放課後に、僕らは   作:やまざる

71 / 87
降りしきる六花、君の隣

 

 

 駅前ロータリーの時計が、午後五時を知らせる鐘を鳴らした。

 

 冬の空は、もうすっかり夜の色だった。けれど街は、夜の闇よりもずっと明るくて、賑やかだった。

 イルミネーションの光が通りを彩り、人の声と笑いが、吐く息の白さに混じっては消えていく。

 

 そんな中で、椿原澪はひとり、駅の柱にもたれながら、静かに立っていた。

 

 コートのポケットに手を入れたまま、街路樹に飾られた電飾をぼんやり見つめている。

 まるで、その光の向こうに、誰かの気配を探すように。

 

 白い息が、空にほどける。

 

 今日が、12月24日であること。

 そして、彼女と「街に出よう」と約束したこと。

 それだけが、今この場所に澪を立たせている理由だった。

 

 何を話そうか。どこへ行こうか。

 そういった段取りは、お互いにあまり決めなかった。

 ただ「一緒にいる時間」が欲しかった。ただ、それだけだった。

 

 そして、

 

「……澪くん」

 

 呼ばれた名に、澪は顔を上げた。

 その声は、雪のように静かで、やさしかった。

 振り向いた先には、小柄な少女が立っていた。

 

 小柳雪。

 黒いボブヘアが白い街に映えて、儚げな瞳の奥に、ちゃんとした意思が宿っている。

 彼女は、少しだけ息を弾ませていた。

 たぶん、急いで来たのだろう。それでも、息を整える前に、名前を呼んでくれたのが、澪には嬉しかった。

 

「待たせちゃった、かな……?」

 

「いや。僕も、今来た」

 

 嘘だ。でも、そんな嘘くらい、今日は許される気がした。

 雪は、ふっと笑った。その笑顔もまた、雪のようだった。

 ひらひらと、手のひらに落ちては、すぐに消えてしまうような、あたたかくて儚い笑顔。

 

「……雪、降ってるんだね」

 

「うん。静かに、降ってる」

 

 二人の間に沈黙が落ちた。けれど、それは気まずさではなかった。

 

 寒さの中で、互いの存在を確かめるように、静かな空気をまとったまま、澪は言う。

 

「歩こう。少しだけ」

 

「うん」

 

 雪が頷いた。その瞬間、澪の手の中の体温が変わった。

 手袋越しに、彼女の手が触れる。

 彼女の手は小さくて、やわらかくて、あたたかかった。

 澪は一瞬、驚いたように目を瞬かせたが、すぐにその手を包み直すように握り返す。

 言葉はないままに、ふたりは歩き出した。

 

 

 街は、灯りに満ちていた。

 商店街のアーケードには、赤と緑のリボンが踊り、聖歌がどこからか流れてくる。

 

 けれど、ふたりの歩みは、そういった「賑やかさ」の外側にあった。

 人混みの中でも、不思議と静けさが漂う。

 

 澪が時折ちらりと横を見ると、雪はまっすぐ前を見て歩いている。

 視線が合うことはあまりないけれど、その横顔から伝わってくるものがあった。

 この時間を、大切に思ってくれていること。

 だからこそ、澪も言葉を選びたくなる。

 いっそ、なにも言わずに、このままでいたいと思ってしまう。

 

 

 ショーウィンドウに飾られたクリスマスケーキを、雪が見つめていた。

 澪はその視線に気づいて、少しだけ立ち止まる。

 

「……甘いもの、好きだよね」

 

「うん。……でも、今は、見てるだけでも楽しいかも」

 

「そっか」

 

 それだけで、また歩き出す。

 でもそのあいだも、手はつないだまま、ゆっくりと。

 

 それが、まるで「まだ帰らないで」と言っているようにも感じられて、澪の胸の奥が少し熱くなる。

 ふたりが並んで歩く道には、あらかじめ用意された“会話”なんてなかった。

 けれど、電飾の灯りが照らす雪の表情を見ているだけで、十分だった。

 歩幅を合わせるたびに、少しずつ心の距離が縮まっていく。

 

 

 ふと、雪が立ち止まった。

 

 交差点の手前。

 空を見上げる彼女の視線につられて、澪も見上げた。

 降ってくる雪が、街灯に照らされて、金色に光っていた。

 

「……綺麗」

 

 その声は、誰に届くでもないつぶやきだった。

 でも澪は、そっとその手を強く握る。

 この夜に、特別な言葉は必要ない。

 ただ、隣にいること。それだけで、ふたりには十分だった。

 

 

 交差点の信号が青に変わった。

 雪が、小さく笑う。

 

「どこまで行こっか?」

 

 澪は考えるふりをして、答える。

 

「……さあ。歩けるところまで」

 

 それが、今夜のふたりにとっての“正解”だった。

 

───

 

 雪が静かに降り続いていた。

 

 澪と雪は、人気の少ない路地へと入り込んでいた。商店街の華やかさとは打って変わって、こちらはひっそりとしていて、街灯の光だけが雪を照らしている。

 並んで歩くふたりの足音は、雪に吸い込まれてほとんど音を立てない。

 その沈黙が、かえって心地よかった。

 

「……さっきね」

 

 雪がふいに口を開いた。

 

「菜月と日向が、“プレゼント何かもらうの?”って聞いてきたの。……澪くんに」

 

 澪は一瞬だけ目を丸くして、それからうっすらと笑った。

 

「……ああ、なんか、言いそう」

 

「“絶対チョコとか用意してそうじゃない?”って、からかわれた」

 

「……してないけどな、チョコ。というか、バレンタインかそれ」

 

 雪はくすりと笑った。澪もつられて、小さく息をもらすように笑った。

 

「でもね。……今日一緒にいられるなら、それでいいって思ったから。何も言わなかったの」

 

「……そっか」

 

「澪くんは……どう? プレゼントとか、考えてた?」

 

「ん……いや、僕も、特に何かってのは……」

 

 言いながら、澪はポケットの中で何かを探るように手を動かす。

 だけど、すぐにその手は出てこなかった。

 たぶん、なにかを用意していた。でも、それを“渡す理由”が見つからないまま、言葉が喉で止まっていた。

 

 雪は、そんな彼の様子を静かに見ていた。

 そして、そっと言った。

 

「……なんか、こういうのもいいなって思ってる」

「……こういうの?」

「ちゃんと話してないのに、なんか伝わるような……そういう時間」

 

 澪は少しだけ黙って、それからゆっくりと歩き出す。

 雪もその横に並んだ。ふたりの歩幅は、自然と合っていた。

 

「言葉ってさ」

 

 澪がぽつりと呟いた。

 

「あると安心するけど、ないと伝わらないってわけでもないんだなって……雪といると思う」

 

 それは、彼の精一杯の“気持ち”だった。

 雪は一度、きょとんとした顔をして、それからふっと目を細める。

 

「……うれしい。ありがとう」

 その声もまた、小さく、でも確かだった。

 

 やがて、ふたりは川沿いの道へと出た。

 堤防沿いの遊歩道は、冬の冷たさに包まれていたけれど、風はなくて、ただ雪だけが降っていた。

 川面は暗く、対岸の灯りが滲んで映っている。

 クリスマスの喧騒とは遠い、静かな時間だった。

 

「ねえ、澪くん」

 

「ん?」

 

「……わたし、まだ緊張してるんだよ」

 

「……うん」

 

「でも、ちゃんと伝えたいって思うことが、あるの」

 

 澪は、その言葉にゆっくりと立ち止まる。

 雪も止まり、ふたりは川に沿ったベンチのそばで向かい合った。

 雪は、少しだけ顔を上げて、澪の目を見た。

 その視線は揺れていなかった。

 

「……今日ね、“ちゃんと好きだな”って思ったの。歩いてるときも、黙ってるときも、ずっと」

 

 澪は言葉を探して、見つけきれず、でも一歩だけ前に出た。

 そして、そっと雪の手を取った。

 指先に触れたのは、あたたかさだった。

 雪は、わずかに瞬きをして、そっと澪の手を握り返す。

 

 

 それだけで、もう十分だった。

 

 

「……もう少しだけ、歩こっか」

 

「うん」

 

 そうして、ふたりはまた、静かな夜の道を歩き出した。

 言葉は少なくて、でも気持ちはそばにあって。

 その距離を、確かめるように。

 

 少し先の交差点で、信号が赤に変わった。

 ふたりは立ち止まり、並んで空を見上げる。

 雪が、降っていた。

 街灯の光の中を、まるで舞い降りる羽のように。

 

「……今日が終わっちゃうの、ちょっともったいないね」

 

 雪が呟いた。

 

 澪はその横顔を見つめて、答える。

 

「……じゃあ、まだ終わらせない」

 

 そんな言葉が、ふたりの間に残された。

 

───

 

 部屋は、静かだった。

 窓際の白いカーテンがわずかに揺れて、かすかに外の気配を伝えている。

 灯りは控えめで、天井のダウンライトが柔らかく室内を照らしていた。

 壁際に置かれたベッド。

 小さなテーブルと椅子。

 空間は整っていて、けれどその静けさがどこか心をくすぐる。

 

 澪は、荷物を床に置いたまま、窓の外を見ていた。

 雪が、まだ降っている。

 宿の前の街路樹の枝に積もった白い粉が、わずかにきらめいていた。

 夜は深く、世界が音を失っていくような気がする。

 背後では、雪が部屋の空気を確かめるように歩き回っていた。

 用意されたスリッパをそっと揃えて履き、手洗いを済ませ、

 何気なく備え付けのポットのスイッチを入れる。

 

 そんな音ひとつひとつが、心に沁みるようだった。

 

 時計の針が、日付をまたいだ。

 けれど、この部屋の中にいるふたりにとって、それはたいした違いではなかった。

 クリスマス・イブが終わって、ただの“夜”になる。

 それでも、世界が急に何かを変えるわけでもなく、

 部屋の空気は、相変わらず、静かで温かかった。

 

 

 ベッドの上に、ふたり並んで腰かけている。

 雪はスカートのすそを整えて、小さく息を吐く。

 澪は窓辺に目を向けていたが、やがてふと、視線を戻した。

 

 

 テーブルの上には、小さなケーキが一つ。

 つい先ほど買っておいたもの。

 けれど、今はまだ食べられずにいる。

 

「……ケーキ、食べる?」

 ぽつりと、雪が口にした。

 澪は少し笑って、首を横に振る。

「もうちょっと……いい」

 

 その“いい”が何を意味していたのか、

 ふたりとも言葉にしなかったけれど、

 その沈黙が、どこか優しく響いていた。

 

 

 雪は、袖のボタンをひとつ外した。

 澪も、それに倣うように、ネクタイを緩める。

 ゆっくりと、呼吸の深さだけが変わっていく。

 それ以外は、何ひとつ焦らず、

 ただ“この夜”を、確かめるように過ごしていた。

 

 

 肩と肩が触れた。

 その温度が、じんわりと皮膚を通して広がっていく。

 

 

「……ねえ」

 と、雪が言う。

 

「“好き”って、なんで、こんなに静かなんだろうね」

 

 それは、ふとこぼれたつぶやきだった。

 けれど、澪はしばらく考えてから、答える。

 

 

「たぶん……誰かに向けてるから、かな」

 

「……うん?」

 

「“自分だけ”じゃなくて、“誰かのこと”だから……騒がないのかも」

 

 

 言ってから、澪は少しだけ照れくさそうに目をそらした。

 雪は、それをじっと見つめて、ふわりと笑った。

 

「……うん。やっぱり、好き」

 

 小さな声だった。

 でも、はっきり聞こえた。

 

 澪は、その言葉に何も言わなかった。

 けれど、彼の右手が、そっと雪の手を握った。

 

 指先が冷たかった。

 でも、それがどこか、やさしかった。

 

 ひとつの吐息。

 それに重なるように、空気が近づく。

 言葉ではない何かを、確かめようとする気配。

 いま、ここにあるのは──

 

  “選ばれた時間”だ。

 

 無数の予定、行き先、別の誰か、別の景色。

 全部をすり抜けて、この夜を“選んだ”ふたり。

 その選択は、誰に見せるでもない。

 ただ、自分たちにしかわからない確かさで、ここにある。

 

「……こわい?」

 

 澪が、小さく尋ねる。

 雪は、ほんのすこしだけ、考えてから答える。

 

「ううん。……でも、緊張は、してる」

 

「……俺も、たぶんそう」

 

 

 どちらからともなく、視線が重なる。

 この距離で、目を合わせるのは、ちょっとだけ恥ずかしい。

 けれど、その照れくささごと、大事にしたくなる。

 

 ふたりの影が、やわらかな照明の中に重なる。

 それは、どこにでもある“恋人の夜”のようで、

 でも、誰にもなぞらえられない“ふたりのかたち”でもあった。

 

 たとえば、この先、言葉では言い尽くせないことが起きても、

 この夜の“静けさ”は、きっと思い出せるだろう。

 触れる前の、あの息をのむような一瞬。

 体温と心音だけが、確かだった瞬間。

 

 それが、ふたりにとっての「愛の確かめ方」だった。

 

 時計の針は、少しずつ進んでいく。

 窓の外では、雪が降り止まない。

 でも、部屋の中のふたりは──

 

 何も言わずに、ただ隣で。

 それだけで、すべてが伝わっていた。

 

───

 

 窓の外に、静かな白が降り続いている。

 それは音もなく、まるで世界ごと柔らかく包むように、ゆっくりと舞い落ちていた。

 

 明け方。

 部屋の中には、もうほとんど言葉はなかった。

 けれど、言葉がなかったからこそ、

 雪と澪のあいだにある何かは、いっそうはっきりと感じられていた。

 

 布団の中、互いのぬくもりがまだ残っている。

 雪は、横になったまま澪の背中を見ていた。

 

 眠っているのか、起きているのか。その境目みたいな呼吸。

 規則正しいようでいて、どこか不規則にも思える、曖昧なリズム。

 でも、それが不思議と心地よくて、

 雪はまばたきを忘れたまま、そっと手をのばす。

 

 澪の髪に、指先が触れた。

 くしゃっとなった前髪。ほつれた寝癖。

 そこに何の意味もないけれど、

 いまだけは、それすら愛おしかった。

 

 ふと、澪が目を開けた。

 何も言わずに、雪と目が合う。

 

 そのまま数秒、互いを見つめたあと、雪がふわりと微笑んだ。

 

 「……おはよう」

 「……ん。おはよう」

 

 小さな声のやりとりが、

 白い朝の空気にそっと溶けていった。

 

 時計の針は、もうすぐ六時を指すところだった。

 このまま、もうしばらくこうしていたい気もしたけれど、

 現実は、ゆっくりとふたりの時間に追いついてくる。

 

 カーテンを開けると、

 窓の外には銀世界が広がっていた。

 街も、道も、遠くの屋根も、全部が白に包まれている。

 

 「……すごい、ね」

 雪がぽつりとつぶやく。

 澪も、並んで立ちながら窓の外を眺める。

 

 「……昨日より、降ったね」

 「うん。でも……」

 雪は言葉を区切る。

 

 「……そんなに寒くない。なんでだろ」

 

 それは、もちろん錯覚だ。

 外の空気はきっと、芯まで冷えている。

 だけどこの部屋の中には、

 “確かに触れ合った記憶”が、まだ静かに残っていた。

 

 温度じゃない。

 たぶん、気配のことだ。

 ふたりがふたりとして、ここにいたという、

 その確かさが──冷たさを打ち消していた。

 

 雪がふと、指を伸ばす。

 窓ガラスに、指先でなにかを書いた。

 

 ゆき

 

 小さく、ひらがなで。

 「え?」と澪が首をかしげると、

 雪はちょっと照れたように笑った。

 

 「自分の名前。……書いてみただけ」

 

 それはたぶん、なにげない行為だった。

 だけど、澪はそれを見て、そっと手を添えた。

 そしてその横に、もう一文字を足した。

 

 みお

 

 ふたりの名前が並ぶ。

 白く曇った窓の、その一角にだけ。

 

 「……ばかみたい」

 と、雪が笑う。

 「……うん、ばかっぽい」

 と、澪も返す。

 

 でもふたりとも、その文字を消さなかった。

 むしろ、なぞるようにもう一度書き直して、

 まるで名前を重ねるように、白いガラスに触れていた。

 

 どこにでもある朝だ。

 でも、この白い景色も、このふたりのぬくもりも、

 今日しかない“特別”でもあった。

 

 それを大げさには言わない。

 

 けれど

 

 澪は、雪の肩をそっと抱く。

 雪は、少しだけ体を寄せる。

 言葉よりも先に、手が動く。

 想いよりも先に、体が重なる。

 

 愛を語ることは、まだ少し恥ずかしいけれど、

 愛を“信じること”なら、ふたりはきっともう、知っている。

 

 この夜を選んだことも、

 この朝を迎えたことも。

 名前のないまま、通じあった想いも。

 

 全部、たしかにここにあった。

 

 雪は、まだ止まない。

 けれど、ふたりはもう、ためらわずに前を向ける。

 新しい朝が、白く静かに始まろうとしていた。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。