年末の午後四時、空はすでに薄くオレンジ色に染まりはじめていた。
朝倉彰良の家。その居間には、中央にどっしりと構えたこたつと、ガスコンロの上で静かに湯気を立てる土鍋があった。年末らしく、部屋の端には「年忘れ」と手書きされた謎の垂れ幕、そして天井からぶら下がる金のモール。おそらく、彼が一人で飾ったものだろう。
「……さむっ。おじゃましまーす」
玄関から聞こえてきた声に、彰良が顔を上げる。入ってきたのは日暮夏彦。肩にはお決まりのショルダーバッグ、手にはビニール袋。そして片耳にはイヤホンが引っかかっている。
「夏彦! 早ぇな! ほら、あったまれ、こたつ神殿が貴様を待っておるぞ」
「なんだよそのテンション全開の歓迎……でも入るけど」
夏彦がもそもそとこたつに潜り込むのを確認してから、彰良は台所に戻る。まな板の上には白菜、ねぎ、鶏もも肉、それから冷蔵庫には豆腐と春菊もある。
「鍋の準備、半分くらいは済ませといた。あとは火入れるだけ」
「えらいじゃん、主婦力」
「いや主夫力な?」
言葉を交わしながらも、どこかに“今日は特別だ”という空気が漂っている。年の瀬というだけで、なにげない集まりにも意味が生まれるのが不思議だ。
その少しあと、二人が鍋の出汁の味を確認していたころ、玄関のチャイムが控えめに鳴った。
静かな足音のあと、現れたのは文蔵想汰。手には、紙袋と小さな手帳。
「おお、来たな。今年の無口王」
「まだ始まってすらないんだが」
想汰の声はいつも通り淡々としているが、そこにほんの少しだけ“慣れ”のような、柔らかさが混じっている。靴を脱いで、鍋の前に座ると、紙袋からポン酢と缶ジュースを取り出した。
「準備、手伝う」
「いやもう、ほぼ終わってるってば。なにそのジュース……三種類もあるの?」
「選べる方が、いいかと思って」
「優しい! 無口大賞、優しさで殿堂入りだな」
彰良がやたらと嬉しそうに言いながら、ポン酢を受け取る。想汰は淡々と返すだけだが、なんとなく顔がほころんで見えるのは気のせいだろうか。
三人が準備を進めながらこたつを囲んでいると、いつのまにか窓の外はすっかり暗くなっていた。テレビもスマホもつけていない居間に、鍋のぐつぐつという音だけが響く。
「なあ、澪って何時くらいに来るって言ってたっけ?」
「夕飯には間に合うって」
「……あやしいな。雪とデートからの即切り替えてこっちって、高難度すぎない?」
夏彦の苦笑に、彰良が「たしかに」と笑いながらも、こたつに寝転がる。
「けどさ、そうやって来てくれるってのが、嬉しいよな」
「うん」
静かに頷いたのは、想汰だった。ことさら口にすることではないけれど、三人は皆、心のどこかで同じことを思っていた。
今年が、終わる。
その実感が、曖昧なようでいて、どこかしっかりと胸の奥にある。
「さっきまではなんかさ、漠然と『もう年末なのかー』って感じだったけど、こうやって集まると“ああ、終わるな”って思うな」
夏彦がそう呟くと、彰良は「だろ?」と返しながら立ち上がり、部屋の電気を少しだけ落とした。鍋の湯気が照明にぼやけて、柔らかい陰影をつくる。
「年末進行、そろそろ開幕すっぞ。まずは『今年食べ納め鍋パート』。続いて『今年のふざけ納め』と『まじめな話ちょいちょい混ぜタイム』を予定しております!」
「行程表いらないって」
夏彦のツッコミに、「いやこれは儀式だから!」と返す彰良。笑い声が、年の瀬の空気ににじんでいった。
───
鍋の湯気が、こたつの上で静かに踊っていた。
午後六時過ぎ。玄関のチャイムが鳴ったとき、彰良は「おっ」と声をあげて立ち上がった。想汰が淡々と火加減を調整し、夏彦はこたつに半身を沈めたまま、ちらりと顔だけ上げる。
「へい!澪、遅いぞー。遅刻だー。」
開け放たれた玄関の先から現れた澪は、マフラーを軽く外しながら小さく頭を下げた。
「……ごめん。家のほう、ちょっとバタついてて」
「恋人さんとの年末納め、ちゃんと済ませてきましたか?」
夏彦の言葉に、澪は明確に目をそらした。わかりやすく動揺している。彰良がすかさず追い打ちをかける。
「おい、顔ゆるみすぎだろ。お前、年末の甘酒より甘くなってんぞ?」
「……そんなことない」
即答はしたものの、耳が赤い。想汰が黙ってお椀を差し出し、澪は救いを得たようにそこへ腰を下ろした。
四人揃ったことで、場の空気がひとつ、カチッと噛み合ったように感じられる。
この夜が、ちゃんと“年末”になったような気がした。
ふと、居間に流れるBGMが変わった。夏彦のカセットデッキから、微妙に古めかしい電子音が滑り出す。冬らしいかと言われると、かなり疑問な選曲だが、誰もつっこまないあたりが四限組の良さでもある。
「さてさて。揃ったことですし……」
彰良がどこからか紙を一枚取り出した。
「四限組的・今年の○○大賞、勝手に開催しまーす!」
「は?」
澪の眉がぴくりと動くのを無視して、彰良は紙を読み上げる。
「まずは、はい、ド定番。『無口大賞』!」
視線が自然と想汰に集まる。本人は、豆腐を箸で持ち上げたまま微動だにしない。
「まあこれは満場一致だな。しゃべるときは重みがあるけど、今年も安定の寡黙っぷりでした」
「……いらない。賞状」
「でも受け取るんでしょ?」
想汰は沈黙のまま、うっすらと笑ったような、そうでもないような顔をする。夏彦が「あー、これは“照れてるのをごまかす無表情”パターンだな」と判定し、澪が小さく吹き出した。
「次、『おしゃれ大賞』!これはもう、椿原澪選手でしょ。私服センスも安定だし、ピンポイントで似合う色を選んでくるのがズルい」
「……え、なんか恥ずかしいな」
「照れるなよー!これ、褒めてるからな!」
彰良がカードの裏に「モード系男子爆誕」と書いたメモを見せびらかすと、澪は「やめろ」とだけ返して手で隠した。こたつの下ではたぶん足を軽く蹴っている。
「『なんかずっと眠そう大賞』は、もちろんこの人。日暮夏彦くん!おめでとう!」
「……記憶にある限り、年中こんな感じだけど?」
「つまり“ブレない”ってことだな」
「ポジティブだな……」
表彰状と称して配られたのは、全部で三枚の適当な紙片だった。だが、そこに書かれている言葉は、どれも的確に彼らの一年をなぞっていた。ふざけているようで、ちゃんと見ていた。その絶妙なバランスが、空気を穏やかにする。
「こういうの、俺、あんま得意じゃないけどさ」
彰良が少しだけ視線を伏せる。
「でも……やっぱ言っときたくて。みんなといた時間、ちゃんと楽しかったって、思ってたんだよな」
その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。
でもそれは、言葉を選んでいる沈黙ではなかった。ただ、余韻を味わうための、静かな間だった。
こたつの中で夏彦が膝を曲げ直し、想汰が小さく湯気を仰ぎ、澪がそっとカードを裏返す。
「……じゃあ、来年もよろしく」
ぽつりと夏彦が言ったその言葉が、たぶんこの場の全員の気持ちを代弁していた。
───
午後八時を回った頃、鍋の中はほとんど空になっていた。
白菜は食べ尽くされ、鶏団子もとうに消え、うどんを追加したのもひとしきり盛り上がってからだ。みんながこたつに沈んでしまい、熱気と満腹でどこか気怠い空気が流れる。
そんな中、夏彦がぽつりと言った。
「……なんか甘いもん、食べたくない?」
「今かよ」
彰良が笑いながら立ち上がる。冬の夜、甘味の一言で動くのはたぶん、気力の問題じゃない。勢いの問題だ。
「じゃ、買い出し行ってくる。誰か付き合えー」
「夏彦が言い出したんだから、行けよ」と澪。
「こたつから出たくない」と想汰。
「俺が言っただけで、行くって言ってないけどなぁ……」
言いながらも、夏彦はもそもそと立ち上がった。こたつの魔力に抗う気力はないが、出るとなったら出る。それが彼の妙な実直さでもあった。
玄関でマフラーを巻き、ドアを閉めると、夜の空気が思いのほか冷たかった。
道の端にはうっすらと雪が残っている。凍っているわけではないが、足元は少し滑りやすい。彰良が注意深く歩きながら、ポケットに手を突っ込んで言った。
「……なんかさ、年末って独特じゃね?」
「独特?」
「たとえば、普通の日に同じことしてても、ただ遊んでるだけって感じなのに、年末にやると妙に“今年の締め”っぽくなるというか」
夏彦はふっと笑って、吐いた息で白くなる空気を見た。
「空気がそうさせるんじゃね? みんな浮き足立ってるし」
「だなー。別に昨日と何も変わってねえのに」
小さな公園の横を通り過ぎると、滑り台に霜が降りていた。誰もいないブランコが、かすかに風に揺れている。
「でもまあ、俺は好きだな。こういう“終わってく感じ”」
「珍しいな。お前って、もっと“始まるほう”が好きなタイプかと思ってた」
「始まりも好きだけどな。……でも最近、終わるのも悪くねえって思うんだよ」
足音が、アスファルトに淡く響く。
「今年はさ、いろいろあったじゃん。テストも文化祭も、雪の降る日も、なんかさ。どれも大したことないように見えて、後から思い出すとじんわり残ってるっていうか」
夏彦はうなずいた。無言で、だがわかっているという空気で。
「俺さ、“選ばなかった方”とか、ちょっと気にする癖あるじゃん」
「うん。知ってる」
「でも、今日こうして笑って鍋囲んで、意味もなく賞状配ったりしてさ。それがなんか、“選んでよかった”って思わせてくれんだよな」
信号が赤になって、二人は横断歩道の前で立ち止まった。
「後悔とか、未練とかさ。あってもいいんだと思う。でも、それも含めて、また笑えるってすごくね?」
「……うん」
夏彦の声は小さかった。でも、ちゃんと届いた。
やがて信号が青に変わり、二人はまた歩き出した。コンビニの明かりが見えてくる。年末だからか、店内は妙に賑わっていて、レジ前には年越しそばやらおでんやらが並んでいた。
「プリンとチョコレートと……あとアイス買ってこうぜ」
「誰が食うんだよ、それ」
「俺。あと澪はたぶん黙って食う。想汰はたぶん最初に食い尽くす」
「……じゃあ俺の分は?」
「ちゃんと買っとくよ」
冗談のように見えて、そこには確かな信頼がある。二人でコンビニ袋を提げて帰る道すがら、今度は夏彦がぽつりと呟いた。
「……年末の空気、俺も嫌いじゃないかも」
彰良は顔を向けなかったが、口角を少しだけ上げた。
「だろ?」
その一言に、静かな笑いが返る。
この夜が終わっても、明日は来る。
だけど、この年末だけは、今日しかない。
そんな、どうでもよくて、でもちょっと大事なことを思いながら、二人はまた、灯りのともる居間へと帰っていった。
───
夜も更けて、部屋の中はすっかりあたたまり、こたつの中心にはとっくのとうに空になった鍋と、買ってきたスイーツの空き容器がいくつか転がっている。
スピーカーからは夏彦の持ち込んだカセットテープが流れていて、どこか懐かしさのあるローファイな音が、空気の奥で波紋のように広がっていた。
「……さすがに眠い」
澪がそう呟いて、壁にもたれかかる。半分こたつに沈み込みながら、まぶたがとろりと落ちかけていた。
「そりゃ、遅れてきて食って笑って満足したら眠くもなるわなー」
彰良がそう言って笑う。
「いや、お前が一番うるさかっただろ」
「俺はテンションで持ってる生き物なんで」
こたつの反対側、想汰はすでにうつらうつらしている。腕を枕にして、微動だにしない。いつからか分からないが、空気の一部のようにそこにいる。
「文蔵、寝た?」
「寝てはない」
想汰は短く返して、しかしそれ以上言葉は続かない。
「それは寝る一歩手前のやつだな」
そんな他愛のない会話が続く中で、彰良がふと思い出したように、座布団の下から薄い紙袋を取り出した。
「……よし、じゃあこれ」
「ん?」
「今年の締め。もう一つ、お前らに渡すもんがある」
そう言って、彼は順番に袋からカードを取り出し、みんなの前に置いていった。
想汰には、先ほどの無口大賞の表彰状と一緒に、白黒の濃淡で描かれた教室の一隅。机に座って窓の外を見る彼の後ろ姿がスケッチされている。
「……いつの?」
「夏前?たぶん。なんか“ちゃんといる感”が強かった日」
想汰は、無言のままカードを手に取って、それをじっと見つめていた。
澪のカードには、夕焼けの空の下で佇むシルエットと、「歩くように、揺れずにいた君へ」という言葉が添えられていた。
「……」
澪は少しだけ息を吸って、スケッチを見つめる。少し照れくさそうに目を逸らしたあと、低く、しかしはっきりと告げた。
「……ありがとね」
夏彦のカードには、スピーカーの前でうたた寝する姿と、足元で丸まっている猫のような何かが描かれていた。「眠そうで、でも目を閉じなかった日」という文字。
「これ、俺? 猫いる?」
「猫っぽいやつ。イメージ。たぶん音の精霊かなんか」
「俺にしか聴こえないやつ?」
「それ」
「お前、結構こういうの好きだよな」
「まぁね」
そして最後に、誰からともなく目が彰良に向いた。
「で、お前のは?」
「俺のは、まあ……自分じゃ描けねぇからなし。代わりに、これで締めようぜ」
彰良は、残った最後の封筒から一枚の紙を取り出した。
そこには、四人の背中。並んで歩いているような姿が、少しだけ誇張された線で描かれていた。誰の顔も描かれていない。ただ背中だけ。でも、それで分かる。それぞれの髪型や、立ち方や、距離感で。
「“いてくれてありがとう大賞”ってことで。これが一番伝えたかった」
沈黙が、部屋に落ちた。
でもそれは、気まずいものじゃなかった。
火が落ちた鍋の残り香と、空気の中に溶け込んだBGMが、静かにその沈黙を包んでいた。
やがて、想汰が言った。
「……来年も、記録するよ」
「おお、宣言した。来年の無口大賞も文蔵確定」
「それ、連覇しても嬉しくない賞だよな」
夏彦が笑い、澪が少しだけ肩を揺らして笑った。
「でも、いい夜だったな」
「……うん。なんか、“今年終わっても、また会える”って感じする」
「そりゃ、会えるだろ。俺らだぜ?」
彰良のその言葉に、誰も否定はしなかった。
そのまましばらく、こたつの中で話したり、黙ったり、ただ時間を流すように過ごしていた。
年末の夜は、もうすぐ明ける。
でも、終わることは怖くない。
この四人でまた、新しい何かを始められると思えたから。
「……じゃあまた来年な」
その言葉が、夜の底に染み込んでいくように響いた。
外では小さな風の音が、どこかで雪を運んでいた。