放課後に、僕らは   作:やまざる

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番外編:観測者の休日

 

 日曜日の午前九時。

 橋ヶ谷満作は、まだ布団のなかにいた。

 

 カーテンの隙間から差し込む陽光はやわらかく、部屋の空気はひんやりとしている。冬の匂いがする。暖房のついていない寝室で毛布をかぶったまま、彼はじっと天井を見ていた。

 夢はもう消えていたが、残響だけが頭の奥に貼りついている。音のない記憶のようなものだった。

 

 コンコン、と部屋のドアが小さく鳴る。

 

「兄ちゃん。起きてる?」

 妹の声だ。柔らかくはあるが、少しだけ刺さる温度を帯びている。

 

 満作は目を瞬かせ、咳払いをひとつ。

 

「……観測は、始まっている……だが、布団からの脱出は未完了だ……」

「バカなこと言ってないで起きて! 本屋に行くって言ったでしょ?約束、忘れてないよね?」

 

 どうやら、妹は約束を忘れていなかったらしい。

 

 満作は苦笑しつつ体を起こし、枕元に開きっぱなしになっていたノートパソコンをそっと閉じて脇に置く。寝落ちする前まで、彼は何かの星図を開いていたらしい。眠る直前の思考は、まだどこか星の向こう側にある。

 

「僕にとっての“約束”とは、今を基点とした仮説にすぎなくてね……」

「仮説で約束しないで。起きて。もう支度して待ってるから」

 

 淡々とした返しに、満作は頭を軽くかいた。

 妹の名は、橋ヶ谷楓(ふう)。中学一年生にして、橋ヶ谷満作の実質的なタイムキーパーである。

 

 観測者とはいえ、休日の朝には無力だった。

 支度を終えて階段を降りると、リビングでは楓がソファに座っていた。

 

 黒のタートルネックセーターに栗色のボアコート。くるぶしまであるロングスカートにタイツ。シンプルだが整った服装で、いつでも出かけられる準備が整っている。

 

 一方の満作はというと、相変わらず着慣れた長袖にカーディガン、トートバッグ。ポケットには数本のペンと、小さな星図が折りたたまれている。

 

「思ったより早かったでしょ」

「20分も経ってます。兄ちゃんの“早い”は、こっちの“待たされた”に該当します」

 

「なるほど……僕の時間感覚が、一般的な時空とずれている可能性があるわけだ」

「知ってる。でも外の時間は進むからね」

 

 ときどき思うのだが、楓の言葉は妙に大人びている。

 それがしっかり者ゆえなのか、兄があまりにも“浮いている”からかは定かではない。けれど少なくとも、彼女の指摘は的確で、無駄がない。そして、それを真顔で言ってくるところが怖い。たまに、生徒会の今泉副会長の顔がちらつく。

 

 満作はトーストを一口かじり、牛乳を流し込むと、リュックの中身を確認する。

「ちなみに今日の観測目的地は?」

 

「本屋って言ったでしょ」

「書店といっても広義では多様だ。新刊が目的か、専門書が目当てか、それともただの彷徨かによって──」

「“ただの彷徨”を選択肢に入れないで」

 

「すまない。僕の語彙はつい哲学的になりがちなんだ」

「いつものことでしょ。中二病みたい」

 

 そっけない返事だが、楓はすでに立ち上がり、玄関の鍵を手にしている。

 橋ヶ谷家の休日は、こうして始まる。どちらが主導かといえば、妹だ。兄は、なんとなく導かれるままに後をついていく。

 

 ただ、満作はそれを悪いとは思っていない。

 他人の時間に乗っかる休日も、案外、観測する価値がある。

 

 玄関を出ると、空気は澄んでいて、地面の影がくっきりと落ちていた。

 冷たいが、どこか早い、春の気配を含んでいる気がする。息を吐くと白く曇った。楓が先を歩き、満作はその背を見つめる。

 

 その時ふと、妹が振り向いて言った。

「ねえ、兄ちゃん。今日、ちゃんと現実の世界にいる?」

 

「もちろん。今日は、楓ちゃんという星を観測する日だからね」

「──やっぱり面倒くさいわ」

 

 でもその声には、かすかに笑いが混じっていた。

 

───

 

 バス通り沿いの歩道は、いつもより静かだった。

 

 橋ヶ谷満作と楓は、並んで歩いていた。

 正確に言えば、楓が三歩ほど前を行き、満作が少し遅れてついてくる形だ。兄妹で歩幅が違うというよりは、楓のリズムが速いだけだった。

 

 ふいに、楓が振り返らずに言う。

 

「兄ちゃん、歩きスマホしないの」

「してないよ。星図を眺めてただけさ」

 

「それが歩きスマホっていうの」

「なるほど。じゃあ、今日は楓観測図をつけよう」

「やめて」

 

 楓は素っ気なく返しながらも、歩く速度を少しだけ落とした。

 気づかれないように、兄が追いつきやすくなるように。満作は何も言わず、彼女の隣へ並んだ。

 

 しばらくの沈黙ののち、目的の書店が見えてくる。駅前の老舗書店。雑誌と参考書が入口を占め、奥には文芸と専門書の棚が広がっている。古書の匂いと新刊のインクが交ざり合った空気は、どこか落ち着く温度を持っていた。

 

 店内に入ると、楓はまっすぐ中学生向けの学参棚へ向かい、満作は特に目的もなく文芸書のコーナーへ歩く。こうなると、しばらくは自由行動だ。

 

 十分後。

 

「兄ちゃん、これ見て。どっちがいいと思う?」

 楓が持ってきたのは、同じ出版社の英語問題集と数学の参考書だった。どちらもレイアウトは似ているが、内容は対照的だ。

 

「どっちも買えばいいじゃないか」

「お小遣いが足りないの」

 

「なるほど。うーん、論理的な思考力か、異邦の言葉を訳す力か……これは、定義の分岐点に立たされた選択だね」

「曖昧な言い方しないで。真面目に」

 

「じゃあ、どっちがやりたい?」

「うーん……英語かな。英語、最近ちょっと、聞いててもわかんないときあってさ」

 

 ぽつりと漏れたその言葉に、満作は本を受け取りながら、ふと目を細める。

 

「“わかんない”というのは、“言葉にならない”ということ。だけどね、楓ちゃん。言葉にできない感覚は、いつか誰かに届く祈りにもなるんだよ」

 

「……なにその変な言い回し」

「僕なりの応援表現さ」

 

「ほんとさ、兄ちゃんって、そういうとこ変だよね」

 呆れたように言いながらも、楓の声は少しだけ和らいでいた。

 

 兄のズレてるけどやさしい言葉が、思ったよりちゃんと届いている。

 言葉の表面ではつっこみを入れながら、芯の部分では安心しているように見えた。

 

 会計を終えた帰り道、ふたりはベンチのある小さな公園に寄り道した。

 冬枯れの枝の向こうに、うっすらとした雲の隙間から陽が差している。ブランコに誰も座っていない昼の公園は、時間が緩やかに流れていた。

 

 ベンチに座り、楓がぽつりと漏らす。

「ねえ。中学生って、思ってたよりいろいろあるんだよ」

 

「うん?」

「授業も、人間関係も。なんか、まだ“よくわかんない”ことがいっぱいあって。小学校のときはもっと単純だったのにね」

 

 語尾を曖昧に濁しながら、彼女は地面を見つめていた。

 落ちていた木の実を、つま先で転がす。

 

「“わからないまま”で、いてもいいんだよ」

「……また、難しいこと言う」

 

「確かに、難しいかもね。でも、本当のことだよ。観測者っていうのはね、わからないものを“わからないままに観測する”のが仕事なんだ」

「私、観測対象なの?」

 

「もちろん。楓ちゃんの変化は、すべて貴重なデータだ」

「やだそれ、気持ち悪い」

 

 言いながらも、楓は小さく笑った。

 風が吹き、兄妹の前髪が同時に揺れる。満作は手帳を取り出し、何かを記録するようにペンを走らせる。

 

 “妹、今日、自分から悩みを口にした。進歩。”

 

「……兄ちゃん、それ、何書いてんの?」

「観測記録。後世に残すために」

 

「やっぱり変な兄貴だわ」

 でもその声には、確かな信頼と、ちょっとした誇らしさがにじんでいた。

 

───

 

 昼下がりの風は、午前中より少しだけ柔らかくなっていた。

 空の青も幾分薄れて、陽射しの輪郭が曖昧になる時間帯。

 

 橋ヶ谷満作と楓は、市内の文化センターに併設されたプラネタリウムに足を運んでいた。予約はしていないが、休日の午後でも混雑はしていない。ここは、小さな星の箱庭のような場所だった。

 

 館内の空調はほどよく暖かい。

 満作はカーディガンのボタンを上まで留め直し、楓はホットレモンの缶を両手で抱えていた。

 

「満席じゃないね」

「星を見る人は、いつだって少数派さ」

「それ言うと、私たちがマニアックみたいで嫌なんだけど」

 

 そんなやりとりを交わしながら、二人は並んで座席に腰を下ろす。

 ドーム型の天井が、ゆっくりと光を落とし始める。アナウンスが流れ、照明が静かに落ちていく。

 

 満作は、深く息を吐いた。

 暗がりの中で吐いた息は見えない。でも、体のどこかが軽くなる感覚があった。

 

 解説のナレーションが淡々と始まる。

 星の明るさの等級、距離、名前の由来。天文に詳しくない人にも親しめる、やさしい語り口。

 

 だが、満作は言葉よりも、その向こうにある“無音の時間”に意識を向けていた。

 目の前に広がるのは、数万年の時を越えて届く光。

 肉眼では知覚できない無数の軌道が、頭上に収束していく。

 

「……星って、届かないからこそ、祈りになるんだよね」

 満作がぽつりと呟いた声は、ごく小さく、隣の楓にしか届かない。

 楓は隣で頬杖をついていたが、ちらりと兄の横顔を見る。

 

「届かないものに、祈ってるの?」

「祈りっていうのは、届くかどうかじゃなくて、送ることに意味があるんだと思う」

「……兄ちゃん、ほんと詩人だよ」

 

 苦笑混じりにそう言う楓の声は、どこかあたたかい。

 その感情が、照れ隠しの中にちゃんとあることを、満作は知っていた。

 

「楓ちゃんは、届かないものに祈ったことはある?」

「うーん……ない、かも」

 

「それは、とてもいいことだね」

「え、なんで」

 

「届く場所に、君の想いがいつも在るってことだから」

「……ほんと、面倒な兄ちゃん」

 

 楓はそう言いながらも、今度は何も続けなかった。

 ただ、兄と並んで、同じ空を見上げていた。

 

 やがて上映が終わると、館内には小さな拍手が起きる。

 満作と楓も立ち上がり、静かに出口へ向かう。

 外に出ると、日が傾き始めていた。まだ冬だが、風の中にほんの少しだけ春の気配が混ざっている。

 

「兄ちゃん、前に言ってたよね」

「うん?」

 

「“星の名前を全部覚えようとした時期がある”って」

「あったね。中学の頃だ」

 

「で、どうなったの」

「途中でやめた。星はね、名前よりも“物語”のほうが面白いと気づいたから」

 

「物語?」

「たとえば、オリオン座が“狩人”の形に見えるのは、そこに人が意味を求めたから。──それって、素敵なことだと思わない?」

 

「うん、まあ…素敵だけど。詩人だよ」

「誉め言葉として受け取っておくよ」

 

 楓はふっと笑った。

 プラネタリウムで吸い込んだ無音の静けさは、どこか心を整えてくれるようだった。

 きっと、それは兄にとっても、同じだったのだろう。

 

 並んで歩く影が、夕陽に少しだけ伸びていく。

 

───

 

 川沿いの道を歩く兄妹の足音が、冷えた歩道に控えめに響いていた。

 夕陽は傾き、冬の光が建物の輪郭を長く引き伸ばしている。

 

 プラネタリウムを出たあと、ふたりはしばらく無言で歩いていた。

 沈黙が気まずいわけではない。ただ、静かで心地よい空気がそのまま続いていた。

 

「……風、冷たくなってきたね」

 楓がマフラーの端をつまみながら言う。

 満作は軽く頷き、空を見上げた。

 

「日が落ちると、一気に空気の色が変わるからね。昼の空は情報量が多くて賑やかだけど、夕方は少し、寂しがりやの色をしてる」

「そういうところ」

「また言われた」

 

 満作は笑いながらも、手袋の中でポケットの鍵をいじった。

 その小さな手の動きが、少しだけ所在なさげに見えたのか楓がふいに足を止めた。

 橋の上だった。街灯が灯りはじめ、川面に微かに映っている。

 

「……ねえ、兄ちゃん」

「ん?」

 

「私、兄ちゃんの“星”になるようなこと、してる?」

 問いかけは、不意打ちのようだった。

 けれどその声音はどこまでも静かで、真っ直ぐだった。

 

 満作は歩くのをやめ、楓の隣に並び、川の向こうへ視線を向けた。

 橋の向こうにある空は、ほんのり赤く、もう少しで夜の青に染まる手前だった。

 

「楓が笑うとね、星が一つ、灯るような感覚があるよ」

 

 ゆっくりと、言葉を紡ぐように。

 

「それはたぶん、誰にも届かない光じゃない。ちゃんと僕の軌道の中にあって、気づくたびに、嬉しくなる」

 

「……ずるい」

「え?」

「そういう言い方されると、照れるじゃん」

 

 楓はそう言って、川のほうへそっぽを向いた。

 けれどその頬は少し赤らんでいて、それが冷たい風のせいだけじゃないことを、満作は知っていた。

 

「でも、なんか……よかった」

「何が?」

「兄ちゃんって、いつも観測してばっかりで、たまに自分の気持ち見失ってそうだったから。今の言葉聞いて、ちょっと安心した」

 

 満作は不意に、足元の影を見た。

 ふたつの影が、夕陽に照らされて長く伸びている。ひとつは細く、ひとつは少し歪んでいる。

 

「……ねえ、楓ちゃん」

「なに」

 

「楓ちゃんの“星”って、どんな色だと思う?」

「え、急に?」

 

「想像してみて」

「んー……薄いオレンジ? あったかい感じのやつ」

 

「なるほど。らしいね」

「兄ちゃんのは?」

 

「僕の星は、たぶん白。…いや、白に近い銀かな。でも君のオレンジが隣にあると、少しだけあったかくなる気がする」

「……ほんと、面倒な兄ちゃん」

 

 楓はそう言って、小さく笑った。

 笑うたびに、星がひとつ灯るような、その感覚は、満作の中で確かに続いていた。

 

 風が吹き抜ける。冷たさの中に、どこか柔らかな余韻を含んだ風だった。

 

 家に帰るころには、すっかり夜になっていた。

 満作は自室の机の上に、今日買った本を並べていた。星の話と、言葉の起源にまつわる随筆。

 

 その隣に、小さなメモ用紙が一枚置かれている。

 楓の字だった。

 

『ちゃんと観測しててね』

 

 満作はその文字を見つめ、ふっと目を細めた。

 

「……了解。大切な軌道の一つとして、記録しておこう」

 

 そう呟く声は、夜空に向けてではなく、ほんの少しだけ“誰か”に届くような響きを持っていた。

 

 観測者は、休みの日も観測する。

 けれど、その観測が誰かの“光”によって揺らいでいくことも、彼は知っている。

 そしてそれは、きっと悪いことじゃない。

 

 

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