業がすべて終わった放課後。
帰るでもなく部活に行くでもなく、教室の片隅に集まっている四人がいた。
いつものように、自然に。言葉も約束もないのに、机を寄せていた。
「……なあ、これもう一回言っていい? “最弱ジャンケン選手権”って名前、最高じゃない?」
「さっきからずっと言ってる。四回目だよ、彰良」
「そんな冷静に数えんなよ澪~」
教室の前方、黒板のすぐ前の席。机を二つ並べて、彰良と澪、夏彦が陣取っている。
椿原澪は相変わらずの表情で手を組み、夏彦は頬杖をつきながら片耳のイヤホンを外している。
そして発案者である朝倉彰良は、誰よりもテンションが高い。
ネクタイを緩め、上着を椅子に引っかけたまま、机の上に身を乗り出していた。
「最弱ジャンケン選手権。勝ったら負け。弱いやつが最強ってことでどう?」
「じゃんけんって、普通に勝つか負けるかじゃん」
「違う違う。“最弱”を極めるんだよ。たとえば俺がパー出したら、絶対にグーを出すやつが優勝」
「それ普通に弱い人じゃない?」
「違うの! 弱さに美学を持って挑むのが大事なの!」
澪が苦笑する。夏彦は黙っていたが、机の上にあった消しゴムに小さく“パー”と書いていた。
そのまま消しゴムを傾けて“グー”にし、また“チョキ”にして、なにやら練習している。
「ほら、夏彦もやる気出してんじゃん」
「まあ、弱さには憧れるよね。結果から自由っていうか」
「深っ。急に名言出してくんのやめて」
「彰良のテンションに合わせると、逆に浮くからさ」
やりとりは軽く、けれど心地よい。
その少し離れた位置、窓際の一列奥。
文蔵想汰は、自分の机でノートを閉じていた。
鉛筆をそっと置き、目を細める。窓の外には、夕方の淡い光。
空は白くにじみ、いつ雪が降ってもおかしくないような寒々しさだった。
「……ふー」
ノートには何も書いていなかった。
いや、正確には、一行だけ走り書きがある。
《夕方の教室。笑い声。寒さと、静かさと、何も起きない時間》
たったそれだけ。
「想汰~! 最弱王、参戦しようぜ!」
遠くから彰良の声が飛んできた。
文蔵はそちらを見て、ひと呼吸置いて立ち上がる。
「……一回だけな」
「お、きた! 最弱王候補、文蔵!」
「違うけど。あとその呼び名、どうかと思う」
四人目が加わり、教室にまた一つ笑いが増えた。
ジャンケンが始まる。
グー、チョキ、パー。わざと負けようとするから、全員の思考が捻じれていく。
普通のじゃんけんよりずっと混乱して、ずっと面白い。
「えっ、今チョキってことは……誰が最弱?」
「俺がグー、夏彦がパー、澪がグー、文蔵がグー?」
「……えっと、じゃあ夏彦の負け?」
「負け……じゃなくて、勝ち……あれ?」
誰も正解がわからなくなる。
でもそれがよかった。
「あー、もうわっかんねえな!」と彰良が笑い、
「このルール、そろそろ崩壊してるな」と澪が言い、
「でもなんか楽しいよね」と夏彦が言った。
文蔵は、もう一度ノートに目を落とす。
けれど今度は、何も書かなかった。
ページを、そっと閉じる。
記録しなくてもいい瞬間だ。
ただそこにあればいい、ただ一緒に笑えればいい。
そんなふうに思える自分が、ちょっとだけ不思議だった。
外の空気が冷たくなっていく。
けれど教室のなかは、ぬくもりに満ちていた。
やがて、チャイムが鳴る。
放課後の終わりを告げる音だった。
けれど四限組は、それに気づかないふりをしたまま、
ジャンケンの最弱を決めるために、まだぐるぐると思考を捻っていた。
───
チャイムが鳴ってしばらく経ったあと、誰かが「腹減った」と呟いた。
発言者は朝倉彰良。椅子を後ろ向きにして机にもたれながら、空になった菓子袋を揺らしている。さっきまで教室で繰り広げられていた“最弱ジャンケン選手権”の盛り上がりがひと段落し、だらけきった空気が再び四人を包み込んでいた。
「購買部、まだ開いてるか?」
「たぶん。閉めるのはもうちょい後だったはず」
答えたのは椿原澪。手にした文庫本のページをめくりながらも、話にはちゃんと反応している。
「じゃ、行くか。俺、アイスとコロッケパン」
「寒いのにアイスかよ」
呆れたように日暮夏彦が言うが、否定はしない。冬に食べるアイスの良さは、否定するまでもないものだ。
「じゃあどーする? 誰が行く?」
「えー、ジャンケンはもう飽きたー」
彰良が身を反らせて大げさに言う。夏彦はため息をつきながら立ち上がり、澪も肩をすくめながら本を閉じた。
「じゃあ、こうしない?」
澪が静かに提案する。
「廊下、どっちの方があったかいか、比べる」
「……なにその基準」
「理科室に近い側の廊下と、体育館に近い側の廊下。どっちも購買までの距離は同じくらいだし」
「えっ、それで分かれて行って、寒かった方が負け?」
「うん。で、負けたチームが買いに行く。で、勝ったほうは教室で待ってる」
提案としては、かなりしょうもない部類だった。
だが、そういう“しょうもなさ”にこそ、四限組は食いつく。
「いいね! よっしゃ、俺と日暮が体育館側!」
「え、なんで」
「お前、寒がりのくせに薄着だから、温度の違いに気づきやすいだろ。俺はジャンパー着てるし、たぶん平気」
「納得いかない……」
「じゃ、俺と椿原で理科室側ね。こっちはあったかさより、風の入り方チェックする」
「それ、理屈になってないから」
「いやいや、風向きって意外と大事だぞ? 情報戦だからなこれは」
どうでもよすぎる会話を交わしながら、四人は教室を出た。
午後の光が差し込む廊下。冬の陽射しは柔らかく、どこか水分を含んでいて、校舎の冷たい床に長く影を落としていた。
体育館側の廊下を進む彰良と夏彦は、窓の下に置かれたストーブに目をとめる。
「……これ、ズルくない?もう俺らの勝ちじゃん」
「ストーブがあるからって、あったかいとは限らないし」
「だってあるじゃん! あれ…っていうかこれ、電源入ってなくね?」
「はい、アウト」
「なにがだよ」
一方、理科室側を進む文蔵と澪も、静かに観察を続けていた。
「確かに、こっちは風の抜けがあるね」
「あと、におい。理科準備室のにおい、ちょっとツンとする」
「温度、関係ないじゃん」
と、澪が少しだけ笑った。
四人が再び教室に戻ってくるころには、勝負の勝敗は誰もわからなかった。だって比べようがないから。
「で、どっちが寒かったの?」
「たぶん、どっちも同じくらい寒かった」
「まあ、そりゃそうか」
「じゃんけんで決める?」
「結局ジャンケンかい」
言いつつも、全員が手を構える。
その瞬間、教室に冬の陽が射し込んだ。窓際の床に、四人の影が並ぶ。
「じゃーん、けーん──」
「待った。俺、パーしか出さない縛りにしていい?」
「お、頭脳戦だな」
「さっきまでやってたやつ!」
「デジャヴ……」
くだらない争い、どうでもいい勝負。
けれどそれが、不思議と心をほどく。
文蔵は、再びノートに手をかけ──そして、そっと閉じた。
「こういうの、記録しなくてもいいな」
胸の奥に、ぽっと灯る温度。
誰のためでもない時間が、少しずつ積もっていく。
まるで、まだ降っていない雪のように。
───
日が傾き、放課後の空が淡く染まり始める頃。
四限組は体育館裏にいた。
校舎から少し離れたその場所は、風の通り道でもある。金網越しに見える冬空は、澄んでいるくせにどこかやわらかくて、夕焼けのグラデーションがじわじわと広がっていた。
「……寒っ」
真っ先にそう呟いたのは日暮夏彦だった。パーカーの袖を手の甲まで引っ張りながら、体育倉庫の影に腰を下ろす。
「ほら見ろ、アイス買うんじゃなかったって言ったのに」
「いや、冬に食うからいいんだろ。アイスってのは」
横で平然とソーダバーをかじっているのは、朝倉彰良。さっきのジャンケンに負けた結果、購買の冷凍庫からご機嫌でアイスを調達してきた張本人だ。息を吐くたび、口元から白い煙が上がる。
「凍えるぞ、マジで……」
夏彦がぼやくのを横目に、椿原澪は手袋を外しながら座った。指先が赤くなっているのを見て、文蔵想汰は一瞬だけ視線を止める。けれど、それ以上は何も言わない。代わりに、そっと自分のコートのポケットに手を入れた。
こういうとき、言葉は少なくていい。
しばらく沈黙が続いたあと、彰良がアイスの棒をかじりながらふと口を開く。
「……なあ、冬休みって、何すんの?」
「なにって……休むんじゃないの?」
「そういう意味じゃなくてさ。どっか行くとか、なんかする予定とか、ないの?」
「特にない」
「俺も」
ぱた、と夏彦が枯れ葉を指先で弾くように言い、澪も静かに頷いた。
「バイトのシフトはちょっとだけあるけど……まあ、あとは本読むか」
「俺は……家族の用事でちょっと出かけるくらいかな」
彰良が空を仰ぎながら言う。口調は軽いのに、その背中には不思議な“隙間”のようなものがあった。
文蔵は何も言わなかった。
誰かが話す声。手袋をする音。木の枝が揺れる微かなざわめき。
そのすべてを、ただ黙って聴いていた。
「……なんか今、いいよな」
ふいに、彰良が呟いた。
全員が、少しだけ顔を向ける。
「特別なことは何もないけどさ。寒いだけで、時間もゆるくて、意味もなく集まってるだけでさ。……でも、なんか、いいじゃん」
彼の言葉に、誰もすぐには返さなかった。
けれど、空気が変わったのが分かった。
日暮がイヤホンを片耳だけ外す。
澪がほんの少しだけ、目を細めて夕日を見上げる。
そして文蔵は、コートのポケットの中でノートの角に触れたまま、指先をそっと離した。
「……記録、いいの?」
澪が問う。
文蔵は、小さく首を横に振った。
「……いいんだ。今日は」
風が吹き抜ける。枯れた芝生がカサリと音を立て、誰かの息が静かに漏れた。
「今日の空、綺麗だな」
夏彦がぽつりと呟いた。
全員が、無言で空を見上げた。
淡い朱色。藍に近づく群青。光の温度だけが、記憶の奥に滲んでいく。
ただ、そこにいた。
何をするでもなく、何を決めるでもなく。
でも、それがきっと、大切な何かを作っている。
文蔵は、思う。
記録しない一日。
記録できない瞬間。
でもそれは、確かに胸の中に刻まれる。
この夕暮れが、きっといつか、あたたかく思い出される日が来る。
何も起きないことが、
一番、特別だったと気づく日が。
───
校門を出る頃には、空はすっかり夜の色に染まりかけていた。
街灯の光が歩道をまだらに照らし、雪の気配だけが空に残っている。
「……寒いって。なあ、やっぱもう一回コンビニ寄んね?」
朝倉彰良がダウンの襟元に顔をうずめながらぼやく。
その隣では日暮夏彦が、相変わらず片耳だけイヤホンを差していて、小さく肩をすくめた。
「さっきアイス食ってたの、誰だっけ~?」
「いやそれはそれ、これはこれ。身体の芯を冷やしたぶん、今度はホット系でバランス取らなきゃ」
「理屈が謎すぎる……」
椿原澪が呆れたように呟く。
それでも顔は少し笑っていて、足取りも重くはなかった。
四人は、並んで歩いていた。
なんとなく等間隔で、なんとなく肩が触れない距離感で。
「ねえ、これ今、雪……?」
澪がそう言った瞬間、ふわりと何かが落ちてきた。
街灯に照らされて白く光る、小さな雪の粒だった。
「あ、降ってる。めちゃめちゃ地味に」
彰良が空を仰ぎ、口を開けそうな勢いで手を伸ばす。
「冬休み前に、ちゃんと“冬”来たなあ」
「降り始めがこうやって地味なの、いいな」
夏彦がぼそっと言って、ふと空にスマホを向ける。録音ではなく、ただの写真だった。
「撮るんだ」
「たまには。音より、景色の記憶にしたい日もある」
彼の言葉に、文蔵想汰はゆっくりと足を止めた。
四人の会話。沈黙の温度。踏みしめるアスファルトの音。
そのどれもが、今日という日を形作っている。
鞄の中のノートに手を伸ばしかけて、またやめた。
記録しない。
書き留めない。
でもそれでいい。
この帰り道の空気、足音、笑い声。
全部、記憶にしまっておける気がしたから。
「……想汰?」
振り返ると、澪が少しだけ心配そうに立ち止まっていた。
「ううん、大丈夫。ちょっとだけ、見てただけ」
言って、もう一度空を見上げる。
雪は音もなく、静かに降っていた。
誰も気づかないような変化。
でも、その小さな一粒が、確かに“今”を作っている。
四人が再び歩き出す。
前に、前に。
笑い声がひとつ、またひとつ、こぼれていく。
「なあ彰良、明日ってなんか予定あったっけ?」
「いや、特に。だから逆にやばい」
「なんで?」
「予定がないと何もやらずに一日が終わる病、発症する」
「知らん病名だな……」
「いやでも、俺もちょっとわかる」
「だろ!? だよな!?」
日暮が笑いながら言うと、彰良が誇らしげに拳を突き出す。
「わかりみジャンケンやろうぜ」
「なにそれ……」
澪が心底呆れたように言う。
「とりあえず、共感してもらえそうなことを言う。『わかるわ〜』って思ったやつだけグー出す。それ以外はチョキ。パーは禁止」
「ルールの意味が分からない……」
「いや、わかるよ? ……グー」
「おお、同志!」
「わからないけど出してみたくなっただけです」
「ひどっ!?」
また笑いが起きた。くだらない、でも確かに心をあたためるやり取り。
文蔵も、ふっと笑っていた。
「……なんか、いいよな。今日」
つぶやいたのは、誰だっただろう。
でもその声に、誰も否定はしなかった。
文蔵は、もう一度だけ空を仰ぐ。
その白さに、あの頃の記憶が少しだけ滲んで消えた気がした。
──これは、記録じゃない。
でも、きっと覚えている。
ノートには書かない。
でもこの日を、ちゃんと持って帰る。
笑い声が、校舎の壁に当たって反響する。
そして、やわらかく空に溶けていった。