昼休みの校舎裏、風が吹き抜けるたびに空気が一段冷たくなる。
けれどその場所を歩く四人の足取りは、どこか楽しげだった。
「なあ、今日のこの寒さ……ココア日和じゃね?」
先頭を歩く朝倉彰良が、息を白くしながら振り返る。マフラーを首から外しているくせに、手だけはポケットの奥に突っ込んでいる。
「なにそれ。日和って気温あるの」
すぐ後ろを歩く日暮夏彦が、軽く肩をすくめた。片耳だけに差したイヤホンからは、微かに電子音が漏れている。録音アプリの波形が、ポケットの中で静かに揺れていた。
「あるって!あるある。ほら、今日みたいな日さ、風冷たくて、日差しあるけど効いてなくて、手足バッキバキに冷えるやつ。そういうときは──ココアっしょ!」
彰良の声が校舎の壁に跳ね返って、やけに響く。そういうことに定評のある声量だった。
「……俺は緑茶かな」
ぽつりとした声が、最後方から聞こえる。椿原澪だ。寒さのなかでも姿勢は崩さず、制服の上に黒いコートを羽織っている。小さく丸まった息が、前髪をほんの少し揺らした。
「え〜、ココアって気分にならんの? こう、冬の、放課後の、屋上でさ……ココア片手に語り合う青春っぽさ……」
「昼休みだし屋上行かないし、そもそも語らんし」
「なんてこった!この空気のなか、誰一人乗ってくれないとは……」
彰良は大げさに頭を抱えながら、進行方向にぐるりと半回転した。マフラーがくるくる舞う。
「……別に、嫌とは言ってないけど」
澪の返事に、彰良の肩がぴくりと動いた。
「ほら!澪、ココア賛成派じゃん!やっぱこういうとき飲むんだよ、あれは!」
「さっき、緑茶って……」
夏彦がぽつりと突っ込むが、彰良は聞いちゃいない。
その横を、無言で歩いていた文蔵想汰が、ふいに足を止めた。
四人の目線がそろって、ひとつ先の角に向く。
「──あっ、着いたな」
校舎裏の、ひっそりと佇む自販機。生徒の多くが利用する東館とは違って、ここは昼休みでも人通りが少ない。四限組のお気に入りスポットだ。
目の前の機械には、赤と少しの青のボタンがずらりと並んでいる。
「寒っ……」
澪が小さくつぶやくと同時に、想汰が一歩前へ出た。
制服のポケットから小銭を取り出し、慣れた手つきで投入する。
「お、想汰、何買う?」
「……あったかいやつ」
呟くように答えると、想汰は迷いなくボタンを押した。赤いランプが灯る。「ココア」と書かれた文字の下、銀の取り出し口にごとりと缶が落ちる音。
「お、ココアじゃん。やっぱ想汰もココア派だよな。寒い日に飲むとさ、なんか勝った感ない?」
「何に?」と夏彦が返す間に、想汰は缶を取り出していた。
缶からほんのり立ち上る湯気。手のひらに収まる、その小さな温もり。
想汰はふっと目を細めながら、口をつけた。
「うわっ……」
彰良が、自販機に駆け寄る。
その視線の先、ココアのランプに“売り切れ”の表示。
「ちょ、うそでしょ!?今のがラスト!?」
「いや、想汰が先だったし……」
「いやいや、そりゃ分かってるよ!?でも、今日は絶対ココアの気分だったのにぃぃぃ!!」
「知らんがな」
澪が即座に切り捨てる。
その隣で、夏彦が静かに言った。
「まあ……誰かが最後の一本を買うわけだからね」
「俺であってほしかった……」
天を仰いで叫ぶ彰良。雪はまだ降っていないが、空気はしんと冷えきっている。
「想汰ぁ〜、ひとくちちょうだい〜」
「……やだ」
無表情で返される。
「くぅ……さすがの文蔵想汰、ホットココアを絶対に譲らない男!」
「勝手に称号つけんな」
「くそっ、俺が1分早く来てたら……!」
「そしたら俺が2分早く来てた」
「やめろ夏彦!タイムリープの因果が崩れる!」
騒がしい三人の横で、想汰はひとり静かにココアを飲み続けていた。
缶のふちに口をつけるたび、ほんの少しだけ目を細める。そのわずかな変化が、寒さのなかでじんわりと沁みるようだった。
そして、ふと想汰が缶を傾けたまま、手を止める。
無言のまま、視線を三人に移した。
昼の陽射しは弱く、校舎裏のコンクリートは冷たい。
けれど、その自販機の前だけは、不思議とあたたかさがあった。
───
「くそぅ…マジでラストだったのか……」
肩を落としたまま、自販機の前に立ち尽くす朝倉彰良。
表示ランプは無情にも「売切」を示していて、いくら指でココアのボタンをカチカチ押しても、缶は出てこなかった。
「だから言ったじゃん、早いもん勝ちって」
夏彦が肩越しに笑う。マフラーをぐるりと巻いたまま、寒さには比較的順応しているらしい。
「くっそー……なんでよりによって、想汰なんだよ」
「理不尽だな」
椿原澪が呆れたように言った。手には買ったばかりの緑茶。冷静というより、むしろ冷たい反応が板についてきたようだった。
彰良は、「四月はもっと温かい喋り方だったのに…」とグチグチ言っている。
「……」
ココアを持ったまま、文蔵想汰は無言だ。缶の上から手を包み込むようにして、ゆっくりと飲んでいる。缶の口からは、まだほのかに湯気が立っていた。
「ねぇ文蔵くん、ちょっとだけ、一口だけ!この際、唇が触れないようにストローでもいいから!」
「……いーやーだっ」
想汰は軽く体を引いた。ココアの缶を、物理的にも心理的にも守るような動きだった。
「ひどい!俺、昨日お前の落とした定規拾ってあげたのに!」
「……びっくりだな。見てなかった」
「ええええええ!!」
彰良が叫ぶと、風に乗ってその声が壁に反響する。澪がすっと距離を取ったのが、どこか象徴的だった。
「まあまあ……」
夏彦が手を上げる。
「ここで争っても、ココアが増えるわけじゃないからね」
「それができたら苦労しねぇよ!」
「そもそも、そこまでココアに執着するのが意味不明なんだけど」
澪のツッコミに、彰良は「だって!」と食い下がる。
「だってさ、あの甘ったるくて、ちょっとだけ焦げたみたいな香りで、飲んだ瞬間『あ〜冬だな〜』ってなるあの味がさ……今このタイミングで飲みたかったんだよ!分かれよ、冬のロマンってやつを!」
「熱弁するほどのことか」
「熱くないと寒さに負けるんだよ!」
そんな掛け合いの最中、ふと、ガコン……と音がした。
夏彦が自販機で別のホットドリンク──ほうじ茶を買っていた。
「飲み物ってさ、あったかいってだけで、もうちょっと嬉しくなるよね」
「……わかる」
澪が緑茶をひと口、静かに啜る。
その隣で、想汰がまたココアを傾けた。
ほんの少し、残りが減っている。
その動きを見て、彰良がぴたりと止まった。
「……いいもん。お前のココアは、そうやって一人で独占して、心まで冷たくしていけばいいさ」
「……」
想汰は何も言わず、ココアの缶を見つめていた。
次の瞬間。
彼はふいに、缶を三人のほうへ差し出した。
「えっ」
一瞬、時が止まった。
「……ひと口ずつ、いる?」
その言葉は、淡々としていて、温度も抑えめだった。
だが、そこでココアをめぐる空気が、すうっと変わった。
「想汰……おま、最高か?」
「……さっきの態度とギャップがすごい」
「ココア界の聖人かもしれん」
三人が順番をどうするかでまた揉め始める中、想汰は腕を組んで静観していた。
「最初に飲むと、一番おいしいところを取ったって言われる」
「最後に飲むと、なんか味うすくなってる気がするんだよね」
「つまり……夏彦、お前が最初な」
「なんで」
夏彦が軽く笑いながら、ココアを手に取る。
ひと口含んで、小さく息をついた。
「……うん。録音できる音じゃないけど、こういうのも好き」
「録ろうとすんな」
彰良がすかさず突っ込む。
次にココアを受け取ったのは彰良。
「いただきますっ……!」と仰々しく拝んでから、ごくりと飲む。
「っっは〜〜〜……やっぱこれだわ……」
胸に手を当て、幸せそうな顔をするその姿に、澪が少しだけ笑った。
最後に、無言で缶を受け取った澪が、ひと口。
緑茶との温度差があったのか、ふうと白い息を漏らし、ぽつりと言った。
「……あったかいね」
その言葉に、誰もがふと黙った。
校舎裏の風は冷たく、指先はすぐにかじかむのに、今この場所だけが、ちゃんと“冬のぬくもり”で満ちているようだった。
───
風が吹いた。校舎裏の狭い通路に、細くて冷たい風が抜ける。
ほんの一瞬、体の熱が持っていかれそうになるのを、四人はそれぞれの方法でしのいだ。
緑茶の缶を手のひらで包む澪。
夏彦はマフラーを巻き直し、ココアの余韻を思い出すように唇をすぼめた。
彰良は両手をこすり合わせながら、「なあ、もう一周とかない……?」と未練がましく言う。
「ない」
「無理」
「……しつこい」
全員から一斉に却下されて、彰良は「うぐぅ」と胸を押さえた。
「俺の冬、終わったわ……」
「そもそも、お前の冬、そこしかないのか」
夏彦が笑いながらつっこむ。
「想汰、最後は飲んどいた方がいいよ。想汰のココアだし」
澪がそう言って、空きかけの缶を想汰に戻す。
彼は受け取ると、ほんの少しだけ首をかしげた。
「……じゃあ、最後に誰かひとこと言って終わりにすればいいんじゃないか?」
「なにその提案」
「なにその平和的決着」
「なにその突然の演出家」
三人に責められながらも、想汰は真顔のまま「合理的だろ」と返す。夏彦は別に合理的ではないと思ったが、なんとなく突っ込まなかった。
自販機の前に集う高校生たち。たった一本のココアをめぐって、こんなにも時間を費やせる自分たちに誰かがあきれたら、それこそ、きっと正解だった。
「……俺、いっていい?」
彰良が手を挙げた。
「やっぱこの時間、超好きだわ。くだらないけど、なんかすげーいい。冬って感じ」
「それ感想でしょ」
「締めじゃないじゃん」
「口を開けばもう一口飲ませろって言いそう」
三人のツッコミが重なり、本人も笑い出す。
「いやいや、そういうのも込みで、いいんだよ。全部」
言葉はまとまらなくても、そうやって思いを投げること自体が、たぶん、この関係のあたたかさの正体だった。
「じゃあ俺も」
夏彦がココアの缶を軽く叩く。
「録音はできないけど、音がある感じ……好き」
「なにそれ詩的」
「寒さで感覚ズレてきてる?」
夏彦はいたって真顔だった。指先は赤く、鼻の頭もほんのり紅い。
でもその言葉の端々に、この一瞬をちゃんと覚えていたいという気持ちがにじんでいた。
「……俺は別に、言うことない」
澪がそっぽを向いたまま言った。だがそれが断絶ではなく、照れからきているのは全員が分かっていた。
だからこそ、誰も責めなかった。
そして、最後。
想汰が残りのココアを一口含んで、目を細める。
「……苦くなってる」
「冷めたんじゃない?」
「味、変わるよな」
「でもまあ、それも含めて、今日って感じ」
言葉がぽつりぽつりと落ちる。
自販機の裏、誰も通らないその空間に、ただ白い息と、空になった缶だけが残っていた。
「そろそろ戻るかー」
彰良が腰を伸ばすと、膝から軽くパキッという音が鳴った。
「うわ、寒さで関節まで硬くなってる……」
「それ、老化だよ」
「やめてくれ!俺まだ十代!」
再び始まるバカ話。
でも、そのテンションの中に、確かに温度がある。
全員が少しずつ笑いながら、缶をゴミ箱に放り込んで、教室へと戻っていく。
誰も悪くない。
誰が得したわけでもない。
けれど──
「……ねえ、今日のこと、たぶん俺、めっちゃ覚えてるわ」
彰良がぽつりと漏らした言葉に、誰も答えなかった。
それでも。
返事の代わりに、誰かの笑い声が風に乗って、すうっと遠ざかっていった。