新春!書初め大会
廊下に冬の空気が漂っていた。窓の外はまだ白く曇り、吐く息がくっきりと形になる。
始業式当日、校舎は久しぶりに戻ってきた生徒たちの声で少しだけ浮かれていた。
「うわ、正月ボケがえげつない」
「なあ、もう三学期って早くない?年越した感ないんだけど」
「お年玉って一瞬で消える呪いでもかかってるよな」
そんな取り留めのない会話があちこちで飛び交うなか、2年7組の教室もまた、四限組の姿とともに平常運転だった。
「……っし。今年の目標、決めたぞ」
登校してくるなり、朝倉彰良が勢いよく話し出そうとする。
寝癖が跳ねているのも気にせず、彼は自信満々の顔で腕を組む。
「なんだ、また“目立つ”とか“モテる”とか?」と、こたつのようにぬくもりを求めて机に顔を伏せていた日暮夏彦が片目だけ開ける。
「ちげーし!今年の目標は、“人生に煌めきを”だ!」
「……言葉の大きさと中身の薄さが比例しててすごいな」
「夏彦、休み明けから毒舌すぎない? もっとこう、“あけおめ!”ってテンションで来いよ」
ひとしきり突っ込まれながらも、彰良は上機嫌だった。ポケットにはお気に入りのペンが差してあり、鞄のなかにはなぜかスケッチブックが入っている。
そのうち、文蔵想汰も静かに教室に入ってきた。
手袋を脱いで、ふわりとした白い息を吐きながら、いつもの席に着く。
椿原澪もほどなくして到着し、静かに挨拶を交わすと、同じく何事もなかったかのように椅子を引いた。
「おはよう。……今日は雪、降らなかったね」
「予報は曇りだったし、今年は乾いた正月だってさ」
「そうか」
そんなやりとりのなか、唐突に校内放送が響く。
『えー……皆さん、おはようございます。生徒会です』
声の主は、書記の橘薫だった。穏やかで落ち着いた語り口が、教室内のざわつきを少しだけ和らげる。
『本日、始業式のあと……第一体育館にて、生徒会企画「新春!書初め大会」を開催します。参加は自由ですが、各クラスから代表1名ずつの壇上披露も予定しています』
『筆と半紙はこちらで用意していますので、手ぶらでご参加いただけます。なお、イベントの発案者からひとこと。』
一瞬の沈黙の後、放送は奇妙な熱量をもって続いた。
『「皆さん、あけましておめでとうございます。生徒会長の橋ヶ谷です。筆を持つという行為は、まるで空に願いを描くようなものです。今年の始まりを、この空白に浮かべてみませんか。星は、無音に輝くのです。』
教室の動きがぴたりと止まった。
「……なんかいま、異星人が喋ったみたいな気分になった」
「橋ヶ谷くん、年明けからギア入ってるな……」
「無音に輝く、か。綺麗だけど……これ、普通にポエムでは?」
半ば笑い、半ば呆れながらも、四限組の4人はそれぞれに気配を変えていた。
椿原澪は少しだけ目を伏せ、手帳を開いてその一言をそっと書き留める。
文蔵想汰はペンを回しながら、校内放送の響きを耳の奥で反芻していた。
日暮夏彦は片耳のイヤホンを外し、「書初めかあ」と小さく呟く。
「音って書いてもご利益あるのかな」
「お前は録音でご利益を得ようとするなよ」
彰良はすでにやる気満々だった。腕まくりして、目を輝かせながら語る。
「よし、決めた。俺は【煌】って書く。きらめき!もう、バッシバシに!キラッキラに!」
「また派手な字だな……どうせ周りの目を引きたいだけだろ」
「ちっちっち、浅いぞ夏彦。これは“宣言”だからな。今年は“眩しいぐらい前向きに”いくっていう、自分への意思表示ってやつよ」
「なるほど。言ってることは意外と真面目なのに、字面がエンタメ寄りなのが彰良っぽいな」
教室のざわめきのなか、新年最初の授業が始まろうとしていた。
そしてその前に、“言葉にする”という不思議な行為が、彼らを待っている。
───
第一体育館には、冬の日差しが大きな窓から斜めに差し込んでいた。
床に敷かれたシート、その上に並ぶ白い半紙と、光を受けて黒く光る墨壺。
寒さを和らげるヒーターの低い唸りと、生徒たちのざわめきが、年始らしい浮き足だった空気を生んでいた。
「やっぱり、書道って独特の緊張感あるよなあ」
「静かなのに、妙にざわつく感じ。苦手じゃないけどさ」
「筆、握るの何年ぶりだろ……」
生徒たちの声は、期待と不安と、ちょっとした照れが混ざり合っていた。
壇上では、各クラス代表が一文字ずつ披露していく。
それを見守る形で、他の生徒たちも自由に筆を取っていた。
四限組の面々も、その一角にいた。
「よーし、やるか……!」
朝倉彰良は、筆を勢いよく持ち上げると、意気揚々と半紙に向かう。
その背中を見て、今泉秋明が遠くから叫ぶ。
「おい朝倉、お前そのテンションで墨こぼすなよ!? 俺がどんだけ準備したと思って──」
「俺、“書”しかできない男なんで」
「だから“書”の自意識がでかいって言ってんだよ!!」
賑やかなやり取りに笑いが起こる中、彰良は筆を紙の中央に下ろした。
──「煌」
ぐっと力の入った筆遣いで、一画一画を丁寧に、そして勢いよく書き上げた。
派手だが不思議と品のあるその字に、周囲が一瞬目を惹かれる。
「うわ……本当に“煌”って書いた」
「意外と綺麗……いや、でもやっぱ派手」
「でも、似合ってる気がするな。あの人っぽい」
彰良はちょっと照れくさそうに笑いながら、自分の字を眺めていた。
「……“輝いてたい”って思ってるのかもな、俺も」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた声は、床に落ちた墨の匂いに溶けて消えた。
隣では、日暮夏彦が筆をくるくると回していた。
彼の周囲にはなぜか人だかりができていて、「何書くの?」「意味深なやつにしてよ」などと軽口が飛ぶ。
「……よし」
筆を立てる。動きは迷いがなく、しかしどこか柔らかい。
──「音」
その一文字を見て、何人かが「それっぽい!」と声を上げた。
「え、それ意味深なやつじゃない? 去年のこととか?音で残してるやつでしょ」
「……なんとなく、だけどね」
夏彦は笑った。ほんとうに、ただそれだけのような顔で。
けれど、その字にはたしかに、“彼にしか聞こえないもの”が込められていた。
その頃、文蔵想汰は少し離れた位置で、半歩引いたように全体を見ていた。
最初から筆を取るつもりはなかった。記録するのは得意でも、“書く”というのはまた違う行為だと思っていたから。
「……」
だが、そんな彼の前に、無言で筆と紙を差し出す手が現れた。
橘薫だった。何も言わず、ただ目で「どうぞ」と促すような空気を纏っていた。
文蔵は、しばらくその手を見つめたあと、ゆっくりとうなずいた。
そして、静かに筆をとる。
──「憶」
それは、音もなく描かれた文字だった。
誰にも見られていないようで、しかし誰かの記憶にはきっと残る、そんな字だった。
それを後ろから見ていた夏彦が、小さく呟く。
「……あれ、いい音しそうだな」
言葉は風に乗って、誰にも届かないまま通り過ぎていった。
その少し後。
椿原澪はまだ迷っていた。
「……どうする?」と、小柳雪が隣で囁いた。
澪は少しだけ頷く。目の前には空白の半紙。すでに何人もの字が並ぶ中で、自分が書く意味を考えていた。
「……書いてみれば?」
雪の声は、どこか優しく、そして背中を押すようだった。
澪は静かに筆を取り、目を伏せる。
──「続」
凛とした線だった。抑制のきいた筆致でありながら、どこか芯のある佇まい。
見ていた生徒が「おぉ、上手い……」と息を呑む。
「え、あの人、習字習ってたの?」
「めちゃくちゃ綺麗……てか、雰囲気あるな」
「“続”か……なんか、深いな。うん」
澪は何も言わず、書き終えた半紙を少しだけ見つめたあと、ふっと息を吐いた。
「……いい字だよ」
その隣で、橘薫が呟いた。
澪は驚いたように顔を向けたが、橘はそれ以上何も言わなかった。ただ、その目はどこか優しかった。
こうして、それぞれの筆先に宿る言葉が、体育館の中で静かに並べられていった。
騒がしくも、どこか“静けさ”のある時間。
新しい年の始まりに、それぞれが“今の自分”を一文字に込めたのだった。
───
書初め大会は、昼前には一段落を迎えていた。
壇上に並べられた代表生徒たちの作品、そして体育館の端には、生徒たちが自由に書いた文字たちがずらりと展示されている。賑やかな余韻が残るその光景を背に、生徒たちは徐々に体育館を後にしていった。
「なーんか、筆握るだけでちょっと“やった感”あるよな」
彰良が、手を墨で汚したまま笑いながらぼやいた。手の甲にはまだ「煌」の一文字を書いたときの力が残っている気がして、指先でそれを確かめるように動かす。
「“俺が光る”とか、“光になりたい”とか、そういうのじゃないんだよな……」
つぶやいた声は小さくて、隣の夏彦にすら届かなかった。
片付けが進む中、夏彦は壁際の作品を眺めていた。
自分の書いた「音」が、少し右に傾いて掲げられている。筆圧が弱すぎたかもしれない。けれど、
「うん。……やっぱ、ちょっと去年の音だな、これ」
思い出していた。テープの中にしまった年末の空気と、あの鍋の湯気と、笑い声と。
きっとあれも、こうして“何かの形”で残るのかもしれない。
その横で、澪は「続」と書かれた半紙の前に立っていた。
静かな字だった。けれど、ただ“綺麗”なだけではなく、“そうであろう”とする意志がにじんでいた。
雪の姿は近くになかったが、不思議と“隣にいる感じ”は消えていない。
続いていく日々、続けていく関係、続いていける自分。
言葉にはしないけれど、その全部を、あの一文字で願ったのかもしれない。
少し離れた掲示エリアの最端。まるで誰にも気づかれない場所に、小さな紙が一枚、斜めに貼られていた。
「憶」
紙の端は少しよれていて、文字は無言のように佇んでいる。
だが、それはまるで“残すために書かれた”ように、静かに空間に存在していた。
それを見た生徒が「私結構これ好きかも」と言っている。
近くにいた想汰は、それに気づいたような、気づかないような表情で、何も返さなかった。
ただ、ポケットからいつものノートを取り出して、そっと何かを書き足した。
今泉は、汗だくになりながら用具の整理をしていた。
「筆の洗い物、地味に大変なんだよこれが……!」
その横を彰良が通りかかり、空の墨壺を差し出す。
「はい、感謝の墨です」
「いらん感謝だよ!」
二人のやりとりに、橘が静かに笑った。
「でも、面白かったですね」
「うん。意外とみんな、いろんな字書くんだな」
その場の空気はもうすっかり日常に戻っていたが、どこかに“余韻”が漂っていた。
言葉にならないまま残る、感触のような、気配のようなもの。
最後に体育館を出るとき、彰良はふと立ち止まり、掲示された四人分の字を見て回った。
「……俺たち、わりとバラバラだな」
「でも、全部“それっぽい”な」
夏彦が応じる。手には自分の「音」のコピーがあった。
「「自分」が一文字に出るって、なんか不思議だよな」
「言葉ってさ、書くと残るんだよね。思ってるだけと違ってさ」
「……想汰、それ記録してる?」
「記録してる」
皆が笑った。
筆は、もう乾いている。
けれど、それぞれの心には、今日の一文字が、少しだけ色を落として染み込んでいた。
「……じゃ、そろそろ行くか」
「昼メシ何にする?」
「甘いの食べたい」
「はい出た、“年始は脳が糖を欲しがる”理論」
また、笑い合いながら、四人は体育館をあとにした。
そうして、三学期の始まりが、静かに、けれど確かに動き出していた。
放課後、生徒会室の隅。
イベントの報告書を書いていた橘が、ふと、一枚の半紙に目をとめた。
それは、展示から外されたあと控え室に置かれていたもの。澪が書いた「続」だった。
静かに筆が運ばれた跡が、どこか柔らかく、凛としていた。
「……良い字だね」
そう呟いた橘に、満作がふわりとした声で応じる。
「書くって、不思議ですよね。“言わなかった気持ち”が、残る」
「うん。“誰かに伝える”んじゃなくて、“自分で見る”ための文字ってあるなって」
「そう。星もそうだ。届くかわからなくても、光る。それが美しい」
その言葉に、今泉が横から茶々を入れる。
「いやいや、お前はもう黙ってろ。報告書、比喩表現が多すぎんの!」
橘がくすっと笑って、筆を止める。
「でも、たぶん……いい学期の始まりでしたね」
それぞれが書いた一文字は、やがて回収され、まとめて廊下の掲示板に張り出された。どれも違って、どれもその人らしくて、どれも“今”だった。
新年の始まり、三学期の初日。
書かれた言葉たちは静かに並びながら、まだ言葉にならない“願い”を、きっと誰よりも先に、分かってくれていた。