放課後に、僕らは   作:やまざる

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今日という日が、終わっていくだけ

 

 教室の窓ガラスが白く曇っていた。外の空はどこまでも灰色で、雪が降るかもしれない気配だけがじっとりと空気に溶けていた。

 

 終業式の朝。

 

 二年七組の教室には、独特の“冬休み前”の緩みが広がっている。早めに登校した生徒たちはコートを着たままストーブの前に集まり、あちこちで「今年もあと何日」とか「通知表絶対ヤバい」とか、半分本気のような、でもやっぱり本気じゃないような話を交わしていた。

 

 そんな中、朝倉彰良はひときわ元気だった。

 

「見ろよ澪、俺もう通知表の点数当てゲーム作ってきた。正解したら冬休みにクレープおごってやる。外れたら、俺に奢れ」

 

「……朝から面倒くさい」

 

 椿原澪は無表情でプリントをめくりながら、あきれたように言った。だが、声に棘はない。机に突っ伏している日暮夏彦が、片手を上げてぼそりと加わる。

 

「クレープ、俺チョコとバナナのやつね。あ、でも奢らされるの嫌だから寝たふりしとく」

 

「おい!起きてたなお前!」

 

 彰良が夏彦の背中をペチンと叩く。冬の朝の教室に、くだらない笑い声がひとつ、ふたつと増えていく。

 

 文蔵想汰はといえば、少し離れた席で自分のノートに目を落としていた。黒いインクで書かれた小さな文字たちが、まるで校内の気配を静かにすくい取っていくようだった。

 でも今日は、何かが違った。

 ペンの先が止まる。文蔵は窓の外に目をやる。裸の枝を伸ばす桜の木、その向こうの鉄柵、曇天。街全体が灰色に染まっているように見えた。

 

(……この空、去年の終業式と似てる)

 

 そんなふうに思った瞬間、ノートに書くべき言葉が見つからなくなった。

 誰かが「記録魔」と呼んだ自分の手が、珍しく止まっている。

 今日という日を「残したい」とも、「残さなくてもいい」とも思えなかった。

 目を伏せたまま、耳に入ってくるのは三人のいつものやり取りだ。

 

「彰良、さっきからずっと喋ってるけど、先生来たらどうする気?」

 

「いや俺、今日は静かにしてようと思ってたの。終業式じゃん?冬の始まりだし。そういう静けさってあると思うんだよ。……な?」

 

「言ってるそばから喋ってるじゃん」

 澪が冷ややかに言いながら、プリントの束を整える。彰良は「ごめんごめん」と手を上げ、席に戻ってくる途中で文蔵の机にぶつかりそうになった。

 

「おっと、悪い。想汰生きてるか?」

 

「……うん。観察してた」

 

「俺、観察されてたの!?」

 

「でも俺も、観察されてる気する」と夏彦が笑いながら続けた。「文蔵のノート、後で見たら“椿原、プリントをきれいに整える”とか書かれてそう」

 澪は無言でペンを投げる動作をするふりをし、彰良は声をあげて笑う。

 

 何気ない朝。

 特別なことは、何もない。

 それでも、どこかで“何かが終わっていく”ような気配だけが漂っていた。

 

 チャイムが鳴る直前、小橋先生が教室に入ってきた。厚手のカーディガンを羽織った姿に、ちらりと冬を感じる。

 

「皆さん落ち着いてください。今日は終業式です。通知表は式の後に配ります。そのあとはそのまま下校になります」

 

 ざわめきが広がる。先生は咳払いをひとつしてから、少しだけ真面目な声で優しく続けた。

 

「……皆さんいいですか、年明けたらすぐ三学期です。まだ先のことですが。あっという間に次の学年になってしまいます。今のクラスはもう残り少ないです……なので、年末年始は元気で過ごしてください。病気や事故などには気を付けましょう。以上!」

 

 そのあと、なぜかみんなで「よいお年をー!」と唱和したのは、もう儀式のようなものだった。

 

 文蔵はその様子を、何も書かずに、ただ静かに眺めていた。

 ノートは開かれたまま。ページの隅に、ほんの小さなインクの染みだけが残っていた。

 冬の朝の光が、その染みにすっと触れていた。

 

───

 

 体育館に響く、マイクのくぐもった音が眠気を誘う。

 天井の照明が真昼のように煌々と光る中、何百という生徒たちが整然と並ぶその風景は、まるで既に「冬休み」という名の静寂を前借りしたようだった。

 

 四限組の四人は、それぞれ並びに従って、少しずつ離れた位置に立っていた。

 椿原澪は列の前方、足を揃え、視線は正面。

 日暮夏彦は列の中央、やや猫背で気だるげに立ち、片耳にイヤホン。

 朝倉彰良は後方で、誰にも見えない角度で口をもぐもぐさせながら、きっと独りで何かを歌っている。

 そして文蔵想汰は、最後列の隅。ひときわ背の高いクラスメイトの陰に隠れるように、静かに周囲を眺めていた。

 

「──というわけで、今年もいろいろありました。来年も、目標をもって、新しい自分に出会えるように──」

 

 校長先生の話が、いつ終わるともなく続いている。

 内容の大半は、耳をすり抜けていった。

 

 けれど、それでもなぜか、冬の体育館の空気だけははっきりと記憶に残る気がした。

 乾いた空気に、微かに体育館の床がきしむ音が混ざる。誰かが咳払いし、椅子をずらす音が尾を引く。その一つひとつが、耳にまとわりつく。

 

 文蔵は手元のノートを、そっと開いた。

 だけど、ペンは進まなかった。

(……今日の空気を記録したいと思っていた。でも、どう書けばいい?)

 少し前までの自分なら、記録しないなんてことはなかった。

 けれどいま、四限組と過ごしてきた季節が、彼の“記録”という行為に変化をもたらしていた。

 この空気は、言葉で閉じ込めるより、体のどこかでそのまま残しておきたい。

 そんなふうに感じていた。

 

 そのときだった。壇上に、見慣れた人物が立った。

 

 生徒会長・橋ヶ谷満作。

 

 その姿が視界に入った瞬間、文蔵だけではない。体育館にいる皆が、顔を上げた。

 そして、体育館全体が、ほんの一瞬だけ静まった。

 

 静けさではなく、“耳を傾ける”という意志のような空気。

 彼は壇上のマイクに口を近づけ、いつもの穏やかな声で話し始めた。

 

「おはようございます、生徒会長の橋ヶ谷です。冬至も間近ですね。夜がいちばん長くなる季節です」

 

 前置きもなく、まるで夜空を語るような導入だった。

 

「夜が長いと、星がよく見える日も増えます。寒さに震えながら見上げる空には、遠くの光が瞬いている。……僕はよく、校舎の屋上からその光を眺めていました」

 

 一呼吸。

 

「星は、ものすごく遠い場所にあります。でも、見えます。届いています。それは、過去の光だからです。ずっと昔に放たれて、時間をかけて、今の僕たちのところに届いた光なんです」

 

 文蔵は、その言葉に、ノートを開こうとしていた手を止めた。

 夏彦が、イヤホンの片耳を外す。澪が、ゆっくりと見上げる。

 

「この学校で皆さんが過ごした一年も、ある意味では星と似ていると思います。何気なく交わした言葉、笑い声、誰かのため息。全部が、過去になって、でも今の自分に届いています」

 

 満作は少しだけ微笑んだ。

 

「今日が最後の日じゃありません。だけど、“今日という光”が、時間を越えて誰かの記憶に届くこともあると思います。今の自分の軌道を、誰かが、あるいは未来の自分が見上げる日が来るかもしれません」

 

 言葉を結ぶときの、あの柔らかく揺らぐような声で。

 

「どうか、この冬空の下で、あなたのまわりの光が、静かに灯っていますように。」

 

 その瞬間、体育館の天窓から、淡くひかりが差し込んだような気がした。

 誰も拍手をしなかった。けれど、それは“余韻”だった。

 誰の言葉でもなく、“光の届いたあとの静けさ”だった。

 

 そこで満作は、ふっと笑った。

 

「……よいお年を」

 

 ポツリとしたその一言に、なぜか体育館のあちこちで、笑いがこぼれた。

 

 文蔵もまた、開いたノートをゆっくりと閉じた。

 代わりに、胸の内にほんの小さな何かが灯った気がした。

 

 視線を横に移すと、遠くに立つ椿原が、ふと空を見上げている。

 天井の高窓から、わずかに曇り空が覗いていた。

 

 その瞳に、何が映っているのかはわからない。

 けれど彼の頬の緊張が、ほんの少し緩んだのを文蔵は確かに見た。

 

 “終わっていく時間”は、きっと、誰かの中にしずかに積もっていく。

 誰かの声ではなく、誰かの記録ではなく。

 その人自身の“まなざし”として。

 体育館を出るころには、曇り空は少し明るくなっていた。

 雪はまだ降らない。

 

 終業式が終わった午後の教室は、空になった席と忘れ物と、どこかほこりっぽい空気に満たされていた。

 いつもならチャイムが鳴っても残っている生徒たちが、今日はまるで競うように鞄を持って飛び出していく。「お疲れー!」「冬休みだーっ!」という声が、廊下に弾けていく。

 

 そんな中、文蔵想汰は、誰とも約束していなかったのに、いつの間にか集まっていた顔ぶれを見て静かに息を吐いた。

 

「……結局、来るんだな」

「うん? なにが?」

 振り返ると、アイスを二本ぶら下げた彰良が立っていた。すでに一本は開封済みで、くわえたまましゃべっている。

 

「図書室で静かに終わる冬休み前とか、文蔵に似合いすぎてて、それはそれで味があるけどさ。やっぱりこっちに来ると思ったわけ」

 

「うるさい。お前こそ、購買でそのタイミング……被せたな?」

 

「偶然だって〜」

 

 それは嘘だったけれど、文蔵は指摘しない。むしろ、そういうことを平気で言ってくれる誰かがいることが、今はただ嬉しかった。

 しばらくして、椿原澪が手提げを持ったまま静かに現れた。日暮夏彦は相変わらずイヤホンを片耳にして、壁にもたれている。

 誰からともなく、足が購買部のほうへと向かう。誰も「行こう」とは言わないけれど、誰も迷わずその流れに乗る。

 

 空はもう夕方に差しかかっていた。陽は早く、光は短い。廊下の窓から見える空は、淡く紫がかったグラデーションに染まりはじめている。

 購買で買ったアイスを片手に、寒空の下へ出てきた四人は、校舎裏のいつもの場所に腰を下ろす。風よけにもなる体育館の壁が、ちょうど良い背もたれになるのだ。

 

「マジで寒いな……なんで俺たちはこんな日にアイスを……?」

 彰良が震えながらも、きっちり完食している。澪はそれを見て呆れたように小さく笑った。

 

「言い出したのお前。」

「いやあ、冬にアイスって背徳感あって最高だろ? 背徳感って言ってみたかっただけだけど」

「アホだな」

 夏彦がつぶやき、指先で白い息をかき混ぜるように手を振る。

 

 その光景を、文蔵は横目で見ていた。ひどく静かな午後だった。うるさいはずの彰良の声も、さざ波のようにやわらかい。何かが過ぎていく気配。校舎の向こうから聞こえるバスケ部のかけ声すら、どこか遠く、くぐもっている。

 

「……なんか今、いいよな」

 ぽつりと、彰良が言った。

 誰かに向けた言葉でもなく、ただ空に漏れたようなその一言に、三人の視線が自然と集まった。

 

「いつもと変わらんようでいて、今日だけは違う。なんかさ、あんま喋んなくても分かる感じあるやん? ……そういうの、けっこう好き」

 彰良は最後のひと口を口に入れて、アイスの棒を見つめた。

 

 それに、誰もすぐには返さなかった。夏彦はゆっくりと視線を落とし、澪はふう、と小さく息を吐いた。

 

 文蔵は、自分の中の“記録欲”が、ふと動かなかったことに気づく。こんな瞬間を、残そうと思わなかった自分に、少しだけ驚いた。

 何かに名前をつけず、形にもしないまま、ただそこにいて、ただ見ていること。

 それができるようになったのは、きっと、今のこのメンバーと過ごすようになってからだ。

 

「結局、冬休み、どうするの?」

 ふと澪が問いかける。

 

「……寝る」

「寝正月は三が日までに終わらせろってじいちゃんに言われる」

「お前のじいちゃん、どこまでも現実主義だな」

 

「文蔵は?」

「……新しいノートを、一冊使い切れるくらいのことを、したいとは思ってる」

「え、何それ……なんかかっこいいじゃん」

 

 彰良が茶化すように笑う。でもその笑い方は、からかいよりも肯定のほうに近かった。

 どこか、誰もが「終わっていく」ことに気づいていた。

 けれど、それをはっきり口に出さずにいられる関係性が、四人の中にあった。

 

 陽が傾き、壁に映る影が伸びていく。帰る時間も、あと少し。

 

「このまま、何もない時間が続けばいいのに」

 

 誰のものともつかない声が、冬空に溶けた。

 

───

 

 空はもう、すっかり夕暮れだった。

 坂をくだる四人の足音が、冬のアスファルトにやわらかく響く。西の空には雲がゆっくりと動いていて、そこからかすかに朱が滲み出ている。

 

 今日という日が、終わっていく。

 そんな気配が、風の中にも、沈黙の中にも、確かにあった。

 言葉は少なかった。でも、それでよかった。

 

 日暮夏彦がフードをかぶったまま、イヤホンを片耳から外してポケットにしまう。澪がその仕草を見て、小さく首を傾げる。

「聴かないの?」

「今日は……音じゃなくて、この空気のままでいいかなって」

 

 冬の町の、夕暮れの、なんでもない帰り道。

 そんな時間に、音楽はいらなかった。

 

 歩道の横を車がゆっくりと通り過ぎる。通学路には他にも生徒たちがちらほら見えたが、四限組のまわりだけは、どこか別の時が流れているようだった。

 

 コンビニの前を通り過ぎたとき、彰良が「あ、ちょっと買ってくる」と言って、走って入っていった。

 

「なんだ?」

「多分、ホットドリンク。毎年恒例だって、前に言ってた」

 

 澪の声は淡々としていたが、その響きには少しだけ笑いが混じっていた。

 数分後、彰良はいつもの勢いで店から飛び出してきて、全員に缶を一つずつ手渡した。

 

「はい、冬恒例・“黙って持たせるホット缶”〜」

「命名がダサい」

「でもあったかいな、これ」

 

 口々にぼやきながらも、誰も拒まず、缶を受け取る。文蔵も、ふと手袋を外して、缶のぬくもりをじかに感じた。

 思えば、冬の冷たさを知っているからこそ、この温もりを心地よく思えるのかもしれない。

 

「文蔵、またノート持ってんの?」

 彰良が肩越しに覗いてくる。

「……持ってるだけ」

「書かないの?」

「うん。今日は……書かなくても、ちゃんと覚えてると思うから」

 

 そう答えながら、文蔵は自分の“記録しない選択”が、誰かと過ごす今を肯定するためのものだと、静かに確信していた。

 

 ページを開かないまま、ノートは鞄の中に戻される。

 やがて、いつもの分かれ道が近づいてくる。

 

 電車組の夏彦と澪、バス組の彰良、そして徒歩の文蔵。普段なら自然に分かれる道も、今日はなぜか、誰も立ち止まろうとしなかった。

 

 「またな」とか「気をつけて帰れよ」とか、いつも言ってることが、今日は少し言いづらい。

 でも、誰かが口火を切る必要もなかった。

 

「じゃ、解散前ジャンケンでもする?」

 彰良のその言葉に、澪が「バカじゃない」と呆れ、夏彦が笑いながら手を出す。文蔵も、少しだけ迷ってから、そっと手を重ねる。

 

「最弱ジャンケン選手権、冬の陣……いざ勝負」

「せーの、ジャン、ケン──」

 声が重なって、手が開かれる。

 

 誰が勝って、誰が負けたのか。

 その結果は誰も気にしていなかった。ただ、笑い声だけが、ゆっくりと冬空に昇っていった。

 そして、それが自然に途切れたあと。

 また、それぞれの道へ、歩き出す。

 

 文蔵は、坂をのぼる後ろ姿を目で追いながら、ふと立ち止まる。缶コーヒーのぬくもりが、まだ手のひらに残っていた。

 思った以上に、今日という日は、何かを残していった気がした。

 ノートのページは開かないままだけれど、それでいい。

 

 今日という日が、終わっていく。

 ただそれだけのことが、こんなにもあたたかいと思った。

 

 

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