放課後の空気には、少し春の空気が混ざってきている。
風は冷たいが、陽の光はやわらかく、季節がゆっくり変わっていくのがわかる。
文蔵想汰は、制服のポケットに手を突っ込んだまま、商店街の入り口で立ち止まった。
スマホの画面には、さっき届いたメッセージが表示されたまま。
《帰りに三つ葉と豆腐お願い!味噌汁の分だけで大丈夫です。忘れないでね!》
「……三つ葉と豆腐、か」
呟いて、自分の足元を見下ろす。
誰かと一緒に帰る流れにならなかった今日は、ひさしぶりにひとりの放課後だった。
気ままではあるけれど、少し手持ち無沙汰なような、不思議な空白。
想汰は肩をすくめ、商店街へと歩き出した。
───
商店街の店先には、夕飯の支度に向かう人々がちらほら。
お惣菜の匂いと、豆腐屋の湯気。八百屋の威勢のいい声が風に混じる。
こんなふうに立ち寄るのは、ほんの数週間ぶりなのに、妙に懐かしく感じられた。
「……あ、想汰くん。お使い?」
声がした。振り返ると、レジ袋を提げた花森菜月がいた。
ふんわりした笑顔で、じゃがいもと牛乳が顔をのぞかせている袋を見せる。
「うちはカレーなんだ。今日は親が遅いって言うから、ちょっとだけ先回り」
「……ああ。俺は、味噌汁の材料だけ」
「いいね、それ。じゃ、がんばって〜」
手を振って去っていく菜月の足取りは、なんとも軽やかだった。
こういう日常のやりとりが、ふと頭のどこかに残る。
───
三つ葉は案外すぐ見つかった。あとは豆腐。
豆腐コーナーの前で立ち止まり、想汰はぼんやりと棚を見つめる。
木綿にするか、絹にするか。それとも小分けのやつにするか。
「優柔不断だな、お前」
耳に馴染んだ声に、少しだけ肩が動いた。振り返ると、日暮夏彦がいた。
片耳にイヤホンをかけたまま、菓子パンと牛乳を持っている。
「……別に、真剣に考えてるだけ」
「味噌汁に入れる豆腐で3分悩んでるのは、けっこう優柔不断寄りだと思うけど」
「お前が見てた時間が3分だっただけだろ」
そう返しながらも、想汰の声はどこか緩んでいた。
「……絹でいいや」
棚からひとつ手に取る。何かを選ぶというのは、案外めんどくさくて、でもそれが少しだけ楽しい。
「じゃ、頑張って主夫。オレは先に帰るわ〜」
夏彦はくるりと身を翻し、軽やかな足取りで店を出ていった。
想汰はその背中を見送り、手に持った豆腐と三つ葉を見下ろす。
なんてことない、小さな荷物。
でも、誰かの日常の一部を、自分がちょっとだけ支えてる感じがした。
───
レジを済ませて、買い物袋を提げ、商店街を抜ける。
夕暮れはほんの少しずつ濃くなっていた。
家までの帰り道、風の冷たさが肌を撫でる。けれどその中に、微かに味噌の匂いを想像する。
このあと、家に帰って、台所に袋を置いて──
たぶん母親が「助かった〜」と笑って、三つ葉を刻む音が響く。
そんな風景が、まだ始まっていないのに頭の中に浮かんでくる。
想汰は歩きながら、ふとポケットからメモ帳を取り出した。
小さな文字で、今日のページに書き添える。
『今日は、ミツ葉と豆腐』
それだけの記録。でも、こういうのも、悪くない。
夕暮れの光に照らされて、彼の影が静かに伸びていく。
───
「……ただいま」
玄関の戸を引くと、まだ灯りの点いていない廊下が迎えてくれた。
薄く冷えた空気。けれど、どこか懐かしい匂いがする。
「おかえりー! 袋そこ置いといて、ありがとね!」
奥のキッチンから母親の声がする。
足音をたどるように進むと、明かりの下、エプロン姿の母がまな板の前に立っていた。
「三つ葉と豆腐、買ってきた」
袋を差し出すと、母は笑って受け取る。
「バッチリ。ありがと~。……おっ、絹豆腐か。想汰、こっち派?」
「……なんとなく。なんか、柔らかい方が味噌に合う気がした」
「へえ、そんなこと考えて選んでくれたの? えらいじゃん」
「……いや、別に」
ぽそっと返したが、まんざらでもない。
母は慣れた手つきで豆腐を切りながら、続ける。
「そういやさ、あんたが小さい頃、豆腐ってつまんない味~とか言ってたの、覚えてるよ」
「……覚えてない」
「ほんと~? すっごいふくれて、納豆のほうが勝ち!って宣言してたの、面白かったなあ」
「……たぶん、子どもだったからだろ」
「今は?」
「……まぁ。悪くない」
その言い方に、母はふふっと笑った。
ガスコンロに火をつけ、鍋から味噌汁の香りが立ちのぼってくる。
包丁の音、沸騰する湯の音、調味料の瓶を置く音。
そんな日常の音が、夕暮れの静けさに馴染んでいく。
しばらく、言葉もなくふたりだけの台所。
想汰は冷蔵庫にもたれ、母の動きをぼんやり見ていた。
「……おつかいさ、なんか久しぶりだった」
ふと、そう呟くと、母は手を止める。
「そっか。最近は、友達と遊んだりとか、忙しかったもんね」
「うん。……でも、たまにはこういうの、いいかもな」
「へえ。じゃあ、また頼んじゃおっかな」
「……たまにな」
そのたまにが、嫌じゃないって意味だと、母も気づいているようだった。
ほんの少しだけ、背中がやさしく緩む。
「想汰、今日さ。味噌、溶いてみる?」
「……別にいいけど」
「じゃ、はい。おたま。あと、火傷しないように気をつけて」
渡されたおたまを手に、鍋に向かう。
湯気が立ちのぼるなか、想汰はそっと味噌を溶かし込む。
香りが、ふわっと広がった。
「……この匂い、落ち着くよね」
母のその言葉に、想汰は短く頷いた。
「……帰ってきたって感じする」
それは、いつの間にか自然に出た言葉だった。
母はなにも言わず、少しだけ優しくうなずいた。
───
夜ごはんの食卓には、味噌汁と、焼き魚と、ほうれん草のおひたし。
いつも通りの品数。でも、どこか、あたたかさがちがう気がした。
「この三つ葉、新鮮だったねぇ。さすが想汰セレクト!いい目利きだよ」
「……それは、店が良かっただけだと思うけど」
「そういうことにしとく?」
「……ああ」
ふたりで笑った。
窓の外はもうすっかり夜。
でも、心の中には、あの夕方の光がまだ残っているようだった。
『今日は、ミツ葉と豆腐』
そんなふうに、記録の1ページを締めくくるような、やさしい夜だった。