気温は三度。昼の太陽は申し訳程度に雲の切れ間から覗くだけで、風はびっくりするくらいに冷たかった。まるで誰かのため息みたいに、白い息がそこら中に浮かんでいる。
そんな日の昼休み、第2グラウンドには、四限組の姿があった。
「寒っ……手袋してても指先死ぬ……」
ぶるぶると肩をすぼめながら、日暮夏彦がグラウンド脇のベンチに座って震えていた。マフラーをぐるぐるに巻いていても、その下の頬は真っ赤に染まっている。
「夏彦〜! 逃げんなよー! ほら、はじめるぞ!」
白い息を吐きながら叫んだのは、朝倉彰良だった。上着を脱いで、制服のシャツ姿。ネクタイもせず、袖をまくった腕には薄っすらと汗の気配がある。
「……お前ら、頭おかしいんじゃない?」
遅れてやってきた椿原澪が、半分呆れたように呟いた。コートの襟元をきちんと整え、マフラーも巻いたまま、彼は安全圏からそれを見ていた。
「おう、知ってる。てか、今日めっちゃ寒くね? 動いてんのに寒いって、バグってんだろこの気温!」
彰良が叫びながら足踏みする。その動きに合わせて、足元の砂がぱらぱらと跳ねた。
続いて姿を現したのは、文蔵想汰。カバンを肩にかけたまま、冬の陽差しに目を細めながら歩いてくる。
「……何してるんだ、お前ら」
「見ての通り! 鬼ごっこ!俺しか走ってないけど!今このグラウンドで最もアツい娯楽!参加者絶賛募集中!」
「……昼休みだぞ」
「だからこそだ! クソ寒い中でバカみたいに全力で走る! それが青春ってもんだろ!」
意味不明なテンションで力説する彰良に、想汰は小さくため息をついた。
「……俺はやらんぞ」
「いいからほら、上着脱げ! 暑くなるから! 気づいたら汗だくになってるから!」
「……それは風邪をひくフラグじゃないのか」
「知らん!! でも止まらん!!!」
そんな騒ぎを見て、夏彦がやれやれと立ち上がった。
「……もうちょい寒いとさ、逆に動かないと死ぬから。うん、運動は正しい」
「でしょでしょ? 理にかなってるだろ?」
「まあ、理屈ではね」
そう言いながら、マフラーを外してベンチに投げるように掛けるむ夏彦。その手には、なぜか倉庫から持ってきたボールが握られていた。
「とりあえず、投げる?」
「投げよ!」
勢いよく始まったのは、鬼ごっこなのかボール当てなのか、はたまた冬季限定全力ドッジボールなのかよくわからない遊びだった。だが、そんなことはどうでもいい。とにかく走る。逃げる。叫ぶ。追いかける。冷たい空気を切って、全力の笑い声がグラウンドに響く。
「うおおおおお!! 寒いけどアツい!! アツいけど寒い!! どっちだ!!?」
「バグってんのはお前の体感温度だよ!」
「黙れ! 夏彦捕まえたァァァ!!」
「ぎゃーっ、彰良の手冷たっ! 氷の魔手かよ!」
いつの間にか、想汰も上着をベンチに置いていた。黙っていたわりに、走る姿は誰よりも本気だ。低めの姿勢から一気に地を蹴って、逃げる夏彦をすっと追い抜く。
「……はやっ!? 想汰、お前本気出すと怖いな!?」
「だから言っただろ、俺はやらんって。俺が一番早い」
「言ってたけど参戦してるんだよなあ!!」
騒ぎの中心から一歩離れて、澪はじっとその様子を見ていた。頬にかかる前髪が風に揺れ、細く白い息が吐き出される。
「……バカだよ、ほんと」
そう言いながらも、彼の足は一歩ずつ騒ぎの方へ向かっていた。
そして、彰良の「澪ー! 来いよー!!」という一声に、澪は肩をすくめながらも小さく走り出す。
「……もう、寒いんだから……」
その声が聞こえたかどうか、他の三人は一斉に笑いながら、澪の方へと駆け寄った。
凍える空の下。白い息が重なり合って、グラウンドの隅に、冬なのに妙に熱い空気が生まれていた。
───
叫び声が、風にちぎれていく。
グラウンドの隅では、寒空の下でシャツ姿の高校生たちが真剣な顔で走り回っていた。
まるで部活の練習のようだが、違う。これには目的も点数も、勝敗さえない。
ただひたすらに、笑って、逃げて、追いかけて。
「待てコラーッ! 夏彦! 次こそ当てる!!」
「お断りだバカ! 俺は氷属性なんだよ! スピードにバフ乗ってるから!」
そう叫ぶと、夏彦は左にステップを切って回避。
彰良の放ったボールは空を切り、雪雲を背景に高く跳ねた。
「くそっ……でもなんか暑くない!? 気のせい!? いや、気のせいじゃない! 俺、今めっちゃ汗かいてる!!」
肩で息をしながら、彰良が制服のシャツをパタパタと煽ぐ。
白い息の中で、額に浮いた汗が光る。
「……まあ、動けばそうなる」
隣を駆け抜けたのは文蔵想汰だった。息ひとつ乱さず、ボールを拾って反転し──
夏彦に向かって一直線に投げつけた。
「わっ、待っ──ちょ、マジで!?」
ボールは夏彦の肩を軽くかすめ、そのまま地面に落ちた。
「……あ、当たった?」
「いや、たぶんギリ。アウトにはしないけどさ、想汰、手加減って知ってる?」
「これでもしてる」
平然とした声が返ってくる。
その額にも、うっすらと汗。息を吐けば白くなり、すぐにそれが風にさらわれていく。
視線を少し外せば、澪がベンチのそばで上着の前を開けていた。
彼もまた、数分前まで全力で走っていたうちの一人だ。
頬は紅潮し、前髪の隙間からのぞく額に、数滴の汗が滲んでいる。
「……ほんとに、バカみたい」
ぼそっと漏らしながら、制服の袖をめくる。
呼吸がまだ荒く、冷たい空気に喉が少しだけ焼ける。
「動いてんのに、寒いのか暑いのかわかんなくなってきた」
そう呟いたのは夏彦。マフラーはとうに外した、腕まくりまでしている。
「ほらな! 言っただろ!? この気温はバグってるんだって!!」
どや顔の彰良は、鼻の頭をぬぐいながらガッツポーズを決めた。
そして、くるっと回ってボールを手に持つと、
「よし、次は俺が全員から逃げるターンな!」
「それずるくね? お前一番体力余ってるんじゃん」
「うるせぇ! そういうノリなんだよ青春は!」
「……体力残ってるやつが一番騒ぐんだよな、いつも」
夏彦がぼやき、想汰がそれに頷く。
だが、その二人も、気づけばまた走り出している。
凍った空気が肌を刺すはずなのに、不思議と寒さは感じない。
それより、胸の内側で鳴っている鼓動の方がずっと熱い。
そして、ふと、澪が立ち止まった。
息を吐き、曇ったメガネを指先で持ち上げる。
「……寒さって、忘れられるんだな」
その独り言は、誰にも聞こえてはいなかったかもしれない。
ただ、彰良が笑って振り返る。
「おーい、澪も来いよー! まだ、あと一回戦いけるだろ!」
無言のまま、澪がほんの少しだけ頬を緩めた。
そして、制服の裾を軽く払ってまた走り出す。
その背中を見ながら、想汰がぽつりと呟いた。
「……なんでだろうな。意味ないのに、止まんねぇな」
「意味あったら逆にやんないだろ、こういうのは」
夏彦が笑って答えた。
そのときの息は、さっきより少しだけ透明で、少しだけあたたかそうだった。
───
終了の合図なんてないまま、自然と“その時”は訪れる。
風が強くなってきた。
あれだけ走り回った足取りが、徐々に止まり始める。
手袋をしていなかった指先は赤くなり、耳の感覚も曖昧になってきていた。
「……ちょ、寒っ。なにこれ急に来るじゃん……」
誰よりも汗をかいていた彰良が、今さらみたいに両腕を抱える。
シャツの袖まくりを戻すのも面倒そうにしながら、風に向かって「寒っっっ!!」と叫ぶ。
「だから言っただろ……上着脱ぐからだって」
夏彦がボールを脇に抱えて笑う。彼もまた、耳まで赤い。
マフラーはぐるぐるに巻き直されているが、それでも首筋から汗が冷えてきて、ぞくりとした。
「やばい、汗冷えってこのことだわ……今、超わかる。走った分だけ死ぬやつ……」
「帰りに絶対風邪ひくレベル」
想汰の声も、どこか鼻にかかっている。
制服の前を開けていたせいで、Yシャツがしっとりと肌に張りついていた。
「……でも」
澪が、小さく息をついた。
「……たしかに、寒いけど、なんか嫌じゃなかった」
前髪に残る汗を指でかき上げ、息を白く吐く。
頬にはうっすら朱が残っていて、それがいつもよりほんの少し柔らかく見える。
その言葉に、三人の動きが少しだけ止まった。
そして、彰良が照れ隠しのように肩をすくめる。
「そりゃそうだろ! 汗かくってのはさ、魂の証明だからな!」
「え、なにその中二病こじらせた言い回し」
「えっ、違う!? ちょ、今の割とイケてなかった!? “魂の証明”ってかっこよくね!?」
「証明されても迷惑だわ……俺、もう喉乾いたし」
夏彦が苦笑しつつ、ポケットを探る。
「……ジュース、飲む?」
そう言って取り出した小銭を見せると、彰良と澪が即座に手を上げた。
「買う! 熱いやつ!」
「俺も」
「じゃ、俺もついでに……。想汰は?」
呼びかけると、少し離れた位置で空を見上げていた想汰が、視線だけで応じた。
「……ココア。特に甘いやつで」
「お前……好み女子高生みたいだな」
「うるさい」
無表情で返され、夏彦は肩をすくめた。
そして、四人で並んで自販機に向かう。
グラウンドの端にぽつんと立つそれは、どの缶も温かく見えた。
並んで選びながら、缶を手にしたときのじんわりした温度に、全員がほっと息を吐く。
その息も、まだしっかりと白かった。
「……やば、指先まであったまる……」
澪が言いながら、コーンスープの缶を両手で包む。
「魂、証明された気する」
それを聞いて、彰良が満足げに頷いた。
「だろ!? 俺の言ったこと、間違ってなかったろ!?」
「うるさい、寒い、でもまあ……」
想汰が一口飲んでから、ぼそりと呟いた。
「たしかに、悪くはないな」
「それだな……」
夏彦もふわっと笑った。
寒さも、疲れも、何もかもが全部混じったまま。
でも今は、それすらどうでもよく思える。
放課後まで、まだ授業が残っている。
でも、昼休みにこんなふうに全力で汗をかいて、バカみたいに笑った記憶はきっと、心のどこかに、あとを残すだろう。
目の前には、缶の熱気
その向こうに、わずかにきらつく空気。
「……あれ、雪?」
澪がそう呟いたとき、ほかの三人も空を見上げた。
白い何かが、ちらりと舞ったような気がした。
「……いや、違うか」
夏彦が、目を細めて笑う。
「まだ、降らないっぽい」
「でもきっと、またそのうち来るな」
彰良の声に、誰も返事はしなかった。
ただ、並んだまま、自分のドリンクを口にする。
それぞれの呼吸が、白く揃う時間。
1月の、クソ寒い昼休み。
でも、きっとこの瞬間だけは、温かかった。
───
缶から立ちのぼる湯気と、自分たちの白い吐息が、いつしかひとつに溶けていく。
自販機のそば、並んで腰をかけたコンクリの縁は冷たかったけれど、背中がふれそうなくらいの距離にいることが、思いがけず心地よかった。
「はー……。あったけぇ……」
彰良が、文字どおり息をつくように言った。
「ね。あったかいもの飲むと、急に全身思い出すよね。寒いってこと」
夏彦も缶を手の中でころころと回しながら、少しだけ笑った。
澪はコーンスープの飲み口から、最後の一滴まで名残惜しげに口をつけている。
想汰は、自分の缶をじっと見ていた。まだ三分の一ほど残っていたけれど、飲み終える気配はない。
ふと、誰かがつぶやく。
「……この時間、止まってほしいとは思わないけど」
言葉を切ったのは、澪だった。
指先を缶のふちに添えたまま、遠くを見ていた。
「でも、残っててほしいとは思う」
その声音には、感傷も、願望も、あまり混じっていなかった。ただ、静かで、正直だった。
そして、誰も否定しなかった。
ただ、彰良が少しだけ口を開いた。
「……わかる。止めちゃったらつまんねーし、でも全部流れるのも、もったいないっていうか」
それを受けて、夏彦がひとつ小さく笑い、「録音しとく?」とからかうように言った。
「……白い息の音、録っても伝わらないだろ」
「じゃあ想汰に記録してもらうか。今の空気感、《オムニバス》のどっかに一ページくらい刻んでもらってさ」
「俺の脳内図書館、バカみたいな会話ばっかになるぞ……」
想汰が缶を軽く振りながら呟き、澪がふ、と笑う。
その笑い声が、風に乗ってひときわ遠くまで響いた気がした。
缶を飲み終えたあと、それぞれの指先にはまだ余韻のような熱が残っていた。
「……そろそろ戻るか」
夏彦が立ち上がりながら言った。
グラウンドの隅にまだ続いていた足跡たちが、白く乾いた土の上にうっすらと残っている。
昼休みのチャイムは、まだ鳴っていなかった。
でも、そろそろ動き出すタイミングだというのは、誰にも言われなくてもわかっていた。
「このあと、古典だよなー……」
彰良が頭を抱えるフリをする。
冬の光に照らされて、うっすらと汗の乾いたシャツが浮かび上がっていた。
「その髪のまま行くと、先生に一発でバレるぞ」
「マジで? 濡れてるとこ見せなきゃバレなくない?」
「……ほら、そっちはもう濡れてんだよ。後頭部」
「うわマジ!? くそ、澪、ちょっと乾かせ──」
「なんで俺……」
「お前が一番冷静だろ!」
「理不尽にもほどがあるな」
そんなやりとりを続けながら、四人は並んで歩き出す。
歩幅はばらばらだけど、足音は不思議と揃っていた。
風はまだ冷たかった。
でも、上着の内側にほんのりと残った体温が、外気との境界を保ってくれていた。
足元を見れば、靴の跡がぽつぽつと続いていた。
さっきまで汗をかいて駆け回っていたのが嘘のように、いまはただ、穏やかな歩調がその上をなぞっている。
「……またやる?」
夏彦がふいに口を開いた。
「バカみたいに走るやつ。冬のうちに、もう一回くらいさ」
誰もすぐには答えなかったけれど、歩くリズムがほんのわずかだけ弾んだような気がした。
そして、彰良が笑った。
「やるに決まってんだろ! クソ寒いけど、止まんねぇからな!」
澪が顔をしかめる。「うるさいな……」
でもその声に、きらりと笑みがにじんでいた。
想汰は何も言わずに、その言葉を受け取るようにうなずいた。
小さく、でもはっきりと。
寒くて、どうでもよくて、でも最高にあったかい時間だった。
その日の午後、雪は降らなかった。
でもそれは、きっとどうでもよかった。