朝の教室に、ざわめきが戻ってくるのは七時五十七分を過ぎた頃だ。
静かだった空間に椅子の引かれる音、鞄の留め具がはじける音、廊下から入り込む笑い声が交じって、今日も一日が始まるのだと知る。窓際の席に座る椿原澪は、そうした音の一つひとつを耳に入れながら、目の前の風景に違和感を覚えていた。
黒板の文字が、ぼやけている。
距離のせいではない。どこを見ても輪郭が曖昧で、窓から差し込む朝日さえ少し滲んで見えた。思わず目を細めてみるが、視界は変わらない。
「……あ」
澪は自分の顔に手をやった。そこにあるべきものが、ない。
「……メガネ、忘れた……」
独りごちた声はほとんど呟きだったが、隣の席に荷物を置いたばかりの朝倉彰良には、しっかり届いたらしい。小さく笑ってこちらを向く。
「……あれ? 椿原。なんか顔のパーツ、足りてなくない?」
「……それを言うなら、眼鏡だよ」
澪は少しだけ口角を上げて応じたが、内心はわずかに焦っていた。朝の準備中に玄関の靴箱の上に置きっぱなしにしたまま、そのまま出てきてしまったらしい。どうしてあそこで一度外してしまったのだろうか…
そこに、文蔵想汰が登場する。カバンを背負ったまま教室に入ってきた彼は、彰良の声に反応して、二人のほうをちらりと見た。
「おはよう……って、椿原、眼鏡は?」
「……忘れた。家に」
「へえ……朝倉の言い方で言うと、“顔のパーツが足りない”ってことになるのか?」
「そうそう、それ! ほら、キャラデザ間違えたNPCみたいな」
「……お前にとって眼鏡ってなんなの?」
想汰の突っ込みに、彰良が肩をすくめる。そうこうしているうちに、廊下からもう一人の足音が近づいてくる。日暮夏彦だ。イヤホンを外しながら教室に入ってくると、四人の姿を視線で確認し、すぐに澪のほうに目を向けた。
「……椿原。ちょっと声のトーン、違うな」
「ん?」
「困ってるときのやつだな。それ、音でわかる」
さらりと言って、夏彦は自分の席につく。澪は少しだけ口を開きかけたが、そのまま言葉を飲み込んだ。誰に説明したところで、眼鏡がない事実は変わらない。ぼやける視界を受け入れて、なんとかやるしかないのだ。
「まぁ……見えにくいだけだから。授業は、なんとかなると思う」
「でも黒板ぼやけてるんでしょ?」と彰良。
「ちょっとだけ、ね」
「“ちょっとだけ”って、目細めて見てる時点でアウトだろ」
「……ツッコミがいちいち的確だよね、君」
半ば呆れたように返した澪に、彰良が「光栄だな」と言って笑う。そのやり取りを横目で見ながら、想汰は自分の机にカバンを置いた。
「とりあえず今日一日、それで行くんだよな」
「うん。コンタクトなんかないし」
澪は肩を竦める。視界は相変わらず曖昧で、教室の後方に貼られている日直表の字すら、ほとんど読めなかった。いつもなら当たり前に目にしているものたちが、今日は遠くの霧の中にあるようだった。
それでも、何も言わずとも周囲に集まってくれるこの三人が、少しだけ頼もしく見える。
澪はもう一度だけ目を細めて、ぼやけた教室を見渡した。
……今日一日、頑張れる気がする。
視界がぼやけるというのは、想像以上に不便だった。
一限目の数学。教壇の前で教師が黒板に書く数式が、ほとんど読めない。数の並びはなんとなく分かるが、文字の区別がつかない。プラスとマイナスの記号ですら、まるで水の中の光のように揺れている。
椿原澪は、思わず目を細めた。眉間に皺が寄るのを自覚しながらも、凝視しなければ追いつけない。けれど、そんな努力も長くは続かない。目の奥が鈍く痛み始めてくるのだ。
(これ……一日、けっこうキツいかもしれない)
けれど、澪は誰にも言わなかった。誰かに頼るという発想が、すぐには浮かばない性分だった。自分の不注意で起きたことなら、せめて自分で何とかしたい。そう思ってしまう。
視界が効かないぶん、耳がいつもより敏感になっていた。
チョークが黒板を走る音。教師の靴音。クラスメイトの小さなため息──そうした音が、輪郭を持って澪の頭に入ってくる。いつもは流していたものが、今日はやけにはっきり聞こえる。
そして──隣の席から、何かが滑ってくる音。
気配で顔を向けると、そこには一冊のノートが差し出されていた。
文蔵想汰のものだった。彼は何も言わず、ただ手元のノートを少し傾けて澪に見せている。端正な字で、板書がそのまま写されている。視線を上げると、想汰はノートに目を落としたまま、小さく頷いた。
「……ありがとう」
澪がそう呟くと、彼は肩をすくめただけだった。けれどその無言のやり取りが、澪の中ではどこか深く染みた。
できることを、ちゃんとやろう。
できないことがあるなら、補えばいい。ただ、今日の自分にできる範囲で、きちんと授業を受ける。それだけのことだ。
二限目、三限目と進んでいくうちに、澪の中には奇妙な静けさが生まれていた。いつもより見えないぶん、他の感覚が開いている。ざわめき、声、足音。クラスの空気を、澪は音で読んでいた。
「……ふむ」
四限目の前、日暮夏彦がつぶやいた。イヤホンを片方だけ耳に残したまま、教科書を机に出している。何気ない仕草で隣に座る想汰に話しかけた。
「今日の校内の音、少し違うな。澪がよく喋る」
「……それって、椿原が声出してるってことか?」と想汰。
「そう。些細な問いとか、小声の返事とか……昨日までよりずっと多い。困ってると、助けを求める行動が自然と増えるのかもな。音で分かる」
「……探偵みたいなこと言うなよ」と彰良が茶化すが、夏彦は真顔のまま続けた。
「でもそれは悪いことじゃない。喋るのが苦じゃないってことだし、相手がいるってことだ」
澪はその会話を、斜め前の席から黙って聞いていた。
――そうか、そんなふうに見えて(聴こえて)いるのか。
困っている自分を、無意識に周囲が補ってくれる。そのことに対して、気恥ずかしさはある。けれど、それ以上に、ありがたかった。
昼休み、席に戻ると彰良が突拍子もないことを言い出した。
「椿原、俺の予備のメガネ使うか?」
「予備って……あんの?普段メガネなんて…」
「伊達だけどな。気分で変える用の、三本ある。今日たまたま一本リュックに入ってたんだ、派手だけど貸すぞ?」
そう言って取り出してきたのは、銀縁でレンズがやたら大きなメガネだった。
「……キャラが変わる気がする」と澪。
「逆に似合うかもしれないぞ。理系探偵みたいな雰囲気出せる」
「謎のジャンル付けやめて」
そう言いながらも、澪はそのメガネを受け取ってみた。レンズは伊達だから視力は補正されないが、何かが“ある”だけで気持ちは少し楽になる。
そしてふと思う。
(……人に頼るって、こういうことか)
助けてと言わなくても、差し出してもらえる。自分が「できない」と認めた瞬間、誰かが「なら、これはどう?」と差し出してくれる。そういう関係が、ちゃんとここにある。
視界はまだ曖昧なままだ。
けれど、それとは別のものが、澪の中で静かに輪郭を取り始めていた。
放課後の図書室は、まるで世界から切り離されたように静かだった。
放課後だというのに人の気配は少なく、空気はひんやりと落ち着いている。椿原澪は、ぼやけた視界の中で慣れた足取りを頼りに、いつもの閲覧テーブルまで進んだ。そこには既に文蔵想汰が座っていて、一冊の文庫を手に取っている。
「よくここまで来れたな」
開口一番、想汰が言う。
「慣れてるから。見えないなりに、覚えてるからね」
澪はそう答え、向かいの椅子に腰を下ろした。目の前の想汰の表情はぼやけているが、どこか気を抜いているような雰囲気だけは伝わってくる。
「……今日は、ありがとう」
ぽつりと口にした言葉に、想汰は少しだけ顔を上げた。
「ノートのこと?」
「それもあるけど、いろいろ。夏彦も、彰良も。なんか……助かったなって」
視界はずっとぼんやりしていた。でも、そのぶん他の感覚が研ぎ澄まされていた。音とか、気配とか、声のトーンの微細な違い。ふだん気に留めていなかったものが、今日は妙に鮮明だった。
「“見えない”って、こんなに世界が変わるんだなって。たった一日で、思い知った」
「……」
「自分ではちゃんと“見えてるつもり”だったんだと思う。人の気遣いとか、空気とか。でも違った。ぼく、何も見えてなかったかもしれない」
その言葉は、澪自身に向けた独白のようだった。
「でも今日は、見えなかったからこそ気づけた。みんなが、すごく自然に支えてくれてること。言葉じゃなくて、行動で」
「……お前が、普段そうしてるからだよ」
想汰が、ぽつりと返す。
「困ってるやつがいたら手を貸すだろ。お前、そういうやつじゃん」
それだけ言うと、彼は鞄から一冊の本を取り出し、無言で澪に差し出した。表紙は読めないが、ハードカバーの感触だけは手に伝わる。
「なにこれ?」
「今日、お前が目を細めてたときに思い出したやつ。前に話してたろ? ちょっと哲学寄りだけど、読みやすい。借りとけ」
「……読めないけど、借りて帰るよ」
澪はその本を大事そうに抱えた。
そこに、トン、と誰かの足音。振り返ると、彰良と夏彦がちょうど図書室に入ってくるところだった。どうやら、わざわざ迎えに来てくれたらしい。
「おー、いたいた。お前ら図書室にこもって告白タイムかと思ったぜ」
「言い方」
夏彦は、二人の間に流れていた穏やかな空気を一瞬で読み取り、表情を緩めた。
「……その音、ちょっと、お前のやつっぽくね?」
「え?」
「澪の音。穏やかなのに、ちゃんと届いてる。そういうやつ」
澪は少しだけ、照れたように笑った。
教室の喧噪とは違う、しんとした静けさのなかで、彼はようやく深く息をついたような気がした。
図書室を出て、四人は並んで昇降口に向かう。空はすっかり茜色に染まり、窓の外には長く伸びた影が歩道を這っていた。
「それ、俺のメガネ似合ってんじゃん?」
彰良がふざけたように言った。銀縁の伊達メガネ。本人も忘れていたかもしれないが、澪はまだそれを掛けたままだった。
「……意外と違和感ないよな」と想汰。
「案外、澪がかけると知的に見える」
「それ、元から知的じゃないって意味?」
「ほら、喋るようになったから余計に」
わいわいと、ふだんと変わらない調子のまま、四人は夕焼けの下を歩く。
視界はまだ少し曖昧だったけれど──
澪は、ふと立ち止まって空を見上げた。
「なんだか今日は……世界がちょっと、優しかった気がするんだ」
それはたぶん、目が悪かったからではない。
心のどこかで、ようやく“ちゃんと見えた”気がした。
おまけ小話『たまには、かけてみるか』
朝の教室に、ゆっくりと差し込む陽がひとすじ。
その光の中で、彼は――少しだけ、違って見えた。
「……あれ。なんかお前、顔変わった?」
朝倉彰良が真っ先に気づいた。
机に鞄を置き、座ろうとしていた文蔵想汰の顔を、じっと見つめている。
眼鏡。細身のシルバーフレーム。主張は強くないが、間違いなく、彼の日常の顔にはなかったもの。
「……家出る前に、ふと思い立ってな」
文蔵は頬をかきながら、どこか照れくさそうに言った。「たまには、かけてみるかって」
「おい、顔変わったって! 整形ってこういう感じか?」
「お前のその感想が一番失礼だろ」
「え、じゃあ整形じゃないの?」
真顔で聞く彰良に、文蔵は机に頭をぶつけそうになるほどため息を吐いた。
「……いいと思うよ。というか、新鮮」
控えめに、けれど真っ直ぐな声が届く。
椿原澪が、教室の隅からノートを閉じて立ち上がった。昨日は眼鏡を忘れた張本人で、今日はきちんとした眼鏡姿に戻っている。
「でも、確かに音が違うな。文蔵、今日はちょっと“真面目なトーン”してる」
会話に割り込んできたのは、後方の窓際からイヤホンを外した日暮夏彦だった。
「音のトーンで人間の印象測るやつ初めて見たぞ」
「意外と当たってるから困るんだよな……」
文蔵は眼鏡のブリッジを軽く持ち上げ、皆から目を逸らした。
照れている。というより、「自分で思っていたより、ちょっと反応が大きくてどうしていいか分からない」顔だった。
それを見て、彰良がにやけながら肘で澪をつつく。
「これ、講評してるつもりで、こっちが振り回されてるパターンじゃね?」
「……想汰、講評って、こういうんじゃないよな?」
「いや、俺もどうされたいのかよく分かってない」
全員が同時に笑い、チャイムが鳴った。
いつもと同じ朝。
けれど、少しだけレンズ越しに見えるその世界は、いつもより鮮明な気がした。
───────
昼休みの教室は、まばらな笑い声と弁当の香りが交差していた。
机を合わせた四限組の島も、その例にもれず、箸の音と軽い談笑に包まれている。
「で、実際どうなんだよ。目、悪かったのか?」
そう問いかけたのは、彰良。コンビニのおにぎりを頬張りながら、気軽な調子で。
「ん……まぁ、少しな。黒板がぼやけるほどじゃないけど、たまにピントが合いにくくなるって程度」
文蔵は弁当箱の端をつつきながら、淡々と答えた。「基本的に外ではコンタクト。これは家用」
「……じゃあ、なんで今日は?」
問いかけたのは澪だった。おかずを口に運びながらも、その視線は穏やかに文蔵に向いていた。
文蔵は箸を止め、少しだけ考える仕草をした。
「昨日の話が……残っててさ。澪が、眼鏡を忘れても“できることはやる”って姿勢だったの、結構、印象に残ってたんだよ」
「感化されてんじゃん、澪に」
すかさず彰良が茶化すように言う。
「真似したいって思うくらい、昨日の椿原がかっこよかったってことだろ?」
「お前はもうちょっと真面目に講評しろよ」
「講評じゃなくて感想!」
ふと、夏彦が手を止める。
「……じゃあ、眼鏡かけて、世界は違って見えたか?」
文蔵はその言葉に、ふと周囲を見渡した。
ぼやけたものはない。けれど、それでも何かが変わった気はする。
「正直……ちょっとだけな」
「へえ」
「眼鏡をかけると、距離感が変わるんだ。世界が一枚、画面の向こうになったような……そんな感じ」
「……それ、分かる気がする」
澪がぽつりと相づちを打つ。
「けど、それでも悪くはないと思ったよ。少しだけ、自分を客観的に見られる気もしたし」
「なるほど。自己分析モード、眼鏡で発動ってわけか」
彰良がまた余計なことを言うが、誰も否定しない。
ただ、なんとなく皆がうなずいていた。
眼鏡をかけただけで変わるわけじゃない。
でも、何かを「ちょっと変えてみよう」と思ったその小さなきっかけが、彼の中の“見え方”を少しずつ動かしていたのかもしれない。
その昼休みは、そんな空気だった。
───────
西日が昇降口のガラス窓を黄金色に染めていた。
さわやかな夕風が靴箱の間をすり抜ける。四人は並んで、ゆるやかに帰り支度をしている。
制服のボタンを留め直す者。イヤホンをしまう者。靴の紐を直す者。
それぞれが、それぞれの時間を持っているのに、なぜだか呼吸が合っている。
文蔵は、まだ眼鏡をかけたままだった。
「……なんだかんだ、最後までかけてたな」
澪が、さりげなく声をかける。
「……まぁ、せっかくだしな」
そう言いながら、文蔵は眼鏡のフレームを指で押し上げた。
「……似合ってるって、誰か一人でも言ってくれたら、それでよかったんだけどな」
ぽつりと、彼が呟いたその言葉は、意外と素直で、そしてちょっとだけ不器用だった。
「……似合ってるよ」
澪は、すぐに応えた。
「昨日のぼくより、ずっと」
「お前ってさ」
彰良が靴を履きながら、ちょっと笑って言った。
「時々乙女か?」
「うるせえ」
文蔵がぼそっと返すと、夏彦がふわりと笑った。
「いや、その音は……照れ隠しだな」
「……なんでお前は毎回それが分かるんだよ」
「音がな。お前の“素直になれないとき”は、ちょっとだけ息継ぎが多くなるんだよ」
そう言いながら、夏彦は軽く伸びをした。
まるでそれが、今日という一日の締めくくりのように、のんびりと。
文蔵は肩をすくめて、眼鏡をそっと外す。
「……もういいや。明日からはまたコンタクトだ」
「えー、せっかく似合ってるのに」
「一理ある」
「メガネ想汰、保存しておきたくなる音だったな」
からかうような言葉の応酬のなかに、どこかあたたかい空気が流れていた。
眼鏡ひとつで、誰かが変わるわけじゃない。けれど、それを見た誰かが、言葉をくれたり、笑ってくれたりする。
たったそれだけのことで、日常は少しだけ違って見える。
昇降口のドアが開き、外気が頬を撫でた。
「──今日は、ちょっとだけいい日だったな」
誰ともなく、そんなことを思いながら。
四人の影が夕陽の中に溶けていく。
───────
その夜、文蔵は眼鏡を机の上に置いたまま、静かにベッドに潜り込んだ。
天井を見上げる。部屋の明かりは落ちていて、ぼんやりとした月明かりだけが、カーテンの隙間から射し込んでいる。
――似合ってるよ。
椿原の言葉が、不意に耳の奥で再生された。
素直で、柔らかくて、気取っていなくて。
だからこそ、じわりと沁みる。
今日かけた眼鏡は、普段は「ただの家用」だった。
かけて出かけるなんて、少しだけ照れくさかった。
でも、誰かの何気ない言葉が、明日をほんの少し変えることもあるんだと、初めて思った。
文蔵は枕元の眼鏡にそっと視線を落とし、小さく呟いた。
「……似合うかどうか、知らないけどさ」
それでも今日は、世界がちょっとよく見えた気がした。