2月14日、午前8時15分。
まだ始業のチャイムが鳴る前の教室は、いつもよりもすこしだけざわついていた。
机の上にそっと置かれた小箱。
ロッカーの中に仕込まれたリボンつきの紙袋。
あるいは、まだ手元で温めている誰かの掌。
「おーい、今日は空気が甘いなー!!なんだこれ、糖分が足んねぇ奴は今のうちに深呼吸しとけ〜!」
いつものように扉を開けて教室に入ってきたのは、もちろん朝倉彰良だった。
彼の言葉に、教室の何人かがくすりと笑う。女子も男子も、その目にはわずかな緊張と、どこかのぞく期待があった。
「チョコ、チョコはどこだ〜!?俺はどこで拾えばいいんだ〜!!」
「拾う前提やめろ」と椿原澪が机についたまま呆れたように返すが、彰良は一切気にせずに自分の席に向かう。
「いやー、俺さあ、義理でもなんでもいいの。もらえたら、その日一日ハッピーだから。やっぱ文化として残すべきでしょ、バレンタインは!」
「ぜってー去年も言ってたろ」と隣の席の日暮夏彦がぼそっと呟く。
「成長してなさそう」と澪。
「いいの!進化しない陽気さってのも、必要だから!」
無駄にキラキラした笑顔を振りまく彰良を見て、三人は半ばあきれながらも口元だけは緩んでいた。
「ていうか夏彦、もらえそうじゃね?お前、そういうさ、ちょっとミステリアス系男子ポジじゃん。片耳イヤホンでさ。音の記憶とかそれっぽいじゃん?」
「語ってないし、それバレンタインに関係ある……?」
「あるね、絶対ある。俺が女子だったら、チョコと一緒にこの気持ち録っといてって渡してる!」
「……やだなそのプレッシャー」
「想汰は……」と彰良が振り返ると、文蔵想汰はすでにノートを開き、まるでこの季節の喧騒とは無縁の顔をしてペンを走らせていた。
「へい、想汰くん。今日が何の日か、知ってる?」
「……チョコの市場が動く日」
「そこ!?もっとこう、あるじゃん?情緒とかさぁ……」
「……あまり関係ない」
即答されて、彰良は思わず両手を挙げる。「平常運転です!」と声を上げると、後ろの席の女子たちがまたくすくす笑った。
教室には、チョコレートの甘い匂いと、浮ついたような静けさが同居していた。
誰かがチョコを渡すかもしれないという予感が、全体を包んでいるようだった。
でも四限組のまわりは、いつも通りだ。
騒がしくて、くだらなくて、だけど心地いい。
その中心で、彰良は言う。
「ま、チョコはともかく、この空気が甘いよな!」
その一言に、誰もが少しだけ頷いた。
ほんのりと温かい空気の中、2月14日の一日は、こうして始まっていく。
───
昼休みの終わり、教室の隅。
ひとつの机の上で、チョコレートの包みが小さな音を立てた。
──カサ、カサ。
その音を、日暮夏彦はイヤホン越しに聞いた。
自分の耳で聞いて、もう一度、カセットで録る。
そんなことを、昔から無意識のようにやっていた。
「……チョコってさ、包みがいちばんうまそうな瞬間あるよね」
「食べる前から録る人、初めて見たけどね」
斜め前の席から、花森菜月があきれたように笑った。
手元には、ほんのりピンク色の包装紙に包まれたチョコ。
「市販のやつだよ」と言いながら差し出されたものだ。
「うん、ありがと。義理っ義理のやつな。……録っとこ」
カサ、とまたひとつ音が鳴る。
それはチョコの包みがこすれた音。
けれど、夏彦の耳には、それ以上の何かが残った。
「それさ、後で聞いてどうするの?」
と近くにいた陽向が口を尖らせて問うと、夏彦は少し考える素振りをしてから言った。
「んー、あったかいなって思うかもしれない」
「包みの音に?」
「いや、渡されたことの方。……たぶん、この音より、嬉しかったのは気持ちの方だから」
静かにそう言ったとき、周囲の喧騒が、ふと和らいだ気がした。
チョコを渡してきた女子たちも、もらった男子たちも、
どこかうまく言えないものを隠すように笑っていた。
「録音するなら、その顔も残したほうがいいかもな」
と冗談まじりに言ったのは、彰良だった。
休み時間の終わりが近づくなかで、彼もまた、両手をポケットに突っ込んだまま、教室を見渡していた。
「たぶん、忘れるんだろうけどさ。でも、今日のこの感じは、ちょっとだけ録っときたいかも」
夏彦は、録音停止ボタンをそっと押した。
カセットの中にあるのは、包装紙の音、誰かの笑い声、教室のざわめき。
そして、自分でもまだうまく言葉にできない、小さな嬉しさのかたちだった。
その日の午後の授業は、すこしだけ眠たかった。
でも夏彦のイヤホンの向こう側には、録音された甘い音が静かに残っていた。
───
放課後の図書室は、しんと静かだった。
夕方に差し掛かる陽射しが、窓の格子越しに本棚へと淡く伸びている。
椿原澪は、貸出カウンターの脇でページをめくっていた。
静けさと紙の匂いに包まれたこの場所は、彼にとって安心できる“居場所”のひとつだった。
と──
「椿原くん」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
声の主は、小柳雪だった。
ボブカットの髪が夕陽に透けて、どこか春の前触れのように柔らかく見えた。
「……これ、渡しそびれそうだったから」
彼女が差し出したのは、文庫サイズの包み。
紺色の包装紙で丁寧に包まれていて、リボンなどはなく、控えめな折り目だけが、ただ美しい。
受け取った澪がそっと開けると、出てきたのは革風のブックカバー。
それと一緒に、小さなチョコ一つ、挟まれていた。
「……ありがとう」
それだけ言って、澪は口元をわずかにゆるめる。
彼の表情を見た雪は、少しだけ安心したように笑って、小さく首を傾げた。
「チョコだけだと、ちょっと照れくさいから。……読んでくれると、いいなと思って」
その言葉に、澪はゆっくりとうなずいた。
彼女が「気持ちを直接言わない」代わりに選んだやり方は、澪にはとても彼女らしくて、心地よかった。
教室に戻ると、未だ、数人の女子たちが残っていて、軽い空気のままチョコの話をしていた。
その輪を横目に通り過ぎると、朝倉彰良が駆け寄ってくる。
「お、澪~。チョコとか、もらっちゃったりしてる?」
「……もらったけど」
「うわ、マジか! 俺まだ義理確定が2個だけなんですけど!? ちょっとちょうだ──」
「秘密」
澪の一言に、彰良がはうぉーっと言いながら崩れ落ちるフリをした。
「澪ぉ......! なんか今日は、ちょっとだけ勝ち組感あるよね……!」
「そういう基準で話すの、やめなよ」
すぐ隣で、日暮夏彦がイヤホンを片耳外しながらツッコむ。
「……でも、いいな」
そんな夏彦のぼそっとした呟きを背に、澪はそっと自分の机に座った。
カバンの中には、さっきのブックカバーが大事にしまわれている。
チョコはすぐに食べず、今日一日、そのまま持って帰ろうと思っていた。
ひとつのブックカバーと、ひとつのチョコ。
それは静かな想いのかたちであり、たしかに受け取ったと、感じさせるものだった。
椿原澪は、そのページの間に込められた気持ちを、静かに読んでいた。
───
文蔵想汰は、日の沈みかける頃、教室の隅に腰を下ろしていた。
カバンの中には、すでに何個かのチョコレートが入っている。
どれもリボンがついていたり、名前のタグがついていたりと、世間一般で言う義理というやつだった。
彼はそれらを、もらった順に、無言でカバンへ入れていった。
包装も、添えられたメッセージも、とくに気にする様子はない。
ただ、すべてを一様に受け取り、静かに収めていく。
「お前さあ、もうちょっとさあ……! 味気ないんだよ! チョコの扱いが!」
目の前で、朝倉彰良が机をばんばん叩いている。
「人の気持ちが詰まってるんだよ!? 包装! リボン! そういうのも含めてチョコなんだよ!?」
「……そうか?」
「そうだよ!! そうですとも!!!」
文蔵は一瞬だけ目を瞬かせて、カバンを見た。
「……あとで、ちゃんと見る」
「最初から見てやれや~~~!!」
騒ぎに便乗して、日暮夏彦がくすっと笑う。
「でも、そういうとこ想汰っぽいね」と、片耳のイヤホンをくるくる指で回していた。
「義理ばっかだけどな」と彰良がぽつり。
その言葉に、想汰はとくに返さなかった。
ただ、静かに立ち上がり、廊下へ出ていこうとしたそのとき──
「想汰くん」
ふいに声をかけられて、足が止まる。
振り向くと、そこには花森菜月がいた。
いつもと変わらぬ、のんびりした表情。
だが、その手には、小さな包みがひとつ握られていた。
「はい。……なんとなくチョコです」
「……なんとなく?」
「うん。義理かって言われたら、そうかもしれないけど。でも、あげたいなって、思ったのは本当だから」
そう言って差し出されたそれは、派手さのない包装紙に、きれいに折られた三角の封。
想汰は数秒の沈黙のあと、それを静かに受け取った。
「……ありがとう」
その声は、彼にしてはめずらしく、ほんの少しだけ照れていた。
菜月はその反応に、ふっと微笑んで、何も言わずに戻っていった。
教室へ戻ると、彰良がすぐに反応する。
「ん? おいおいおい、それ新しいチョコじゃね? お前、なんか顔赤くね?」
「うるさい」
「おおお、言ったー! うるさい出たー!」
「静かにしなよ」と夏彦がかぶせ、澪が「……騒がしい」とぼそっと言って、四人の空気が戻ってくる。
文蔵想汰は、自分の席に戻ると、ふとさっきの『なんとなくチョコ』を手に取った。
包装の端に、小さく描かれていた、手書きの星のマーク。
ちゃんと見たのは、これが今日初めてだった。
彼はそれを、そっとカバンの別のポケットにしまった。
他のチョコとは違う場所に。
「……なんとなく」
その言葉を小さく繰り返して、彼は目を細めた。
───
放課後、教室のどこかにチョコレートの匂いが残っていた。
包み紙の甘い香り、リボンに結ばれた小さな期待、そんなものが机や鞄の影にちらほらと転がっている。
朝倉彰良は、頬杖をついたまま、ぼーっと窓の外を眺めていた。
空は冴え冴えとして、雲一つない。冬の光はまっすぐに差し込み、教室の床に伸びる影を静かに切り取っている。
「やあやあ。チョコ、もらえた?」
そう尋ねたのは、水木日向。昼休みの騒ぎのあと、教室へ戻ってきたばかりの女子三人衆だ。
その後ろには、小柳雪と花森菜月の姿もある。
「もっちろん!! 義理三連コンボいただきましたーっ!」
彰良は勢いよく手を挙げて、笑って見せた。
「いやでも、あれだね? 義理とはいえ、そこには感謝があるわけでさ? 感情ってのは数に換算できない、って俺知ってんだよね」
「……でも、朝から『本命とか来ねえかな〜』って浮かれてたの、知ってるけど」
隣の澪が冷静に突っ込む。
「え、それマジで言う!? 澪氏、それマジで今バラす!? まっっったく空気読めないな!? いやーさすが俺の友達!!」
彰良の声にかぶせて、日向と菜月がくすくすと笑う。
雪はそんな彼らのやり取りを、どこか安心したような目で見守っていた。
「でも、楽しかったっしょ? 今日」
日向が言うと、彰良はふと静かに目を細めた。
「うん。……なんだろ、こういう日って、チョコもらうのもいいけど、誰かと笑ってることの方がさ」
そこで一呼吸おいて、彼は腕を組みながら言った。
「この空気の方が、甘いよな。俺的には」
「……そう来るか」
「うん、らしいっちゃらしい」
「むしろチョコ食べたほうが甘いのでは……?」
突っ込む声がいくつか重なり、でもそこに含まれるのはどれも優しいニュアンスだった。
放課後。
昇降口で上履きを脱ぎながら、彰良はふと振り返った。
澪が後ろから近づいてきて、すっと隣に並ぶ。
その様子を何となく眺めていた女子三人衆も、それぞれの靴箱へ向かっていく。
「なあ、澪」
「ん」
「今日、何個もらった?」
「……秘密」
澪はそう言って、無表情のまま靴を履き替える。だが、その耳たぶはうっすら赤かった。
彰良は思わず笑った。
「なるほどな~。秘密ってことは、雪からの本命か~。いやあ、青春ですねぇ」
「……うるさい。お前こそ、浮かれすぎ」
「それはまあ……否定はできん!」
言いながら、彼は下駄箱の扉を閉じ、ふと天井を見上げた。
今日という日も、明日になれば、きっと、ただの昨日になる。
だけど、今この瞬間の温度や、言葉や、笑い声は、案外ずっと残るのかもしれない。
廊下の窓から、夕方の陽が差し込んでいる。
どこかでチャイムが鳴った。誰かの足音が響いた。
そのすべてが、少しだけ甘く感じられた。
「よし、帰るか。……今日も、いい日だったな」
そう言って、朝倉彰良は白い息を吐きながら、昇降口の扉を押し開けた。