冬の空は、朝と昼と夜の境が曖昧だ。
白くくすんだ光の中、四人の影が歩く。空気がきりっと冷えて、吐く息が煙のように立ちのぼる。足音だけが静かに並んで、まだ人の少ない道を進んでいく。
「……ほんとに誰もいないな、ここ」
朝倉彰良が、息を吐きながら言った。白いマフラーに顔をうずめたまま、目だけは楽しげにきょろきょろしている。
「それがいいんじゃん。静かなとこ、落ち着くし」
隣を歩く日暮夏彦が、ポケットに手を突っ込んだままぽつりと返す。その片耳には、いつものようにイヤホン。けれど今日は何も流していない。
四人は、桐明谷神社へ向かっていた。
住宅街から少し外れた小道にひっそり佇む、地元の人たちが「お参りはここでいいよね」と親しんでいる、こぢんまりとした神社だ。
「初詣って、元日に行くもんじゃないのか」
文蔵想汰がふと呟く。表情は変わらないが、手には新しいノートを持っている。表紙には金色のシールが貼られ、“20○○年”の文字が小さく光っていた。
「だからいいんだって。混んでるの嫌だし、これくらいが俺らっぽくて良くない?」
彰良が答えた。軽口のようでいて、どこか本気だった。
そして、その後ろを歩いていた椿原澪が、少し間を置いて言う。
「……ここ、雪とも来たんだけど」
「お、のろけか? 二回目の参拝、神様もびっくりじゃない?」
「……違う。お前らとも、ちゃんと来たかっただけだよ」
そう言って、少しだけ前を向いた。顔は見えなかったが、歩幅がわずかに伸びた気がした。
「澪さー……そのうち“参拝ジャンキー”って呼ばれそう」
夏彦が笑いながら言うと、澪は小さく肩をすくめただけだった。
四人の足音が、石畳の上で交錯する。
境内の鳥居が見え始めた頃、風がさっと吹き抜け、木々の枝を揺らした。竹に結ばれたしめ縄が、かすかに鳴る。空は雲が切れかけていて、薄い光が差し込んでいた。
「願い事、決めてきた?」
彰良がふと尋ねると、夏彦は「うーん」と首を傾けた。
「録音できるご利益とかあればいいけど。あ、あと食費が浮くとか」
「神様、結構困る願いだなそれ」
「でもさ。願いって……言葉にしたらちょっと軽くなる、みたいなとこあるじゃん」
「それな」
即答したのは、意外にも澪だった。
言葉にしたら軽くなる。
でも、それが悪いわけじゃない。
今ここで、四人でこうして歩いてるってだけで、じゅうぶんに「新年らしい」気がしていた。
「……なんだかんだで、またこうして来年も来そうだよな」
彰良がふと呟くと、想汰はほんの少しだけ頷いた。
「この四人で、ってのが大事なんだろ」
夏彦が、空を見上げながらぽつりと言った。
神社はもうすぐそこだ。
長く連なる石段の上、しめやかに佇む拝殿が、冬の空気に染まりながら、四人を迎えるように静かに息をしている。
「じゃ、行くか」
「うん」
「……ああ」
「……」
誰かが立ち止まれば、誰かがそのまま待つ。
誰かが歩き出せば、自然に歩幅がそろう。
そんなふうにして、四人は石段を登っていった。
それぞれの胸に、まだ言葉にならない願いを隠したまま。
───
桐明谷神社の境内に入ると、空気が一段と澄んで感じられた。
吐く息も、足音も、背中越しの気配も、すべてが淡く、冬の光に溶けていくようだった。
鳥居をくぐる時、誰かが小さく息を吐いた。
賑わいのない静かな神社には、遠くの風鈴のような鈴の音が響いていて、誰もが自然に声をひそめた。
「……ちゃんと二礼二拍手一礼、ね」
そう言ったのは彰良だった。冗談めかした口調の中に、どこかきちんとした敬意がにじんでいる。
四人は列になり、少しずつ拝殿へと歩みを進めた。
先頭に立ったのは澪だった。
ポケットから取り出したお賽銭を丁寧に投げ入れ、手を合わせる。
彼はすっと頭を下げ、白い息を吐きながら、静かに鈴を鳴らす。
澄んだ音が空に吸い込まれていった。
その背中は、言葉少なな彼らしく凛としていて、祈りの姿がそのまま澪の輪郭を映しているようだった。
「……」
何を願っているのかはわからない。
ただ、ほんの少しだけ、肩が揺れた。
冬の光が彼の横顔にかすかに射し、瞼の影が長く落ちた。
続いて夏彦が前に立った。
鈴を鳴らす指先がいつもよりゆっくりと動く。
彼はお賽銭を入れると、手を合わせる前に一拍、空を見上げた。
「……どんな音が、届くかな」
それは声にはならなかったが、口元がわずかに動いていた。
ぱん、と鳴った柏手は、澄んだ空気を柔らかく振るわせた。
彼の中にあるたくさんの“残してきた音”と、“これからの音”とが、そこで一瞬交わったように見えた。
彰良が三番目に進む。
少し照れくさそうに鈴を鳴らしてから、勢いよく柏手を打った。
「よっ、今年もよろしくってことで!」
……なんて言いそうな顔をしていたが、実際には何も言わなかった。
手を合わせたまま目を閉じて、ひと呼吸。
ふざけた笑顔の裏で、彼がどんな思いを隠しているのか、仲間たちは皆、なんとなく知っていた。
それでも彼は、笑っていた。
「願うより、今を楽しめ」
その背中が、そう語っているようだった。
最後に想汰が進む。
鈴の音は、ひときわ静かに響いた。
彼は何も言わず、何も見せなかった。
ただ、お賽銭を落とし、二度、頭を下げる。
柏手を二度、静かに打つ。
そしてもう一度、軽く頭を下げる。
二拍の間に、呼吸が混ざった。
目を伏せたまま、掌を重ねる。
その所作はまるで、記録を取るように慎重で、しかしどこか、優しかった。
(何を、書き留めようとしているのか)
きっと、それは“誰にも見せない記憶”だ。
四人が並び終えたときも、境内には誰もいなかった。
冬の木立がざわりと鳴る。
空は淡い青。雲がゆっくりと移動して、光が枝先に舞い落ちた。
拝殿の前で、誰ともなく並んだまま、四人は少しの間立ち尽くしていた。
それは、祈りの余韻のようでもあり、言葉の代わりに共有する“沈黙”でもあった。
「……んー、よしっ」
彰良がぽんと手を叩いて、振り向いた。
「とりあえず今年も、楽しくやってこーぜ」
その言葉に、誰も返事はしなかったけれど、
夏彦が微笑み、澪が小さく頷き、想汰がノートを開いた。
風がひとつ吹いて、鈴がもう一度だけ揺れた。
それは、静かな祝福のような音だった。
───
参拝を終えた四人は、境内の隅にある小さな授与所へと向かった。
「なーなー、みんな引くっしょ? おみくじ」
そう言い出したのは、やはり彰良だった。
夏彦はすでにカセットプレーヤーをポケットから取り出し、準備万端といった顔で「結果によっては録音対象」と呟いている。
「お前……吉と凶で録るかどうか決めてるの?」
「いや、だって“大吉”だったら今年ずっといい音入りそうじゃん?」
「それ、完全に偏見だよね……」
澪が小さく笑いながら指摘すると、夏彦は真顔で「偏ってるから音になる」と返した。
文蔵は何も言わず、既に一枚、白いおみくじを引いて開いていた。手元のノートにさらさらと書き留める姿は、まるで読書メモのようだ。
「……なんだった? 凶?」
彰良が覗き込むと、想汰は淡々と首を横に振った。
「末吉。……内容は、面白かった」
「そっち!? ……いやでも、それも大事か」
文蔵は、折り畳んだおみくじをポケットにしまった。結ばず、持ち帰るつもりなのだろう。
そんな彼の仕草を、夏彦がぼんやりと見つめる。
「……じゃあ俺の、録っといて」
唐突に夏彦がそう言った。
想汰は少しだけ眉を上げたが、無言のままカセットを受け取る。
再生ボタンを押して、録音が始まった。軽く風の音が入る。
「よし。……んー、俺は、吉でしたー。内容は、なんか“焦らず進め”って感じー」
彼らしいゆるい声が、カセットの中に記録されていく。
「おみくじって、未来っていうより、今の自分の読み解き方だよねー」と続ける言葉は、どこか気楽で、どこか哲学的だった。
「……そっちは?」
夏彦が、彰良と澪に視線を投げた。
「んー、俺は……中吉! “たまには立ち止まって景色を見よ”だってさ。オレに言われなくてもちゃんと景色見てくれるメンバーがいるんで、大丈夫っすね〜!」
そう言いながら、彰良は軽く四人を指で差してみせた。
ふざけているようで、どこか本気。そんな調子に、澪も口元をほころばせる。
「俺は……小吉、だった。“気を抜いたところでこそ、信頼は試される”……とか」
「おお、真面目〜」
「……うるさい」
ひとしきり笑いがこぼれたあと、それぞれが引いたおみくじを、風になびかせながら指で弄ぶ。
澪はそれを静かに結び、夏彦は録音を止め、想汰はノートのページを閉じた。
境内をあとにする頃には、冬の日差しが傾きはじめていた。
夕方にはまだ早い、午後の淡い光が、背中にやわらかく射している。
「なあ、願いごとって、どこまでが“神頼み”なんだろうな」
帰り道の途中、ぽつりと彰良が言った。
皆、特に返事をしなかったけれど、誰もその言葉を流しはしなかった。
「……頼んでも、どうせ自分で動くしかないじゃん」
「そうだね。でも、願うことで始められることもあるよ」
「録ってもご利益あるかな」
「記録しない願いも、ちゃんとある」
何気ないようで、それぞれの思考がにじむやり取りが、ぽつりぽつりと続いた。
やがて、いつもの交差点に差しかかる。
この道を越えれば、いつもの帰り道。それぞれの方角へと分かれる場所だ。
「じゃあさ、今年もさ───」
彰良が、足を止めて言った。
「……今年もさ、よろしくな」
そう言って、いつもの笑顔を見せる。
真顔に近いけど、ちゃんと笑っている、彼なりの“始まりの合図”。
「こちらこそ」
「録音済み」
「うん。よろしく」
全員がその言葉を受け取り、そして、笑った。
風がまたひとつ吹いて、四人の背中に小さな始まりを告げた。