【選ばなかった夜も、悪くない】
12月24日、午後九時。
どこかの家の窓からは、イルミネーションの色が道路に漏れていた。朝倉家の一室、暖房が効いた静かな部屋。テレビはついていない。スマホの通知音すら、今夜はなぜか鳴らない。
朝倉彰良は、ベッドの上で仰向けになりながら、天井を見上げていた。パーカーの袖から指を引っこめて、丸くなった手のひらを胸の上に置く。窓の外からは、遠くの車の音と、近くのコンビニに出入りする音がたまに聞こえるくらいだった。
四限組のグループチャットも、今日はしんと静まりかえっていた。
──澪は、デートだっけ。いいなぁ。
つい考えてしまって、彰良は自分の頭を軽く叩いた。
「いやいやいや、そんなこと考える夜じゃねーだろ、これは」
起き上がって、伸びをする。何かをするべき夜ではないけれど、何かしないと間が持たない夜。
クリスマスに特別な予定がないのは、別にいつものことだ。だけど今年は少し、違っていた。
誰かが、いない。
それだけで、夜のかたちが変わって見えた。
机の端に置いてあったスケッチブックを、ふと思いついて手に取る。
パラパラとページをめくると、誰かの後ろ姿や、コンビニで撮ったどうでもいい落書きが並んでいる。空白のページを開いて、鉛筆を手に取った。
「……じゃあ、全員描くか」
ひとりずつ、思い出す順番に。
夏彦の、ちょっとふてくされたような横顔。
想汰の、伏し目がちな目元。
澪の、無表情だけどどこかあたたかいまなざし。
順番はぐちゃぐちゃになりながらも、四人の顔が紙の中に浮かび上がっていく。
描いているうちに、部屋の空気が少しだけ満たされていくのを感じた。線が繋がるたび、どこか心がほどける。
「──全員集合、また今度だな」
ぽつりとつぶやいて、椅子に寄りかかる。
特別じゃない夜。ひとりきりの部屋。だけど、たぶんそれでいい。今夜は、誰とも比べなくていい。
そのとき。
ポン、と通知音が鳴った。
スマホを手に取ると、四限組のグループ通話が、誰かのいたずらで開始されていた。
画面の上には、「椿原澪が通話を開始しました」の文字。
数秒後、日暮と想汰が入ってくる。
「え、これ、マジで? 誰かミスったろ」
「椿原が押した……のか?」
「いや、澪ってそういうミスするタイプだっけ?」
ぞろぞろと、通話の画面に三人のアイコンが並ぶ。カメラは誰もつけていない。澪もいない。声だけの、間の抜けた集会。
彰良は、少しだけ笑った。
なんだかんだで、誰かがこういう夜を壊してくれる。
通話に参加しながら、もう一度スケッチブックを開く。
描きかけの自分の顔が、まだ紙の上にないことに気づいて、少しだけ迷ったあとで、鉛筆を動かした。
──選ばなかった夜も、悪くない。
それを、今こうして笑って言えるのなら。
窓の外では、少しだけ雪がちらつきはじめていた。
───
【カセットには録れない音】
静まり返った住宅街を、靴音だけがコツコツと響いていた。
クリスマスイブの夜だというのに、どこか浮かれた気配はこの通りには届いていない。飾り付けも、音楽も、ここにはない。ただ、遠くで聞こえる自転車のブレーキ音と、犬の遠吠えが混ざるだけ。
日暮夏彦は、片耳にだけイヤホンを差し込みながら、いつもの道を歩いていた。
手には小さな携帯型のレコーダー。再生中のテープには、特に意味のある録音が入っているわけではない。ただ、二週間ほど前、四限組で昼食をとっていたときの雑談を、なんとなく録っただけだ。
「……あっ、これ、椿原が珍しく噴き出したやつ」
再生されるテープの中、誰かの笑い声がふわっと広がる。その瞬間、夏彦の表情が少しだけ緩んだ。街灯の下、影が伸びる。
いつものようで、少しだけ違う夜。
目の前にあるのは、誰もいない公園。ブランコは揺れていない。滑り台の上には誰もいない。ただ、遠くで子どもが笑う声が風に乗って届いた。
その音に、ふと足を止める。
ベンチに腰を下ろし、レコーダーの再生を止めた。空気は冷たく、手袋をしていない指先がかじかむ。でもそれも悪くない。
右耳のイヤホンからは、静かなギターの音。BGMのように流れていたそれを、しばらく聞いていたが、やがてイヤホンを外して、ポケットにしまった。
「……録るもん、ねえな」
そう呟くと、空を見上げた。
街の明かりに邪魔されて、星はあまり見えない。それでも夏彦は目を凝らしていた。暗い空に浮かぶ、小さな点。きっとそれは恒星のひとつ。何千年も前に放たれた光が、いま、自分の目に届いている。
「この光と、今日の音……ずれてんの、ちょっと面白いよな」
誰に言うでもなくそう呟き、肩をすくめて立ち上がる。帰り道は来た道を戻らず、少し遠回りすることにした。
歩きながら、ふとレコーダーを手に取り、録音ボタンを押した。風の音、足音、どこかの家のドアが閉まる音。カセットに入るのは、そんな“ただの夜”の音。
それでいい。むしろそれがいい。
玄関のドアを開けると、誰もいない家が出迎えた。いつものことだ。靴を脱ぎ、リビングの電気を点けて、台所の方へ歩く。
ポットでお湯を沸かしながら、ふと視線を窓の外へ向けた。
月がひとつ、雲の切れ間から覗いている。
ガラス越しに見える空をじっと見ながら、ポケットから小さなメモ帳を取り出し、書き込む。
《今日の音:風が軽い。笑い声が遠い。月が、まるで黙って見てるみたいだった》
書いた文字を見つめてから、静かにページを閉じる。
ミルクティーを一杯いれて、湯気にくぐもる匂いを嗅いだ。
レコーダーの再生ボタンは押さない。ただ、窓の外に耳を澄ませながら、静かな夜の音にじっと耳を傾ける。
録れない音が、今日もきっといちばん大事なのだ。
───
【記録されない記憶】
外に出るつもりはなかったのだ。
クリスマスの夜。部屋着のまま、毛布にくるまって読みかけの文庫本を開いていた。
けれど、気がつけば玄関で靴を履いていた。ポケットには、小さなメモ帳だけ。ノートは持たなかった。
「……なんでだろ」
夜風は冷たく、足先がじんじんと痺れる。けれど、その寒さが少しだけ心地よかった。
住宅街を抜けた先の坂道。その途中、空き地の向こうに灯りが見えた。
ライトアップ会場。
地域の子ども会が毎年飾るという、小さなクリスマスのイルミネーション。ツリーは手作りで、電飾はおそらく誰かの家から持ち寄ったものだろう。
それでも、十分に綺麗だった。
「わー! みてみて、あれハートの形ー!」「あれ星じゃない?」「ぜったいハート!」
子どもたちがはしゃぐ声が響く。親たちが笑いながらカメラを構え、あたたかい空気が生まれていた。
想汰はその隅に立ち止まり、手袋越しに指先を合わせるようにして、目の前の光景を“記憶”に焼きつけた。
『記録』はしなかった。
けれど、これは、忘れない気がした。
「……記録しなくても、こういうのも悪くないな」
ふっと漏らした言葉は、誰にも届かない。
それでも、自分の中には確かに残った。
メモ帳を開こうとして、指を止めた。
空に視線を向けると、雲が切れて、小さな星がいくつか見え始めていた。
そのうちの一つに視線を重ね、息を吐く。
(今夜の空も、きっと“誰か”と見上げていたら、もっと言葉が浮かんだんだろうな)
そんなことを思いながら、ゆっくりと歩き出す。
手の中のメモ帳は、白紙のまま。だけど──今日は、それでいい。
静かに、光が背中を照らしていた。
───
【恋してない夜、でも話は恋のことばかり】
カフェのガラス窓越しに、街のイルミネーションがきらきらと瞬いている。
クリスマス当日の夜。予約していたテーブルに座ったのは、水木日向と花森菜月。
……そして、肝心の小柳雪は、今日は不在。
「いやー、まさかほんとにデートとはねー、雪ちゃん」
ポニーテールを揺らして、日向がストローをくわえながら言う。
目の前にはパンケーキとホットアップルティー。サンタ帽をかぶった店員が運んできたキャンドルが、机の上で小さく揺れていた。
「うん。でも、よかったよね、行けて」
菜月が、スマホの画面を見せる。そこには、雪から送られてきた一枚の写真。
澪と、冬の街を歩く後ろ姿。
「……やっぱり、いいよね。ああいうの」
「わかる~。なんか、空気に浸ってる感じがさー」
「日向ちゃん、意外とロマンチストだよね」
「うるさっ、菜月こそ、さっきまで『ストローの向きで心情が分かる』とか変なこと言ってたじゃん!」
「ふふ。言ったかも」
笑い声が混じる。
でも、雪がいないだけで、会話にはぽっかりとした“間”が生まれていた。
「さ、てと……改めて言うけどさ」
日向が、カップをテーブルに置き、唐突に切り出した。
「恋って、なんなんだろうね?」
「唐突だね……」
「いやさ、雪を見てると、こっちもドキドキしてくるじゃん。でも、自分がそうなるとしたらって思うと……うーん、ってなるんだよね」
「でも、それが“いい”んだと思うよ」
菜月はスプーンを口元に運びながら言う。表情は、いつもの“ふわり”とした笑顔。
「今は、誰かに恋してないからこそ、雪の恋をまっすぐ応援できてる気がするし」
「……あー、なんかわかる」
日向が頷く。
ふたりとも、どこか“今のままでいい”と感じているようだった。
誰かに恋をしていなくても、話題は恋のことばかり。それが、今日という夜を静かに満たしていた。
「……雪、たぶん今ごろ、めちゃくちゃ緊張してるよね」
「間違いない。絶対“ぎこちない沈黙”になってるって」
「“間”を繋ぎに行きたいね」
「でも、それじゃだめなんだよね」
ふたりは、同時に頷き合う。
雪が、自分で選んで向き合っている時間。その尊さを、どこかでちゃんと分かっていた。
「……ま、こっちはこっちで楽しんじゃお?」
「だね。たぶん、雪もそう言う」
ふたりはもう一度乾杯した。チリン、とグラスが鳴る。
「恋してない夜、だけどさ──」
「……話は恋のことばっかだね」
キャンドルの炎が揺れ、外の雪はまだ降っていない。
けれど、それぞれの“あたたかい夜”は、確かにそこにあった。
───
【夜空に、届かなかった声たち】
12月25日の夜、気温は0度に近い。
今日の朝方までは生徒会の二人がいたから、今は少し寂しい気がする。
橋ヶ谷満作は、薄いマフラーを首に巻いて、人気のない坂道を上っていた。
行き先は、町外れの小さな天体観測スポット。
彼がよくひとりで星を見に行く、秘密の場所だった。
見上げた空は、雲がなく、澄みきっている。
赤、青、白。さまざまな色の光が、無言のまま世界を照らしていた。
「……見事な分布だね。今日の光度は、きっと観測記録に残す価値がある」
そう呟いて、ポケットからスケッチ帳を取り出す。
けれど、そのページは開かれないまま、彼は空をじっと見上げ続けた。
「ついでにこっちも見ておこう」
満作のなかで微かに共鳴する、その異能。
星の光に宿った、届かなかった声たちが、ゆっくりと意識の底にしみ込んでくる。
『ありがとう”って言えなかった』
『“会いたかった”って、言ってもよかったかな』
『“ごめんね”って、ちゃんと伝えたかった』
どれも、誰にも届かなかった想いたち。
もう口にはされず、でも消えずに残っている“ことば”たち。
満作は、ただ静かにそれらを受け取っていた。
「……今日は、星がよく話すね」
そう言って、彼は手を胸元に添える。
「君がいたから、って言いたかった人も」
「君がいないから、って泣いた人も」
「どこにも行けなかった気持ちも、ここにあるんだね」
風がひゅう、と吹き抜ける。
それでも、満作の声はかすれず、まっすぐに夜空へと向かっていく。
「じゃあ、僕が言っておくよ」
そう囁くように言ったあと、彼はそっと目を閉じて、そして、笑った。
「──メリークリスマス」
誰にも届かなかった声たちが、星の光とともにきらめく。
そのひとつひとつに、名もない願いと祈りが宿っていた。
それを聞き届けた満作の目に、遠くオリオン座が映る。
まるで「知ってるよ」と微笑みかけるように。
「誰かの星になれるなら、こんな夜も、悪くないよね」
寒さに頬を赤らめながら、満作はゆっくりと坂を下りていく。
手には何も描かれなかったスケッチ帳。そして、耳の奥には、まだこだましている“声たち”の余韻。
静かな夜空は、そのまま、誰かの思い出になっていく。